カイユボット---印象派を応援した画家

九月ソナタ

カイユボット

柊圭介さんの「犬とオオカミの間」という佳作エッセイがあり、昨日のコメント返しに、「カイユボット、今オルセーで特別展をやってて予約困難だそうです」とありました。

あのオルセーで、カイユボットの特別展、それも満員なのだと知って、

ああ、カイユボットさんがこのことを知ったら、どんなにか感無量なことでしょうとこちらが感激しました。


いいえ、彼は自分の絵は売っていませんでしたから、その絵が展示されることを喜んでいるということではありません。オルセーという美術館ができて、印象派の人々の絵がこんなに好かれるようになった、という意味です。


これでは何を言っているのかわかりませんよね。

私は前に美術ブログをやっていて、その時にカイユボットについて書いたことがありますので、それをアップしてみます。

☆のところには写真がはいっています。ここでは写真は載せられませんので、そこはググるか、想像でお願いします。


ーーーーーー


リージョン・オブ・オーナー美術館の奥の部屋は、印象派の画家達の絵が中心で、正面にはいつもモネの絵が五点、飾られています。時には貸し出されたりして、四点の時もありますが。

ところが、先日、訪ねてみると、五枚はあったのですが、真ん中の絵は見たことがないものでした。


新しいモネ?

そう思って近づいてみたら、

ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)の作品、「セーヌ川のひまわり」、1885-86年でした。

おお、カイユボットが「トリだわ」と愉快な気持ちになりました。

私、カイユボットが好きなんですよね。


さて、カイユボットの名前は知らなくても、下の絵は見たことがあるのではないかと思います。

「パリの街角、雨」、1877年、

私達がかつてイメージしていたバリって、こんな感じではなかったですか。私はそうでした。

実際にパリに行ってみると庶民の町だと気がつくのですが。


この絵が描かれて時はオスマン市長によるバリ大改造の後で、建物も道路も新しく、雨に光っています。この通りを歩いている人々は、ほとんどがブルジョア階級、金持ちそうです。


カイユボットはコレクターとしては有名でしたが、画家としてはそれほど知られていませんでした。まず、絵が売られていなかったです。彼が集中して絵を描いていたのが10年ほどで、45歳で急死してしまい、その絵は家族が所有していましたから。1950年頃になって、ようやく家族が絵を手放し始め、1965年に、上の「パリの街角」をシカゴ美術館〈Art Institute of Chicago〉が購入しました。

そのあたりからです、特に注目され出したのは。


私は夫が病気治療のため、九カ月もシカゴにシカゴに滞在していたことがありまして、その時に、この絵は何度何度も見ました。


この絵は大きくて、

212x276cmもあります。これは美術館内の写真です。

ウスター夫妻の贈与になっています。実際には、夫妻はモネやルノワールなどの絵は贈りましたが、このカイユボットの一点については、夫妻からの寄付金を使って、美術館が購買したということです。


シカゴ美術館がこの絵を買ったことがきっかけになり、カイユボットの絵が再評価されるようになりました。

私は以前、「ヨーロッパ橋」をご紹介しました。

☆ 

1877年作、ジュネーブの美術館蔵。

パリのサン・ラザール駅の構内へ続く「ヨーロッパ橋」の上、

三人の男性が見られます。ひとりは、橋に手をついて眺めている絵描き〈かな〉、もうひとりは駅に向って歩いている労働者、もうひとりは山高帽をかぶり、高価なコートを着ている上流階級の男。この上流階級の男はカイユボット自身がモデルだろうと言われています。つれの女性についてはいくつかの説があり、高級娼婦が声をかけているところだとか、女友達で、彼が彼女を置き去ろうとしているなど。いろいろと考える人がいるものです。


当時、画家はこの駅やヨーロッパ橋を題材にして描きました。マネもモネも描きました。特に、モネには連作があります。どちらも、煙の描き方にインパクトがあります。

下のはモネの作で、制作はカイユボットの作と同年、1877年です。

カイユボットの「ヨーロッパ橋」には煙は少し見えるものの、汽車はなく、彼は人物を描こうとしています。

絵の中心は画家で、彼は下がどうなっているのだろうと覗き込んでいるのですが、ひとり、自分の世界にいますよね。

哀愁が漂っています。


さて、パリにはルーブル美術館の斜め向いに、オルセー美術館があります。昔、鉄道駅だった建物です。

オルセーのほうは開館が1986年12月、

美術館の中心になっているのがモネやルノワールなどの印象派の名画ですが、その多くがカイユボットの寄贈なので、

彼は「オルセー美術館を作った男」と言われています。





カイユボット〈1848-1894)はパリの特別に裕福な家の長男として生まれました。

当時住んでいた家は八区「エリゼ地区」で、日本大使館もあります。

父親がパリ大改造の後、モウソー公園の近くに土地を買い、タウンハウスを建てたのでした。タウンハウスといってもお屋敷で、現在は元大統領のサルコジが住んでいるということです。

