第20話 後悔
二柱の贄を捧げて帰宅した潤女は、神棚に神像を戻して感謝の祈りを捧げた。ついでに目を飛ばして咲耶の寝室を覗く。彼女はスヤスヤと寝ていた。とはいえ、幸せそうではなかった。眠りの中でも友人の命が尽きたことを感じ取っているのかもしれない。
普段着に着替えて土間に下りた。そこは刈り取った麻から実を分けたり、大幣や注連縄を作ったりする作業場だ。壁際には様々な道具や材料が並んでいる。
壁に掛けて干してある麻の中から手ごろなものを選んだ。真夜中ではあるが、眠れそうにないので新神のための大幣を作ろうと思った。もっとも、新神を誰にするか、まだ決めていない。自分より若く霊力の強い者を選ぶことになるわけだが、まだ18歳の潤女にとって、それを選び育てるのは骨の折れる仕事になるだろう。
石造りの作業台の前に掛け、麻の茎を置いて
――トン、トン、トン、トン――
たたいていると、涙がツーと頬を伝う。
「たたいた麻の茎が鳴るのではないぞ。鳴るのは、台の石と木製の槌がぶつかるからよ。それは目に留まる主役と、周囲で生じる現象は異なるということじゃ」そう、婆が教えてくれたのを思い出す。ならば頬を伝う涙は、婆のものだ。考えると、咲耶に対する憎しみが倍加した。
――トン、トン、トン、トン――
大幣を作るのも、新神を選ぶのも、伝統を守るためには通らなければならない道だ。それで自分もそうしている。いや、今、伝統を引き継ぐべく横槌を振るっているのは婆だ。
婆、私は誰に伝統を引き継げばいい?……引き継ぐとしたら12歳前後の子供だが、自分とあまりにも年齢が近い。それでは、どちらが先に逝くかわからない。
「あと5年、婆が生きていてくれたら……」
――ドン――
振り下ろす腕に思わぬ力が入った。
いや、と思い返す。婆はもっと早く後継者を選ぶべきだったのだ。そうすれば、自分が大神になることなどなかっただろう。別の誰かが大神になり、自分はまだ新神だったに違いない。
横槌は重く、大幣を作るほどの大量の繊維を取るのは簡単ではなかった。そうしたことを婆が自分のためにしてくれたことを思い返すと、新神を決めることが遅かったことや、麒麟への贄が少なかったことを、彼女の怠慢やうっかりミスと考えるのはやるせなかった。
「わかっているのです。婆は優しく、誰かに責任を負わせることに躊躇いがあったのでしょう……」
ようやく大幣を作るのに必要な量の繊維を作り上げたとき、夜は明けて障子が輝いていた。普段なら朝食を作る時刻だが、食欲がなくて止めた。
潤女は遺体の前に腰を下ろして祈った。
「婆、力を貸してください」
気弱になっているのを自覚した。やはり、麒麟との縁が遠のいているのは痛い。
『オモイカネと麒麟の契約が切れたのだよ』
耳の底で婆の声がした。
「契約……。どういうことです?」
『1万年前、魔母衣村を開いたオモイカネが麒麟とした契約には期限があった。1万年という……、それに婆が気づくのが遅かった』
「その契約、結び直せないのですか?」
『すでに新たな契約が成立しているようじゃ。魔母衣村に機会が訪れるのは1万年後よ。それまでは四神を頼って村を守るのじゃ。……麒麟は人の生死さえも操るという。その力、失うのは惜しかったのう』
「大神家の守護神はどうなります?」
『四神、すべてが守り神よ。案ずることはない』
「婆さまも私を守ってくれるのですね」
『残念だが、契約により、我の魂は麒麟に食われることになっておる。ヤチヨよ。お主は自身の力で未来を切り開くのじゃ』
ヤチヨは5年前、潤女が新神になる前の名前だった。その名を聞いて、潤女は本来の少女に戻った。眼がしらに涙が浮いた。
『泣くでない。お主は立派な大神じゃ。婆にはできなかったことを、すでに成し遂げた。しかし、ヤチヨよ。咲耶には気をつけるのじゃ。あの者の母親もまた、異界にふたをする者に違いない』
