饅頭
湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)
第1話
人は生きることを諦めると無敵になるという噂が、風に乗ってゆぅらゆぅらとやってきた。
その説が正しいとすれば、私はまだ、生きることを諦めていない、ということになる。
生きるとは。
否、生かされるとは。
明日死ぬと思って生きた。そうすればわずかであれ希望を持てた。
明日死ねるのだから、今日一日くらいと諦められた。
されど、なかなか死ねぬ。
否、今日は生きようとしているが故に、世の中は敵で溢れていた。敵、といっても何か害を与えてくるわけではない。私に無害な人として生きることを強制するくらいだ。
ろくに害のない敵は私の人生を終わらせてはくれない。
眼前、人が轢き殺される様を見た時は、思わず舌打ちをした。
なぜ、私に巡ってこないのだ。
なぜ、神は私を選ばない。
眼前、人が轢き殺されたその直後、泣き喚く者が居た。
どうも、死人の家族らしかった。
泣いてくれる人がいるとは、なんと幸せな死だろうと思った。
しかし、よくよく見るに、その幸せには絶望が纏わりついていた。それはぺりぺりと剥がれ、ふわふわと、されど一直線に舞い飛び、残された者にへばりつく。絶望のお裾分け。最期のプレゼント。
明日死ぬと思って生きた。腹が減ったら私の内に棲まう虫が鳴いた。
温い風吹く春の暮、花見の客が宴をしていた。
飲んで騒いでいる様を見て、私は苦虫を噛んだ。
こいつらは、生きることを諦めてはいないだろうに、なぜだか無敵に見えたのだ。
近くを美女が通れば「ちょいと一緒にのまねぇか?」などと気安く声をかけ、酒を呷ればそこらに空き缶を放り投げる。
ほぅら、こいつらは無敵だ。そして、ゴミだ。クズだ。人型の何かだ。何をしたっていいと思う、クソ野郎どもだ。否、何をしてはいけないかを理解できないクソ野郎どもだ。
ギリッと音が鳴るほどに噛み締めた。
弱った奥歯がグラッと揺れた。
「ほれほれ、おひとつどうだい?」
おいおい、クソ野郎が声かけてきたぞ、と思ったのも束の間、私がギィと睨みつけてしまったのは老婆だった。
しわだらけの手の上に、しわの寄った饅頭がひとぉつのっていた。なるほど、おひとつ、というのはこの饅頭のことらしい。
「毎年、河津桜を観ながら、じぃさんと饅頭をいただいていたんだけどねぇ。じぃさんがぽっくり逝ったってのに、癖でふたぁつ買っちまったんだ。もう食が細くてねぇ、ふたぁつはいらんのよ。ほれほれ、もらっとくれ」
この老婆とて、無敵のような気がした。なぜ、私に声をかけてきた? なぜ、私に饅頭を渡そうと思った?
仮に要らなかったとして、見ず知らずの人間にそれを渡そうと思うか?
あゝ、私がひとりで居るからか。
わいわいと騒がしい宴客にゃ、饅頭ひとつは渡せない。
無敵でもなんでもない。
ただ、私が、老婆にとって都合よくそこに居ただけだ。
そうさ、都合よくそこに居ただけさ。
そうさ、都合悪くそこに居なければ、神は私に微笑まない。
いつのことだったか、人は生きることを諦めると無敵になるという噂が、風に乗ってゆぅらゆぅらとやってきた。
その説は正しい。
饅頭を食ったら無敵になれた。
頬張りながら、幼い頃、母が買ってくれた餡餅を思い出した。もう若いとは言えない齢、けれど母恋しさに、老いなど関係なかった。
死ねば母に、会えるはずだ。そうだ、死ねば母が生きる場所に行けるはずだ。
もう、明日死ぬと思って生きるのをやめた。今、死のう。
私に敵は、居ない。
道路の真ん中に突っ立った。ポカンと口開け間抜け面して突っ立った。
ほれほれ、さっさと轢いとくれ。私は天に召されたい。
召し取ったのは、おまわりだった。
饅頭の次に噛み潰すことになったのは、カツ丼だった。
希望などないが、明日死ねないと思って生きることにした。
春の香りが鼻をくすぐる。
私はいつまで生きればいいのか。
希望がないなら作ってしまうか。
そうだなァ、次の春まで生きてみる、なんてどうだろうか。
老婆の饅頭相手をしてやるために。
生きる希望を見つけたならば、私は突然、天に召された。
マネキンのように表情淡く、スラリとした体躯の美しい女が振り下ろした凶器。それが空への切符だった。
饅頭、饅頭!
薄れゆく意識の中、私の頭の中は饅頭でいっぱいだった。
饅頭、老婆と饅頭!
雨の香薫る春の暮、ふわふわと空を漂いながら、老爺としわの寄った饅頭を齧った。
ふと、母の香が一直線に舞い飛んできた。私は急ぎ、地を見下ろした。
そこには幼子と老婆がいた。あゝ、なんということだ。母は、躰をかえて、私が死んだ世界を生きていた。
母に微笑む老婆の手元には、つるんとハリのある皮をした、ホカホカの饅頭がふたぁつ。
それをひとぉつ割ったなら、トロリと餡が顔を出す。
饅頭を、片手に我ら、再会す。
空と地で、共に味わう饅頭は――遠く塩っぱく、あたたかく甘い。
饅頭 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya
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