第9話 豊かな村
谷間の村に朝日がさすのは遅かった。咲耶が眼を覚ました時、スマホの時刻表示は9時を少し過ぎていた。右上隅に〝圏外〟の文字が冷たく光っている。
「ヤバイ、寝坊した」
着替えて飛び出すと、雅や月子も出てきたところだった。
「寝坊したの?」
「咲耶も?」
「雅も?」
3人は顔を見合わせて笑った。
「良かったー」
声が重なった。
1階に下りると天具はすでに出かけていた。葬儀の準備だという。富貴と彼の夫、睦夫が咲耶たちの朝食を出してくれた。睦夫は筋肉隆々のプロレスラーのような男性で、少ない仲間と穴の中で金を掘っているのだと話した。
3人は、昨夜、富貴に金製のアクセサリーをもらったと伝えて礼を言った。
「そうか、思い出になるといいな」
彼の態度は、無骨というのがふさわしい。態度は荒いが、優しさがにじみだしていた。
「金は沢山、採れるの?」
雅が訊いた。
「そうよ。たくさん採れるのよ。そうでなかったら、こんな村、みんなが出て行ってしまうでしょ」
富貴がフフフと笑った。
「しかし、金を掘るのは命懸けだぞ。落盤もあるし妖も現れる」
「そうなの?」
雅は真剣だった。昨日、天具に異界のモノの話を聞いていたが、信じていなかったようだ。
「おお、はっきりは見えないが、赤い霧の用のぼんやりわかる。仕事の邪魔をしてくるのだ」
「どうやって?」
「火を噴きつけてきたり、怠け心を起こさせたり、仲間内での嫉妬を焚きつけたりする。それらと戦いながら穴を掘るわけだ」
「危ないから、兄と一緒に行ってほしいのだけど……」
コーヒーを淹れながら富貴が言った。
「ひとりの方が安全だ。あいつらは人の心を動かして、人間同士を戦わせようとするからな」
「とはいってもね……」
富貴が顔をしかめた。
「私も葬式の手伝いに行った方がいいのではないでしょうか?」
咲耶は訊いた。外の世界に住んでいるとはいえ、比古造の直系の子孫にあたるのなら、そうすべきだと思った。
「いやいや……」睦夫が首を横に振る。「……その必要があるなら、天具の兄が言ってくるはずだ。そうする必要がない印に、あんたの分も喪服を預かっている。式に顔を出せばいいということだ。そんな心配をするより、あと2時間ほどしかないが、村の中を3人で散歩でもして来たらどうだ」
「これこれ、喪服」
富貴が白喪服を咲耶の前に運んできた。
「昨日、山上家にいた人たちが来ていたものですね」
「浴衣と似たようなものだから、着るのは簡単でしょ」
なるほど、と思いながら、咲耶は礼を言って受け取った。
「私と月子は?」
雅が訊いた。
「葬儀に参列できるのは、青龍を守護神としている人たちと、各家の家長だけなのよ。2人は私たちと留守番ね。儀式は獄国門まで往復するから夕方までかかるのよ。留守番で正解だわ」
富貴が雅と月子に説明し、それから咲耶に視線を戻した。
「葬儀が真夏なのは良かったわね。
「禊ですか……」
咲耶は、言葉は知っていたが、それの具体的なイメージがなかった。
「葬儀の時刻まで、川に下りてみると良い。美味い水が飲めるぞ」
「うん、行ってみよう!」
睦夫の話を聞くと、つまらなそうにしていた雅が跳ねた。
村は緑豊かだった。いや、緑しかなかった。大樹に草花、木々の間を飛ぶ鳥に花々を巡る蝶、カッコウやモズが澄んだ声で鳴いているかと思えば、蝉の声は騒々しい。梢を揺らす風の音を追えば、高い空が眩しかった。人工的なものがあるとすれば散在する家々の屋根の上で回る小さな風車の音ばかり……。3人の額に汗が浮いていた。
