化ける

西野ゆう

第1話

「桜色のコントラスト。綺麗だろ? 縁の白が雲みたいでさ。その下に桜が淡く映っているようだ」

 決して高級なものではない。スタンダードな萩焼の椀だ。木箱などではなく、厚紙の箱に入っていた。

 ふたつある同じ箱の一方の箱から出して、彼女に渡す。

「そうね。ほんと綺麗」

 彼女の華奢で色白な手の上に乗ると、その椀もより端麗な姿になったように見える。右手の中指にはめられた、おそらくアンティークの淡いアクアマリンの指輪も美しい。

 彼女は会社の取引先で勤務するフランス人だ。まだ付き合い始めて一週間。今日は初めて彼女の部屋で、彼女の手料理をご馳走してもらうことになっている。

 僕の数少ない恋愛遍歴の中で、彼女の部屋に入るまでに要した日数としては極めて短い。

 日帰り出張のお土産に渡した器も喜んでくれたようだが、少し眺めただけで彼女の顔は曇った。

「でもこれ、割れちゃってない? 振動でかな?」

 僕は彼女の心配を笑い飛ばした。これまで洋食器しか使わない環境で育ってきた彼女に分からないのは仕方ない。

「違うよ、違う。これは器がひび割れているんじゃないんだ」

「でも、実際にこんな細かく全体にひびが入っているじゃない」

「うん、それは貫入かんにゅうって言ってね、器に塗ってあるうわぐすりが割れているだけなんだよ。日本や、日本に焼き物を伝えた中国なんかでは、このひび割れも、模様のひとつとして鑑賞する対象になっているんだよ」

 彼女は僕の説明を聞きながら、椀を少し高く持ち上げて、光の反射を愉しむように見ていた。

「そう言われると、もっと綺麗に見えてくるから不思議ね」

 笑みを見せた彼女に、僕も笑った。

「君の笑顔も、見るほどに綺麗だよ」

 そんな気障きざったらしい言葉を口にしても恥ずかしくないのは、彼女の育った環境に釣られているからだろう。だが、僕が積極的な言葉をかけるごとに、彼女は自嘲気味に息を吐くのだ。

「本当に私で良いのかな。あなたより随分年上なのに」

 随分年上というが、逆に彼女は僕より若く見える。一般的にフランス人女性は、日本人女性よりも歳を重ねているように見える、と言われているにもかかわらずだ。

 彼女は僕の二十八歳という年齢を知っている。一方で僕は彼女の実年齢を聞くには至っていないが、そんなことは関係なかった。

「君の国の大統領だって、随分年上の奥さんじゃないか。関係ないよ。それに、歳を取っていけば、それも気にならなくなるさ。僕はね、しわくちゃになるまで君といたいと思っているんだ」

 本心だ。嘘も偽りも、妥協さえもない。僕は日ごとに、彼女の魅力に取りつかれていた。そう、日ごとに。

 僕は彼女がまだ手の上に乗せている萩焼について、もうひとつ教えた。

「『萩の七化け』っていってね、その器は使うごとに姿を変えるんだ」

「……それは嘘よ。魔法じゃあるまいし」

「ああ、姿といってもね、この場合は形のことじゃないんだ。さすがに形はそのままだけど、表情が変わるんだよ」

「表情? まだたまに日本語って可笑しいと思う。器に表情なんて」

 確かにその通りだ。無機質なものに対して、愛でる対象が「姿」や「表情」とは可笑しなものだ。その表現も、道具を大事にする日本の文化なのだろう。

「そうだね。うん。可笑しいかも。でも、その可笑しさはおいておいて、実際にその器は、見た目が変わっていくんだ」

「使い古せば汚れていくってこと、じゃなさそうね」

 彼女は言葉を出しながら僕の表情を見て、自分の意見を取り消した。だが、僕は彼女の意見を否定しなかった。

「見方によってはね、汚れていくってことになるのかもしれないけど。それでもそれを否定的に見るんじゃなくて『味がある』とか『趣が増す』なんて見方をするんだ。人間だってそうだろ? 歳を取っても、老いても、悪いことばかりじゃない」

