第4話 呪
山上家には、骨を断つ電動鋸も砕く粉砕機もそろっていた。それらを使えば遺体の処理は簡単だった。
咲耶は作業に入る前に全裸になった。正確には、爪の間に血液が入るのを避けるためにビニール手袋をかけ、掃除用のプラスチック製の靴を履いた。そんな怪しげな格好になって
肉は肉、骨は骨と分別する。几帳面な性格だからではなく、その後の工程や素材の利用方法を考えると、そうするのがベストなのだ。内臓は洗濯用ネットに入れて血液もリンパ液も精液も……、水分は絞り出して洗い流し、塊はビニール袋に詰めた。そうした作業は3度目で、前にやったときより手際が良くなっているのが自分でもわかった。とはいえ、真夏の風呂場でやることだ。蒸し暑さと血と糞尿の嫌な臭いで吐きそうだった。
「浴室も漂白剤できれいにするのよ。お風呂に入るのが、嫌になっちゃうでしょ」
明心の声が不気味に響いた。
「こうなることがわかっていたの?」
土曜日と日曜日、用事があると母に言われていた。それが遺体処理のことだと気づいて訊いた。
「まあね」
明心があっけらかんと応じた。
「お母さんの予知能力、すごいわね」
「予知能力なんかじゃないわよ。麒麟が教えてくれるの」
「麒麟だなんて、嘘ばっかり」
咲耶は麒麟など信じなかった。
「噓じゃないのよ。麒麟はあなたを守ってくれるの」
「それならストーカーのこともわかるでしょ?」
「それはわからなかったわ」
明心が薄く笑った。
ストーカーはわからないのかぁ。……そんなことを考えながら、ひたすら単純作業を続ける。グォーンという電動器具のモーター音と、ジャリジャリジャリという骨の砕ける音が一晩続いた。
最後に汚された身体を洗う。眠らずにつづけた作業と血生臭さのおかげで身体はだるく気分も悪かったが、髪をシャンプーすると少しだけすっきりした。その後、太陽の明かりを浴びたのは良かった。セミが鳴きだす頃には、咲耶の肉体はすっかり犯される前の清潔なものに戻っていた。
「少し休むといいわよ」
明心に言われて裸のまま部屋に戻った。エアコンが付けたままの部屋の空気は乾燥していてとても気持ちがいい。ガラス越しに太陽の前に全裸をさらして日光を満喫した。
ふと、迂闊な自分に気づくことがある。ヤバイ! ストーカーに見られているかもしれない。……慌ててカーテンを閉めなおした。
ストーカーを忘れているなんて、やっぱり疲れているのだ。そう分析してベッドに倒れ込んだ。
眼を閉じると、相変わらず視線を感じた。遺体を解体して神経が
天井をびっしりうめる目玉が視界に飛び込んだ。
眼の大群は一斉に瞬きし、耳の大群は飛び立つ蝶の羽のように揺らめいた。彼らは何かを恥じたように、ざわざわと部屋の隅に移動して姿を消した。おそらく異次元の世界にでも行ったのだろう。
彼らに比べれば、排除した教師は害のある存在だった。そう考えると手を血で染めた罪悪感が薄まった。
「あとはストーカーだ」
殺意を口にする。それをあの耳たちに聞かれたかもしれないと思い至り、口を閉じた。
いつの間にか眠りに落ちていた。深い闇の中を泳ぐように漂った。
メッセージの着信音で目覚めた。送り主は雅で、月子とドン・キ〇ーテで大人のオモチャを買ったというものだった。
【良かったわね】
返信すると、〖買ったのは私なのよ〗と月子が送ってきた。私服にメイクをしても、雅は大人には見えなかったらしい。それで月子が買ってやったということだった。子供っぽい私服姿の雅と、買ったばかりの卵型の大人のオモチャの写真が送られてくる。オモチャは咲耶が持っているものとよく似ていた。
〖本当はナニの形をしたのが欲しかったのよ〗
率直な雅のメッセージで、咲耶は田尻先生のものを思い出した。切り取ったそれをどの袋に入れただろう? そのままの形で保管することはできただろうか?……そんなことを考えながらベッドを抜け出して下着を身に着けた。
〖昨日、拷問は乗り切った?〗
雅の問いに少し胸が痛んだ。考えてみれば自分も先生も被害者だと思った。
【痛かったわ】
精神的にも肉体的にもそうだった。
〖ご愁傷様、(-人-)〗
【みやびは、見つからないように気をつけてね】
クローゼットを開け、黒っぽいトレーナーとジーンズを選んだ。
〖学校には持っていかないよ〗
【そっか、使うの?】
〖検討中。ツキは使ってるんだって、意外でしょ?〗
【そうだね】
そう返したが、全然意外ではなかった。便利な道具があるなら使わないほうがおかしいと思う。
〖用事は済んだの? 済んだのならカラオケ、行く?〗
