星人の夜 (後編)
その日からイラーナ姫は離宮の奥深くに引き籠もり、時折書状をもって王に神託を授けるようになった。わずかな供の者も姫に直接顔を合わせることはなく、扉を隔てて声を聞くのみであったという。離宮は禁足の神殿と化したのだ。
王命をもって人々の口を塞ぐまでもなく姫の存在は王宮最大の禁忌として誰の口にも上らなかった。
呼んではならぬ。触れてはならぬ。神の声はただ気まぐれに降り落ちるのみ。
それが人々の選んだ答であった。
今、数年ぶりに対面した父と娘の異様な光景にイムリは息を詰めて見入っていた。
剛胆な王の声もいくらか震えているようであった。
「姫よ、使者を介さぬとは珍しいな」
「今宵は特別なのです。遠来の客を迎えねばなりませんから」
「客? このような深夜にか」
「私も星人の問いについて確かめたいことがあるのです」
息を呑む王に異形の姫は告げた。
「もうそろそろです。今王宮の上に光り物が現れました」
反射的に上へ走った視線を戻すと既に姫の姿はなかった。
いや、それどころかそこは見慣れた王の間でさえなかった。ウダイ三世の周囲は闇に包まれ、己が立っているのか倒れているのかさえ判然としない。自分が身じろぎした感覚はあったものの、手で顔に触れることも足下を探る足そのものも見えない。
膨れ上がる恐怖に「誰か」と叫んだつもりだったが声は聞こえなかった。彼は今、身体を失い思考する心だけが虚空に漂っているのだった。
その時、何者かが彼の腕に触れた。
そのことで「腕」に存在感が生まれ、思わず顔に触れたことで「顔」の存在を確認した。頭、肩、胴体、そして四肢。彼はついに五体の存在を取り戻し、
気がつくと闇の中だというのにイムリの姿が傍らにあるのが見えた。
「イムリ、おまえ……」
「気がついたか。私もたった今おぬしが見えるようになったところだ」
「イムリよ、これはいったい」
「わからぬ、瞬きするほどの間にこうなっていた」
二人は互いに虚空の闇の中に立つ友の姿を見やった。最前まで王の間で語り合っていたそのままの姿である。ここがどこなのか、自分たちがどうなったのか、疑問は渦巻いていたが変わらぬ互いの姿が心強かった。
周囲の光景も変わり始めていた。
闇の中にも濃淡が生まれ、急流となるもの、渦を巻くもの、凝集するものなど様々な動きが生まれ、ぶつかり合って光を発するものまで生まれた。
はじけた光は無数の光点と化して闇の動きと絡み合いながら全周囲に拡散していった。
「イムリよ、なんと見る」
「さて、私には星空そのもののようにも見えるな」
「天文学者たちのいう宇宙というあれか」
「うむ、このように壮大なものとは思わなかったが……見よ、多くの星が渦を巻いておる。なんと美しい」
しばらくすると二人は自分たちもまた動いていることに気がついた。どこへ向かっているのかは不明だが光とも闇ともつかぬ幕のようなものをひとつくぐる度に周囲の星々は大きく様相を変えた。
星々だけではない、いつしか彼らの傍らを見たこともないなにかの幻が閃きすぎていく。
人の姿をしたものもあれば砂漠の蜥蜴に見えるものも、岩そのものとしか思えないのにそれが生き物だとわかるものまであった。
それらは王にもイムリにもまるで無縁のもののはずだったが、なぜか遠い既視感が心をよぎった。
「イムリよ、うまくはいえぬがあれらには見覚えがあるような」
「私もだ、どこかで出会ったことがあるような気がする」
自分たちは何を見ているのだろう——二人がそう思った時、声が聞こえた。
——第十七層ノ航行記録ヲ復元中。完了マデ三十、二十九、二十八……——
