第29話 赤い霧
マスコミが路上や上空から森を映すのに対して、内部を撮影しようと私有地に乗り込む若者が多かった。彼らはスマホやビデオカメラを手に、我先にと規制の解かれたt森に飛び込んでいった。
「バカな連中ね」
泰子は言いながら、スマホを手にして動画を検索した。森の中、いや、森そのものがどんなものなのか、とても興味があった。咲耶にまつわる5つの事件の謎を解くカギがあるかもしれない。
〝消えた邸宅〟〝一夜森〟〝突撃、謎の森〟など、動画サイトにはいくつかの動画がアップされていた。すべて生配信だ。
しかし、それらの中に泰子の好奇心を満足させるものはなかった。どれも侵入後、僅かに進んだだけで赤い霧に包まれ、動きが止まっていた。霧が晴れた後は、あるものは樹木を映し、あるものは空を、あるものは地面を映している。そうして一度止ると、映像はバッテリーが切れるまで静止画のような状態だった。
「何をしているのかしら? 眠っているの? つまらない動画ね」
文句を言いながら、聞き込みをして回るように次の動画、次の動画と、閲覧して回った。その機械的な作業が終わったころには日付が変わっていて、テーブルには空き缶が5本も並んでいた。
翌朝、テレビが新たなニュースを報じた。森に分け入った者たちが戻ってこないというものだった。その証拠に、彼らが乗って来た自転車やバイクが路上に置かれたままになっている。
ニュースを視た泰子はじっとしていられなかった。その日は休暇だったが、朝一番に出勤した。少年課には友昭の顔があった。
「お前、来たのか」
おはようの挨拶もなく、彼が言った。
「おはようございます。ニュースを視たから」
「ああ、失踪者が増えそうだ。あの森の中で何が起きている?」
「私が知るはずないでしょ。それを確認しないと……。捜索差し押さえ令状を取って、森の中を確認しましょう」
「土地の所有者の山上は、何もしちゃいない。何の名目で取る?」
「捜査対象者は撮影のために土地に入った連中よ。無断不法侵入、あるいは不退去罪、彼らが中に隠れているという理由で、どう?」
「強引だな」
「そうでもしなきゃ……」
泰子は動画サイトを開いて彼に突き付けた。新しい動画がアップされている。森の中を探検するといったものだけでなく、行方不明者を捜すといった動画がトレンドにあった。
「……ほら。ミイラ取りがミイラになるかもしれないのよ」
「仕方がないな。……で、俺たちだけでやるのか?」
「地域課の力も借りたいわね」
「そっちは、課長の努力次第だな」
友昭が苦笑を浮かべたその時、「任せておけ」と課長の声がした。
「課長!」
彼が急ぎ足でやって来た。
「あの森の件は私がやると、上に大見得を切ってしまったのでね」
課長は自分の席に着くと「ああ、それから……」と言って、自分の席に2人を呼んだ。
「岩井議員の娘の捜索は中止だ」
「家に帰ったのですか?」
友昭が訊いた。
どこかで保護されたのに違いない、と泰子は考えた。
「いや、政治判断だそうだ」
「どういうことです?」
「私にもわからないよ。上からの指示だ」
「どこかで保護されたのですよね? それなら、山上咲耶のことを聞きたいので、月子さんに会いたいです」
「だめだ」
保護されたのに会わせられないというのか?……そこから推理できるのは、月子が何らかの犯罪に関わっていて、それを隠したいということだろう。
泰子が口を開こうとすると、課長が手で制した。
「もういい。岩井のことも山上も、化け物のことも調べるな。形だけの継続捜査とする。それより、あの森に誰も入れないことだ」
「誰も入れないって……。課長、何か隠していますね。何を知っているんです?」
思わず詰問調になった。課長が目をつり上げた。
「私だって理由が知りたい。だが、上からの命令だ。令状を取るから、お前たちは侵入者を森から叩きだせ。今から入ろうとするやつは、何か理由をつけて現行犯逮捕してもかまわん。誰も、あの森に入れるな!」
とりつく島がないというのは正にこのことだ、と泰子は思った。
午前9時、すでに大気は熱を持ち、泰子の額には汗が浮いていた。道路には自転車とバイクを合わせて15台ほど並んでおり、それ以上の数の人間が小さな森の中にいると考えられた。
やるわよ。……胸の内で覚悟を言った。今から想定していた以上の、署をあげての大掛かりな捜索が始まるのだ。
統括指揮を執るのは署長で、現場の陣頭指揮は少年課課長だ。森の前の道路は交通課が封鎖し、少年課と地域課の混成部隊22名が森に入って侵入者を連れ出すという単純な計画だった。草刈鎌や枝切鋏を手にした署員が敷地の前に横一列に並び、いつでも出発できる状態だった。
