第33話 願い

「大神さま、これは?」


 法山が震えていた。魔母衣村の者は、深い霧の危険性を熟知している。


「お助けを」「私が悪かった」


 かつて咲耶を殺した者たちが深い霧の中で声を上げた。


 四神が彼らを裁く? 私が望んでも、そうはしないはずだ。……咲耶は確信していた。四神は村人の守り神なのだから。ならば、四神は何故、現れたのか?


 咲耶にはわかっていた。これは麒麟がしていることだと。


「村が四神と共にあることを忘れてはなりません」


 村人を励ますつもりで言った。あちらこちらですすり泣く音がした。


 咲耶は振り返った。霧の中に金色の神像が浮いて見えた。それを取って問う。……麒麟よ、何が望みです?


 ――恐怖ト希望ヲチカラニ変エテイル――


 咲耶の頭の中で声がした。


 何のための力です?


 ――オ主ノタメニ――


 私のため?


 ――望ムノナラ、世界モ滅ボシテヤロウ。代償ハ、オ主トソノ子ラノ魂ヲ1万年ブン――


 冗談はやめてください。


 ――冗談ナドデアルモノカ。望ミヲ言エ――


 望み?……言葉にならない何かが、咲耶の脳裏を走った。


 ――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――


 睦夫が打ったのか、太鼓が鳴る。刹那、濃い霧が村人を包むように渦巻いた。四神が渦に乗って校庭を走り、飛んだ。東西南北、方位が乱れ、宇宙が乱れる。


 ギシギシと、頭が割れるような痛みを誰もが感じた。


 世界が壊れる。……咲耶だけが、痛みの中でそんな感覚を覚えた。怖くはない。辛くも可笑しくもない。ただ、何かが違う気がした。


「平和を!!!」


 咲耶は、無意識に叫んでいた。


 四神が霧を引いて舞い上がる。霧は高く、高く昇り雲に変わる。四神が昇るほど、地上は晴れていく。


 ああ! 宇宙が元に戻る。……咲耶はわずかばかりの感動を覚えていた。同時に、自分は麒麟から逃れることはできないのだ、と理解した。


 姿が現れた村人は両手を合わせて祈っていた。ある者は涙を浮かべ、ある者はひれ伏している。


 霧が晴れると、人々は空に昇る四神を見つめた。それが青い空でひとつの麒麟に姿を変えた。


「麒麟だ……」「麒麟さまだ」「お許しをー」「初めて見た」「ありがたや、ありがたや」


 人々が再び拝み、狂喜し、恐怖する。


 咲耶と天具は、呆然と空を見上げていた。


 長い首を曲げて麒麟が下界を見下ろしている。


 ――1万年――


 頭の中に直接飛び込んでくる声だった。人々は黙り、次の言葉を待った。


 ――我ハ、大神朔ト共ニアル――


「私と?」


 咲耶の疑問は自分に向けたつぶやきのようなものだった。


 ――しかり――


 答えるや否や、麒麟は神像の中に消えた。


「え?」


 咲耶は慌てて「オー」と、神を帰す声を発した。


 法山が立ち上がる。


「麒麟神は、大神さまを認められた。大神さまの声は、麒麟神の声ぞ!」


 彼が声を上げると人々がどよめいた。その時、咲耶だけは動揺していた。1万年、人はそれほど生きられない。なのに、麒麟は共にあると言った。何かに縛り付けられ、自由を奪われたような気持だった。


 ――ドン、ドン、ドドン……、太鼓が打ち鳴らされた。


 エイッ、悩んでいても仕方がない。……咲耶は開き直った。


 学校の給食室でつくられた麻の実入りの粥の膳が配られる。


「先に逝かれた者たちの魂、受け取りなさいませ!」


 咲耶は凛と言った。


「いただきまする!」


 校庭に並んだ村人のそろった声は圧巻だった。つい先ほどまでふざけていた中学生まで神妙だった。


 咲耶の椀には肉片が三つ。それが誰の心臓であっても食べることに躊躇はなかった。


 振る舞い膳が終わると11個の桶が運ばれてくる。


 ――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――


 太鼓が鳴ると、死者に近しい女性が前に出る。彼女らが首を桶に入れるのだけれど、怯えて触れられない者がいた。屋外の葬儀では、麻の実がつくる甘い香りの効果も落ちるのに違いなかった。すると喪主が、怯える女性の手を取って首を握らせ、桶に入れた。


