海に消える
ある朝、夢から醒めた後、私はそうやって、私たちと二匹の魚たちとの共通項を考えていた。そうして私の中にある気持ちに気づいた。
──そうか、私がこんなにも流那の死に対して様々なことを考えてしまうのも、流那のことを夢に見るのも、全ては私が、彼女のことを好いているからなのである、と。
腑に落ちてしまった。こんなところに帰着することなぞあってはいけないのだとも思いながら、こう思ってしまってはそれ以外のことを考えることができない。いじめを見逃し、加担しつつも彼女のことをずっと目で追ってしまっていたのも、だからこそ彼女の変化に気づくことができたのも、私が彼女を好きだったから。ああ、腑に落ちる。流那のことが好き。心の中で何度も呟く。違う、違うと思いながらも、どんどんとその通りという気持ちの方が大きくなってくる。
私はとうに普通でなかったのだ。その事実が私を打ちのめす。彼女が私に、余所者を見る好奇の目ではなくて、単純な、純粋な友達になりたいという気持ちの真っ直ぐな瞳をぶつけてくれたあの時から──私はこれから生きていく世界での普通になる以前に、人類の生きるこの広い世界にとっての異質となっていたのだ。彼女に、一目惚れをしていたのだ。
* * *
そして、こう気づいた日の夜。また夢を見た。だがそこにあったのはいつもの屋上ではなくて、大きな観覧車、そびえる高い建物、その奥のビル群の摩天楼。ああ、ここは横浜だ。小さい時にはそこそこ近いからと何度か訪れたことがある。夜に包まれた横浜は、きらびやかで美しい。ぼんやりと観覧車の変わる色を見ていると、横から声が飛んできた。
「なあ、優海」
流那の声。私は振り向く。
「一緒に来てくれて、ありがとう」
流那は優しく笑う。その笑顔に胸がぎゅっとなった。この微笑みは、彼女が辛い時にする表情だから。
「流那」
助けなければと勢いで出した声は、しっかりと声帯を震わせた。今までは全く、声なぞ一ミリだって出なかったのに。流那も驚いている。
「ああ……優海の声や」
「私もびっくりした、ずっと出なかったのに」
「
「流那も、ここが夢だって分かってるの?」
「ああ。よう分かっとる。今まで優海のこと無理やりに引っ張って、私と一緒に、って落としとったのも覚えとる」
「あれは、本心?」
「なんなんやろなあ、私にもよう分からんわ」
困ったように笑う流那。久しぶりにたくさん話している。もう彼女はいなくて、この目の前の流那だって、本物かどうかも分からないのに。ああでも、本物でない方が都合がいいかもしれない。私の気持ちは、本人に伝えるべきものではない。きっとそうした暁には、気持ち悪いと思われて、嫌われてしまうから。
「……ねえ、流那」
「ん、何? 優海」
「ずっと前に、人魚姫に出てくる王子様の話、したでしょう」
「ああ、最初の日やな。覚えとるで」
「あの時は気持ちが分からないって言ったけど、今ならなんとなく分かる気がするよ」
「そうか、聞かしてくれへん?」
「うん」
私はちょっとだけ頷いて、口を開く。
「私、王子様は、流那が言う通り人魚姫が好きだったんだと思うんだ。でもそれに気づいたのは人魚姫を失ってから。だってそうじゃなきゃ海岸で助けてくれた姫と結婚なんてしないじゃない。人魚姫と結婚しているはず」
「そうやな」
「……私も、あなたが消えてから、気づいた」
「──何を、とは聞かんで」
「え、なんで」
「話の流れから、だいたい分かってまうわ」
流那は心底おかしそうに笑う。
「私も思うたわ。現に『人魚姫のことが好きだったはずや』って言うたやんな」
「うん、言ってた」
「……私は、人魚姫が悪い思うわ。好きを伝えて、せめて伝えてから消えてもたらよかったやろ、そうすれば王子様が失ってもたことを後悔することだってなかったはずや。でも人魚姫はそれをせんかった。『お前なんて喋れん変なやつや、お前なんか大嫌いや』って言われるかもしれんって、怖がってな」
流那はあはは、と乾いた笑いを浮かべる。
「似とるよ。私に。私は人魚姫や」
「──」
「人魚姫は喋れんことを盾にして、そんで自分の気持ちを伝えんことを正当化しとった。『好き』のたった二文字を口に出さんかった。私も同じようなもんや……伝えてから、いなくなればよかった」
