第36話
「その前に、一つだけ聞いておきたいことがあります」
「……なあに?」
「蜜柑ちゃんの本当の幸せは、なんですか?」
彼女はまっすぐ私を見つめる。嘘は許さないと、その瞳が言っていた。私は少し考えてから、彼女の瞳を見つめた。
「わからない」
「……」
「私にとって幸せっていうのは、人を助けることだってずっと思ってきたから。もう二度と、誰にも辛い思いも悲しい思いもしてほしくなくて。人を助けるためなら、死んでもいいと思ってた」
昔から、私は人の笑顔を見るのが好きだった。でも、咲良との事件があってから、それは強迫観念に変わった。
救わなきゃ。助けなきゃ、守らなきゃ。
そういう思いに突き動かされるまま、私は自分を捨てて、誰かを助けることだけに全てを捧げた。でもそれは、結局逃げていただけなのだろう。咲良のことからも、自分のことからも。
本当はわかっていた。
私が一番助けたかったのは咲良で、他の人を助けようとするのは、咲良の代わりにしようとしているだけなんだって。咲良を助けられなかった後悔を、埋めようとしていただけなのだ。
そんなことをしたって、失ったものは取り戻せないのに。
「でも、泣かせちゃったから」
逃げた先で、私は春原を泣かせてしまった。
私自身を追い込むことが、春原を追い込んでいたのだ。自分を大事にしない人は、人のことも大事にできない。そんな当たり前のことを失念していた。
「足元も忘れて必死になって、大事な人のことを泣かせちゃって、心配もかけて。……それで、最近は思うようになった。もっと自分のことも、好きにならなきゃって」
私の言葉を、佐藤は何も言わずに聞いている。
だから私は、全てを吐露することにした。
「……まだ、私にとっての幸せがどんなものなのかはわからないけど。でも、私に関わってくれた人も、私も、幸せになれる道があるなら。それが一番、幸せだと思う」
それは、嘘偽りのない私の本心だった。
まだ拙くて、行き着く先もわかっていない私の、本当の言葉だ。咲良のことや、春原のこと。今までの全部を含めて考えて、初めて生まれた結論である。
「そう、ですか。……正直、私は不安です。もし全部思い出したら、また蜜柑ちゃんが無茶しちゃうんじゃないかって」
「……佐藤」
「一年間ずっと、蜜柑ちゃんのこと見てきましたから。どんな人かは、わかっています。人のことには精一杯なのに、自分のことには気づかなくて、心配で……でも、私の大事なお友達。……だから」
佐藤はそっと、私の手を握ってくる。
春原とも咲良とも違う、少し強張った柔らかさ。その掌から伝わる緊張が、きっと私への感情を表しているのだろう。
「私は、蜜柑ちゃんのためになることをしたいです。自分の気持ちに嘘をつくのは、後悔するのは辛いことだから。蜜柑ちゃんには、後悔してほしくない」
「……うん。ありがとう、佐藤。私のこと、いつも考えてくれて」
「いえ。結局私は、今まで蜜柑ちゃんに、何もできませんでしたから」
「そんなことない。佐藤が友達として、傍にいてくれるだけで。心強かったし、嬉しかった」
観覧車が、一番高いところに登る。
沈んでいく夕日が、やけに眩しかった。同じ色に照らされた私たちは、何も言わずに互いの目を見つめた。
赤い瞳と、青い瞳。
私たちは同じ種族だけど、同じではない。佐藤はやっぱり私よりずっと素直で、私は少しだけ、彼女に憧れてしまう。
それでも今ここにいる私を、愛したい。春原が、好きだと言ってくれた私を。
「……蜜柑ちゃん。蜜柑ちゃんが辛い時は、言ってください。支えになります」
「……私も、佐藤が困ってたら助けるよ」
「はい。忘れないでください。私も春原さんも西園さんも、蜜柑ちゃんのこと、大事な友達だって思っています」
あまりにも、飾らない言葉。それがどれだけ嬉しいものか。私は最近、ようやくそれを思い出した。
そろそろ、観覧車が下に戻る。
佐藤はしばらく無言で私の目を見つめていたけれど、やがて、静かに息を吐いた。
「蜜柑ちゃんの記憶は、多分暗示で心の隅に追いやられています。私の力でそれを、表層に戻します」
「力使って大丈夫? 佐藤は、恋を食べないんでしょ?」
私が言うと、佐藤はくすりと笑った。
何か、おかしなことでも言っただろうか。私は首を傾げた。
「佐藤?」
「すみません。……言ってることが同じだと思ったら、ちょっとおかしくて」
彼女は小さくそう言って、再び私の目を見つめてくる。さっきよりも、強く。
「少しくらいなら、大丈夫です。私を信じてください」
「わかった。……お願い」
