6章 神を継ぐ
第30話 感謝
――オー……、咲耶はミルクのような濃い霧の向こうから神を呼ぶ声を聞いた。魔母衣村に続く細道を下っているところだった。
「神を降ろしているのですね?」
前を歩く天具に声をかけた。
「ああ、咲耶さんを呼んでいるんだ」
「私を?」
「咲耶さんは大神になるわけだからな」
「私は、お葬式の手伝いをするだけですよ」
「同じことだ。人の生死を司るのは神のなせる業だ」
「ずっと、この村に残ったりしませんからね」
「ああ、わかっている」
その時、2人は霧の中から抜け出した。坂の下、咲耶の目の前に広がったのはLEDライトの海だった。細道に、畑に、村人が立って、ひとりひとり小さなライトを手にして祈っていた。咲耶は、黄泉の穴で殺された夜、意識を取り戻した天具の家の窓から見た景色を思い出した。
「おーい」
村人に向かって天具が懐中電灯を振った。咲耶は彼の後ろで足を止めた。その姿を認めた村人たちは、オーと呼ぶのを止め、神妙な顔でひざまずいた。
「これは、どういうことですか?」
「咲耶さんを歓迎しているのだ。前に来たときは客だったが、今日は神の後継者として
「そんなぁ、……無理です」
咲耶が躊躇していると、村長の法山がおもむろに立って、咲耶の前に歩み出た。
「大神咲耶さま、ようこそお戻りくださいました」
「……お葬式のお手伝いに来ました」
法山の意図がわからず、慎重に応じた。
「はい、ありがたいことです」
彼は振り返り、村人に向かって声を上げた。
「村の衆は帰って明日の葬儀に供えなさい」
村人たちが名残惜しそうな様子で立ち上がり、それぞれの家路についた。法山は咲耶に向き直った。
「大神さまは、こちらへ」
彼が先になって歩きだす。咲耶は天具に目を向け、彼が大丈夫だとうなずいたのを確認してから、後に続いた。
案内された先は大神が住む建物だった。村の中では比較的小さく質素なものだ。家の周囲には麻の畑が広がっている。
「ここが大神さまの住まいです」
法山は扉を開けて照明をつけた。入ったところが広い土間で、壁際には乾燥させた麻が積んであり、大小の甕や壺が並んでいる。一段上がったところは板の間で、大きな祭壇が目を引いた。傍らには文机があり、小さな書棚に書物が並んでいる。
「あのとおり、儀式に必要な
彼が書物を指した。
「お勉強?」
バカにされたような気がして訊きかえした。
「いや、大神さまを侮っているのではないのです。葬儀の祝詞は必要かと思いますのでなぁ。いや、麒麟さまのお許しがあるのなら、咲耶さま独自の祝詞でよろしいのですよ。遺体も11人と多いので、村始まっての集団葬となりますのでなぁ。
法山は咲耶に向かって
「さすが村長は卓越した政治家、論点が明確ですな」
天具が皮肉を込めて褒めた。
「ふん……」と法山は鼻を鳴らした。「……前の大神、いえ、前の前の大神のご遺体は、明日の葬儀会場に移動しましたので、安心して利用ください。天具、大神さまのお手伝いを、しっかり頼むぞ」
「はい、お任せください」
天具が仰々しい態度で法山が出ていくのを見送った。
「私、今晩はここに泊まるのですか?」
咲耶は板の間に上がって訊いた。寝室は見てないが、代々この村の聖職者が暮らしてきた家はとても質素で設備も古く、住み心地がよさそうには見えなかった。
「いや、ひとりで食事の準備までするのは大変だ。休むのは我が家にしよう。少し歩くことになるが。……ここでは葬儀の準備だけ、ということでいいだろう」
そう聞いて、咲耶はホッとして動いた。
「私は祝詞を読みあげればいいのですよね?」
小さな書棚の前で屈む。背表紙にタイトルがあるのは、出版社も記された普通の書籍だった。背表紙がないものは見るからに古く、表紙は布で出来ているようだった。
心が魅かれた古い本を手にとった。
「表向きはそうだが、読むだけではいけない。気持ちが大切だ。死者と残された者を
天具の話を聞きながらページをめくる。漢字ばかりが並んでいて読めない。別の本をとった。
「サイコパスの私に出来るでしょうか? それどころか、本の文字さえ読めません」
あえてサイコパスという言葉を使った。以前、魂が傷ついているからそんな傾向がある、と彼に言われたからだ。根に持っているわけではない。実際、自分の感情に負の部分が欠けている実感がある。
問題は、何の知識もない自分に大神という神主やシャーマンに似た役割を担えるのかどうか、ということだった。人間に共感できないなら、神に声を届けることなどできないのではないか?
「祓詞の文言なら、俺がだいたい覚えている。短いものだからな。ただ、村長が言っただろう。今回は特別な葬儀だ。死んだのが大勢なら、その原因の一部が麒麟にある。麒麟が無意味に殺したとは思えない。その気持ちを汲み、死者の魂と同時に、麒麟を慰める言葉でなければならないだろう」
天具の返事は、咲耶の不安など、意に介していないようだった。
「麒麟を慰める? 麒麟は加害者なのでしょう? それに人間でもない。そんなことをどうやって……」
「それを知っているのは、いや、理解しているのは、世界中で咲耶さんだけだと思うが……」
彼の目が、真っ直ぐ咲耶を見ていた。
「私?」
とんでもない!……胸の中で叫んだ。自分だって麒麟に襲われたのだ。あの時、大神の婆が死ななかったら、死んだのは自分だったかもしれない。
「村の女たちが言うには、麒麟は咲耶さんを守るために……。違うな。生き返らせるために現れたということだ。神像と守り刀を見ただろう? 理由はわからないが、間違いなく麒麟は咲耶さんの守護神だ」
――生き返らせる……。天具の言葉が、ストンと咲耶の胸に落ちた。
「守られている私が、守っている麒麟を慰めるの?」
「慰めるというのがピンとこないなら、感謝……。そう、感謝の気持ちだな。それを祝詞にしてはどうだ?」
「感謝……」
そう声にすると、父や母の顔が頭に浮かんだ。葬儀で慰める魂も、誰かの父や母だったと考えると、感謝の気持ちであの世に送ることができるかもしれない。
「麒麟には咲耶さん自身を守ってくれたことに対する感謝を、そしてこれからも守ってほしいという願いを述べる。死者には、産まれてこの方、この世に尽くしてくれたことへの感謝と、これからも村人といっしょに異界のモノたちから村を守ってほしいという願いを……」
天具も咲耶が考えたようなことを言った。
「それを祝詞にするの?」
「言葉にするのは、そのエッセンスでいい。心から感謝の気持ちを伝えたら、麒麟も死者も納得してくれるのではないかな?」
「そういうものなの?」
「おそらく……」
彼が首を傾げた。
真剣に考えているのか、ふざけているのか、頼りない。とはいえ深刻さが薄まった。それに伴い咲耶の毛羽立った心にもゆとりが生まれた。
「もう、頼りにならないわね」
「俺だって、大神じゃない。祝詞や祓詞で知っていることなど、うわっつらだけだ。主役は咲耶さんだ。自分の心に従って、思うように決めればいい」
天具が祭壇の前に座った。祭壇の中央には、卵ほどの大きさの金色の球があった。彼は両手を合わせて祈る仕草をすると、球を横にずらした。
「これが裁きの家で死んだ大神の懐にあった。何に使うものかわからないが、金でできているのは間違いない。真中に麒麟の神像を置いてくれないか」
咲耶は、リュックから神像を出して祭壇の中央に置いた。
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