星人の夜

@ALGOL2009

星人の夜 (前編)

 彼らは古い旅人なのです、と姫さまはいわれた。


 あまりにも長い旅を続けるうちにおのれが何処から来て何処へ向かうのかも、そしておのれが何者であるのかさえ忘れてしまった古の旅人なのだと。


 道にはいつか終わりがくる。それと知らぬうちに道を失った者たちには告げなければならない。


 なんじらの眠れる時は終わりぬと。


  ※※※


 王宮の緊迫した空気は深夜に至ってなお重かった。


 実質は丘の上の山城に等しいのだが、貴族たちはとかく勿体をつけたがる。それでも本来なら宿直とのいの兵を除いて寝静まる時刻である。


 だがそうした平穏な夜が失われてすでに久しい。


 王の間へ向かうイムリの足取りにも鈍い疲労が滲んでいた。


 このような緊張がいつまで続くのか誰にもわからない。領土にも国力にも乏しい辺境の一小国にじわじわと忍び寄る得体の知れない危機感は今や城下を覆い尽くそうとしている。


 こうして深夜の呼集がかかることも今では常態と化している。その都度額を突き合わせるようにして実りのない会議が続く。


 その虚しさに誰もが——王たるその人でさえ——倦んでいるのだが不安を抱いたまま一人時を過ごすことにいたたまれなさを覚え、結局は皆が進展のない会議に参集するのだった。


 イムリは近衛の兵に軽く手を挙げただけで王の間へと入り込んだ。


 他国のそれのように贅を尽くした広間ではない。即位して二十数年、相談役として仕えてきた王ウダイ三世は質実剛健を好む堅実な為政者だった。


 剣術に優れた偉丈夫でありながら戦にうつつを抜かすような愚かしさとは無縁の気性が国を支えている。小国といえど東に賢帝あり——諸国からそう評されることがイムリの誇りでもあった。


 意外なことに王は一人で彼の到着を待っていた。


「はて、大臣や司政庁の方々は。遅参の詫びをせねばと思うてまいりましたが」


「おらぬ。件の報告にはまだ余人の耳に入れたくないこともあろう」


「恐れ入ります」


「よい、今はいちいち形をつける必要はない。誰も聞いてはおらぬ」


 そうした特別扱いを控えるよう忠告するのはイムリの日課だったがこの王は気にも留めない。窓辺に立つ王の側に控えるとそれでもあたりを一瞥して苦笑いで答えた。


「いくら幼馴染みとはいえその物いいでは下々の者に示しがつかんといっておろうが」


「知るか、おれはこれが地だ。貴族どもの真似は性に合わん。父もこれでよいといってくれた」


「まあおぬしがよく国を治めているのは確かだからな。大臣たちには苦々しいであろうが」


 王はふんと鼻を鳴らしただけで「首尾は」と訊いた。

 途端にイムリの顔が曇った。よき報せを持ち帰りたいと願っていながらそれが果たせぬ苦しさが声音にも滲み出ていた。

 

「南方でまた二つ、戦火に呑まれた。ログノールとエランだ。詳細は見えんがやはり内乱と見た」


「……これで七つか。どれも戦とは無縁の小国ばかり。エランは賢者と名高いダッカ王の治める地であったはずだが」


「人をやって調べさせてはいるが答は同じだろう」


「星人……か」


 王の苦い顔はイムリのそれでもあった。


 半年ほど前のある夜、各地の空に現れた「光り物」は人々に大いなる不安をもたらした。故事をひもとき凶兆であるとおそれる者、いや吉兆として慶賀すべしと唱える者、天文学者たちの侃々諤々たる論争も加わって人心は落ち着くことがなかった。


 そして聞こえてきた不穏な噂。


 星人が来た、と。


 最初は西の地にささやかな都を構える辺境の都市国家だった。ある日、奇妙な風体をした男とも女ともつかぬ者が王の居城に現れ道を尋ねたという。


 我が見えざる道標は何処に、と。


 誰もが戸惑い首を振った。我ら汝の赴く道を知らず、と。


 するとその者は大いに嘆き、呪いの言葉とともに雷を降らせて人々を打ち倒した。


「道を知らぬ者は滅ぶべし。道を知る者は何処に」


 その日からその者は城下の至る所に現れ同じ問いを繰り返した。答えられぬ者は雷に撃たれて死に、偽りを答えた者もまた死んだ。人々はその者をおそれて家に閉じこもったが誰もがいい知れぬ恐怖にうち震え、おそれと不安は要らざる衝突を生んだ。


