第34話 因果応報

 石上富貴が用意した夕食は、川魚の唐揚げと肉の生姜焼き、野菜サラダだった。彼女が生姜焼きを出すときに「煮凝りを作る余裕がなかった」と言ったので、それが何の肉か見当がついた。天具などは、「人は生まれた場所へ帰るものだ」などと話しながら、髭におおわれた口を目いっぱい開いて生姜焼きを放り込んだ。咲耶は、この村では全てにおいて無駄を排除していると感じた。


 富貴と睦夫は、麒麟や四神を見たことに興奮していて、終始そのことばかり話した。そして、あれこれと質問を投げた。咲耶が答えられることは少なかった。麒麟を見たのは比古造の葬儀がはじめてで、今回が2度目にすぎない。四神にいたっては、本物を見るのは初めてだった。


「私も富貴たちと知っていることに大差がありません。麒麟の声は、少しだけ聞きましたが……」


 葬儀の時、村のみんなが麒麟の声を聞いたはずだ。――我ハ、大神朔ト共ニアル――と。自分はそれ以外にも質問をして返事をもらったことがある。そんなことを話すと、富貴たちは咲耶が麒麟と意思を交わせることに大いに驚き、更に興奮した。


 その夜、咲耶は夢を見た。東京の空を飛んでいる夢だ。スカイツリー、国会議事堂、六本木ヒルズ、東京タワー、新宿御苑、駒場公園……、巨大な建築物が玩具のように並んでいる。個人の住宅などは、ひと口サイズのチョコのようだ。まばゆい窓の明かりやネオンサインが、景色を絵画のようにしていた。


 懐かしい建物や道路、電車の駅が眼下に現れる。長く住んだ街だ。個性のない住宅が整然と並んでいて、道路を車や自転車、人が虫のように行き来している。そんな住宅街の一角、咲耶が住んでいた土地は森に変わっていた。


 咲耶は森の中に降りた。夜の森に色はなく、ただ墨のような黒が漂う。清浄な空気は淡く匂い、遠くから滝の音がする。森は黄泉の滝を囲むあの森に違いなかった。東京にありながら、森は空に至るまで魔母衣村のようだった。


 木陰から見知った顔が現れる。眠っている姿を見ただけで話したことはない。津上隆斗、魔母衣村出身のストーカーだ。


〖さすが、私のお姫さまだ。麒麟をしもべに従え、大神を倒してしまうとは……。ああ、早く君を抱きたい!〗


 彼が送りつけてきた手紙の一言一句が記憶にある。彼を、ネズミを見るように見下ろした。


 咲耶を認めた彼は、ギョッと目をむいて身体を硬直させた。口だけをパクパクさせている。それは「タスケテ」と言っているようだった。


 助けるものか、殺してやる。私は大神、神を侮辱する者は許さない。……咲耶は宣告した。刹那、彼との距離がグンと近づいた。


 何が起きたのか、咲耶にはわからなかった。彼の顔が間近になったと思うと視界から消えた。何故か、欲望が満たされた時の満足感を覚えていた。


 黒い景色が赤く変わる。足元に首のない隆斗の死体が転がっていた。頭部のない首から黒々とした血が流れている。


 頭はどこ?……眼をこすり、ぐるりと見回す。景色に色が戻っただけで、首は見つからない。あぁ、きっと黄泉の穴の墓に行ったのだ、と思った。


「お母さん、ストーカーを懲らしめてやったわよ」


 咲耶は明心に向かって話していた。


「咲耶、強くなったわね。私も嬉しいわ」


 彼女の優しい声を聞くと、何故か涙がこぼれた。


「あら、珍しい。サクが泣くなんて」


 雅の声がした。


「みやび!」


 自分の声に驚いて眼を覚ました。カーテンの隙間から射す光は、すっかり高くなっていた。葬儀という大仕事を終えた安心感で長く眠っていたらしい。


「変な夢だ」


 素直な想いを口にして、ベッドから抜け出す。胸の中に小さな達成感があった。


 朝食は咲耶ひとりだった。天具と睦夫は仲間を誘って咲耶の家の工事に行ったと富貴に教えられた。


「工事の代金はどうしたらいいのでしょう?」


 咲耶は心配で訊いた。父から、正確には父の会社からだけれど、定期的に十分な生活費が振り込まれるので預金はある。しかし、建物の改修工事となると桁が違うだろう。


「この村にお金はないのです。みんな、自分の労働で支払うの。大神さまは、何も心配しないでください」


 どうやら大神として葬儀を行っていくことが対価らしい。


「お金がなくて、世の中が回るものですか?」


「理屈はわからないけれど、結果、何とかなっているわね。小さな村だからかしら」


 富貴が微笑んだ。その穏やかな笑顔の持ち主が、自分の身体に柱を突き刺したのだ。信じ難かったが、実際したのだ。……人間とは不思議な生き物だ。まるで、自分が人間でないような感想を持った。


