第28話 キマイラ

 その日、泰子は夜勤だった。渋谷や新宿と違って、管轄内に大きな歓楽街のない署の少年課は平穏な夜が多い。が、深夜零時過ぎ、部署に関わらず署内の電話が一斉に鳴った。『化け物が飛んでいる!』そんな通報だった。


 酔っ払いが幻でも見たのだろう。電話を取った署員は、皆そう思った。


 同時に数十数百の酔っ払いが幻を見るだろうか?……泰子はそう考えて屋上に駆けあがった。すでに先客が数人いた。皆、夜空を見上げている。


「通報が多いのは、あっちの方角ですね」


 泰子は北の空を指した。


「雲が多くて見えませんねぇ」


 真剣に捜す者はそう言った。


「当たり前だ。化け物なんているはずがない。誰かが悪戯で飛ばしたドローンでも見たのだろう」


 理性的な者はそう応じた。


「でも顔は龍で、身体は亀だって……」


「羽が生えていたって聞きました」


 それぞれ、通報の内容を報告し合った。


「見てください!」


 その年、入署した職員がスマホを手にしていた。


 泰子は彼のスマホを覗いた。そこに映っているのはアップされたばかりの動画だった。


 全体が白っぽく見えるのは霧のようだった。その中を確かに何かが飛んでいた。それは半透明で、飛行機雲のように霧の糸を引きながら、同じ場所で旋回しているように見える。映像は徐々に飛行物体を拡大した。頭は龍、胴体は亀で尻尾は蛇、背中には翼のある生物のようだった。動画のタイトルは空飛ぶキマイラ。


「キマイラって?」


「ギリシャ神話に出てくる化け物だな。あれはライオンとヤギとヘビが合体したものだ」


 中年の署員が応じる。


「これ、よくできたCGじゃないか?」


 誰もがそう思った。


「他にもアップされていますよ」


 別の署員が指摘した。アップされた映像は複数あった。多くの市民が同じものを目撃し、同じものを撮影していたのだ。


「何らかの組織が3次元CGを作成し、角度の異なる動画を同時多発的にアップしたイベントじゃないか? 映画の宣伝とか」


 そう推理する者がいた。


「宣伝で通報までしますか? 偽計業務妨害、場合によっては公務執行妨害です。宣伝にしてはリスクが大きすぎますよ」


 化け物を発見できなかった署員たちは、推理を口にしながらそれぞれの部署に戻った。その頃には、化け物にまつわる通報はすっかりなくなっていた。代わりに交通事故の通報が山のように届いた。濃い霧で視界が利かず、車をぶつけたというものばかりだ。


 次の通報が多発したのは、東の空が白み始めたころだった。特定の地域から『家が消えて、森になった』『ガス漏れの匂いがする』『道路が水浸しだ』という通報が数件入った。急行した交番の警察官が通報の事実を確認。住宅が消失した周辺で水があふれ、ガスの匂いがするという。実際、水道局やガス会社が出動する事態になっていた。


「夜は化け物で、今度はガス漏れか……」


 泰子は欠伸あくびをしながら地域課の職員が走り回るさまを傍観ぼうかんしていた。ほどなく情報が共有され、ガス漏れがあったのは山上咲耶の家の周辺で、消えた住宅というのが彼女の家だと知った。ガス漏れも水漏れも、住宅が消えたことが原因らしい。泰子は、署を飛び出して咲耶の家に向かった。


「どういうことよ……」


 現場を目の当たりにして、そんな言葉が口をついた。


 周囲はガス、水道、下水といった工事業者でひしめき合っていて、その周囲をマスコミと野次馬が取り巻いていた。地域課の警察官たちが規制線を張り、必死に野次馬の侵入を防いでいる。すでにガスや水道は遮断されているのだろう。異臭はなく、道路の冠水も解消していた。


 電力と電話の工事業者は見当たらなかった。水道やガスほど緊急を要さないということだろう。電線が垂れ下がって揺れている。


 消失したのは山上比呂彦が所有する豪邸1軒だけで、住宅、車庫、日本庭園、物置、塀に至るまで、敷地内にあったはずのものがすっかりなくなっていた。代わりに、数えきれない樹木が林立する鬱蒼うっそうとした森を作っている。


 泰子はスマホを手にした。写真を撮り、それから咲耶に電話をかけた。相変わらず彼女の電話は不通だった。


「両親は、どこで何をしているのかしら……」


 西側の隣家が、夫が妻を殺した家で今は無人だった。泰子は東隣の家を訪ね、山上家の主人の所在を知らないか尋ねた。そこの住人は、山上夫婦を1年ほど見ていないという。道路向かいの家を訪ねてみても、答えは同じだった。