 ひとつ火の手が上がると混乱は瞬く間に広がったという。


 答える者がいなくなるとその者はしばし嘆き悲しんだ後、次の国へと向かった。


 我が見えざる道標は何処に——そう尋ねながらその者は嘆き、そしていくつもの小国が混沌に呑まれていった。


 人々は光り物の記憶とともにその者を「星人」と呼んでおそれた——。


 以来、星人の噂は徐々にこの国にも影を落とすようになった。その正体が知れぬだけに手の打ちようがないのだ。相手が大群の兵や戦車の群れなら、あるいは爆弾を撒く飛行機械ならこのような焦慮に身を焼くことはない。


 兵力に劣ってもウダイ三世は知略に長け、しぶとく、かつ、勇猛に戦うであろう。


 だが星人の噂には目に見える実体がない。話だけは伝わってくるものの実際に見たという者をイムリは知らなかった。


 正体不明では備えようがない。だが人々の不安は日増しに大きくなっていく。目に見えない敵に備える緊張で誰もが疲弊していた。


 次に安眠できる夜がいつやってくるか誰にもわからないのだ。


「イムリよ、噂はどこまで来ている」


「そうだな、ダリ川のこちら側はまだそれほどでもない。だがナナイ、カマラン、アリューシアあたりは既に戦々恐々といったところだ」


「近いな」


「うむ、もしあれらの噂が真実だとするならもういつここへ現れてもおかしくはない」


 星人か——そうつぶやいて王は考えに沈む顔になった。


「噂にはとかく誇張が付きものだが……何者であろうな」


「わからぬ、常に同じ問いを投げてくるというがその意味するところも不明だ」


「我が見えざる道標は何処に、か。それを知ってどうしようというのだろうな」


 その単純な問いひとつに答えられないばかりに七つの小国が自壊していったのだ。この国が八番目の犠牲にならぬ保証はどこにもない。もう何か月も議論が繰り返されたが答は霧の中だった。


「道標が欲しいのはこちらの方なのだがな」


 王の自嘲気味なその言葉にイムリは決断を迫られていた。彼には考えあぐねた末に行き着いたひとつの答があったのだ。いうべきか否か、幾度も迷ったあげく呑み込んでしまった答が。


 それは誰もが禁忌として無意識に考えることを拒んでいるひとつの可能性だった。


 すなわち——。


「王よ、これは私の妄言と受け取ってもらってかまわないのだが」


「ほう、らしくないな。かまわんぞ」


「思うに我々では決して星人の問いには答えられぬ。なぜなら我らはこの目に映るものしか見えぬからだ」


「何がいいたい」


「見えざる道標というのが何を指すかはわからん、だが賢者と名高きダッカ王にも見えないとあれば我らにはなおのこと」


 王は沈黙したままその目で先をうながした。


「翻って、誰もが口に出すことを憚っているが見えざるものを見る者といえば」


 途端に王の顔が険しくなった。


「待て、イムリよ、その先は触れてはならん」


「わかっている。だが星人の問いに答えうる者がいるとすれば」


「しかし……あれは」


 ともに低く唸って黙り込んだそのとき、王の間の扉が開かれ、近衛の兵が転がり込んできた。血の気の失せた顔が急を告げていた。


「申し上げます、姫さまが……姫さまが登城なされました!」


 主君の前で最低限の礼もわきまえず口走ったその顔は冷や汗にまみれていた。密林で大型の肉食獣に遭遇したような恐怖が震える声にも顕れている。


 王とイムリは互いの顔に同じ恐怖を見た。


「姫さまが……」


「なぜこのような時に」


 やはり、とイムリは駆け込んできた兵と同じように冷たい感触が背中を伝うのを感じていた。


「王よ、これはやはり」


「しかし……しかしなぜだ、なぜ今になって」


「わからぬ、だが神託とはしょせん我らの道理とは無縁のもの」


 理屈ではないのだ、そう答えるイムリにも確信があったわけではない。だが夜も更けたこのような時刻に「あの方」が直接ここへ足を運ぶなどという事態に理由を問うても無駄である。気まぐれは神々の属性なのだから。