小道を下ると清流があって子供たちの声がした。小学生ぐらいだろう、男子も女子も全裸で遊んでいる。「ヤダ……」と雅が声を上げたが、彼らのつるりとした身体から眼を逸らすことはなかった。
「田舎なのね」
咲耶は思ったままを言った。
「自然と調和している……、いえ、人間も自然の一部だと思い知らされるわ。みんながこんな暮らしをしていたら、地球の温暖化なんて心配する必要がなかったのかもしれない」
月子が優等生らしい話をした。
「私はヤダな。電波が届かないから、ゲームはできないし動画も見られない」
雅がスマホで写真を撮った。
「本当に異界の魔物や妖なんているのかしら……」
「昔の人は、理屈で説明できないことを神様や精霊や悪霊のせいにしたのよね?」
雅が流れに頭を出した石に飛び乗り、手を水に浸すとすくって飲んだ。
「みやびは、電波が届かないからここの人たちを非文明人と決めつけているのね」
月子と咲耶も石に飛び移った。
「だってぇ、……石上さんの話では、この村の人たちは人類を
雅が言うのはもっともだと咲耶も思った。自室の天井に現れる妖しいものがいるのは間違いないけれど、それは人に危害を加えない虫のようなものだと思うし、艶邪虜と教えられたものと接触した記憶もない。
「サクは戦ったのでしょ? どうなの?」
月子に問われ、自分はわからないと応じた。実際、そんな記憶はなかった。
「そうなんだ……」
彼女は水をすくって飲むと、美味しいと声にした。
「もしかしたら、河童がいるわよ」
3人は靴を脱ぎ、手に持って浅瀬を歩いた。子供たちが遊んでいるのとは反対の川上に向かって……。
どれほど歩いても川もそれを取り巻く緑の風景も変わることがなかった。水の中を泳ぐのは河童ではなく魚で、大きなトンボが3人の目の前をかすめていった。稀に、木々の向こうに住宅が見え、流れの強そうな深みに円筒状の水車が沈んでいて、そこから黒いケーブルが村に向かって伸びていた。
「ここは自然と人工物の比率が、都会と逆ね」
咲耶が感じたことを月子が言った。
川の中を歩くのは30分が限界だった。水の冷たさで足がヒリヒリしてくる。3人は流れから出て、川辺の巨石に座って脚を乾かした。
「立派な石だね」
雅は自分たちが上った巨石から川面を覗く。
「
「ツキ、磐座って、なぁに?」
「神様が降りてくる場所よ」
「へー、月子は何でも知っているのね。さすが優等生」
咲耶は感心した。
「歴史の本に出てくるのよ」
「ふーん」
雅が鼻を鳴らすように感心し、靴を履いて「帰ろう」と言った。
スマホを見ると、富貴の家を出てから1時間ほど過ぎていた。それは情報機器としては役立たないが、時計とカメラとしては十分に機能していた。
「……だね。ギリギリだわ」
咲耶と月子も慌てて靴を履く。
家に帰ると白喪服姿の天具が迎えに来ていた。
「遅刻したら祟られるぞ。神像と守り刀を忘れるなよ」
そう急かされ、白喪服に着替える。タオルでくるんだ神像と守り刀を懐に入れた。
履物は
「バイバイ」
「それじゃ、夕方にね」
雅と月子に見送られ、山上家に向かった。道は上り坂のうえに太陽に照らされていて、昨夜、石上家に向かう時のように楽ではなかった。儀式が半日も続くかと思うと気も重い。藁草履のゴワゴワした紐が肌にすれてヒリヒリする。
途中から、白喪服を着た人々が合流した。みな、山上家に向かうのだ。そのたびに咲耶は緊張を覚えて懐の神像を押さえたが、彼らは咲耶をチラッとも見なかった。まるで昔からそこに住んでいる者のように、あるいは空気のように、当然のごとく受けいれられているようだった。
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