月子からだった。カーテンを開けると、西に傾いた太陽が隣の家の屋根に乗っているように見えた。ほどなく庭に闇がやって来る。そうしたら次の儀式をしなければならない。
【まだなのよ。今日は無理だな】
〖了解、月曜、学校でね〗
それでメッセージのやり取りは終わった。
咲耶は空腹を覚えてリビングに下りた。そこは昨夜の惨劇などなかったように整然としていた。
洗面所に入ると教師の体液で汚れた衣類をゴミ袋に入れた。それから顔を洗い、ダイニングに戻って母と夕食を食べた。
「ぐっすり寝られた?」
「ええ、とても疲れたから」
「それは良かったわ」
スプーンに映った母がゆがんでいた。
闇が深くなってから、咲耶はビニール袋をひとつ持って庭に出た。大きさはスイカほどだが、その重さはスイカの比ではない。10キロほどはあるだろうか、両手で持ち上げるのがやっとだ。
「頑張りなさい」
明心が楽しそうに言った。
三日月の美しい夜だった。池の中ほどにも同じものが浮かんでいた。三つのガーデンライトが庭全体を淡く照らしている。エアコンの室外機の音が方々でしていた。
池をぐるりと囲んでいる岩の上に袋を降ろす。鯉やメダカは休んでいるのだろうか? 水辺に屈んで水底を覗き込む。何も見えないとわかっていても、そうせざるを得ない気持ちがあった。
「お父さん、今頃どこにいるかしら?」
水面に映る月を見ながら声を潜めて訊いた。とても懐かしい気持ちだ。
「さあ……、モンゴルの草原か、中東の砂漠あたりじゃないかしら……」
明心が冗談を言い、クククと笑った。
「お母さん、どうして頭蓋骨は砕かないの?」
「そこには魂が宿っているからよ。砕いたら悪霊になるの。魂はね、自然に戻すことで、また、普通の人間になって生まれ変わる。摂理というやつね」
「ふーん」
理屈はわからないけれど、母がそう言うのなら間違いないだろうと思った。
「さあ、済ませてしまいましょう」
母に促されて立ち上がると、ビニール袋の中から荷物を取り出した。打ち首にされた落ち武者のような教師の頭だ。月明かりの下で、口や目から流れ出した血液は固まりかけていて黒く見えた。生きているときには暴力的で怖かった教師の顔が、物と化した今になって、威厳のある精霊かなにかのように感じた。
髪の毛を両手で握り、軽く反動をつけて池の中に放り投げた。
――ドブン――
静寂の闇に水音がした。それは意外に大きく、湿度の高い世界に、波紋のように広がって消えた。その後も水面の月だけは揺れていた。
隣の家の2階の窓に灯りがついた。その家には60代の夫婦が住んでいる。そちらに目をやると窓が開いた。人影がある。逆光で顔は見えないが、頭の影が大きいので隣のおばさんだろうと思った。彼女は、いかにもおばさんといったパーマをかけているのだ。咲耶は視線を水面に戻した。
「なにかあったの?」
彼女の声が遠くでした。
「なにもありません」
声が届いたかどうかわからない。それ以上、話しかけられるのが嫌で屋内に戻った。
「面倒な人に見られたわね。隣の奥さん、うわさ好きなのよ。でも、誰も信じていない。……針小棒大。小さなことを何百倍にもふくらまして話すから。それに物忘れも激しいし……。だから大丈夫よ」
明心が慰めるように話した。
「ストーカーに見られなかったかしら?」
別の不安が脳裏に浮かんだ。
「大丈夫よ。万が一見られていたら……」
母が言おうとしていることは、咲耶が考えていることと同じだった。
翌日は、涼しい早朝から庭に出て木の根元に穴を掘り、肥料代わりに砕いた骨を埋めた。砕いた骨というと白い粉を思い浮かべるだろうけれど、生の余韻を残すそれは瑞々しい骨髄を含んでいてペースト状だ。生き物の強烈な臭いはツンと鼻を突いた。
木陰にあるトリカブトの花壇の周囲にもそれを少し分けて埋めた。秋には美しい青い花をつけるだろう。
「終わった……」
立ち上がると、フーっと長い息を吐いた。朝とはいえ、7月の気温は高い。咲耶は全身が汗ばんでいるのを感じた。
スコップを片づけに向かう時、人の視線を感じた。認めたのはストーカーのそれではなく隣家のおばさんのものだ。昨夜と同じ窓からこちらを見ていた。咲耶は会釈を送り、物置にスコップを片付けて玄関に回った。
ポストから新聞を取るときには少しだけドキドキした。またストーカーからの手紙が届いているかもしれないからだ。今度届くときには、一昨日のことが書かれているかもしれない。母は大丈夫だといったけれど、まだ、ストーカーが誰かさえわかっていないのだ。母はどうやって問題を解決するつもりなのだろう?
