第18話 贄(にえ)
――ジャリ、ジャリ……。咲耶に近づく老婆たちの足音。その瞳は魔物のようだった。
逃げよう。そう思うのを
決断できずにいる間に、咲耶は完全に包囲されていた。トヨの持つ白虎の神像が目の前にある。
「媛蛇虜よ。この者の手足を、舌を縛れ」
その声を聞いた途端、咲耶の手足が硬直した。
金縛り?……天具が媛蛇虜は金縛りを起こす妖だと話していたのを思い出した。彼女らは、妖を打ち払うのも、従えるのも自由自在なのか?……新たな事実に抵抗する気力を失った。
ヒムカが前に出て咲耶の帯を解く。
止めて!……咲耶は叫んだが、声帯が音を作ることはなかった。
白衣をはぎ取られるのに時間はかからなかった。静寂の中、下着が切り裂かれる音がした。
「柱を持て、火を焚け」
氷のような声がして、カラカラカラと音をたてて杭が引きずられてくる。目の前に薪がつまれて火がつけられた。パチパチと火が
咲耶は背後から押されて前のめりに倒れた。かろうじて両手をついて四つん這いになった。
――ヒヒヒヒヒ……、それは老婆たちの笑いか、魔物の声か……。
老婆らの多くの手が咲耶の背中を押さえ、そのいくつかが彼女の臀部を左右に開いた。そのひとつは富貴のものだったが、咲耶には見えなかった。
咲耶は股間に杭の先端が触れるのを感じた。態勢は夢で見たものと異なるが、老婆たちが杭を突き刺そうとしているのはわかった。石上家の部屋に置いてきた神像が脳裏に浮かんだ。あれを持ち歩いていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。ひどく後悔した。
「オー……」
神を呼ぶ声に、葬儀の日の惨劇を思い出した。が、生きたまま身体に杭を突き刺されることに比べれば、麒麟の爪で腹を切り裂かれたり押しつぶされたりする方がマシだと思った。
「かけまくもかしこきタカムスビノカミ、スクナビコナノカミ、クズノカミよ。我らが贄を納めたまえ……」
洞窟内に若い女性の声がした。新たに大神となった、かつての新神のものだ。彼女は麒麟の神像を手にしていた。
大神と女性たちの祈る低い声がブツブツと裁きの家に広がった。
ひとりの老婆が咲耶の髪を後ろに引っ張る。
嫌だ。助けて!……咲耶はそう叫んでいたが、声帯は媛蛇虜に固められていた。
老婆にされるがまま、髪をひかれた咲耶の顔が正面を向いた。
「良かろう。納めませい」
新たな大神が命じた。
「エィ……」
老婆の声がする。
――ズン……、咲耶は感じた。体内に杭が押し込まれる圧力と痛み、そして怒りと絶望が一気に炸裂した虚無を……。
杭の先端が喉を突き破り口から現れる。
すでに肉体に痛みはなかった。感覚が麻痺したのか、死んだのか、それはわからない。周囲の妖気が強まったのはわかった。咲耶の魂を食いに来た魔物たちのものだ。
「神々よ、この世に迷える異界のモノを滅せよ!」
大神が大幣を高く掲げて叫んだ。すると老婆たちの手に、あるいは懐にあった12の神像が明滅して、12体の黄金色の雲状のものが現れた。それは朱雀、青龍、白虎、玄武の形を作ると異界のモノを襲った。そうして逃げ惑う哀れなモノたちはことごとく四神の餌食になった。
異界のモノたちを平らげた四神は、それぞれの像の中に消える。それを待って、大神が静かに動いた。
「柱をここへ」
ジャリジャリと骨を踏んで歩いた大神が足元を指した。そこには深い穴が開いている。
咲耶の身体を押さえていた女性たちが、物体と化した咲耶を運び、大神の指示した穴に杭を立てた。咲耶のカッと見開いた両眼が虚空を見上げた。
なんて無様な格好だろう。……咲耶は他人事のように考えた。こんな風に死ぬとは考えてもみなかった、とぼんやり生きてきた自分を笑った。
『サク、助けて』
聞いたのは雅の声だった。
『サク、あなたのせいよ』
恨めしい声は月子のものだ。
『そうよ。私のせい……。ごめんなさい』
魂が言葉を交わした。
『サク、助けて』
『私もあなたたちと同じなのよ。見ればわかるでしょ?』
『あなたは違うわ』
それは母、明心の声だった。
『そうだ。咲耶は違う』
それは父、比呂彦の声だ。
『絶望を知った咲耶は無敵なのよ。あなたには麒麟がついている』
無敵? 麒麟?……母がおかしなことを言うと思った。絶望など、そこら中に転がっている。
『咲耶がそれを経験したのは初めてだろう?』
父親の声を聞き、確かにそうだと思った。これまで何を見ても何を失っても感情が動くことは少なかった。絶望など論外だ。
『問題は、絶望にのまれるのか? そこに安住するのか? それと戦うのか? ということだ』
『お父さん、難しいことを言わないで』
『考えろ。神と共に……。贄はそろった』
『贄? 神? そんなもの……』
自分には関係ない。それどころか、贄は私自身なのよ!……反発を声にしようとしたところで間違いに気づいた。自分は麒麟を見ている。四神を感じている。
『助けて!』
再び友人の声を聞いた。刹那、咲耶の意識が途絶えた。
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