第37話
同じ街に住んでいるのだから、偶然会ってもおかしくはない。そうわかっていた。わかっていたけれど、実際会うと、平静ではいられないのは確かで。
「いきなりお邪魔して、迷惑じゃない?」
「ううん、平気。久しぶりに話したかったし。咲良こそ、大丈夫? 時間とか……」
「大丈夫、暇だから。暇じゃなかったとしても、時間作るって」
さらっと言うところが、やっぱり、咲良だと思う。
私は春原と別れ、咲良を家に呼んでいた。春原は気を利かせて、途中で駅の方に戻っていったのだ。
浮気しちゃ駄目だよ、という言葉を残して。
浮気なんてするわけないし、そもそも私と咲良はそんな関係じゃない。そんな関係というか、私たちにはもう、どんな関係もないのだけど。
私が咲良から逃げてしまったせいで、関係は終わってしまった。
「お、お茶入れるよ。待ってて」
「うん。ゆっくりでいいよ」
何度この家に、咲良を呼んだだろう。二十本の指を全部使っても全然足りないくらい、彼女とこの家で遊んだはずなのに。あの頃の感覚を思い出せないのは、やっぱり。私も咲良も、あの頃とは違うせいなのかもしれない。
私は彼女にお茶を出して、対面に座った。
咲良は私にお礼を言ってから、お茶を一口飲んで、微笑んだ。
「ふふ。変わんないね、この味。やっぱ蜜柑って感じ」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
会話が、止まる。
私は咲良に何を話せばいいのかわからなかった。咲良もまた、静かにお茶を飲むばかりで、話し出す気配がない。
沈黙がここまで気まずいのは、初めてだ。
何か、話さないといけないことがある。そう思って咲良を家に呼んだはずなのに、私は何も言えなかった。
言葉はたくさん胸にあるのに、喉でつかえて出てこない。何を言っても、間違いな気がして。
「さっきの子、蜜柑の恋人?」
先に沈黙を破ったのは、咲良だった。
私はかぶりを振った。
「ううん。一応、友達」
「一応なんだ」
私たちはお互いに好きと言い合っているけれど、まだ恋人になろうとまでは言っていない。とはいえ、そう遠くないうちに、私から言うつもりではある。
私の言葉に、咲良は笑う。
「でも、よかったよ。蜜柑も、ちゃんと恋してて」
「へ、あ」
「誤魔化さなくていいって。あの子のこと、好きなんでしょ。見ればわかるから」
「わかるって……」
そう言われても。
そんなバレバレ?
ポーカーフェイスに自信がある方ではないけれど、そんなに私、表情に出やすいんだろうか。
うむむ。もっと表情筋を鍛えた方がいいのだろうか。
想いが人にバレるのは、さすがに恥ずかしい。
「……私のせいで蜜柑が恋できなくなっちゃってたらどうしようって、ずっと思ってたから。ほんと、よかった」
咲良はカップを置いた。
ソーサーが軽い音を立てる。
どこか気まずそうな顔で、彼女は私を見ていた。
「蜜柑、すごい真剣に私と結美さんのことに向き合ってくれたでしょ? 嬉しかったけど、恋に嫌な思い出ができてたら、悪いなって」
そんなことない、って言えたらよかった。
でも、確かに彼女の言う通り、私はあの一件から、恋が嫌いになった。恋なんてこの世から消えてしまえばいいと、ずっと思ってきた。
春原とまた出会って、人を好きになるのが悪いことばかりではないと知った。辛いことや苦しいこともあるけれど、恋は人にとって、重要なのだということも。
だけど彼女と出会わなかったら、私はずっと恋を嫌っていただろう。
「だから、蜜柑に連絡もできなくて。……私が連絡したら、やなこと思い出させちゃうかもだしさ」
「そんなことない!」
私は、思わず声を上げた。
咲良が目を丸くして、私を見つめる。
「私こそ、咲良が困ってる時に、あんまり力になれなくて。結局咲良から、逃げた。……だから、咲良は何も悪くないよ」
「……ううん。蜜柑のおかげで、私、また恋ができるようになった」
「……え?」
「蜜柑が私の相談に、ずっと乗ってくれたおかげで、また人のこと好きになれた。……私ね、高校で恋人、できたんだ」
「あ……そ、うなんだ。おめでとう」