 お金のことは心配いらないと言われても、自宅を改修してもらうのに部屋でじっとしていることはできなかった。リュックを背負って黄泉の滝をつつむ森に向かった。その道を歩くのは5度目になる。迷う心配もあったが、いざとなれば麒麟が助けてくれるだろう。神に甘えて森に分け入った。


 村から黄泉の穴へ続く道は、長い上り坂だ。汗をかくのは嫌なので、できるだけゆっくり、だらだら歩いた。


 深い森を歩いていると、家の影を見るより先に作業にはげむ人の声と金属がぶつかる音を聞いた。そのころには額に汗が浮き、リュックを背負った背中はシャツが張り付いて不快だった。


「よう、道に迷わなかったか?」


 駐車場の屋根にやぐらが立っていて、その上から天具の声がした。ワイヤーを設置して風車を引き上げているところだった。


「はい。何度も歩きましたから」


「俺がこんな場所にいるとき、麒麟の力を使わないでくれよ」


 彼が冗談を言った。


 櫓の足元にいる数名の若者が咲耶をちらちら見ていた。咲耶が礼を言うと、彼らは目じりを下げ、あるいは頰を赤らめた。


「睦夫さんは?」


「黄泉の滝だ。水車と取水口の設置に行った。用事か?」


「いいえ。別に大丈夫です」


 咲耶は黄泉の滝に行ってみることにした。流れに足をつけて涼みたい。


 睦夫と数人の若者が黄泉の滝が作る流れの下流に集まっていた。その流れに円筒型の水力発電機を沈め、固定しているところだった。流れのそばには電気ケーブルの束が積み重ねられている。他に水道管代わりのホースの束もあった。それらを森の奥まで運ぶだけでも大変な労力だっただろう。


「みなさん、お世話になります」


 声をかけると、彼らは「お互い様だ」とさわやかに笑った。


「私のために、苦労をかけて申し訳ありません」


 改めて礼を言うと男性のひとりが、「玄武の力を使えば土木作業など朝飯前だ」と笑った。


 なるほど、と気づいた。朱雀の力で時空を短縮することができた。同じように大地を司る玄武の力を使えば、重労働も楽に行えるのかもしれない。だからこそ睦夫はひとりで金を掘ることができるのだろう。


 睦夫たちに仕事を頼み、青龍と白虎にはどんな力があるのか考えながら滝つぼに向かった。靴を脱ぎ、流れに足を入れると一気に汗が引いた。


 5本の細い落水が作る黄泉の滝は、高い太陽の光を浴びてキラキラ輝いていた。滝の中ほどに小さな虹ができている。もし、何も知らずに滝を見たら、その美しさの裏に、黄泉への入り口がぽっかりと黒い口を開けていることなど気づかないだろう。


 天具は、裁きの家に雅と月子の遺体はなかった、と言ったけれど。……虹を見ながらあの日のことを考えた。……2人は間違いなく、あそこで殺された。自分のように生き返っていないのだとしたら、まだそこに埋まっているはずだ。


「ヨッシ」


 自分の眼で裁きの家を見てみようと決めて滝をくぐった。


 洞窟の入り口でリュックから守り刀を取り出して祝詞を上げる。


「かけまくも魔母衣を生みしアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミよ……」そんな祝詞をあげながら、信じているのはアメノミナカヌシノカミでもタカミムスビノカミでもなく麒麟だった。


 守り刀を右手に、ライトを点けたスマホを左手にして洞窟内に入った。


「確か、3番目の分かれ道を右に……」


 トヨとトミに連れていかれたルートを思い出しながら小さな灯りを頼りに奥に進む。時折、妖がフワフワと近づいてくる。襲ってくるというより、じゃれついてくるといった雰囲気だ。守り刀で払うと、それらは線香花火の最後のようにパッと散って消えてしまう。何とも儚い姿だった。