住所で検索したら、簡単に写真が手にはいりました。


この建物全部が彼の住まいでした。

他にも、郊外に広大な土地と別荘があります。どうしてそんなにお金があったのか、小さなことが気になる私が調べてみたところ、父親はナポレオン戦争の時、衣類や毛布などを売って、大儲けしたのでした。ナポレオン戦争〈1803-1815)といえば一昔前ですが、父親は二度、妻を亡くしていて、ギュスターヴは三番目の妻の長男、老いてからの子供でした。そういうこともあり、特別に寵愛されたのかもしれません。

ギュスターヴは父親と同じく法律学校に行きますが、卒業した後、国立美術学校にはいります。その頃、父親が亡くなり、彼は膨大な財産を受け取ります。

その頃、制作したのが、

「床削り職人」、1875年、

増築した彼のアトリエの床を削っている労働者を描いたものです。


この絵は今オルセーにありますが、1875年のサロンに出して、落選しました。

当時、この展覧会に出品した作品は全部で3862点で、落選したのが290点で、彼の絵は「悪趣味」とさんざんでした。

今では傑作だと言われる作品ですが、当時は題材が問題だったようです。

ちなみに、サロンに入選した絵は、このポスターからうかがい知ることがきます。

古典的なテーマでなければならなかったようです。


それで、彼は学校にいくのをやめて、モネやルノワール、ドガなど印象派の人達と付き合うようになり、その美術展の費用を出し、自分でも出展しました。また彼らの作品を積極的に買い取り、経済的に支援をしたのです。

どんな絵でも買い取ったわけではなく、彼の眼で選ばれた一級品ばかり。


また彼が次の十年間に描いた絵はたくさんあり、

「バルコニーの男」、1876年、


「ピアノを弾く男」、1876年、ブリジストン美術館蔵、

彼には弟がふたりいて、この二枚は両方とも弟がモデルだと言われています。


「通り」、1880年、

彼の窓からは、こんな景色が見えたのでしょうね。好きな作品です。


彼の描いたものは印象派の人々が描かないテーマや視点ですよね。彼らはまだ、経済的に豊かな生活はしていませんでしたから。しかし、カイユボットはこういう題材は、上階級の人々を美術展に惹き寄せるのではないかと考えたのではないかと思います。彼は印象派の未来を信じていて、印象派を、世間に紹介したかった人なのでした。

1980半ばになると、印象派の絵は売れ始め、これまで古典派の絵しか扱わなかった画廊の中には、印象派の絵を扱い始めたところもありました。

そのあたりでカイユボットはパリのアトリエで大作を描くのをやめて、郊外に移り住みました。

もう自分の役目はほぼ終わったと思ったのでしょうか。

郊外のイェールという村で、庭造り、ボート作り、ボート競技などを楽しんでいましたが、庭造りの最中に、四十五で亡くなりました。その別荘は今では、町に寄付されて、公園になっています。


彼は若い頃から、絵画コレクションの行き先については、しっかりと遺書を作っていました。絵画はすべてフランス政府に贈呈すると書かれてあり、執行人は弟と、友人のルノワールでした。


内容はピサロ〈19作品〉、モネ(14) 、ルノワール(10) 、シスレー(9) 、ドガ(7) 、セザンヌ(5) 、マネ(4)の絵が、合計六十八枚もありました。

しかし、贈呈には条件をつけました。

絵画はすべてルクセンブルグ宮殿で公開の後、ルーヴル美術館に贈る〈当時はまだオルセー美術館はない〉というものです。彼は印象派をルーヴルに届け、人々に見てもらうことが、自分の最大の役目だと任じていたようです。

しかし、政府はこの贈呈を喜ばず、ルノワールが交渉した結果、政府はようやく三十八枚だけを受け入れ、残りは拒否したのです。

この三十八枚の絵は、今はオルセーの核になっています。


政府が受け入れを拒んだ理由については、印象派がまだ世に受け入れられていなかったからということになっていますが、そんなことはありません。印象派の人気が高くっていっていたからこそ、まだ画壇の中心だった古典派の大御所達が圧迫をかけたのでしょう。自分達の絵が売れなくなるから、印象派の絵がルーヴルに展示されることを止めなければならなかったのです。


残りの絵については、カイユボットの家族は1904年と1908年の二回にわたり政府と交渉しましたが、政府は受け入れを拒否。1928年になって、印象派の人気が絶対的なものになった時、今度はぜひほしいと言ってきたのです。しかし、その時には家族が拒否し、その作品は売却されました。

家族が何度も交渉したのは、遺書には政府に寄贈せよと書かれていた場合、何度か試みなくては、家族は自分の勝手にはできない、という法律があるのだと思います。その二十数枚はカイユボットが心配したとおり、多くが個人蔵になり、一般の我々は見るこどかできません。


前回の冒頭で、カイユボットの絵がモネの作品をはさまれて、壁の中央に飾られていると書きました。

彼の印象派への貢献度を考えると、なるほどと思います。


              了




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