後輩に愛される

空を覆う灰色の曇が広大な森に雨を降らし、葉に弾き返される雨音と纏わり付くような湿気で空気を満たす。木々が切り拓かれて作られた森の中の細い小径を、落ち葉を踏みしめながら進む若い男女がいる。一人は筋肉質な青年で黒いジャケットを着用してでかいバックパックを背負っていて、もう一人は小柄な短い髪の少女で紺色のジャケットを着用して青年のよりは小さいバックパックを背負っている。

二人の足取りは重い。荒い息を吐いている。仕方の無いことである。もう随分と森の道を歩いてきた。生活必需品を詰め込んだ重いバッグを背負って湿気で暑苦しい空気の中、足場の悪い道を進み続けてきて体力は激しく消耗していた。だけではない。熊や狼と言った危険な野生動物、そして何よりゾンビにいち早く気付けるように常に周囲の警戒も怠るわけにはいかず、いくら歩いても景色は変わらず、それで精神も削られていた。二人の身体は休息を求めていた。


「先輩、あれ見てください! 家! 家があるっす!」


後輩である少女が遠くに見るログハウスを指さしながら興奮気味に言った。雨風凌げて周囲からも身を守れる建物は二人にとって魅力的な休息場所だった。

「あそこで今日は寝たいっすね!」

「そうだな」


でも危険だった。

家主が住んでいるならばその親切心に頼み込めば良

い。だが、そうではない場合の先人は二人のような流れ者かゾンビの二択となる。前者は生きるのに必死で自分のことしか考えられない強欲者、後者は自分のことすら考えられない憐れな罹患者。両者はテリトリーの侵害に敏感で友好は望めず割り入るならば手荒な真似が必要となる。それを知っている青年は後輩のように手放しで喜べない。だからログハウスの玄関の扉の前に立ったとき、青年は彼女を自身の背後に下がらせている。


「俺が先に行く」

「了解っす」


後輩が背後に回ってバックパックより下にはみ出ている背中の服の生地をちょこんと摘まんだのを確認してから青年は前に向き直った。抱えるのはショットガン。青年はドアノブを押して扉を開け放つと、ショットガンを構えながら小屋の中へと踏み入った

室内はようやく見通せるほどの薄い暗闇に満たされていた。目前には廊下など無くてリビングが広がっていてテーブルや椅子が置かれていて、奥にはダイニングも見える。

目下、それより大事なことは、リビングの中央に青年に背を向けた猫背の中年の女性が立っていることだろう。


「……この家の方ですか?」

「カッ……カッ……カカッ……」


喉を締め上げられたかのような声を発しながら、急な角度で首を曲げて顔をこちらに向ける女性。白目を剥いていて口が半開きで舌が垂れていて、知性が感じられない。

ゾンビ。


「キシャアアァァァァッッ!!」


青年達を獲物と認識したゾンビが前屈みの姿勢で腕を伸ばしながら一直線に駆けてくる。青年の背後に隠れている後輩が「ひいっ」と小さく悲鳴を上げる。しかし青年は、接近してくるゾンビに動揺すること無くスコープに目を当て冷静に狙いを定め、


ドアンッッ!


容赦なくショットガンを発砲した。女性の頭が吹っ飛んだ。血肉が周囲に飛び散り、頭を失った女性は後ろ向きに倒れた。ゾンビウイルスは人間の脳を苗床にするようで頭を吹っ飛ばすと動かなくなる。“死ぬ”なのか“死体に戻る”なのか判然とせず、もしかしたら殺すまでゾンビは生きているのかもしれないのだが、ゾンビになった以上どうしようも無く、生存者にとっては目の前のゾンビを吹っ飛ばすこと以外はさして重要では無く、まして青年には後輩を守るという信念があるから罪悪感などは微塵も無い。危険を排除できて良かったという微かな安堵しかない。

青年を盾にしながら背後から彼女が顔だけを覗かせて恐る恐る足下の床と同化したゾンビを見る。


「先輩流石っす」

「おう」


彼女からの視線を感じながら短く答えた青年は視線を返すことは無く油断無く部屋を見渡していて他にゾンビが居ないか探している。ゾンビと虫は似ていて手足をもぎ取っても死なないし、一匹居るなら百匹いる。床の木材を踏みしめて軋ませながらゆっくりと歩いてダイニングの死角や机の下などを隈なく探し目に付いた扉を全て開け、ゾンビも先人も誰も居ないことを順々に確認していった。

最後はリビングの右奥の扉だった。開けると、寝室だった。誰も居らず、代わりにダブルベッドが置かれていた。


「うはあー! ベッド!!」


彼女が駆け寄ってベッドを触ったり座ったりして嬉しそうに柔らかさを確かめている。無理もない。最近は寝袋に包まっての野宿ばかりで地面はごつごつしていて顔は寒くて布団がずっと恋しかった。