 あの方——イラーナ姫さまのように。


「済まぬ、王よ、これはやはり私が招き寄せてしまった事態のようだ」


「やむを得ん、答をくれるというならそれもよし。腹をくくっておれから問うてみよう」


 そう口にできる胆力の持ち主は千人に一人もいない。イムリは改めて友の器を思い知った。鍛え上げた剛胆な騎士といえどもイラーナ姫の前では悲鳴を上げてひれ伏し、ひたすら許しを請うことになるのが常だったからだ……。


 ふと人の気配が動いた。


 イムリが気がついた時、その人は既にそこにいた。


 近衛の兵がたまらず悲鳴を上げて逃げ去っていくがその無礼を咎める声はない。王もイムリもおそろしく緊張した表情で凍り付いたように立ち尽くしていた。


「お召しにより参上いたしました」


 淑やかに一礼したその少女の声は涼やかだった。年が明ければ十七歳になるこの少女ははウダイ三世の一子にして唯一の係累である。


 本来なら王宮の奥深く、大勢の侍女にかしずかれて穏やかな日々を送る身の上だが、今はわずかな供の者と離宮に隠れ住む身である。なぜなら——。


 姫には顔がなかった。


 首の上に人頭大の黒い球体が何の支えもなく浮かんでいる。先ほどの声はその球体のどこからか発せられたはずだが、口はおろか目も鼻も耳らしきものも一切見えない。あまりに異様なその姿に対面して逃げ出さぬ者は百人に一人、言葉を交わせる者は千人に一人といわれていた。


 イラーナ姫の存在はこの王宮最大の禁忌であった。


 もとより、姫も初めからこのような怪異な姿に生まれついたわけではない。


 その誕生とともに母を亡くし、あまつさえ生まれながらに盲いているという身の上であった。漆黒の髪も光を弾かぬ青い瞳も格別に美しく、王も臣下もなおさらにその不幸を嘆いた。


 だが、数年を経ずして誰もが異変に気づいた。


 姫は光を必要としていなかったのだ。


 確かに盲いているはずなのに幼い姫は複雑な王宮の中を自由に駆け回り、一度として人にも物にもぶつかることがなかった。


 学者たちはそろって「古書に記された天眼の顕れでありましょう」とその奇跡を慶賀し、国中が触れをもって知ることになった。我が国は天眼の姫を得たりと。城下は祝意に満ちあふれ、天に愛された王と王女を戴く歓びで皆が心を浮き立たせた。


 そんな折である。この辺境には珍しく隣国との小競り合いが起きたのは。


 交易における商人同士の些細な衝突が役人と守備兵を巻き込む騒動にまで発展したのは不幸な偶然が重なったためであったが、執拗な隣国の嫌がらせにさしも慎重なウダイ三世も応戦やむなしと決断した。


「馬鹿らしいが行ってくる。三日でけりをつけてくれよう」


「役人どもは妙に特権意識が強すぎるな。あれほど挑発に乗らぬよう申しつけてあったというに」


「叱ってやるさ、顔の形が変わる程度にな」


 そんなことをイムリといい交わして翌朝は出陣というある夜、最初の「神託」が下った。王の足下で無邪気に遊んでいた幼い姫がふいに立ち上がってこう告げたのである。


「王よ、出陣は日中、最も日が高くなるまでお待ちになることです」


 たどたどしい幼女の言葉ではなかった。事実を冷徹に告げる権威の響きが王とイムリを瞠目させた。


「姫よ、今なんと」


「明日の出陣はしばしお待ちください。それだけでこの戦は終わります」


「いったい何を……」


 いいかけた王の腕を軽く制してイムリは一歩前に出た。片膝をつき、姫と同じ目線になって慎重に言葉を選んだ。


「姫さま、今一度よろしいでしょうか」


「イムリよ、ダリ川の流れが最も狭くなる場所を知っていますね」


「はい、トラボーの谷でございますな」


 幼い姫はうなずいて「そこに」と続けた。


「三千の兵が集結しつつあります。敵本陣はその奥に」


 イムリも王も息を呑んだ。まさかと思いつつ、だが決して忘れてはならない大いなる事実があった。相手は天眼の姫なのだ。


「三千……」


「ですが彼らには天運なく、一兵といえども川を渡ることは叶わぬでしょう」


「な、何故に」


「出陣は明日の午後、夕刻を待ってトラボーの谷に物見を出すことです」


 そこまで告げると幼い姫は笑みを浮かべ、唖然とするイムリたちを残して部屋を出ていった。身じろぎもせず見送ったイムリが王と顔を見合わせたのは一拍の間を置いてからだった。