泰子と友昭は毒ガス検知器とビデオカメラを手にしていた。2人が撮影した映像はリアルタイムで指揮車に送られる。毒ガス検知器は赤い霧対策だ。動画で見たそれが、何らかの毒性を持っているのではないかと想定していた。反応があれば、即座に撤退することにした。
「こんな小さな森の中で、何をしているのだろうな?」
友昭が樹木を見上げた。上空をマスコミのヘリコプターが飛んでいる。
「たった300坪だ。5分も歩けば反対側に出るだろう。それなのに、どうして戻ってこない?」
そう話す課長の顔は青ざめていた。現場の指揮を任され、緊張しているのだ。
「では、出発します」
泰子と友昭は敬礼すると、敷地の前に並んだ捜索部隊員の後ろに着いた。
「捜索開始!」
課長が拡声器を使って命令した。彼は指揮車に、捜索部隊は森に向かう。
樹木は高く、その足元には茨のような低木が生い茂っている。隊員たちは手にした鎌と枝切鋏で低木を刈りとってそれぞれの進路を確保した。
5分経ったが、十数メートルしか進んでいなかった。体感は、1時間も歩いたような疲労を覚えていた。
「5分だぞ。もう向こう側に出るんじゃなかったのか」
ビデオカメラを手にして茨の刈られた通路を歩く友昭が課長の発言を皮肉った。
「向こう側には出なかったわね」
泰子は同意し、何気なく振り返って驚いた。課長が乗った指揮車が見えるかと思ったが、すでに植物が成長していて視界をふさいでいる。
「三条さん、後ろ」
声をかけると彼が振り向き、泰子同様に目を丸くした。その顔に違和感を覚えた。普段、身だしなみに気を使っている彼の髭が異常に伸びている。
「なんて成長の速さだ。中に入った連中は、これで行き場を失ったのか?」
「どうかしら?」
前方に向きなおって目にしたのは、動画で見た赤い霧だった。
「霧に気を付けて!」
毒ガス検知器に異常は見られなかったが、泰子は念のために前方の署員に向かって声を掛けた。
「どう、気をつければいいのですか?」
前を行く署員から、笑い交じりの返事がある。その時だった。
『映像が来ないぞ』
無線機の向こうから課長の声がした。泰子はモニターに眼をやった。正常に動いているように見える。赤い霧が何らかの電波障害を起こすのかもしれないと思った。
「こちらは正常に動いています」
『なんだって? 聞こえないぞ』
「三条さん、無線通じる?」
「こちら三条、課長、聞こえますか?」
『三条、雪城、応答しろ』
「ダメだ。一方通行だな」
彼が首を横に振った。そんな彼の姿もうっすらと赤みを帯びた霧に包まれていく。
「雪城、ビデオの日付、おかしいぞ」
彼の声を聞いてモニターに眼をやった。表示されている日時が秒を刻むような速さで進んでいた。
壊れた? いや、友昭のビデオカメラも同じなら、壊れたんじゃない。そう確信するものの、時間表示が早く進む理由は見当がつかなかった。
『何があった?』
無線機から課長の声がする。
何処からともなく漂ってきた赤い霧が、前方を行く隊員をすっかり包んでいた。驚いて立ち止まる者、腰をぬかす者、後退する者……。その中のひとり、ふたりが草刈り鎌を振り上げた。彼らは仲間に向かって鎌を振り下ろし、あるいは枝切鋏を突き立てた。
――ギェー――
森の中のあちらこちらで短い悲鳴が上がる。
「何をしている、止めなさい!」
怒鳴った泰子は身体の自由を失っていた。ギン、と左腹に痛みが走った。誰も何もしていないのに、制服の上から鋭い何かで切り裂かれている。自由を失った泰子は傷口を見ることさえできない。
ドン、と何かがぶつかってくる。前を歩いていた隊員だった。右手を泰子の後頭部に置き、左手で胸を揉んでくる。キスをしようと近づける顔の目は血走り、狂気を帯びていた。
「止めなさい。この変態、強制わいせつで逮捕するぞ」
泰子の声に効果はなかった。唇が彼のそれでふさがれた。
ヤメテ!……音にならない絶叫。
突然、泰子を襲った署員が引きはがされた。友昭のどこにそんな力があったのか、投げ飛ばされた若い警察官は3メートルも飛んだ。別の署員が彼に襲い掛かった。
「ありがとう。助かった」
「いや……」そう言った友昭の表情が歪んだ。「……お前を殺すのは俺だ」
彼がのしかかり、泰子は棒切れのように倒れて頭を大木にぶつけた。眼を血走らせた友昭が跨り、両手を泰子ののどに掛けた。
止めて、……止めろ!……叫んでも声帯が動かず声にならない。
『何をしている? 応答しろ』
焦る課長の声が虚しく聞こえた。
死ぬ……、死ぬんだ……、死にたくない、三条の馬鹿野郎!……薄らぐ意識の中でそればかり考えていた。
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