 大神琉山の首は飛び出した目玉といい、割れた額からどろりと流れ出した脳といい、お化け屋敷に並べられた作り物のようだった。もし、屋内の葬儀だったなら、嫌な臭いで顔をしかめたに違いない。咲耶は淡々とそれを桶に納めた。存在しない潤女の首は、入れる真似ごとだけをした。そうしながら考えた。本当にあの麒麟が食ったのだろうか? いずれ自分も食われるのだろうか?


 ――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――


「お頭の出立です。立ちませーい」


 号令をかけると、村人が一斉に立った。


 行列の先頭には、三方を胸元に抱えた天具が立った。道を知らない咲耶は彼の後ろについた。


「出発しましょう」


 咲耶がささやくと、天具が小さくうなずいた。


 行列が校庭を横切り、黄泉の穴に向かう。11個の首桶を天秤棒の先にぶら下げて進む長い行列は、大名行列を連想させた。


 深い森の中を進み、まもなく黄泉の滝というところで、突然、天具が足を止めた。忽然こつぜんと、日本庭園のある木造住宅が現れたからだ。


「これは……」


 天具と咲耶の声が重なり、顔を見合わせた。咲耶は自分の目が信じられなかった。


「私の家……、みたい……」


 天具が門にある表札を読んだ。


「間違いない。山上比呂彦の家だ」


「どうしてこんなところに?」「昨日、黄泉の穴に準備に来たが、その時はなかったぞ」「昨夜、出来たのか? それにしては古いが」


 森をよく知る者たちは驚いて咲耶の家を取り囲んだ。


「麒麟がここに住めというのだろう」


 法山の言うことがもっともらしく聞こえた。


「東京の家は?」


 咲耶は首をかしげた。


「無い」


 隣に断言する老人がいた。どこから現れたのか、初めて見る小柄な老人だった。長い髪を後ろで縛り、あごには伸び放題の髭、すそが風になびくように広がった着物は、古代中国の仙人を思わせた。


「オモイカネ殿」


 法山が驚きの声を上げ、彼に向かって深く頭を下げた。……「麒麟の次はオモイカネか」「見えないぞ」「ほう、珍しい」……行列の後部に向かってざわめきが波のように広がっていく。


「ヨオ、……大和の土地をそのまま持って来るとは、麒麟の力、恐るべし……」


 オモイカネは法山を無視して咲耶の顔をまじまじと見つめた。


「オモイカネ殿こそ、どうしてここに?」


 法山はどうしてもオモイカネと話をしたいようだった。


「霊気が乱れたのでなぁ。様子を見に来たのよ。麒麟にこのような力があるとはなあ。面白い……」


 オモイカネが長い髭をしごいた。その間も、彼の目は咲耶を見ていた。


「この大神朔と契約を交わしたからではないでしょうか?」


 天具がひと回り大きくなった麒麟の神像をオモイカネの前に差し出した。オモイカネが、それをヒョイと摘み上げる。


「さもありなん……。宇宙の霊気と大地の霊気とがひとつになったようじゃ」


 彼は神像を三方に戻すと、再び咲耶の瞳を真っすぐ見つめた。


「四神はもとより、麒麟の力にも色はない。その力、過たず使えよ」


 そう言うなり、咲耶の鼻を人差し指でツンと突いた。


「エッ……」咲耶の眼が寄る。


「ここに住め。また会うこともあるだろう。お主は……」


 彼は初めて法山に目を向けた。


「……大和の政府と連絡を欠かさぬことじゃ。つまらぬことで、この世を滅ぼすなよ」


 そう言うと、彼は背を向けた。


「オモイカネ殿、どこへ行かれる?」


 彼は法山の声に応じることがなかった。森に不釣り合いな衣をひらひらさせ、蝶のように深い森の中に消え去った。


「四神や麒麟の力に色がないというのは、どういうことでしょう?」


 咲耶の問いに、答えられる者はいなかった。


「とにかく葬儀を済ませてしまおう」


 法山が声を上げ、行列は再び歩き始めた。


 黄泉の穴の奥にある巨大な墓は整備されていた。麒麟が暴れて落ちた髑髏はそのまま砕かれ、壊れた棚板は修理されて新たな死者の首を受け入れる場所になった。そこに10個の首を納め、儀式は無事に終了した。それは咲耶が大神として、村人や異界のモノたちに認められたということでもあった。