 山上咲耶はひとりで暮らしていたのかしら?……泰子は、やじ馬に混じって森と化した山上家を見つめた。


「夕べ、キマイラが飛んでいたのはこの辺りだよな」


 野次馬のひとりが話し、その妻らしい女性が訊いた。


「見たの?」


「見たよ。龍の顔にヘビの尻尾だぞ。おまけにでっかくて、ちびりそうだったぞ」


「本当はちびったんでしょ。遅くまで飲み歩いているからよ」


 彼女が笑った。


 あの化け物が住宅を消して景色を変えてしまったのか?……化け物でもなければそんなことはできないのに、疑問の域から踏み出せないのは、現実的な因果関係を重視する警察官の習性だった。


 泰子が署に戻ると課長が出勤していた。他の署員と住宅消失事件の話題に夢中になっている。


「よお、雪城。ちょっと来い!」


 呼ばれた泰子の気分が落ち込んだ。夜勤で身体がきついのに、また、岩井月子を発見できていないことを責められると思うからだ。


「おはようございます」


「大変だったな。化け物騒ぎや豪邸の消失事件で……」


 泰子が拍子抜けするほど課長の機嫌は良かった。


「住宅が消失した現地を確認してきました。岩井月子さんの友人の家なものですから」


「なんだと?」


 課長は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。


「実は……」


 泰子は、半月前の殺人事件、担任の失踪事件、月子と雅の失踪事件、そして化け物の目撃事件と今朝の住宅消失事件が、咲耶の周囲で起きている。その複数の事件に何らかの関連があるのではないかと疑問を持っている、と話した。


「その5件の事件が、関連しているというのか?」


「確信はありません。どれも全く異なる性格の事件に見えますから。でも、ひとりの人間の周囲で、半月ほどの間に5件もの事件が発生するでしょうか?」


「確かに、偶然というには重なりすぎているが……」


 課長が首をかしげた。


「ヨシ、三条!」


 頭を上げた課長は友昭を呼び、泰子と共に一連の事件解明を指示した。


「エッ!」


 泰子と友昭の声が重なった。


「それって、少年課の仕事ですか?」


「山上とかいう女子高生が関わっているのだろう? それなら少年課にとっても無縁じゃない。岩井議員の娘を捜すついでだ。やってみろ」


 彼はくるりと椅子を回して背中を向けた。彼がそうしたからには質問や反論は受け付けないということだ。


 泰子と友昭は眼を合わせて首を振った。


「どうするつもりだ? お前が余計な推理をぶつけるからだぞ」


 席に戻ると、友昭が不貞腐ふてくされた。


「私だって、課長があんなことを言い出すとは思わなかったわよ」


「で、どうするんだ。キマイラだの住宅の消失だの、オカルトの調査をするのか?」


「そっちは、それなりの機関がやってくれると思うわ。私は山上咲耶を追う。彼女が何かを知っていると思うのよ」


「そうかもしれないけど、どうやるつもりだ?」


「とりあえず、彼女の両親や友人を捜して話を聞く」


「その程度のことならやってもいいだろう。俺が学校から名簿を取り寄せてやるよ」


「私、夜勤明けだから、明日は休みだし……。明後日から聞き込みに回るわ。それまでよろしく」


 泰子は、「なんだよ」と友昭が文句を言う声を背中で聞いて署を後にした。


 アパートに戻ってひと眠りする。目覚めた時、空は紫色に代わっていた。夜勤だったとはいえ、一日を損した気がする。すぐにテレビをつけた。あの現場がどうなっているか気になった。


 ビールとつまみ、テレビのリモコンを並べてテレビに見入る。


 どの局のニュースでも、あの場所が映った。ガスや水道の復旧工事は終わっていて、交通規制も解かれていた。森が私有地ということで、マスコミは道路上やヘリコプターから森に変わった住宅地を撮影し、時には森になる前の状況を、古い衛星写真を使って説明していた。300坪という森は小さなものだが、東京の住宅地としては贅沢な広さといえる。それを金額に換算したならいくらになるのだろう?……泰子は真剣に考える気持ちになれなかった。考えたら惨めになりそうだ。


 スタジオでは、物理学者や植物学者、オカルトの専門家と称する者たちが並んでそれぞれの見解を述べていた。……建物がどうして消えたのか? 樹木がどうしてあれほどの速さで成長したのか? 建物は消えたのではなく森にのみこまれたのではないか?……様々な推論が述べられたが、納得できる説明はひとつもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る