空に泳ぐ二匹の魚
水神鈴衣菜
空に沈む
すうっと、風が吹いた。どこからか運ばれた潮の匂いが、鼻をくすぐる。
「なあ、
私の頭の中、どこにもない記憶が、目の前で鮮明に繰り広げられている気がした。私の目の前で。
「優海。一緒に、落ちてくれへん?」
そう言って、
ずっと流那ばかりが目に入っていたところからやっと視界が広まって、流那が制服を着ていることに気がついた。そしてその奥にはフェンス、階下の町景色、そして青い空に白い雲。ああ、ここは学校の屋上なんだとふと思い当たる。昼休みだろうか。だが屋上は普通入れなかったはずだ。先生の付き添いがあった場合の、特別授業や部活の際にのみ上がれる場所。だからどんな場所であったかなんて全然覚えていない。入ったのは、ここに来てすぐに先生に連れられてした、学校探検の時以来だ。
「なあ優海、無視は嫌やで」
無視もなにも、私はいつもあなたの声を聞かないようにしていたというのに。
流那は私に近づいて、私の手を掴む。その手は温かい。すべやかな肌だ。拒否権は、剥奪されてしまった。
「こっち」
弾むような声で私を引っ張る。流那は私を、フェンス近くまで引っ張った。
「あんな優海、知っとる? ここだけこう、がちゃんって、開くんよ」
そう言って流那はフェンスの鍵を外して、手前に引く。確かにそれは階下の景色をくっきりと切り取っている。だが、落下防止のためのフェンスが開いてしまっては意味がない気がする。おかしなフェンスだ。
「さ、優海」
フェンスを開くのに私から離れていた流那が、私に手を差し伸べる。にっこりと笑う。
──流那は、こんな子ではない。
「ほら優海。手、取りぃ?」
私の体は、まったく動かない。私の意志とはまったく異なるところで私の体が動かされている感じがした。
流那はぐずぐずしている私を見て、一瞬、笑顔から険しい顔になる。──ああ、そんな顔などは見たくないのに。流那はもう待てないとでも言いたげに、私の手をぐっと引いて、そして屋上から、ふたりで空に沈んだ。
私の体重によってどんどんと体が落ちていく。空気の抵抗によって上がった左手は、何かを求めるように空中を彷徨う。
「空、綺麗やなぁ」
そう笑う流那。私の前でこんなにもにっこりと笑う彼女を、私は知らない。けれど元来、きっと彼女はこういう子だったのだ。私が知らないだけで。彼女の笑顔が奪われていくようすを、私はしっかりと見ていた。私に対してこうして笑ってくれた彼女のことを、私はあまり覚えていない。
空の青が、ふと水面のように思えた。私たちの体が空中ではなく、水の中に沈んでいくような。おかしな感覚だった。
太陽の光のまぶしさに、目を細める。空がゆらっと揺れて、私の目の前をピンクの魚と黄色の魚が通って行った。美しい景色だった。
「……」
目が覚めた。は、と息が揺れる。左手はまだ伸ばされたままだった。
上体を起こす。あんなにはっきりとした夢を見たのは初めてだった。屋上も、記憶の片隅にあるそれとまったく同じ景色をしていたし、流那の顔も、声も、手の温かさも、全てが私の記憶にいる流那と同じものだった。ふう、と息を吐く。息の語尾が揺れる。
彼女はもういないのだと、痛烈な事実を意識させられた。
* * *
私が関東の方から、関西にある今の学校に転校してきて、最初に話しかけてくれたのが流那だった。
「なあ、優海……ちゃん?」
「な、なに」
「なに読んどるん?」
「え……『人魚姫』、だけど」
「ああ! ええよなあ『人魚姫』。私も大好きやねん」
懐に潜り込むのが上手な子だと思った。
「……あなたは?」
「あ、自己紹介がまだやったか! 私は流那。流れるに那覇の那で流那」
「……流那、ちゃん」
「うん! これからよろしくね」
人懐っこい笑顔を浮かべて、流那は私にそう言ってくれた。かわいい子だと思った。