「はい。……私の目を、見てください。力を抜いて」
不安が全くないと言えば、嘘になる。
どうして春原のことを忘れているのか。
今の私には何もわからないから。
でも、たとえどんな事情があるにせよ、忘れたままではいられない。春原と、ちゃんと向き合うために。
「それでは、いきます。蜜柑ちゃん……」
佐藤の声が、頭に響く。
次の瞬間私の意識は、一度途切れた。
人のために生きると決めた私は、まず自分の初恋を捨てることにした。
私の勝手で咲良の恋を終わらせたのに、自分だけ初恋を大事にするのなんて、許されないと思った。そして、全てを捨てなければ、人のためには生きられないとも。
そして私は、自分に暗示をかけ、蒔月との全てを忘れたのだ。
彼女との思い出。彼女がくれたもの。約束も、全て。
その日から私は、鳴らない電話を毎日待ち続けることがなくなった。
その代わり、胸にはずっとぽっかり穴が空いたまま、ただひたすらに人に奉仕する機械のようになった。
そして。
私は再び蒔月と……春原と出会った。
脅されて、彼女のことを知りたいと思って。記憶を失ってもまた、彼女を好きになった。
きっと、春原への気持ちが消えてなくなることはないのだと思う。春原がそこにいて、私がその隣にいたら。
好きだという気持ちは、ずっと続いていく。
そう、思った。
「楽しかったね、蜜柑」
観覧車を乗り終えて、私たちはそれぞれ帰路に着くことになった。
春原は私を家に送ると言って、私の家の最寄りで一緒に電車を降りていた。肩を並べて歩くのは、もう何度目になるだろう。
私はそっと、彼女の手に触れた。
「そうだね。ジェットコースターは、ちょっと怖かったけど」
彼女は私の手を、ぎゅっと握ってくる。
「あはは。蜜柑、すっごい顔してたもんね。そういうとこも可愛い」
「またそうやって……」
呆れたように息を吐くと、春原はくすくす笑った。
私は軽く彼女の手を握り返して、一度立ち止まった。
「ねえ、春原。私……」
「えいっ」
春原は、私の頬に手を当ててくる。
温かな感触が、心地いい。でも、いきなりのことだからびっくりして、思わず目を丸くする。
「え。な、なに?」
「ビンタ。怒った?」
ビンタにしては弱すぎる。痛くもないし、怒るほどじゃない。
「怒んないよ、これくらいじゃ」
「思いっきりやったら、怒るの?」
「そりゃ、まあ。いくら春原でも、怒るときは怒るよ」
春原は、俯く。
そんなに私に思い切りビンタがしたいんだろうか。どういう趣味なんだろうと思うけれど、春原が望むなら……。
いやいや、さすがに。
うむむ。
「……じゃあ、私のこと、怒ってる?」
悪戯がバレた子供みたいに、彼女は恐る恐るといった様子で聞いてくる。
私は首を傾げた。
「怒るって、どうして?」
「……約束、破ったから」
約束って、それは。
……今日私の記憶を戻すことを、佐藤と春原は前々から計画していたのだろうか。
いや、それよりも。
「……毎日電話するって言ったのに、一回もかけてこなかったこと?」
「うっ」
彼女はびくりと体を跳ねさせる。
私は、笑った。
確かに中学生の頃は毎日電話を待っていたけれど、そんなに気にしなくていいのに、と思う。
「怒ってないよ。春原にも事情があったんでしょ? それに、私だって春原のこと忘れちゃってたんだから、おあいこでしょ。むしろ私の方がひどいよ」
「……そんなこと、ない。引っ越しの時も、せっかく来てくれたのに会わずに逃げた。私、最低だよ」
「今度から逃げないって誓ってくれるなら、許すよ。その代わり、私ももう忘れないし逃げないから、私のことも許してくれると嬉しいな」
「……許すよ。蜜柑のことなら、なんでも」
いつもより不恰好な笑みを浮かべて、彼女は言う。
私は目を細めた。
「……ごめんね。ありがとう」
「うん。私も、ごめん。……ありがとう」
私たちはお互いに頭を下げて、やがてくすくす笑い始めた。
一度別れてから、長い月日が経って。私も春原も、前とはちょっと違った二人になって。それでもまた出会って、こうして好き同士になった。
それだけでもう、胸がいっぱいになる。
「ねえ、春原。やっぱり私、春原のこと——」
「……あれ? もしかして、蜜柑?」
春原への言葉が、途中で止まる。
あまりにも聞き覚えがありすぎる、懐かしい声が、私の言葉を止めた。
そんなわけないと思って、声のした方に目を向ける。
そこには——
「咲良……?」
私のかつての親友が、立っていた。
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