 じっと僕を見つめる彼女の視線がいつもより熱い気がして、僕は思わず頭を掻いて周囲に目を動かした。

 改めて彼女の部屋を見ると、当たり前だが少女然としたものはない。大人の部屋だ。機能的に整頓されている。

 特にキッチン周りは充実していた。彼女が僕を夕食に誘ったのも、料理に自信があるからに違いないとは思っていたが、キッチンを見てもそれがうかがえる。

 そのキッチンにワイングラスが数種類置いてあるのに気づいて、僕はひとついい実験を思いついた。

「ワイン……そうだな、どうせならロゼはある?」

「スクリューキャップの安いのなら」

「今日さ、それでヴァンショー(ホットワイン)を作ってくれるかな?」

「ヴァンショー、ね。いいよ。材料はどうしよう。スターアニスとリンゴ、それにハチミツぐらいしかないから、それで良い?」

「任せるよ。僕は飲んだことはあっても、自分で作ったことはないから。でさ、できたヴァンショーは僕が持ってきた器に入れてくれないかな」

 そう伝えると彼女は笑顔で頷いて、早速キッチンに立っていた。

「もうディナーも作っていいよね?」

「ああ、もちろん」

 僕は明るくそう返したものの、若干不安になっていた。

 高価ではないとはいっても、今日おろしたての椀だ。それにヴァンショーを注ぐなんて。

 おそらくこの萩焼の椀にとっても、過去最速の部類で姿を化けさせられることになるだろう。本来の味や趣とは違っている。長年育てるからこそ、愛着も沸くというものだろう。

 僕は、この恋同様に焦っているのかもしれない。半年したら帰国するという彼女に対して、自分の気持ちを固めるために、自分で自分を追い込んでいる。


「お待たせ」

 並べられた料理より、まず僕の視線は萩焼の器に向いていた。ワインの色素は強い。例えロゼワインだとしても。しかもそれが温められている状態だ。ほかの材料の成分も溶け込んでいる。

 だが、器に変化はなかった。

「さすがにすぐには化けないか」

 そう口にした僕が器を手にした瞬間、桜色のグラデーションに、タイル画のようなピンクの線が入りだした。貫入を色素が駆け巡る。

 驚いた僕は器を落としそうになるが、すんでのところで驚愕を抑え込んだ。そもそもこうなることを予想していたのだから。

「ほら、これ見てごらん」

 僕はそう言って姿の化けた器を彼女に見せた。

「ああ、ほんとだ。姿が変わったのね。その線、があるのかしら?」

 舌を出しながら彼女が言う。

「味って、その味じゃないから」

 意味をちゃんと理解してそう言ったであろうことは分かっていながら、僕はそう返した。本当に彼女は頭がいい。こういう時に、単純な年齢とは違う経験の多さを感じる。

 笑う彼女が持ち上げた器は、まだ変化がない。個体差だろうか。

「そっちは全然化けないね。同じ製品でも微妙に違うのかな」

 大量生産品であると思われるが、多少の違いもあるのだろうと僕は特に深く考えなかった。頭ではそうやって思考を止めたが、なぜか彼女の指輪に視線が奪われ、背筋にうすら寒いものが何度も往復していた。

 僕の視線に気づいた彼女が呟く。

「うん、多分この指輪のせいね」

 彼女の声のトーンがひとつ下がる。そして指輪に手を掛けた。

 やめてくれ。やめろ。外すな。

 彼女が指輪を外すとどうなるのか。僕はなぜか予想できた。

「やめてくれ……」

 声が震えて上手く伝えられない。声で伝わっていなくても、彼女は僕の訴えを理解している。理解していながら、それを無視して指輪を外す手を止めない。

「アクアマリンはね、永遠の若さをもたらすの」

「外すな……」

 僕の願いは届くことなく、彼女の指輪は外された。

 それと同時に、彼女の持っていた器も化け始めた。まるで貫入に血が流れるように。

 そして、彼女の白磁のような美しかった肌に、皴が刻まれ始めた。

 僕はきっと急ぎすぎたのだ。そしてこれはその罰なのだ。そう思ってしまった。

「ねえ、私には味がある? 趣が増した?」

 答えなければ。答えなければだめだ。

 そう思えば思うほど、喉は渇き、唾液を飲むごとに喉が張り付いた。

 声が出ない。渇きは喉だけに留まらず、全身へと駆け巡った。

 渇く。乾いていく。

 口をつけようとした桜色の器に満たされた桜色の液体。その水面に映る僕の顔にも、皴が刻まれていた。

「私ね、今とっても誇らしいの。あなたの望みが叶えられて」

 ――僕はね、しわくちゃになるまで君といたいと思っているんだ。

 彼女の骨ばった手が僕の頭を撫でると、その指に絡まった髪の毛がブツブツと抜けた。

 ブツッ。

 ブツッ。

 僕の耳には、最期までその音だけが響いていた。

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