その日も翌日もポストに入っていたのは新聞だけだった。ほっと安堵の息をついた。
咲耶は自分と田尻先生の衣類や鞄、ふたつの大人のオモチャをゴミ収集所に出して登校した。
「おはよう!」
学校に着いた咲耶を雅と月子が満面の笑みで迎えた。
「みやび、楽しそうね。アレ、使ったんでしょ?」
「どうしてわかるの?」
雅が目を丸くした。
「目の周りに隈ができているもの」
咲耶の冗談を真に受け、雅は両手で顔を覆った。
「ヤダァ、本当? どうしよう……」
「みやび、お子ちゃまだと思っていたら、感じやすいのよ」
月子が言うので咲耶は驚いた。
「2人でやったの?」
「買い物の後で、カラオケに寄ってね」
月子と雅は目配せし、照れたように頰を染めた。
「そうなんだ……」
咲耶も頰が熱くなるのを感じた。同時に、嫉妬と仲間外れにされたような悔しさが胸の中で渦巻いて息苦しさを覚えた。
朝礼にやって来たのは副担任だった。「田尻先生がお休みなので……」彼女は何事もなかったように挨拶し、出席を取った。生徒たちも担任の欠勤に疑問を持つことなどなかった。
帰宅すると、家の周囲に赤色灯を点滅させたパトロールカーが数台止まっていて驚いた。朝、捨てたものが誰かの目に留まってしまったのではないか?……規制線の前で足がすくんだ。
「どうかしましたか?」
制服姿の警察官に声をかけられ、覚悟を決めた。
「あの、そこの家に入りたいんですけど……。私の家です」
自宅の門を差した。
「ああ、それならどうぞ。驚いちゃったよね。犯人は捕まったから、安心して」
警察官は怯えた少女の気持ちを解きほぐすように優しく言って、黄色のテープを持ち上げてくれた。
事件は隣家で起きていた。門を開けようとしたとき、隣の家から数人の男性が出てきた。その中心にいる初老の男性に見覚えがあった。隣の家の主だ。周囲を取り巻くスーツ姿の男性は刑事だろう。初めて見る屈強な刑事たちの姿に、思わず足が止まった。
「私は殺してない」
隣家の主の声が聞こえた。見れば、その両手に手錠がかけられていた。遠目にも、手が赤黒く汚れているのがわかった。血液に違いない。
彼が警察車両に押し込められる。車が動き出し、目の前を通り過ぎる。それを見送りながら、彼が殺したのは妻に違いないと思った。昨夜、2階の窓から咲耶を見下ろしていたあのおばさんだ。
「ねえ、心配なかったでしょ」
明心の声がする。
「まさか、お母さんが……」
近くに警察官がいるので、言葉をのんだ。
「安心して、お母さんじゃないから」
声を聞きながら門を開けて中に入った。
「まさか、お父さん?」
「どうかしらね」
彼女の声が遠ざかった。
燐家の殺人事件は、ノイローゼの初老の夫が妻を刺し殺した、と簡単に報じられただけで世間の耳目を集めることはなかった。一方、教師、田尻幸利の失踪は生徒の中で話題になった。彼がいなくなって悲しむ者や喪失感を覚える生徒はなかったが、推理小説の犯人探しをするように、彼の失踪理由を推理、議論した。
「あいつ性格が悪いから、職員室の中でも浮いていたらしいわよ」
「3年生の誰かを妊娠させて逃げたんだって、先輩に聞いたわ」
月子と雅がそんな話をした。
「でも……」月子が瞳を光らせる。「……サクのオモチャを取り上げたから呪われたのだと思うわ」
「ヤダァ、怖い」
雅が咲耶に抱き着いた。
「呪だなんて……」
咲耶は苦笑するしかなった。
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