「今のは……よもや」


 王の声はわずかに擦れていた。


「王よ、あのいいよう、言葉つき、とうてい幼子のそれではない」


「ではやはり」


「天眼の姫のお言葉だ、軽々に退けることはできぬぞ」


 しばらく黙り込んだ王はやがて「待ってみよう、せいぜい半日のことだ」と断を下した。


 翌日、出陣を前にした王は微妙に足下が定まらぬことに気づいた。わずかな揺れが伝わってくるとこの地方では珍しい地震だと悟った。揺れ自体は小さく短いものだったため気にも留めなかったが、進軍中に放った物見がもたらした報告に驚愕した。


「トラボーの谷は累々たる敵の死骸で埋め尽くされております!」


「どういうことだ」


「わかりません、谷が崩れた様子もなく、ただ敵兵ことごとく苦悶の形相にて絶え果てております」


 後日、この怪異は谷の岩盤で封じ込められていた毒の瘴気が地震により噴出したためであることが判明した。ウダイ三世は一兵も失うことなく隣国との戦を終結させることになったのである。


 辺境の小国にとって一挙に三千の兵を失うことは国力の深刻な損耗に等しい。戦どころではないのだ。


 この経緯は王とイムリのみが知ることであり、人々は王の戦況判断を賞賛したが、当のウダイ三世、そして相談役たるイムリにとって事は深刻であった。


 天眼の姫がもたらしたのは明らかに神託であり天啓である。しかも伝え聞くような抽象的でどうとでも取れるあやふやな「お告げ」とはものが違う。この上なく具体的で正確な示唆は衝撃的でさえあった。


 姫の存在は国の行く末に関わる。


 王もイムリもそう信じて疑わなかった。姫の神託はそれ以降も続いたからである。


 ダリ川の氾濫に備えられたのも、夏の干魃にいち早く手を打てたのも、そして王宮に入り込んだ諜者どもを一掃できたのもすべてはイラーナ姫のそれとない示唆によるものだった。


 むろんそれらは王と姫の側近くにある者だけの秘事であったが、人の口はなかなかに閉ざしきれるものではなく、いつしか天眼の姫の神託の噂は各地に広まっていった。


 そして姫が十歳になったばかりのある日、一人の侍女がうかつにも姫に問うてしまった。


 私はいつまで生きることができましょうか、と。


 ほんの戯れのつもりだったのだろう。答が返ってくるはずもなかったが、歳相応の可憐な少女を前につい戯れ言を口にしてしまったのであろう。姫は王やイムリの前以外で神託を口にすることはなかったからだ。


 だがその日に限って姫は首だけを回してその侍女に告げた。


「知りたいのですか」


「姫さま?」


おのれの命運尽きる日を知ってなんとします」


 光を弾かぬ青い目に何を見たのか、侍女はその場にひれ伏して非礼を詫びたが既に遅かった。


「問われるなら答えましょう、そなたの生は——」


「お、お許しを……」


「今ここまでです」


 侍女は絶叫した。意味不明の言葉を吐き散らし錯乱する女を他の侍女たちが取り押さえようとしたが女は狂人の力でそれらをはねのけ、ひと声高く叫ぶとその場に昏倒した。既に絶命していた。


 誰も動けなかった。


 恐怖で声もない。


 ただ魅入られたように年若い王女の姿から目が離せない。侍女たちは知ったのだ。この世の禁忌のなんたるかを。


「問われるなら答えましょう、そなたらの生は——」


 その声は既に姫の口から発せられたものではなかった。細い首の上に見慣れた美しい少女の顔はなく、人頭大の黒い球体が浮かんでいたのだ。


 侍女たちは悲鳴を上げることさえできず、半数は錯乱し、他はその場にくずおれた。


(以下後編に続く)

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