「で、『人魚姫』の話やけど。最後、人魚姫は泡になって消えるやろ」
「……うん」
「その後、王子様はなんて思うんやと思う?」
「……初めて考えた」
「私も初めて口に出したわ……ずっと不思議に思っとったんよ。きっと、王子様だって人魚姫のことが好きやったんやないかなあって。でもいつの間にか、その好きな相手は消えとった」
私はじっと流那の顔を見つめながら考えたけれど、良い返答は考えつかなかった。
「……ごめん、分かんない」
「ああいや、ええんやで。急に変なこと聞いてしもうて、ごめんなあ」
「ううん、大丈夫……こちらこそ答えられなくて、ごめん」
「優海ちゃんは謝らんでもええんよ?」
流那は眉をハの字にして、そう言った。
それからも何度か話をした。彼女はとても優しくて、笑顔のかわいい子だった。呼び捨てで呼ぶ仲になった。よく、彼女はひとりだった。そういう時には彼女とペアを組むことも多かった。
流那は、いじめられていた。いじめの対象になるような子にも見えなかったが、初対面の人間に『人魚姫に出てくる王子はどう思っていたか』なんて聞くのだから、きっとこれまでもそういう普通でない行動が目立ったのだろう。人間は、普通でないものが嫌いだ。
私には、彼女の味方になるという選択肢ももちろんあった。転校生であることを使って、彼女の肩をかばい、こんなのはおかしいと声をあげることだって、もちろんできた。だが私はそれをしなかった。弱い人間。私は弱い人間だから。精一杯の抵抗は、彼女がせめて本当のひとりにならないようにすることだった。
でも、それしかできない。私は皆にとっての異質となることを恐れた。異質となることを恐れて、私がこれから生きていく世界での普通になろうとした。いじめを止めるための特異点となることができるほど、私の心は強くなかったのだった。
* * *
一度だけ、いじめに真っ向から抵抗しようとした時があった。
ある日、放課後先生に職員室へ来るようにと言われた。何事かとビクビクしながら職員室へ向かったが、ただ保護者向けの資料を渡されてちょっと説明されて、「今度この書類を提出するように」と言われただけだった。そうして用も終わったので帰ろうと教室へ戻った。掃除の後そのままになっている投げ出されたカバンを手に取った時、ふと教室に誰かがいるのが視界の端に映った。教室の中へと視線を向ける。
「……流那」
ぽつりと呟いた私の声が、彼女の耳にも届いてしまったようだった。流那はびっくりしてこちらを見た。
「優海?」
「どうしたの、こんな時間まで」
「それはこっちの台詞やろ、優海こそ何しとったん?」
「私は先生に呼ばれて職員室にいたの。提出してほしいって書類を渡された」
「なるほどなあ」
「で……流那は?」
「……私は、な」
こちらに向けていた視線を、流那は机の方へとやった。
「見れば、分かるやろ」
はは、と乾いた声で笑う流那。机には、漫画であるような典型的ないじめのひとつと言っても過言ではない、黒々とした字で流那への罵詈雑言が大きく書き殴られていた。
バカ。
ブス。
気味が悪い。
死ね。
ゴミ。
「……消さないの?」
「元気が、出えへんの」
悲しそうに笑った彼女を、私はその日だけは見逃すことができなかった。誰もいないと信じて、私はカバンから筆箱を取り出して消しゴムを手に取った。
「優海」
「消そう」
「……優海」
「なあに」
「気にせんで、頼むから」
「なんで」
「優海まで、いじめられてまう」
流那は言いながら、私の腕を掴んでぶんぶんと顔を横に振り始めた。声はか細く、心做しか震えている。
「……だって」
こんなところを見たのに、見逃せるはずがないだろう。
「嫌や、優海がいじめられるとこなんて、見たくない」
「……私だって、流那がいじめられるところなんて見たくないよ」
「そのために自分のこと犠牲にするんか、あほらし」
