第8話 初めての夜

 天具の家は坂道を10分ほど下った川のせせらぎの聞こえる場所にあった。そのたった10分が、足が鉛のように重くて、家の前に着いた時には、咲耶は心底ほっとした。月子と雅も同じようで、全身から汗を吹き、肩で息をしていた。


 山上家に比べれば敷地は狭かったが、建物は洋館風の近代建築で、玄関といくつかの窓から明かりが漏れていた。屋根の上でふたつの風車がカラカラ回っている。


「おお、立派な家だ」


 雅が声を上げた。


「俺と妹夫婦で住んでいる家だ。年寄りはいないから気楽だろう」


 咲耶は天具の配慮が嬉しかった。


「これ、金じゃない?」


 玄関の前に立った時、月子がドアノブに注目した。腰を曲げ、その重厚感のある作りを観察する。


「その通り、18金だ。よくわかったな」


 そっけなく言った天具が、それを握ってドアを開けた。


 まるで天具が帰ってくると知っていたように、玄関で幼い少女が待ち受けていた。彼の顔を見ると満面の笑みを浮かべ、三和土に下りて彼の足に抱き着いた。


「テングゥ、おかえり!」


 回らない口で言った。


「鈴子、いい子にしていたか?」


「うん」


「石上さんのお子さんですか?」


 月子が訊いた。


「いや、姪っ子だ。まあ、入って」


 彼は鈴子を抱き上げると下駄を脱いだ。


 咲耶たちは遠慮せず上がった。そこは、まるで住宅展示場のような内装の整った家で、樹木の香りがした。咲耶は照明器具の豪華さに驚いていた。ドアノブだけでなく、それらも金色の装飾が施されている。それが本物の金ならば、相当高価なものだろう。


 リビングには誰もいなかった。ダイニングの照明は消えていて、その奥のキッチンから光が漏れていた。


「お帰りぃ」


 若い女性の声がする。


「ああ、客が3人だ。お茶を入れてくれ。睦夫は?」


「あら……」


 キッチンから女性が顔を見せた。


「……いらっしゃい。あなたが咲耶さんね。妹の富貴ふきです」


 彼女は咲耶に向かって微笑んだ後、村が田舎なので驚いただろうと月子と雅に向かって話した。


「お世話になります」


 3人の声がそろった。


 富貴はおもむろに天具に向いた。


睦夫むつおは、まだ穴の中よ」


「働き者だな」


 話ながら彼は、座れ、というようにソファーを指し、自分も壁の掛け時計に眼をやってから腰を下ろした。時計の針は、まもなく午後9時を指そうとしていた。


「朝方まで、戻らないと思うわ」


「ひとりでいるんだろう? 危ないな……」


「そう思うなら、お兄さんも手伝って」


「山上家の葬儀が終わるまでは無理だ。第一、それほど働いてどうするつもりだ? 何か欲しい物でもあるのか?」


「お客様に訊かせることではありませんよ」


 富貴はぷいっと顔をそむけてキッチンに姿を消した。鈴子が天具の膝を下りて母親のもとに行った。


「艶邪虜と怪異門のことだったな」


「あ、はい……」


 天具が切り出すと月子と雅の瞳に好奇心が瞬いた。咲耶のそれには不安が混じっている。


「この世やあの世というとき、あの世は死後に魂が行く黄泉の国だ」


「天国や地獄ということよね」


 雅が確認する。


「天国や地獄というのは、宗教上の考え方だ。現世で良いことをすれば天国や極楽といった安楽の世界に行けて、悪いことをすると地獄で苦しみを味わう。この村での死後の世界は違う。……死後、多くの人の魂は黄泉の国へ行く。この世とあの世、それをつなぐのが怪異門だ。冥界門めいかいもん神鬼門しんきもん獄国門ごくこくもんと記された研究書もある。この村はその門の上にあって、異界のモノがこちらの世界に来るのを押しとどめる役割を担っている。門はいくつかあって、世界中に点在している。そこには、この村と同じようなものがあるはずだ。まだ見つかっていない門もあるかもしれない……」