明心がどうやって比呂彦と出会ったのかは知らなかったが、彼女がチベットの山奥の出身だということを潤女も知っていた。新神となってから、婆に命じられて母娘の行動に気を配っていて、その行動が常人のものでないと理解していた。
「はい、心してかかります」
『取り込めぬのなら、大和へ帰すという手もある』
「それはありません……」潤女は即答して目を開けた。「……婆さまをこのような目にあわせたのですから」
目の前の遺体は、穏やかな死者のものではなかった。
『いや、そもそも婆が仕掛けたことじゃ。その結果がこれよ。誰も恨まぬ。何も望まぬ。……婆は十分生きた。これはこれで婆の定めなのじゃ。悔いがあるとするなら、お主の行く末を見届けることができぬことだけじゃ』
その時、潤女は、婆の飛び出した目玉が笑ったような気がした。
「私を試しておられるのですか?」
『いいや。素直な思いじゃ。ようやく婆は百年の拘束から解き放たれる。これが笑わずにおられようか……』
「安心しました。ゆっくり休みなさいませ」
潤女は遺体に向かって両手を合わせた。彼女が幸せに逝けるよう、自分の不安は心の奥底に封じ込めようと決めた。
潤女は婆の前で石のように動かなかった。いつの間にか太陽が高くなり、影が短く濃くなっていた。
『大神さま』
頭の中心で女性の声がした。
「鳳のトミか……」
障子窓をあけた。目の前には青々とした麻の畑が広がっている。そよ風に揺れる緑の葉に勇気づけられた。風は屋内をも流れすぎ、室内に籠っていた生臭さを運び去った。
『はい。山上咲耶が訪ねてまいりました』
「遅かったな」
一瞬、帰す手もある、といった婆の言葉を思い出した。
『はい』
「支度を整え、裁きの家に連れてまいれ」
潤女は麒麟の神像の前に移り、それを静かに拝んだ。それから鳳家を除く11家の家長たちに召集の命を発し、濃い霧を呼んだ。青い麻の畑もミルクの闇に沈んだ。その景色に心休まるものを覚え、障子窓を閉めた。
麻の実を皮袋に詰め、水が入らないようにしっかりと紐でくくった。ギューッと紐を引き絞ると覚悟も決まる。婆が作ってくれた大幣を握り表に出た。
裁きの家の片隅で、潤女と11家の者たちは鳳家のトヨとトミが咲耶を連れてくるのを待った。異界のモノが集まっていたが、大神を恐れて襲ってくることはなかった。彼らは雅と月子のもとに向かった。
ほどなくヒタヒタという音がした。それが徐々に近づいてくる。トミが持つ懐中電灯の明かりが揺れると、天井のコウモリが飛んだ。驚いた咲耶の息遣いが聞こえた。
「魔物?」
ささやくような声がする。
「コウモリよ」
「ああ、あれが……」
――ジャリ……、と彼女らの歩む音がした。
「あれはお友達じゃないわよ」
トヨの声が地下の巨大な空間に反響した。
――ジャリ……、3人が近づいてくる。……ヤチヨよ。咲耶には気をつけるのじゃ。あの者の母親もまた、異界にふたをする者に違いない……、婆の忠告を思い出す。ゴクンと喉が鳴った。
「あの柱にあるのが、ひと月前のものだと思うけど……」
再びコウモリが飛んだ。
「他家の神像を盗もうとした男だよ」
「誰がこんなことを……」
我よ!……潤女は、胸の内で声を上げた。武者震いを覚えていた。自分が怯えているとは考えたくなかった。
「決まっているだろう。神様だよ」
トミが言った。
「魔物が……」
「妖よ。ずいぶん沢山いるね」
「あれの魂は食い尽くされたのかもしれないね」
「雅と月子は?」
「ここは裁きの家……。彼らは罪を犯した者たちだよ。咲耶さんの友達は、どうなのだろうねぇ」
3人の表情が見えた。
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