「今のは」
「何であろうな、記録の復元と聞こえたが」
——復元完了、続イテ第十八層ニ移行——
その声と同時に周囲の光景が一変した。
王もイムリもしばらく呆然として声もなかった。壮大な宇宙は一瞬で消え去り、周囲には夜の砂漠が広がっていた。見上げれば全天に無数の星が輝き、ゆるやかに波打つ砂の海は足下から遙か彼方にまで広がっていた。
「ここは……」
「王よ、少し低いが南方の星座には見覚えがある。蜥蜴、舞姫、雷鳥……」
「すると我らの地か、どのあたりであろう」
「この並びからするとカイロン山より北ということはあるまい。ギブツ、レナ、アシュトー……」
「なるほど、ゾラの砂漠地帯か。歩いては帰れんな」
二人でいる心強さが王に苦笑する余裕を与えていた。ここがどこであれ自分たちの王宮まで地続きであるという安心感は何ものにも代えがたい。
足下の砂をすくってみると間違いなく実体だ。目の前の光景も幻とは思えない。ではこれからどうする、と傍らのイムリに声をかけようとしたその時、背後に何ものかの気配を感じた。
二人同時に振り向いたその先にほっそりとした人影があった。
星明かりを弾く奇妙な衣服をまとった風体は二人の知らぬ姿だった。目深にかぶった頭巾の影で顔はよくわからない。棒の如き細い手足と透けるような存在感の薄さが影絵の
「うむ、どうやら」
「王よ、心してな」
人像は男とも女ともつかない奇妙な声で何ごとかつぶやいたようであった。王たちの知らぬ言葉は何処の言語ともかけ離れていたが、聞いているうちに遠い谺のように意味が伝わってくるのだった。
〈我ガ見エザル道標ハ何処ニ〉
「星人よ、汝の道標とはなんだ。答が欲しくばその意味を語るがいい」
一拍の間を置いて新たな声が響いた。
〈道ハココデ途絶エテイル。来タ道ハ既ニ遠ク、赴ク先ハ未ダ見エナイ。失ワレタ地図ト道標ヲ我ニ示セ〉
「旅をしているのか」
〈然リ、サレド汝ラモマタ同ジ。赴ク処ヲ知ラズシテ変容スルハ大罪ナリ〉
「先が見えぬことがそれほどに不安か。道標がなくとも人は
〈我ラニソノ自由ハナイ。示サレタ道ヲ辿リ、彼方ノ地ニ向カウノミ〉
「道標がないからといって立ち止まったままでは何も変わらんぞ。まだ見ぬ道も己が動いてこそ生まれよう」
今度は少し間があった。星人は首を傾げ、何ごとか考えているように見えた。
〈ソレハデキナイ。座標未定ノ跳躍ハ不可避ノ事故ヲ招キカネナイ〉
「やはりわからんな、汝の道標とやらは我らには感知できぬようだ」
〈道ヲ知ラヌママ回廊ニ眠ル者ハ消去スル〉
「待て、それでは」
決して何人も答えられんぞ、と王がいいつのろうとしたその時、星人の手元から青白い光の網が広がった。それは王とイムリを一瞬で包み込むかと思われたが、なぜか広がりきる前に虚空の一点に収束して消えた。
「お待ちなさい」
いつの間に現れたのか、光の網を吸収したイラーナ姫の黒い球体とその下の少女の身体が王の傍らに立っていた。
星人の手元が発光し、再度光の網が広がったが結果は同じだった。星人の雷を吸収した姫の頭部には短く点滅する光が走ったがそれだけだった。王には星人の戸惑いが意味不明なつぶやきとして伝わった。
〈自立的障害ヲ検知……削除失敗、応答機構ニ制御移行〉
「星人よ、眠っているのはあなたも同じです。記録を精査してごらんなさい」
〈航行記録ノ復元ハ何度モ試ミタ。汝ハ道ヲ見ル者カ〉
「この星に漂着したのはいつ?」
〈オヨソ二十二万公転周期ガ経過シテイル〉
「最後の記録には何と記されていますか。覚えているでしょう」
