02【1品目】恋知らずのほろにがケーク 弐

 無言で邸宅まで歩いて、馴染みの女中に克哉と風呂敷を押し付け逃げ帰ったのは、一週間前のことだ。愛想の欠片もない行動は、今のところ咎められていない。

 この一週間、杏は本条家への使いを頑なに断り続けた。やっと心が落ち着いてきた頃を見計らったように現れたのが、満面の笑みの母だ。


「本条様の使いが来られて、今日の午後に顔を出してほしい、て言われたわ」


 よそ行きのあわせに着替えさせられても、娘は顔に皺を寄せた。招待されたのだから、悪いようにはされないわよ、と憎らしいほどの心得顔に背中を押され、家を後にする。

 慣れた裏口ではなく、正門の前に立ちつくした杏は五年前の絶望にも似た気持ちを思い出した。恐ろしくてたまらなかった門は今だって苦手だ。

 本条家子息に無礼な態度をとったのだから、もう会わない方がいい。招待されるなんて、何かの間違えではないかと後ろ向きな考えばかりが頭を埋め尽くす。

 視線を落とせば、所々ささくれだった手と杏色の布地が目に入った。家族全員に似合うと太鼓判をおされた杏色の袷は一番の気に入りだ。珊瑚や山吹色の花が舞い、緑や白花色の萩の影から飛び出した蝶が踊っている。髪も母が流行りの形にまとめてくれた。

 ガキと言った男のことを脳裏に思い出し、これなら見直すかもしれないと心が騒ぐ。

 拳を固く結んだ杏は精一杯の声をはりあげようとした。


「ごめん、くだ」

「何してんの」


 後ろからの声に飛び上がった杏は耳に飛び込んできた言葉を反芻した。何の頓着もない声には聞き覚えがある。ぎこちなく振り替えれば、同じ組の辰次たつじがいた。自分とはこぶし一個分しか背が変わらないのに堂々とした立ち姿からか、大きく見える。


「なぁ、何してんの」


 せっかちなところのある辰次が同じ問いを重ねた。

 杏は、答える代わりに首を振った。ままならない口調のことで、また揶揄われるのは御免だ。

 辰次の性格通りの太い眉が寄る。

 逃げ出してしまおうかと考え始めた杏の背後で、動く気配があった。顔を横に覗かせた辰次が、あと大袈裟に反応する。

 杏も肩越しにうかがえば、馴染みの女中だ。白髪が目立つ髪をきっちりとつめた姿は凛としている。


「お待ちしてましたよ。さぁ、いらっしゃい」


 二の足を踏んでいたことが嘘のように、杏は一目散に駆け込んだ。


 借りられた猫よりも緊張した杏が案内されたのは、窓ガラスが弧を描く一室だった。

 部屋の中央には飴色の丸机と揃いの透かし模様の掘られた椅子。窓からの陽射しを浴びて琥珀のようにきらめく。

 部屋にいた執事に椅子を引かれ、杏はたじろいた。部屋に案内してくれた女中は、もういない。椅子と彼を何度も何度も交互に見て、しまいには笑われてしまった。お座りくださいと声をかけられて、やっと腰をおろす。座ったら壊れるかもと思ったが、見た目よりも丈夫でびくともしない。

 居心地悪くとも、大人しく待っていると数分もたたない内に扉が開けられる。


「足労かけたな」


 後ろに女中を連れた克哉は迷いなく進み、靴音が途絶えた。

 机に映る姿を眺めていた杏は石のよう動けない。


「一週間も来ないから、使用人達が騒ぎだしたんだ。今日は来てくれて助かった」


 朗らかな声は杏の緊張をほぐす。しかし、気の利いた返事の技量も度胸も臆病な少女にはなく、瞬きのような礼を返すのが精一杯だ。

 俯いた杏の視界に袖に描かれた蝶がひらめき、そろりそろりと顔を上げた。自分の姿に少しでも興味を示してくれたらと願っていた杏は、逆に驚かされた。

 鬼が人間になっている。化かされたと言いたくなるぐらいの、こざっぱりとした青年が立っていた。のびっぱなしの髪は散切り頭になり、獣のように見えた鋭い目元は本来の愛嬌を、薄汚れた浅黒い肌も本来の血色を取り戻していた。


「この前は案内してくれて助かった。礼も言えなかったから、気にはしていたんだ」


 克哉は自分で椅子を引き、腰を落ち着かせた。その間に目線だけで女中に指示を出し、話を続ける。


鈴美すずみ屋のお嬢さんらしいな。最初はわからなかったが、泣き顔を見て、ぴんときてな。あの頃と変わらないと思っただけなんだ。後からガキなんて失礼極まりないとばあやに叱られて、やっと気付いてな。この前は悪かった」


 この前の礼と詫びだと思って受け取ってくれ。そんな言葉と共に甘酸っぱい香りが部屋に広がる。

 机に置かれた白い皿には茶色みを帯びた黄色い三角が乗っていた。表面がツヤツヤと輝く生地は上と下に使われている。生地の間には、白花豆の甘煮のような粒が詰められ、上にかけられた黄色の餡はなめらかだ。潰した粒が見えず、とろりとした光沢を持っている。

 始めて見る食べ物らしきものに杏は好奇心を隠し切れなかった。甘い匂いがするが、和菓子ではなく洋菓子だろう。それぐらいなら察することができるが、味は想像もつかない。


英国ヱギリス風のアップルパイだ。初物を見かけたからちょうどいいと思ってな。材料は本場通りではないが、まぁ納得できる味に仕上がった」


 克哉の言葉を聞きながら、杏は『あっぷるぱい』から目を離すことができなかった。『あっぷる』が何のことだかわからないが、パイなら一度だけ食べたことがある。西洋街の土産だと兄がこっそり買ってきた『みいとぱい』は香ばしく濃厚な味わいだった。ほろりと崩れる生地は口や歯の裏にくっつき、肉の旨味と野菜の甘味がよく絡む。嗅いだことのない香りが口一杯に広がり、異国の風を感じたような気がした。

 ご飯だと思っていたパイが菓子になるとはどういうことだろう。遠慮する気持ちもあるが、知った人からものをもらうなとは母には言われたことはない。


「口に合うかどうかわからないが、食べられなくもない。ほら、食べてみろ」


 餌を与えるように言われた杏は頭が冴えた。ガキから野良猫扱いに変わったのはいい方向に転がったと思うべきか否か、人付き合いに慣れていないのでわからない。確かなことは気分がよくないということだ。

 輝きが半減をしたアップルパイを睨み付け、燻る気持ちと甘い誘惑がせめぎ合う。

 腹が減ってないのか、と自分のものを食べ終えた克哉が杏の皿へ手を伸ばした。

 食べられてしまう、と杏は強く目を閉じる。

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