「うん、ありがとう」
胸が痛い。でもこれは、全く嫌な痛みじゃない。人を好きになった時と同じ、心地のいい痛みだ。
胸がぎゅってなって、ずきずきするような、苦しいくらいの安堵。
本当に、よかった。咲良がまた、好きな人を見つけられて。私が少しでも、彼女の力になれていたのなら、嬉しいと思う。本当に。
「……その人、どんな人?」
「優しい人だよ。裏表がなくて、可愛くて。……ちょっと単純すぎるところはあるけど」
「……そっか。咲良は今、幸せなんだね」
恋人のことを話す表情で、全部わかる。咲良はもう、中学の頃のことは吹っ切れているのだ。
それが私のおかげだなんて、全く思えないけれど。
でも、少しは役に立てたのかな。悪魔としての力に逃げてしまった私でも、少しくらい、彼女の幸せに貢献できたのだろうか。
「うん。……蜜柑は?」
「私は……頑張ってる。二人で、幸せになれるように」
「……そか、そか」
優しい声だった。
咲良と話すのは、本当に久しぶりだ。だけど、こうして話していると、前みたいに普通に会話することができる。
嬉しいけれど、でも。
全てが前と同じじゃない。それは私たちが、違う時間を過ごしてきた証拠だ。
「蜜柑さえ、よければだけど。……これからはちょっとだけでも、連絡していい?」
心がぎゅってなる。
私は、小さく頷いた。
「うん。咲良と連絡取れたら、嬉しい」
「……じゃ、今度連絡する」
私たちは、そのまましばらくは、離れていた時間を埋めるように話を続けた。
そして、一時間ほどが経った後、咲良は静かに立ち上がった。
「そろそろ帰らなきゃ。今日は久しぶりに話せて楽しかった」
「私も。下まで送るね」
中学の頃は、いつもこうしていたっけ。
私は咲良と二人でエレベーターに乗って、エントランスを歩いた。さっきまでは余裕がなくて気づかなかったけれど、咲良は前よりも大きくなっている。
いつの間にか身長、抜かされてるかも。
私は彼女と少し距離をとって歩く。もう、咲良と前みたいに手を繋いで歩くことはないだろうけれど。
不思議とそれを、寂しくは思わない。私も咲良も、今はもうあるべき形が前とは違っているのだ。
「じゃあね。また今度!」
「うん。……またね」
私たちはいつかと同じように手を振って、別れの挨拶をした。
その別れの挨拶は、再会の挨拶とセットだ。おやすみとおはようと、同じように。
そう遠くないうちに、また、私たちはきっと出会うことになる。
私はふわふわした心地で、また部屋に戻った。
しばらくリビングでぼんやりしていると、家の電話が鳴り始める。
家の電話なんて、今の時代なくても困らない。それでも残しておいたのは、春原からの電話をずっと待っていたからだ。
それを私は、ずっと忘れていた。
ゆっくりと立ち上がって、受話器のある方に歩く。
この部屋には、春原の痕跡が満ちている。彼女からもらった植木鉢とか、彼女に初めてもらったのと同じ種類の植物とか。
そして、私はそっと、受話器を取った。
「もしもし」
『もしもし。高橋さんのお宅ですか?』
「そうだよ。……そちらは、蒔月?」
『うん、私。……久しぶり』
「ほんと、久しぶりだね。こうやって、電話するの」
毎日のように、スマホで通話はしている。でも、やっぱり久しぶりだ。
全部が前みたいに、元通りになるわけではないけれど。それでいい、と思う。どんな形でも、春原が私の傍にいるなら。
『だね。電話かけるのなんて、簡単なのに。今までずっと、逃げてきた。……ねえ。今からそっち、行っていい?』
「いいよ。食べたい料理の食材、買ってきてね」
『あはは、わかってるじゃん。じゃあそっちは、私の着替え、用意しといてよ』
「うん。待ってる」
私はそっと、一度受話器を置いた。
ようやく私は、春原のことを本当の意味で掴めた気がした。もう二度と、彼女のことを見失ったりしない。
自分のことも、彼女のことも、大事にしないと。
彼女を泣かせないために、私自身が幸せになるために。
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