第26話 温室周辺の探索(前編)

 薄曇りの空から差し込む淡い光が目の前の花壇を包んでいた。


 翌日、青梅さんに園芸部内の協力者の紹介を頼んだところ「……そういうことなら一人だけ私になついてくれた一年生がいるよ。壊された鉢植えが見つかった朝に、当番で早く登校していた部員の一人なのでちょうどいいかもしれない」という返事がもらうことができたところである。


 そしてその協力してくれる部員と待ち合わせをするために僕と明彦たちは昼休みに実習棟の裏に集まったというわけだ。


「それで、その青梅と仲の良かった部員は何ていう子なんだ?」


 校舎の壁に寄り掛かった明彦が腕を組みながら尋ねる。


「いや、僕もまだ名前は知らないんだ。ただ女の子らしいから上級生の男子だけだと委縮させるかと思ってさ」


「それであたしらも声かけたってわけだね」と日野崎が口をはさむ。

「……私のためにしてくれているんだものね。立ち会うくらいなら喜んでするよ」


 青梅さんも横で頷いた。


 と、僕ら四人がそんな会話を交わしていたその時。


「お待たせしました。……青梅先輩、しばらくです」


 前髪をまっすぐに切りそろえた、小柄だが活発な印象の少女が本校舎から姿を現した。


「御嶽さん。……協力してくれてありがとう」

「礼には及びませんよ。だって私は先輩があんなことする人じゃないって信じていますし」


 青梅さんは彼女の言葉に感じ入るようにしばらく立ちつくしてから無言で頭を下げた。一方、御嶽と呼ばれた彼女は僕らのほうに向きなおる。


「改めまして。二年C組の御嶽桜子みたけさくらこです」

「どうも。三年B組の月ノ下です」

「同じクラスの雲仙だ」

「日野崎です。あたしも三年B組。よろしくね」


 それぞれに自己紹介を済ませたところで僕は「それじゃあまずは例の温室に続く階段道を案内してくれないか」と御嶽さんに促したのだった。





 花壇から十メートルほど離れた先には野球場と雑木林に挟まれた急傾斜の土手がそびえている。角度にして六十度はあるだろう。


 その傾斜をジグザグに階段道が横切っていた。といっても今は泥で埋もれていて通るのは確かに難しそうではある。


「この先に温室があるわけか」

「はい、そうです」と僕のつぶやきに御嶽さんが答える。


 隣の明彦は腕組をしながら土手を見上げ、日野崎は後ろで青梅さんを「あれから園芸部員からなにか嫌がらせは受けてない?」と気遣っていた。


 土手の高さは五メートルはある。一見すると階段を使わずに登るのは難しそうだ。しかし本当に温室への出入りは不可能な状態なのだろうか?


「この階段道は確かに泥で埋もれているけれど、この泥の下にある石段が埋まっているというだけのことであって上を歩けば登ることも可能なんじゃあないかな?」

「えっ。でも……」


 何か言いかける御嶽さんを横目に僕は論より証拠と一歩、足を踏み出した。が、その直後に僕は自分の行動を後悔する。ズブリという感覚が体に伝わって僕の靴は足首の少し下まで泥に呑まれてしまったのだ。


「……うわあ。長靴でも履いておけばよかった」

「おいおい。大丈夫か」と明彦が見かねて、僕の体を支える。

「済まない、ありがとう」


 礼を言いながら僕は明彦の体につかまりつつ、どうにか泥から左足を引き抜いた。


 御嶽さんがそんな僕を見ながら「やっぱりそうなりましたか」と言いたげな、困ったような表情で口を開く。


「一昨日に雨が降ってから、晴れた日がありませんでしたからね。泥もぬかるんだままなんですよ。……靴、汚れちゃいましたね。野球場の横に水道がありますから洗ってきますか?」