青年はバックパックを置いて返り血を浴びた服から部屋着に着替えるとベッドの上に仰向けに倒れ込んで天井に向かって深く息を吐いた。ようやく緊張を解いたのだった。


「部屋漁ってくるっす!」


彼女は声を弾ませてウキウキで寝室を出て行った。子犬のようにドタバタと駆け回る音がする。使える物を探すという名目はあるが彼女は純粋に知らない場所を見て回るという行為が楽しいのだろう。無邪気だなぁ、と青年はそう思っている。その明るさに救われることも多いから咎めたりはしない。

目を閉じる。身体に掛かる重力が二倍になったようだった。手足がベッドに呑み込まれて意識さえもベッドに沈み込んでいった。

つまり、油断したのだ。

ようやく雨風を凌げる場所を見つけたから、寝床の無事も確保できたから、久々のベッドが気持ちよすぎたから。


「先輩、屋根裏部屋発見したっす!」

「んー……」


だからいつもなら、隅の隅まで自分の目で確かめるまで警戒を緩めたりしないのに、彼女にだって注意を促したはずなのに、今回ばかりは油断した。

屋根裏にゾンビが潜んでいる可能性を見過ごした。


「うわあああああぁぁ!!」


遠くから後輩の悲鳴が聞こえて青年は飛び起きた。彼女の声が聞こえた方向へと慌てて駆け出して、元は天井に収納されていたのだろう屋根裏部屋へと続く階段を見つけて這い上り、仰向けに倒れている彼女が彼女よりもさらに小柄な少女に組み敷かれて今にも首元を噛まれそうになっている場面に出くわした。


「せんぱああああい……」


横目で青年の姿を捉えた後輩が涙目で情けない声を上げる。拳銃では手元が狂って後輩を撃つ危険があると即座に脳内で逡巡した青年はたまたま壁に立てかけてあった斧を見つけて、手に取って走り出し、後輩の直ぐ近くで足を踏ん張って急停止、両手で斧を振るって少女ゾンビの頭を横から切りつける。


「んぬうっ!!」

「ごびゃやああぁあっっ!!」


鬼の如き表情で力の限り振るわれた青年の斧は少女ゾンビの顔に深く刺さっても止まることは無く、勢いそのままに頭ごと少女の身体を吹っ飛ばし断末魔を上げる少女ゾンビの顔を壁に叩きつけてトマトのように潰した。青年はすぐさま少女の顔面に刺さったままの斧を手放して後輩のそばに膝立ちになり彼女の上半身を抱え起こす。


「大丈夫か!? 怪我してないか!?」


目を見開いて必死な形相の青年に彼女はにへらと笑う。


「うへへ。無事っす! 大丈夫っす!」

「噛まれてないんだな?」

「噛まれて無いっす! 助けてくれてありがとうございます!」


それを聞いた青年はため息を吐き、


「そうか」


と言ってあっさり手を離した。支えを失った彼女の上半身は床へと引き戻され、後頭部が鈍い音を立てて床とぶつかった。彼女が頭を抱えてくねくねもがく。


「痛いっす!! 酷いっす!!」

「注意を怠った罰だ」

「先輩の鬼! 悪魔! ゾンビ!」

「何とでもいえ」 

「う~」


青年は呆れ顔で後輩を見下ろしている。


「そもそもお前拳銃持ってたんだから撃てよ。いくら下手でもこの距離なら当たるだろ」

「テンパってて忘れてたっす」

「嘘付け。片手で腰に下げた拳銃握ってただろ」

「うっ……撃てなくてぇ……」


仰向けの彼女が目を逸らして言う。


「お前はほんっとに……」

「情けないっす」

「いつまでも俺が助けてくれると思うなよ。俺が明日にでも居なくなるかもしれないし、何なら俺がゾンビになってお前を襲うかもしれない。そしたらお前は生き残るために、俺を撃ち殺さなきゃいけないんだぞ」


それは十分にあり得る未来だった。むしろ今までが幸運なだけであった。

だが彼女はがばりと起き上がると、膝立ちになっている青年に抱きついた。


「嫌っす! それは絶対嫌っす!」

「おい離れろっ。折角着替えたのに血が付くだろっ」

「無理無理! 絶対無理っ! 一生一緒に居るっす!!」


まるで幼子のように腰に縋り付いてくる後輩を見ていると流石に青年は可哀想になってしまう。小柄でビビりで自分によく懐いている姿は、今は亡き妹の面影が重なる。つい甘やかしたくなる。