 何度かルートを間違って分かれ道を行き来したが、大勢の人が行き来した痕跡が地面にあることに気づいてからは、迷わず裁きの家にたどり着くことができた。


 裁きの家の損傷は激しく、巨石がゴロゴロ転がっていて、古い人骨や杭の破片も散在したままだった。奥に進むと巨石は小山をなし、中ほどから先に行くことはできなかった。


「みやびー、つきこー、いるのー」


 返事があるはずない。そうわかっていながら呼ぶ声は、洞窟にこだまし、虚ろに消える。


 ――何故、無意味ニ名ヲ呼ブ?――


 頭の中心で麒麟の声がした。


「遺体が見つからないなら、せめて2人の魂を救済したいのです」


 ――ソノ魂ハ消エタ。我ノイチブトナッタ――


「一部?」


 ――食ッタカラダ――


「ヤダ……」頭がくらくらする。


 ――契約ダ――


「友達の魂を食べるのが、契約ですか?」


 ――オ主ノ身近ナ者ノ魂ヲイツツ、ソレガ契約ノ条件ダ――


「私、そんな契約をした覚えは……」ない、と言おうとした時、父親と洞窟の中を歩いた夢を思い出した。幼いころ、実際にそうした経験をした記憶がある。もしかしたらそれは、この黄泉の穴だったのかもしれないし、チベットの洞窟だったのかもしれない。その時は母も一緒で、彼女が何か怪しげな儀式をしたような記憶もぼんやりあるけれど、何分幼いころの記憶で正確ではなかった。


「魂が無理なら遺体の一部でも……」


 ――遺体ヲ戻シテヤル――


 恩着せがましい言い回しに、麒麟は人間を見下しているのだと思った。


 刹那、目の前の景色がパッと明瞭になった。まるで太陽の下にいるようだ。それだけではない。咲耶は浮いていた。正確には、麒麟の首元にまたがっていた。


「飛んでる?」


 ジェットコースターにでも乗ったように浮いた身体が勢いよく進んだ。真っ直ぐ岩石の山の中に突っ込んでいく。


「危ない!」


 声を上げても、目を閉じても、麒麟は止まらない。


 岩石にぶつかったような衝撃はなかった。目を開けると、まるでプールで泳いでいる時のように、岩石や土砂の中を溶けたようになって進んでいた。


 すぐに、岩の隙間に雅と月子の白い遺体を見つけた。杭を突き刺されたあげく岩に押しつぶされた無残な状態だった。


「雅と月子を戻してくれるのよね」


 言うより早く、2人の姿が美しさを取り戻した。が、生き返ったわけではなかった。


 咲耶はまるで生きているような雅と月子の遺体を担ぎ上げた。そうした自覚はあったが、自分の腕は使っていない。どうやって、どこに担ぎ上げたのかもわからない。彼女らの重みも感じなかった。


 すると咲耶は飛んだ。やはり自分の意思にない動きだ。その視界には果てしない漆黒の洞窟が続いていた。それが左右にうねりながら地底深く続いている。時折、異界のモノの姿があった。それらは咲耶に気づくと物陰に隠れ、あるいは逃げた。逃げ遅れたものは、咲耶の身体に触れてパチンと消え去った。


 深く、深く、咲耶と麒麟は地の底に潜航した。


「どこまで行くつもり?」


 咲耶の問いを麒麟は無視した。そんな風にして、果てしない時と時間を咲耶は飛んでいた。


 突然、視界が広がる。別の世界に出たようだった。無数の異界のモノが宙を漂っていた。黄泉の穴には見かけない、紫や黒く光るモノもいた。


 巨大な暗闇に銀河系のように輝く光の一団があった。光の一粒一粒が大小さまざまな妖で、中心部に黒く光る大きなものが横たわっていた。オロチのような異界のモノが蜷局とぐろを巻いているのだ。


「何かやばそう」


 咲耶は得体のしれないそれを避けて通ろうとしたが、身体は勝手にそれに向かって進んだ。


 ――黒龍――


 麒麟が呼んだ。


 異界のモノたちに囲まれて転寝うたたねをしていた黒龍が頭をもたげる。眼が金色をしていた。


 ――麒麟カ?――


 それは寝ぼけているのか、あるいは麒麟を恐れないのか、鷹揚おうように言った。


 ――退ケ。通ル――


「麒麟さん、喧嘩を売ってどうするのよ。止めて!」


 止めても、麒麟は進んだ。咲耶も一緒だ。立ち上がろうとしてもその場を離れようとしても動けなかった。そうして初めて自分の身体が麒麟とつながっていると察した。あの神像のように。


