第23話 祈り

 ――オー……――


 窓の外から神を降ろす声が聞こえる。


「オオガミ?」


 自分とそう年齢も違わない女性の澄ました顔が脳裏を過り、反射的に身体を起こした。


「オー」「オー」


 高い声、低い声、太い声、幼い声……。様々な声が重なって荘厳そうごんで魅惑的な、かつ威圧的な音になっていた。


 大神のやつ、今度は何を企んでいる?……リュックを取り、中から神像を取りだし、守り刀と共に握りしめた。


 窓際に立ち、カーテンの隙間から外を覗いて驚いた。庭から道路に至るまで、数十人の村人が十重二重になって家を取り囲んでいる。


 彼らが一様に「オー」と神を呼んでいた。比古造の葬儀で見た顔もあれば、川遊びをしていた子供の顔もあった。驚いたことに、富貴と鈴子、睦夫の顔もある。そこに天具の顔を見つけた時には更に驚いた。彼も富貴らの仲間だったのだ。孤立無援、四面楚歌……。そんな言葉が頭を過った。


 洞窟の外でも四神が出るのかしら?……神像を胸に抱きしめて、空を見上げた。夕闇が迫る空にそれらしき輝きはなかったが、赤みがかった雲が漂う空は、とても怪しい景色に見えた。


「オー」声は続く。


 いつまで続けるつもりだろう?……その声に慣れて椅子に不注意に座り、背中に痛みを感じた。


 彼らは夜を待っているのかもしれない。暗闇の中でしか、四神は動けないのかも……。とにかく、逃げなければ……。咲耶は推理し、妄想し、脱出方法を考えた。


「咲耶、慌てないで」


 頭の真ん中で明心の声がした。


「お母さん……」


「咲耶は麒麟に守られているのよ。落ち着いてその声を聞きなさい」


「どうやって聞くの?」


 その問いに対して母親は答えなかった。


「お母さん!」


 何度も母を呼んだが返事はない。


 麒麟の声……。そう教えられても、その聞き方がわからない。とりあえず麒麟の形に変わった神像を机に置いて手を合わせた。その像は、葬儀の場で見た荒れ狂う姿ではなく、何かをじっと考えているような、あるいは眠っているような姿に見える。


「麒麟さま。声を聞かせてください。私を助けてください」


 両手を合わせて祈ると、夜を前に深い霧が出て世界を暗くした。それは咲耶がいる屋内も同じだった。目の前の神像さえも白い闇の中に溶けたようだ。それがどこかに行ってしまわないように慌てて両手で握った。


「オー」声は続く。


 家の中に霧が出ることなどあるのだろうか?……考えると頭痛を覚えた。まるで時空が歪み、脳がねじ切られるような感覚だ。それだけの苦痛を経験したところで麒麟の声は聞こえなかった。


 祈るだけじゃダメなんだ。……贄とか供物とか、祝詞といった言葉が浮かんだが、今の自分にはどうしようもないこともわかっている。


 ふと気づけば、「オー」と神を呼ぶ声も絶えていて、咲耶は乳白色の静寂の中に沈んでいた。


「エッ?」


 驚きのあまりに、のどを声が突いて出た。


 突然、座っていた椅子が消えた。小学校の頃、友だちが座ろうとした椅子を引いて悪戯をしたように、支えを失った身体はドスンと床に落ちて後ろに倒れた。


 ――ガツン……、後頭部を壁に打ち付ける。


「イタッ!」


 身体を丸めて後頭部を押さえ、しばらく耐えた。驚きのあまりに心臓がバグバグいっている。


 串刺しにされたり、頭を打ったり、最悪の日だ。……たとえ胸の内でも、ぼやくと落ち着いた。ところが、顔を上げて飛び込んできた景色に再び驚いた。使い慣れた学習机、花柄のベッドカバー、小学高入学前から大切にしてきたぬいぐるみ……。そこは石上家の客間ではなく、紛れもない東京の自分の部屋だった。


「どうして?」


 咲耶には理解できなかった。


「瞬間移動……、とでもいったら良いのかしら? きっと麒麟が助けてくれたのね。良かったじゃない」


 突然現れた明心は、いつものように朗らかだった。


「わけがわからないわ。瞬間移動だなんて。魔法なの?」


「お母さんの村の言い伝えでは、麒麟は四神の能力を兼ね備えているというの。だから朱雀の時空を歪める力も持っている。きっと、その力を使って咲耶をここへ送り届けてくれたのよ」


 明心の説明を聞きながら、咲耶は落ちていた守り刀とリュックを拾った。リュックは机に置き、守り刀を抜いて刀身の彫り物を確かめた。


「確かに麒麟ね」


 明心が言った。


「そうなの? お母さんは、麒麟の姿を見たことがあるの?」


「まさか。本物がどんなだかなんて知らないわよ。なんだかギリシャ神話のキマイラみたいだし……」


 そう言うとクククと喉で笑った。


「……でも、いいのよ。私たちが、それが麒麟だと決めれば麒麟なのよ。他に知っている人はいないわけだから」


「お母さんは、相変わらずいい加減ね」


「あなたは、いい加減な女の娘なのよ」


 ククク、とまた笑う。


「さあ、お腹が空いたでしょ。夕食にしましょう。さっさと食べないと、お肉がくさっちゃうわ」


「そうね。お母さんには、もっともっと教えてほしいことがあるのよ」


 母娘は階段を下りてキッチンへ向かった。


 咲耶は肉を焼きながら、行方不明になっている雅と月子のことをどうすべきか相談した。


「そうねー?」


 明心は少し考え、警察に届けるべきだろうと言った。彼女らが生きているか死んでいるかはともかく、この世から消えてしまったという事実を明確にすべきだという。


「お母さんの言うとおりね。明日、警察に届けるわ」


「それが良いわね。地元の警察に届けていらっしゃい」


 母親の意見に心を強くした。


 その晩、久しぶりに自分のベッドで熟睡した。天井にはいつものように眼と耳が並んでドット柄を作った。それらの瞳には、安堵と期待、怒りと不安の色が浮かんでいたが、咲耶がそれに気づくことはなかった。

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