「ま、まあ俺が生きている間はお前のことは守ってやれるから。その間に克服すれば良いんだけどな」

「ううう迷惑掛けるっす」


彼女は情けなさそうに呟いた。

青年は腰に引っ付いている後輩をよそに、この手で殺した少女ゾンビに視線をやった。

この家で殺したゾンビは親子だったのだろうかと想像を巡らせたりした。




ゾンビウイルスは突如として世界に蔓延した。青年も身を以てそれを知ることになった。当時。夜中。二階の自室で寝ているときだった。外の天候は大荒れで屋根を雨が叩きつけていて、近くに落ちた雷の空気を切り裂く音で青年は目を覚ました。上半身を起こして、開けっぱなしていた窓を閉めた。それでまた静かに眠れると思った。だが部屋に広まる静けさの中にノイズを聴く。


「く……くかぁ、かかっ……っく……」


断続的に響く喉を締め上げるような甲高い音。振り返った青年はベッドの傍に立つ母を見た。暗闇で表情ははっきりとは見えないけれど、片足はやけに内向きで両腕はそれぞれ関節を曲げて明後日の方向に意味なく伸ばされていて両手は開かれた状態でぐっと力が込められている。違和感があった。


「母さん?」


問いかけるも返事は無い。外で雷が落ち、稲光が母の顔を照らし出す。不気味であった。白目を剥いていて、よだれを垂らしながら歯を食いしばっていて力みすぎて首には筋さえ浮かび上がっている。尋常じゃ無い。


「母さん……?」


二度目の問いかけにも返事は無く、代わりに母は両腕を伸ばしてきて青年の左腕を掴み上げ、そして大きく口を開け……。

噛みつこうとした。


「っ!?」


本能で危機を察した青年は咄嗟に腕を振り払い、迫り来る母の顔を殴っていた。


「ご、ごめん。母さん」


青年が心配するも母は気にした素振りは一切無く、

代わりに視線が青年のベッドの上に移る。青年の掛けていた布団の余りの生地の部分を寝床として拝借して青年の横で安心しきって身体を丸めて眠っていた白猫。母は白猫の首と両足を掴み、白猫が暴れ苦しむのを無視して柔らかな腹に噛みついた。

白猫が痛みと恐怖で鳴き声を上げる。

青年は困惑してただ見つめる。

母は頭を振って猫の腹を噛みちぎった。


「にゃあああああああああああぁぁぁあ」


猫が断末魔をあげた。

母の顔は愛猫の血で真っ赤に濡れてもごもご動く口内では愛猫の肉を咀嚼していた。

食った?食った!母が猫を食った!


「うわああああああああああああっっ!!」


恐怖に駆られた青年は飛び起きて部屋から逃げだそうとした。すぐ後ろから母が追いかけてきた。体勢を崩しながらも、それでも、息子にかぶりつきたいという意思がそうさせるのか四つん這いになって顔を前へ前へと伸ばしながら青年の後を蜘蛛のように追ってきた。青年はドアを押し開いて廊下に出ると、母を自室の中に閉じ込めるために背中で慌ててドアを閉じた。

タイミングが悪かった。

丁度母が部屋から出る直前で顔だけが廊下に出ていた。だから青年が力任せに閉じようとしたドアは母の首を勢いよく挟んだ。母の半開きの口から唾液が飛び出す。だが青年はそんなことに気づいていない。混乱しているから。青年は背中でドアを押していてそれでも何かに挟まって閉まり切らないドアは母が内側から押し返しているせいだと思っているから、とにかく一生懸命にドアを閉めようとするばかりなのである。気づいたのは数分経ってからだった。母はだらんと舌を伸ばして泡ぶくを口いっぱいに満たし、首はドアに圧されてくの字に折れ曲がっていた。青年は実の母を殺したという罪悪感に苛まれ、涙を流して項垂れたくなった。が、そんな暇すら与えられない。隣の部屋のドアが開いて寝間着姿の父が廊下に現れた。

やはり様子はおかしい。意識は無く、しゃがんでいた青年に飛びかかってきた。

青年は急いで立ち上がって廊下を走って一階に繋がる階段を駆け下りる。背後から父も追いかけてくるのが足音で分かる。だが階段を降りきったとき、それが途絶えた。代わりにドタドタと慌ただしい音と共に父親が階段を転がり落ちてきた。ようやく止まったときには手足の関節があらぬ方向に曲がり踏み潰された蟻のようになっていた。

リビングから妹が追ってくる。夜中にカップ麺食うと太るぞ、といつものような冗談は言えない。言葉など届かない。妹も常人では無くなっている。青年は玄関へと向かい外へと逃げ出した。後ろから当然、妹も追ってきた。そして道路の向かいにいる青年を追うために道路の真ん中に出た瞬間に猛スピードで走ってきた車に轢かれた。道路に転がったときには、頭の潰れた肉塊に成れ果てていた。


「大丈夫か? 危なかったな」

「……」


車に乗ってた中年男性に声を掛けられてからの記憶は曖昧だ。小学校の体育館に避難して、そこには大勢の人が押しかけていて、青年はその一角で膝を抱えて座り自分の身に起きたことについて考えていた。誰かのラジオから流れてくる情報も聴きながらどうやら世界はゾンビで溢れかえっているらしい事を知った。家族がゾンビになったことを受け入れるのにはさらに数日かかった。

