エピローグ

 あれから私は、春原のことを色々知った。

 彼女があの事故のことを後悔していて、そのせいで私に連絡を取れなかったこと。どんな気持ちで、私と接していたか。


 それを知って、私も彼女に、記憶を消した理由を話した。

 私たちはどちらも臆病で、でも結局自分の気持ちに嘘はつけなくて、また同じ場所に戻ってきた。


 そうして私たちは、絡んだ糸を全て解きほぐして、ただの高橋蜜柑と春原蒔月としての関係を構築し始めた。


「蜜柑! 勉強教えて!」


 西園……麻衣が私に泣きついてくる。中間テストはいい点だったとドヤ顔していたはずだが、一体何があったというのか。


「どうしたの、麻衣」

「どうしたもこうしたも! 期末の範囲が全然抑えられてないの!」

「なんでそんなことに……」

「いやぁ、最近雨続きだったじゃん? だから家でゲームしてたんだけど……」

「もういい。事情はわかったから。だからいつも言ってるのに。勉強は計画的にしろって……」

「あはは……ごめんちゃい」

「反省してます?」


 また悪い点を取ったら困るのは自分だというのに。私はため息をついた。


「……はぁ。一応勉強、教えるけどさ。私も用事あるから、毎日は無理だよ?」

「それは大丈夫! 蜜柑教え方うまいから、短期間でいけるいける! ほんとありがとね!」

「……はいはい」


 調子いいなぁ。

 別にいいけど。


 私が呆れていると、不意に後ろから肩に手を置かれる。後ろを振り向こうとすると、そのまま肩をガクガクゆすられた。


「蜜柑ちゃん蜜柑ちゃん蜜柑ちゃん! 大変です!」

「ちょっ……私の肩の方が大変なんだけど!?」

「ご、ごめんなさい!」

「で、桃はどうしたわけ?」

「プレゼントに、指輪をもらったんです!」

「……それで?」

「嬉しすぎて眠れません! 助けてください!」

「……」


 どうか他を当たってください。私は惚気には付き合えません。そう言いたいところだけど、春原とのことも時々相談に乗ってもらっている以上、適当にあしらうわけにもいかず。

 私はまたため息をついた。


「よかったじゃん。相変わらず仲良さそうね」

「はい、それはもう。で、でも寝不足で!」

「その恋人さんに子守唄でも歌ってもらえば?」

「……! そ、その手がありましたか……!」


 桃はツチノコでも見つけたみたいに驚いた表情を浮かべている。

 いや、そんないいアイデアじゃないと思うけど。


 まあ、桃がいいならいい、のかなぁ。ていうか、桃のところは付き合ってからそれなりに時間が経っているはずだけど、なんというか初々しい気がする。


 人のこと、言えないかもだけど。

 思わず苦笑すると、胸の中でスマホが震える。

 私はスマホの画面を見て、そっと立ち上がった。


「ごめん。ちょっと席外すね」

「あ、はーい!」

「こっちは桃と親睦を深めてるから、安心してー」

「あんまり桃に迷惑かけちゃ駄目だよ、麻衣」

「私をなんだと思ってるの?」


 私はそのまま校舎を出て、敷地の端のほうに歩いて行く。

 学校の端にある花壇には、相変わらず人がいない。でも、花は今日ものびのびと咲いていて、眩しさに目を細めそうになるくらい綺麗だった。


 私はそっと、ベンチに座る。

 夏の始まりを感じさせる風が、花の匂いを連れてくる。しばらくそうしていると、段々眠気が兆してきた。


 最近は、普通に眠っている影響かもしれない。私は思わずあくびをした。


 その時。

 私の目を、柔らかくて温かいものが覆った。


「だーれだっ」


 その声は、私をここに呼び出した張本人のものだった。


「遅刻」

「え?」

「呼び出したのに、遅刻。減点だね」

「き、厳しくない?」


 私はそっと、目を覆っている彼女の手に、自分の手を重ねた。少し体をずらして、後ろを振り返ると、そこには春原が立っていた。


「厳しくするのは、相手が春原だからだよ」

「それ、喜んでいいの?」

「どうだろうね?」


 春原はそっと、私の隣に座ってくる。

 私は少し、彼女との距離を詰めた。


「ここはいつも変わんないね。静かで、居心地いい」

「そうかもね」


 ぼんやりした会話。

 やがてどちらともなく、手を繋ぐ。私はその温かさを感じながら、彼女の方を見た。視線と視線がぶつかって、鼓動が速くなる。


「……蜜柑」


 名前を、呼ばれる。

 私はくすりと笑った。


「……ふふ」

「……? どうしたの?」

「ううん。春原に名前呼ばれるの、好きだなって思って」


 自分の名前は、あまり好きじゃなかった。