「後で良いよ。気を使わせて悪いね」


 制服のスラックスが汚れなかったのは幸いだろう。だが、これで階段道は使えないことがはっきり判った。こんなぬかるみがまだ残っているのでは、傾斜を登るにしろ降りるにしろ足を滑らせる危険は避けられない。また仮に注意深く登ったとしても「足跡」が残ることになるだろう。だが観察する限り、階段道にはそれらしい痕跡はなかった。


 明彦も階段道を見上げながら肩をすくめる。


「それにしても、ひどいぬかるみだな。ちょっと強い雨が降るたびにこうなるんじゃあ、温室に行ってバラの世話をするのも苦労するんじゃないか?」

「いや、それがこの半年はこんな風にはならなかったんですよ。去年は二、三度ほど台風や豪雨で同じ状態になったみたいですけど」

「そうなのか? この間、降ったくらいの雨なんて結構降ってそうだがな」


 御嶽さんの言葉に彼は首をかしげた。


 何にせよ、このままでは温室を確認することができない。僕がどうしようかと考えあぐねたその時。数メートルほど横の方から音が響いた。


「えっ」


 僕は思わず驚きながら目を向ける。どうやら上から人が降りてきたようだ。よく見ると土手の横には一本のケヤキが生えている。この木を伝って土手の上に登っていたらしい。

「やあ、桜子ちゃん。こんなところでどうしたの?」


 そこには髪を短めに刈り込んで浅黒い肌をした、ちょっと軽い印象の少年が立っている。手には水やりに使うホースを持っていた。彼に話しかけられた御嶽さんは笑顔で手を振って見せる。


「ああ、石神くん。温室の世話ありがとう」

「良いんだって。できることがあれば何でも言ってくれよ」


 石神と呼ばれた少年はそんな軽口をたたきながらおどけた笑いを浮かべた。


「御嶽さん。その人は?」

「ああ、同じクラスの石神くんです。うちの温室に行くことができなくて困っていたら、それなら代わりに世話をしてきてあげようかってバラの水やりを買って出てくれたんですよ」

「なるほどね」


 僕は特に意識していなかったが、温室の中にバラの鉢植えがあるということは園芸部としては誰かが世話をしなくてはいけないのだ。しかし階段道がこの状況では水をやることができない。そこで彼が代わりに木を登って土手の上に行き、温室のバラに水を上げていたということのようだ。隣接している野球場の水場からホースを引いていたのだろう。野球場と土手の間に茂っていた雑草にホースが隠れて僕は気が付かなかったが。