王とイムリの耳に答が聞こえるまでにしばらくかかった。星人は沈黙したまま奇妙にその身を揺らしていた。何かの葛藤にとらわれているらしいことが王にも伝わってくる。
〈最終記録——自己修復不能ト断定シ、本時刻ヲモッテ探査任務ヲ放棄、指定時間経過後ニ全情報ヲ削除、以後無期限休眠状態ニ移行〉
「長い旅でしたね」
〈デハ……モウ我ラノ赴ク道ハ……〉
「あなたたちの言葉では背面第七世界の銀の腕第十四象限から第六象限にかけて」
〈オオ、我ラガ道標ガ! コレデ道ヲ継グ者ガ迷ウコトハナイ〉
星人の歓喜に王とイムリは不可思議な感動を覚えた。何かがつながり何かが終わったという深い満足のようなものが心の奥底に生まれていた。
旅は終わったのだと。そして自分たちもまた。
イラーナ姫は振り向いて王とイムリを見た。漆黒の髪は星明かりを映し、母譲りの青い瞳はこの上もなく美しい。ほのかな微笑を浮かべた少女の唇にその言葉は宿った。
「あなた方も長い間よく働きましたね」
「ではおれたちの役目も終わりか。少々未練も感じるがな」
イムリが王の肩を軽く叩いて笑う。
「なに、悪い夢ではなかったぞ。おぬしと過ごしたこの日々は」
「おれもだ」
その時、頭上に光り物が現れ星人の手から放たれた短い光の網とつながると両者の姿は王たちの前から消えた。
「では行きます」
イラーナ姫は砂漠に立つ二人に背を向け、静かに歩み去るかに見えたがふと立ち止まって振り向くと「さようなら、お父さま」と頭を下げた。
「うむ、そなたも達者でな」
しんとした砂漠の夜に星がいくつも流れた。
***
首都を見下ろす崖の半ばに埋もれたそれは人の背丈の倍はあろうかと思われる銀色の球体であった。
表面はひび割れ、外殻の一部は欠け落ちて内部の複雑な構造が露出していた。垂れ下がった
「姫さま、これは何ですか」
少年の問う声にイラーナ姫は静かに微笑んだ。
「思考機械を載せた船です。遠い昔にどこかの文明が探査のために放ったのでしょう。幾多の世界を経巡る旅に」
そこに何者の意志が込められていたかは姫にもわからない。おそらく無数に放たれたそれらは時間と空間、そして次元さえも超えて様々な世界に漂着したことだろう。
今目の前に眠るそれは大破して航行不能となった後も中枢の思考機械だけは生き続けて使命を果たそうとしたものと思われた。
思考機械は常に無数の思考を同時に走らせている。
永遠に休眠するはずだったそれがなぜ再起動を果たしたのかは不明である。分岐した思考のあるものは旅を続けようと「道標」を求め、穏やかな眠りを求めた思考は王と人々の暮らす夢を紡いだ。
だが夢にも終わりの時はくるのだ。
繰り返される幻想の日々にも次第に歪みが生まれ、夢は自壊に向かおうとしていた。そこに介入したのは姫の気まぐれかそれとも——。
「それにしても真に迫った幻でしたねえ。まるで本物の陛下のようでしたよ」
「都のすぐ近くですからね。人々の暮らしを感知して複製を作り上げたのです」
「でも姫さまだけなんであんなお化けみたいな……ごめんなさい、その」
「私のことがよくわからなかったのでしょう。不確定要素として遠ざけておくつもりだったのかもしれません」
少年はふうんと首を傾げ、よくわかりませんと肩をすくめた。くすりと吹き出した姫は少年の肩に手を置いた。
眼下に広がる帝国首都の壮麗な夜景がきらびやかだった。
「さようなら、お父さま」
イラーナ姫はもう一度つぶやくと神殿への道へと少年をうながした。
〈 了 〉
星人の夜 @ALGOL2009
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