 咲耶たちは、彼の話に度肝を抜かれ、言葉を失っていた。


「……そうしたこともあってか、時折、妖と呼ばれる異界のモノがこの世に入り込む。わかっているモノのひとつが艶邪虜だ。人間を性欲の魔物に変える。他に、邪悪な鳥の使い燕邪吏えんじゃり、これはカマイタチと呼ばれることが多い。嫉妬の炎をかきたてる炎邪虜えんじゃろ、金縛りを引き起こす蛇娘の媛蛇虜えんじゃるといったモノがいる。まぁ、呼び方で区別する機会はめったにない。……それらはこの世で人の魂に食らいつき、人間に罪を行わせ、やがて魂そのものを食い尽くす」


 彼は〝艶邪虜〟〝燕邪吏〟〝媛蛇虜〟と異界の物の種類をノートに書いた。雅と月子が蒼い顔をしていた。


「魂を食べられたら、どうなるのですか?」


 月子が訊いた。


「死ぬ」


「それじゃ、サクは……」


 月子と雅の瞳が咲耶に向いた。恐怖と同情を湛えて……。咲耶は別のものに思いをはせていた。田尻先生だ。彼の中にも艶邪虜がいたのではないか? それから沢山の眼と耳だ。それらも艶邪虜に似た異界のモノではないか?


「咲耶さんの場合は少し違う。この村の者の血を引いているからだろう。おそらく、艶邪虜を滅した。自覚があるかどうか知らないが……」


 彼の目が咲耶の瞳の奥を探るように見ていた。


「それで生きているのね」


 月子と雅の瞳から恐怖が消えた。


「しかし、魂は傷ついただろう。一部は欠損したかもしれない」


 傷?……咲耶はその痕跡を探す。


「そうしたら、どうなるんです?」


「感情的に普通でなくなる。サイコパスのようなものだ」


「私がサイコパス……」


 そう考えると、遺体を平然と解体したことにも納得がいった。


「キャ、怖い」


 雅はそう口では言ったが、眼は笑っていた。


「サイコパスにも良いところはあるのよ」


 月子が言った。


「最後にひとつ……」天具が人差し指を立てる。「……夜となく昼となく、村は深い霧におおわれることがある。その時は家を出ないでほしい。外にいる時に霧が出たら、その場を動かないこと。どんなに長くても、30分以上霧におおわれることはない。霧が晴れるのを待って家に戻れ。まあ、注意してほしいのは、そんなところだ」


 立ち上がろうとする天具を咲耶は止めた。


「黄泉の国に人の魂を食べるモノがいるなら、死んだおじいさんの魂は……」


「あ、食べられちゃうの?」


 雅が素っ頓狂な声を上げる。


「いや、この村の者は違う。伝承では、その昔、村を造ったオモイカネがスクナビコナと契約した。死後の魂は黄泉の国に送るが、門を守る者のそれは、村に留まると。……魂は子孫と一体化し、異界のモノを封じる強力な魂に成長する」


 彼の視線を受けて、咲耶の心臓がドキンと鳴った。


「うわ、ずるい」


 相変わらず雅は反射的だった。


「どうして?」と、月子。


「だって、私と月子の魂は、死んだら食べられちゃうのよ。この村の人は食べられないなんて、ずるいじゃない」


「なるほど。それはそうね」


「死後、人間の魂に消滅する恐怖があると思うかい?」


 天具の眼が笑っている。


 咲耶たちは首を傾げた。


「感情は肉体があってこそのものだ。村に留まった魂は子孫の肉体の中で再び喜怒哀楽に向き合わなければならない。それを幸福と捉えるか、不幸と捉えるか、それは魂次第だろう」