 顔も名前も知らない親が適当に名付けたものだって、わかっていたから。高橋という苗字も、蜜柑という名前も、さして何も考えずにつけたんだろう。そう思っていたけれど。


 そんな好きじゃない名前も、春原に呼ばれると、とても大事なものに思えてくる。

 だから私は、春原に名前を呼ばれるのが好きだ。


「……それは、嬉しいけど。蜜柑って私の名前、呼んでくれないよね。佐藤さんたちの名前は呼ぶのに」

「あー……」


 確かに、最近私は友達のことをまた名前で呼ぶようになった。

 咲良との一件以来、私は友達とも少し距離を置いて接するようになった。だけど最近はまた、少しだけ距離を近づけ始めたのだ。


 そんな中で、私は春原の名前は呼べずにいた。

 その理由は、一つ。


「だって、恥ずかしいし」

「はい?」

「……今更名前で呼ぶの、恥ずかしい」

「……ぷっ」


 春原は、笑う。

 顔が熱くなるのを感じた。私だって、子供っぽいってわかってはいるのだ。でも恥ずかしいものは恥ずかしいんだから仕方ないじゃないか。


「蜜柑。蜜柑、蜜柑蜜柑! 名前で呼ぶ方が、幸せだよ!」


 私の手をぎゅっと握って、彼女は言う。

 私は少し迷ってから、彼女の手を、ぎゅっと握った。

 痛いかも、だけど。


「し、蒔月!」

「もう一回!」

「蒔月、蒔月!」

「もっと!」

「蒔月、蒔月、蒔月!」


 私が声を張り上げると、彼女はにこりと笑った。

 呆けてしまうくらい、綺麗な笑み。私は一瞬、言葉を失った。


「……よくできました」


 春原は——蒔月は密やかに、言う。

 私はさっきよりずっと、顔が熱くなるのを感じた。こういう時の蒔月は優しくて、困る。


「ねえ、蜜柑」

「なあに?」

「私、蜜柑からずっと逃げちゃってたけど。……改めて、蜜柑のこと、好きでいてもいい?」

「いいよ。ずっと私のこと、好きでいて。……私も蒔月のこと、好きでいて、いい?」

「うん。浮気は駄目だからね」

「しないよ」


 私が言うと、蒔月はそっと、私に顔を近づけてくる。

 柔らかな感触が、唇に訪れた。潤った唇は、何度感じてもやっぱり心地いいもので。私は自分からも、彼女と唇を合わせた。


「蒔月、好きだよ。……ずっと、一緒にいて」

「うん。私も、好き。……あと990回は、好きって言ってもらわないとだね」

「……まだ言ってるし。言うよ、千回でも、一万回でも。これからは、ずっと一緒なんだから」

「……ふふ。そうだね。私も言うよ、たくさん」


 顔を見合わせて、笑い合う。

 本当に、呆れるくらい遠回りをしてきたけれど。私たちはやっと、あるべき形に収まった。そんな気がする。

 蒔月は私の手を引いて、立ち上がった。


「ねえ、蜜柑! 私の好きなものは、蜜柑だよ! 好きな場所は、やっぱり蜜柑の隣!」


 そう言いながら、彼女はくるくると回る。

 回転する視界の中で、蒔月の姿だけが明瞭だった。


「それに気づけたのは、蜜柑が私に、変わらずに優しく接してくれたからだよ!」


 蒔月は、ひどく楽しそうに笑っている。


「だから、この世に一つしかない、うんと貴重なもの——私自身を、蜜柑にあげる!」


 蒔月の好きなものを当てたら、くれると言っていたけれど。

 当てたって言えるのかな。

 いや、でも。


「契約の取り消しは、なしだよ?」

「うん。一生有効でいい」

「そっか。じゃあ——蒔月のこと、全部もらうね」


 私はぐっと、彼女の腕を引っ張った。

 私の胸に、彼女が飛び込んでくる。私は強く、彼女を抱きしめた。


「もう、離さないからね。蒔月が死ぬまで」

「私も蜜柑のこと、離さない!」


 彼女はそう言って、私の腕の中で笑う。

 私もつられて笑った。


 本当に、色々あったけれど。脅されたり、惑わされたり、イライラしたり。でもその全てが、今の私たちに繋がっている。


 辛い思い出も、楽しい思い出も。

 全部ひっくるめて、私はこれから蒔月を愛し続けるだろう。

 そして、きっと。

 蒔月もそれに応えてくれるに違いない。


 私たちはしばらくの間、ぎゅっと互いを抱きしめ合っていた。離れても、その体温が残るように。


 彼女の体温を感じるだけで、これから先何があっても二人で乗り越えていけるって、そんな気がした。

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つよつよ悪魔の私を顔のいいクラスメイトが脅してくるのですが 犬甘あんず(ぽめぞーん) @mofuzo

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