声は辛そうだというのに、そう悪態をついた流那。
「……なにが、あほらしいの?」
「だから、私なんかのために自分を犠牲にするのが」
「撤回して」
「……なんで」
「友達でしょう? 助けないなんて、おかしい」
「……友達やから、傷つくとこ見たくないんやんか」
「だからって、流那が自分を傷つけたままにしていい理由にはならないよ」
必死だった。流那に、頼って欲しかった。ここでもし彼女が頼ってくれたら、私が彼女に手を貸す口実が、私の中にできるから。なんとかして彼女をこの状況から救ってあげたいと、私の中の正義感が叫んでいた。
「ねえ、いっそふたりで逃げてしまおうよ」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「ほら、私の実家東京にあるし。流那だけがこんなに辛いなんておかしいよ、ふたりで逃げて、ふたりで辛いことも──」
「……もう、いいんよ」
しばらくして聞こえた声にハッとした。困ったような、苦しそうな笑顔を浮かべて、彼女は小さくそう言ったのだ。諦めの宣告は、無惨なものだった。
「ふたりで逃げてしまうのも、ええなあ。でもな優海、優海が傷つくのは、絶対に見たくない。優海が辛そうなのは、見たくない。だから私は逃げずに、ひとりで戦えるんよ」
「……なんで、そこまで」
「『友達だから』、そうやろ?」
彼女はちょっと首を傾げて言った。この場には似つかわしくない、いたずらっぽい笑みを浮かべて。なぜか私の胸は、その言葉に引っかき傷をつけられた。
その後は机を一緒に綺麗にしてから帰った。
その次の日、私はいじめの主格に教室で詰められた。流那に手を貸したのか、と。
「……なにが悪いの?」
「あんた、調子こいたら、あいつと同じ状態にしたるからな」
ここで、言い返せば良かったのだ。そうして私は流那の味方となって、クラス全体を敵に回して──けれどそうして、なにが変わるというのだろうか。いじめの対象が一人から二人に増えるだけだ。彼女たちいじめっ子からしたら、一人も二人も変わらない。その事実に気づいてしまった私は、流那を助けたいという気持ちに蓋をして、声をあげることを諦めたのだった。
そうして彼女は、死んでしまった。いつだかに、自室で睡眠薬を大量に服用して。どこで限界が来たのかは分からない。だが確かに彼女はあの後、日々衰弱していっていた。あの元気な笑顔が、どんどんと弱々しいものになって、ついに笑わなくなってしまった。そう、それは明らかに彼女にとっての異常であったのに、私はそれに気づいていたはずなのに、私は全く動くことができず、そうして彼女を見逃した。私が殺したと、そう言ったってなんら変わりない。
彼女の死は、数ヶ月前にもたらされたものだった。だが今になって彼女は私の夢に出てきたのだ。なんの用件なのだろう。私に、罪を忘れさせないためだろうか。お前が私を死に追いやったのだ、お前が私を助けなかったから、お前が私に「大丈夫」の一言を言わなかったから、だから私は、と。
* * *
それから、私はよく流那の夢を見るようになった。毎回流那は私に「一緒に落ちてくれへん?」と言い、私はされるがままにフェンスの向こう側の空──否、海へと沈む。流那は「空、綺麗やなぁ」と笑うのだ。そうして空が揺れて、二匹の魚がすっと目の前を通る。
あの二匹は、私たちなのかもしれない。どこかへ行きたくて、でも海という広くも限られた場所にしか生きられない二匹。広い社会の中で様々な制限、偏見、価値観に縛られて生きている私たち。せめて二匹のように、ずっと傍にいてあげられたらよかった。彼女の横には私がいて、そして辛さを分けて欲しかった。楽しいことも、分け合いたかった。
私の隣に、流那がいて欲しかった。
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