「お兄さん、あまり脅かしちゃいけないわよ」


 富貴がトレーに紅茶と手作りのシフォンケーキを載せてきた。フォークやスプーンは銀製だが、金の花の飾りが施されている。


「ごめんなさいね。兄は、若い女性を脅かすのが趣味なのよ。自分が持てないものだから」


 彼女はクククとのどを鳴らして笑った。


「大丈夫です。私たち、そういうの、慣れていますから」


 雅が親しげに応じた。


「素敵な食器ですね。スプーンとフォークの花のデザインもおしゃれです」


 咲耶は話題を変えた。


「そう? ありがとう。私のデザインなのよ」


「へー、すごい!」


 雅がケーキをもぐもぐしながらフォークをながめた。


「いろいろなところで金が多用されているのですね」


「主人が金を掘っているからよ」


「穴の中にいるというのは、そういうことなのですね」


 金の採掘という仕事のことはよくわからないが、なんとなく納得した。


「この村の重要な産業なのよ。穴の中にいるから、夜になったのも気づかないのね。疲れるまで帰らないの」


 そんな話をしながら、彼女は鈴子がこぼしたケーキのくずを拾い集めた。


「良いお母さんね」


 月子が咲耶に話した。それが富貴の耳にも届いたらしい。彼女は気をよくした。


「そうだ! 良いものあげるわね」


 彼女は飾り棚から小箱を取り出した。中にはイヤリングや指輪といったアクセサリーが並んでいる。


「ほっそりしたあなたには、これが似合うと思うわ」


 彼女は月子の耳に大きな三日月が揺れるイヤリングをつけた。


「これは、あなたに……」


 金色のバラの花の飾りがついた指輪を、雅の右手の薬指にはめてやる。


「こんな高価そうなもの……」


「ありがとうございます」


 月子は戸惑い、雅は無邪気に喜んでアクセサリーを受け取った。


「私が作ったものだから下手くそだけど、純金なのよ。大事にしてね」


「いただけないです。ねえー」


 月子は雅に同意を求めたが、彼女はきょとんとしていた。


「もらっておけばいい。この村では、その程度のものは子供のオモチャだ」


 天具が言う。


 金が子供のオモチャ?……咲耶の脳裏を祖父が残した遺産のイメージががよぎる。金の延べ棒の山だ。


「お兄さん、ひどいわね」


 富貴が笑った。


 そんな風なので、月子はそれをもらうことにして礼を言った。


「咲耶さんにはこれを。山上家の守り神よ」


 富貴はデフォルメされた太陽をあしらったイヤリングを手にしていた。拒む理由はなく、喜んで受け取った。


「さあ、部屋に案内しよう。汗を流してからゆっくり休むといい」


 天具が立った。


 2階の個室は子供部屋として作ったものだろう。ベッドや机、クローゼットが備わっていた。テレビや電話はなく、自給自足的な生活に見えながら、天具の家族の暮らしは咲耶の家のそれとあまり違わないように見えた。やはり金を採掘して得る収入は少なくないようだ。荷物を部屋に置いて風呂に移動する。


 洗面所も風呂場も広く清潔なものだった。


 咲耶たちは一緒に風呂に入った。裸を見せ合うのは恥ずかしかったが、5分もせずに慣れた。月子は少年のように脂肪がなくスリムで、雅は童顔に似合わない豊かな胸をしていた。その乳房の下に小さな乳首のようなものが一対あった。「副乳っていうらしいわ」彼女が屈託のない笑みを作ったのが印象的だった。


「疲れたわね」「旅行疲れ?」「遺体のせいかしら?」「あの煙かな?」「霧?」「線香よ」


 湯船につかり、あれこれ推理した。


 そんな疲れがあって、修学旅行のように集まって話す気力はなかった。汗を流すとそれぞれの部屋に入った。


 咲耶はふわふわのベッドに身体を投げ出した。ひとりになったからか、とても落ち着いた気分になった。すると、聞いたばかりの黄泉の国や妖のことを思い出した。


 窓から流れ込む風は冷たいほどでエアコンなどいらなかった。そもそも、部屋にエアコンはなかった。冷たい風が流れ込む窓から妖が入り込んでくるのではないか?……想像すると不安になった。窓を閉めてみる。すると、すぐに暑苦しさを感じた。少しだけ窓を開け、明かりを消す。カーテンの隙間から射す月明かりが闇を切り裂いた。


 村に妖が出るなら、ここにも眼や耳の大群も現れるかもしれない。そう考えて暗い天井をいつまでも見ていた。しかし、目玉も耳も現れなかった。


 妖を恐れているからか、エアコンのない静寂に馴染なじめないのか、疲れているはずなのに寝付けなかった。


 もうひとつ寝付けない心当たりがあった。魔母衣村の人たちが、初対面の自分のことをあれこれと知っているという謎だ。もちろん、その疑問に答える仮説はあった。父か母が、村人たちと連絡を取っている可能性だ。


 思い切ってカーテンを開けた。月は傾き、街灯のない空は星々で埋まっていた。ベッドに寝転がってもそれが見えた。とてもロマンチック……、そんな風に思いながら星の数を数えた。そうしているうちに眠りに落ちた。

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