 帰り道、咲耶は天具だけを伴って、森の中に現れた家に入った。リビングのインテリアも庭園も、物置に至るまで、東京の我が家そのものだった。


「東京には帰る場所がなくなったのだな」


 天具の声には同情と喜びが入り混じっていた。


 咲耶は霧の中を歩くような思いで各部屋を巡り歩き、電気もガスも水道も使えないことを確認しては、これは夢だ、東京には本物の家が残っているはずだ、と未練たらたら……。


「電気と水道は、明日中に使えるようにしてやる。ガスは村にないので無理だ。代わりに電気調理器と電気給湯器を入れよう」


 天具の言葉が、咲耶を現実に引き戻した。


「ここで暮らすなんて、イメージが湧きません」


 咲耶はソファーに座り込んだ。田舎が嫌いなわけではない。だからといって、植物にも昆虫や小鳥にも興味はなく、田舎に住みたいとも思わない。ましてインターネットが使えない土地で生きていけると思えない。……突然、東京の猥雑な喧騒が懐かしくなった。


「イメージなど、どうでもいい。麒麟が、家をここに運んだ理由を考えてみるのだな」


「1万年、ここに住めと?」


「1万年も生きるつもりか?」


 天具は笑いかけて、それをひっこめた。


「そういえば、オモイカネが……」


 口をつぐみ、沈思する。


「石上さん、何ですか? 隠さないで、教えてください」


「ふむ……」視線を咲耶に向けた。「……オモイカネがこの村を開いたのが1万年前で、その時に麒麟と契約したという伝説がある。その時から大神と新神が、神事をり続けている」


「オモイカネって、あのお爺さんですか?」


「まさか……、オモイカネが老人とはいえ1万年前から生きているとは思えない。彼の先祖でもあるのだろう。……俺が子供のころから、オモイカネはずっとあんな感じだった。村のものとは交流せず、村の行事にも関わらない。気が向いた時だけ、ひょっこり顔を見せると面白い話を聞かせてくれるのだ。大人たちは変わり者だと笑っていたが……」


「麒麟のことを良く知っているようでした。葬儀の時、麒麟も1万年一緒だというようなことを言っていたじゃないですか? オモイカネさん、本当は1万年生きてきたのかもしれません」


 咲耶は、飄々ひょうひょうとした調子で語り、蝶のように去っていったオモイカネの姿を思い浮かべた。


「ふむ……。彼の住まいや家族を、誰も知らないのだ。1度だけ捜したことがある。すると、こちらの意図を察したように向こうから姿を見せた。……もしかしたら、本物の仙人なのかもしれないな。それなら1万年、生きているのかもしれない」


 彼が首をかしげた。


 咲耶は1万年後の自分の姿を想像してみた。それは老婆どころか、骸骨でさえなかった。骨は粉になって地球の一部になっている。1万年も生きるなんて、ありえない。


「ここに訪ねてきそうな話でしたが……」


「彼も、ここに住め、と言っただろう?」


 天具が咲耶をじっと見つめた。


 オモイカネの言葉を忘れたわけではなかった。ただ、天具に向かって、そうだと応じたら、本当に魔母衣村に住まなければならなくなるような気がした。


「私ひとりで決めていいことではないと思います」


「比呂彦さんにとっても、ここは生まれ故郷だ。嫌とは言わないだろう。電気はともかく、水がなくては暮らしが立たない。明日からでも工事を始めよう。今晩もウチに泊まれ。ご両親には咲耶さんから連絡を取ってくれ。誰かに村の外に連れて行かせよう」


 彼が強引に話を進めた。


 咲耶は仕方がなくうなずいた。とりあえずここに住んで、それから先のことは大人になってから決めようと思った。


「ヨシ! 家に帰って富貴に美味いものを作ってもらおう」


 彼がカラカラ笑って家を出た。咲耶は慌てて後を追った。

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