 黒龍の周囲にいた妖たちが弾けるように飛び去った。


 ――カァ!――


 黒龍が赤い口を開けてマグマにも似た燃える鉄を吐いた。


 咲耶は驚いて目を閉じてしまったが、麒麟は燃えた鉄をひらりとかわし、黒龍の頭上に達するとその頭を蹴った。


 黒龍の頭に麒麟の爪がくいこみ、その頭をあかく変えた。


 怒った黒龍の長い身体がむちのようにしなって麒麟に巻きつく。が、亀の甲羅のような硬い胴体はびくともしない。


 麒麟が頭をひねって黒龍をむと、その胴体の半分が浄化されて白化した。


 ――グァ!――


 黒龍が悲鳴を上げる。


 麒麟の尻尾の蛇が白化した胴体に牙をたてると、それは砂粒に変わって飛散した。


 残ったのは黒龍の首のみ。金色の瞳が悔しそうな光をたたえている。


 ――己ヲ知レ――


 麒麟が言い放つ。


 ――次コソ――


 宙を漂う黒龍の首が負け惜しみを言った。


「麒麟さん、強いのね」


 咲耶の賞賛に麒麟は反応しなかった。ただ宙を走り始め、黒龍が蜷局を巻いていた場所から上方へ続く、狭い洞窟へ進路を変えた。


 麒麟と咲耶は、地上に向かう妖を抹殺しながら軽快に飛ぶ。進んだ先は泥と腐った植物で埋まっていたが、そんな物は麒麟にとって無いも同じだった。結界に守られているのか、そもそも実在していないのか、咲耶の顔を泥の一滴でも汚すことがなかった。


 パッと光がはじけたような眩さを覚える。地上に出たのだ。麒麟は止まることなく、樹木の生い茂る地平を一瞬で後にした。


 目の前には青い空があった。森を抜けた後、振り返った咲耶の目に映ったのは、建物が整然と並ぶ長く住んだ東京の街だった。


「ここは……」


 麒麟が飛び出してきた森は、咲耶の家があった土地で、夢の中でおり立った場所だった。東京の家と磨母衣村の森の一部が入れ替わったということは予想していたことで驚かなかった。驚いたのは、眼下に広がる景色が夢で見たもの、そのものだったことだ。


「昨夜もここに来た?」


 ――魔母衣村ノ暦デハ昨日、日本ノ暦デハ一昨日ダ――


「東京と魔母衣村の時間が違う?……時差みたいなもの?」


 ――時間トテ、不変デハナイ。黄泉ノ風ハ、時ニ時間ヲ進メ、時ニ遅ラセル――


 黄泉の穴の周囲は、時間の進み方が変わるということだろうか?……理屈はわからないけれど、麒麟が言うことなら正しいだろうと思った。


「そうだ。雅と月子の遺体を返すのでしょ。それなら……」


 ――森ニオイテキタ。彼ラガ見ツケルダロウ――


「彼ら?」


 咲耶は改めて地上を捜した。


 森の周囲に赤色灯をつけた警察車両が並び、警察官やマスコミ、野次馬が右往左往していた。森を見物に来たと考えるには異常な緊張感が漂っている。


「あの人たち、何をしているのかしら?」


 ――家ノ下ニ異界ヘノ通路ガアル。さくノ家ガナクナリ、異界ノモノガ迷イデテイル――


「今、飛んできた洞窟ね。麒麟さんが家を動かしたからだわ。戻しましょうよ」


 そう提案し、東京に戻る口実ができたと思った。


 ――戻ルコトガデキルト考エタナ――


 麒麟が笑った、と感じた。


「だって……。警察に異界のモノを防ぐ力はあるの?」


 ――無――


「それなら……」


 ――我ガ黒龍を弱ラセ、地表ニ出タ物ヲ殺シタ。シバラクハオトナシクナル――


「また出てくるのでしょ。麒麟さんが家を動かしたから……。私たちに責任があるのよ」


 ――村ノ者タチガ神ヲ忘レカケテイタ。ソレヲ教エテヤッタノハ朔ダ。マシテコノ地ノ者タチハ、神モ異界ノモノモ恐レナクナッタ。時折、苦シムノガ良イ薬ダ――


 そう答えると、麒麟は風に溶けるようにして北へ飛んだ。

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