「へえ、木登りが得意なんだね」と日野崎が感心したように声を漏らす。

「いや、まあ。昔から慣れていますから」


 ちょっと得意そうに語る彼に僕は横から質問を投げかける。


「済まない。石神くんだったよね。実は僕たち、温室を見てみたいんだ。この土手を登る方法ってあるのかな?」

「えっと、階段は見てのとおりですし。じゃあ、僕が用務員さんのところに行って梯子でも借りてきましょうか?」

「そうしてもらえると助かるけど、いいの?」

「良いですよ。困っている人を助けるのに理由はいらないっす」


 僕は彼の親切心に軽く感銘を受けながらもありがとうと頭を下げた。


 その後、ものの数分で彼は作業用の梯子を土手の上にかけてから「梯子は後で自分が返しときますから、そのままでいいすよ」と告げて去っていった。


 僕は「それじゃあ登ってみようか」と明彦に呼びかける。


 その背後で、腕組みをした日野崎が「うーん、あたしも木登りで登ってみたかったなあ」と謎の対抗意識を燃やしていた。


「やめとけ、スカートの中が丸見えになるぞ」 


 明彦がからかうようにそんな彼女を笑って肘で小突かれる。


「梯子を登るにしても危ないから、とりあえず僕と明彦だけで登って様子を見てくるよ。みんなはここで待っていてくれ」


 御嶽さんが僕の言葉に「はい」と頷き、日野崎が「なんかあったら声かけてくれれば手伝うからね」と力強く返してきた。


 青梅さんも「あの、私のために怪我とかしたら申し訳ないし。無理はしないで」と僕のことを気遣うようにじっと見つめてきた。


「大丈夫だよ。……明彦。行こう」

「おう」


 こうして僕らは梯子に一歩ずつ足をかけつつ、土手の上に上がった。





 土手の上は十メートル四方の平地になっていた。


 山林を切り拓いて作られたスペースらしく、僕らが登ってきた土手を除いた三方は木々に囲まれている。また平地の端には一本の白い花を咲かせた木が山林からはり出していた。近くによると微かにさわやかな匂いがする。どうやらモクレンのようだ。

そしてその平地の一角に透明な膜で囲まれた小屋がたたずんでいた。


「……あれが温室か」

「みたいだな」


 鉄製のパイプで組み立てられた高さ二メートルほどの空間にビニールがかぶせられている。いわゆる通販などでも買える簡易的な温室だった。


 僕らが近づいてみると確かにその中には鉢植えが十数個ほど並んでいる。赤に黄色、ピンクに白と色鮮やかな花びらが目に飛び込んできた。


「色とりどりだな。たしか顧問の先生が部員のために選んでプレゼントしたって青梅さんも和田さんも言っていたっけ」

「そういや、俺も聞いたことがあるんだがバラの花言葉は色によって違うらしい。赤は愛情で白は純潔、黄色は友愛なんだとか」

「それじゃあ部員へのメッセージもこめて色を選んで送ったってことかな。……おや?」


 明彦が「どうかしたか?」とこっちを見やる。


「あそこ、破れていないか?」と僕は温室のある一部分を指さす。

「ん。……ああ、本当だな」


 そう、ビニールの裏側の一面。側面の上側あたりに外側から何かがぶつかったように、内側に破れて穴が開いている箇所があったのだ。


「新しい傷跡に見える、よね」

「そうだな。だがバラの鉢植えが壊されたこととこれが関係あるのかは断定はできないな」


 明彦は僕の言葉に小さく首を振る。


 確かにその通りだ。それに仮に関係があってもこれだけでは犯人を特定するものにはならないだろう。


 それから僕らは周囲を歩き回ってみたのだが、鬱蒼とした山林があるばかりである。何とか迂回して温室にたどり着く方法はないかと考えてみたものの、僕らが登った土手以上の急な傾斜と深く茂っている雑草に阻まれて、とてもではないが昇り降りは不可能に思える。


「おい、見ろよ」と不意に明彦が地面を凝視しながら声をかけた。

「どうかした?」

「これ、もしかして排水溝か何かだったんじゃないか」



 明彦の目線の先を見てみると、土手と階段の境目から少し外れた端っこあたりに溝が掘られて横の斜面に流れるようになっていたのだ。


「そうか。雨水で階段道に泥が流れ込まないように、脇の低い斜面のほうへ水が流れるように誘導する仕組みになっているんだ。……ただ、これ途中で埋もれちゃっているな」

「そりゃあ、何もしなければ泥が溜まっていって埋もれるだろう。きっと雨が降りそうなときだけ誰かが泥を掻きだしていたんじゃねえかな」

「ああ、それで今まで多少雨が降っても一昨日みたいな土砂崩れはなかったと」


 今回は急な雨でこの排水溝を活用することができなかったということだろうか。さらに周囲を観察したものの結局、何の手掛かりも見つけ出すことはできず、明彦が「ううむ」とうなり声を漏らした。


「どうもこの階段道以外に出入りする経路はなさそうだな」

「そうみたいだね」と僕は土手を見下ろした。


 正面には十メートルほど離れた実習棟を望んでいる。さらにその下には支柱とネットで囲われた園芸部の花壇があった。足元では日野崎や青梅さんが心配そうに僕らを見上げている。


 僕は彼女たちに軽く手を振って「とりあえず降りるよ」と声をかけたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る