流那は目を伏せて、ぼそりと言った。
「王子様を殺せんかったからやない。王子様に幸せになって欲しかったからや。だから人魚姫は、異質である自分をこれ以上近くに置かせんために、王子様から離すために、泡になって消えていった。そう思わん?」
その通りだと、そう伝えたいのに、肺に水が絡みついてくるように息ができなくて、声が出ない。
「分からんくてもええよ。でもな、私は人魚姫の気持ちがよう分かるんや、憎めん」
「なん、で?」
やっと出た声はかすれてしまって、聞くに耐えない。
「はは、変な声。ごめんなあ、無理して出さんでも。まあええ。そう、私も、好きな人と笑って過ごせとった時間は、そうやって一緒におれるだけで本当に幸せやった。でも、そうやったとしても、私なんかと一緒におるよりもずっといい人がおる、きっと伝えてしまったら嫌われてまう、そうやって思い続けとった」
──私と、同じだ。
「……流那」
「なんや、優海」
「ごめんね」
「なんや急に、別に優海が謝ることなんて一個もないで?」
困ったように言う流那に、私はゆるゆると首を横に振る。
「助けてあげられなくて、ごめん、傍にいてあげられなくて、ごめん。中途半端に隣にいるだけで、かばうことも声をあげることもできなかった。本当に、弱くて、弱くて、ごめんね」
「──私は、そんな」
「気づいていたのに。流那が笑わなくなっていったことも、時々辛そうに目を伏せてため息をついているのも、全部、気づいてたのは、私だけだったのに」
流那はその懺悔に、目を見開いた。
「優海……そうやったんか」
「ずっと、流那のことばっかり、見てた」
そう言った時には目の前は涙に歪められて、流那のことは見えなかった。
流那は驚いたのか、全く声を発さない。私がいくつか涙を零したあと、それからやっと彼女は口を開いた。
「……優海」
「うん、なあに」
「私、幸せやわ」
「なに、急に」
「そうやって見ててくれとったって知れて、よかった」
「だって、私は」
あなたのことが最初からずっと、好きだったのだから。
その言葉は声にすることなく、笑顔と共に押し込む。伝えたところで、叶う恋ではない。
「……ありがとう、優海。ほんとに、海みたく優しいなあ、優海は」
「そんなに大きくないよ、私なんて」
「そんなことない。私にとっては、優海はおっきいおっきい海や。包んでくれる、海や」
にこっと笑って、そう言う流那。言葉には偽りの響きも、これっぽっちも感じなかった。
「もう、そろそろ私も成仏せんとなあ」
「……行っちゃうの?」
「大丈夫や、また夢で会える時は来る」
「いやだよ」
「ずっと残ってたのも、ちょっとの心残りのせいだったんや。それが消えた。残る意味もないんよ」
そう言われてなお不満の声をあげる私に、流那は困ったように笑って言う。
「……優海。私なんかよりもずっと素敵な人に愛されるんやで。私の分まで」
「流那」
「人魚姫は、消えた。王子様の幸せを願って。私も、消える。優海、あんたの幸せを願って」
だから、と流那は涙を一粒零しながら言う。
「また、夢で会おうや」
気づくと流那の体は、ふわふわと泡になりながらどんどん薄れていっている。ああ、消えてしまう。ふと思い当たって、私は彼女の頬に手を伸ばそうとした。だがそれを流那は緩く首を横に振って制した。
「だめや。キスしたら、人魚姫は消えられへんやろ」
な、と流那は寂しそうに笑った。
「流那」
「なんや、まだ引き止めるんか」
「好きだったよ」
冗談めいたような言い方をしていた彼女は、その一言を聞いた途端に目を見開きすっと笑顔を消して真剣な顔をした。そしてほんの少しだけ、柔く笑った。
「──」
声の出ない人魚姫は、口だけを動かして、その気持ちを伝えた。
『ありがとう』
* * *
目を開く。視界はまだ歪められたままだ。上体を起こすと、ほろりと涙が落ちた。
「は……、私の方こそ、ありがとうだよ」
私はふっと笑って、そして込み上げてくる何かを押し込むように、大きく息を吸った。
空に泳ぐ二匹の魚 水神鈴衣菜 @riina
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