避難所の中で偶然にも高校の運動部の後輩に出会った。両親と避難してきていた。夜中に起きて仮設トイレで用を足した青年は、丁度避難所から抜け出ようとする後輩を目にした。


「何してる」

「兄が来てなくて。家に居るかもしれないから迎えに行くっす」

「馬鹿言え。外はゾンビだらけで危ないんだぞ」

「夜は動きが鈍るってラジオが言ってました」

「そういう問題じゃ無い。親御さんも心配するだろ」

「心配するから内緒っす」

「お前っ」

「止めても無駄っすよ。一人でも行くんで」

「……分かった。俺もついて行く」


彼女はこうと決めたら梃子でも曲げない性格をしていることを青年は理解していたので、せめて彼女に同行することを決めた。

二人で彼女の家へと向かった。運良くゾンビと遭遇することは無かったが、彼女の家にたどり着き玄関の扉を開けたとき出迎えたのはゾンビと成り果てた兄だった。兄は妹を忘れて獲物として襲いかかった。ショックで動けなかった彼女の腕を引いて青年は逃走し、無人のコンビニの中へと走り、そこのレジ裏へと座り込んで身を隠した。後輩はただただ泣いていて、青年はそんな後輩に肩を貸していた。後輩が落ち着いたタイミングで避難所に戻ると、ゾンビの巣窟と化していた。避難した人間の中に感染者が紛れ込んでいたのか、ゾンビに襲撃されたのか。いずれにしても避難所に居た人間は一人残らずゾンビになっていてその中には当然彼女の両親の姿もあった。家族を一遍に失った絶望によって彼女はもはや放心状態であった。彼女はその場に留まってゾンビに食われることを求めたが青年はそれを許さず力ずくで腕を引いて、新たな避難場所を求めてゾンビのように街を彷徨った。

どこも悲惨な状態だった。人が集まる場所はゾンビに噛まれた人間が混ざり込んで集団感染が起こるか、ゾンビに噛まれているのではないかという疑心暗鬼に駆られて殺し合いが必ず起こっていた。ゾンビの恐怖に支配された世界では、人は集まっては駄目だった。だから青年は家主不在の大きめな一軒家を狙って当時はまだ犯罪の意識が強かった不法侵入を犯し、窓も玄関も閉め切って籠もることにした。

生きる気力を失った彼女に冷蔵庫から拝借した材料で作ったご飯やカップ麺を無理矢理口に突っ込んで食べさせ、着替えさせ、身の回りの世話をした。泣いたら傍に居て抱きしめた。

やがて彼女は立ち直る。青年は後輩と話し合い、二人で協力してゾンビから身を隠しながらその日暮らしで生きることに決めた。衣服や食料や寝床を盗んで奪って拾って生き延びることに決めた。

あるとき自分たちと同じような生存者から根拠の無い噂を聞いた。外周を完璧に防壁で囲ってゾンビが入れないように対策した上で、野菜や家畜を壁の内側で育て完全な自給的暮らしを実現したユートピアのような街があると。

二人はそのユートピアをひとまずは目指して旅をすることにした。

嘘だ、と二人して思いながらも旅をすることにした。



彼女が着替えて上がジャージにショートパンツというラフな格好になったところで、二人でテーブルに着いて夕食にすることにした。といっても、冷蔵庫の中は既に空っぽだったので持参した缶詰を食べるだけという味気ないものではある。

外はすっかり日が落ちていて雨足は強くなっていた。夜の暗闇は部屋にも広まっている。机の上に蝋燭を置いて火を点し、家に残されていた綺麗なフォークを使って後輩は鯖の味噌煮の缶詰を青年はササミの缶詰を食べる。


「それもおいしそうっすね」

「やらないぞ」

「んあ」


後輩は食べさせて貰えることを微塵も疑っておらず、餌をねだる雛鳥のように大きく口を開けてササミを待ち受けた。青年は後輩の思い通りにするのも癪だったので、フォークをササミに突き刺すと後輩の喉奥に突っ込んでやった。


「えぶっ」

「旨いだろ」

「げっほ。げっほ。ひどいっす……」


食後には、彼女が探検中に発見したのだろうチェス盤をどこからともなく持ってきたので、テーブルの上に置いて二人で向かい合ってチェスに興じた。

と言っても彼女は身体を動かすことは得意でも頭を使うのは全く苦手で、青年には惨敗した。しかし負けず嫌いな性分なので何度も何度も再戦を申し込み

、終いには夜が更けて眠気がお互いの思考を靄のように満たしてまともに頭が回らない状態になってもなお彼女は敗北を諦めずに勝負を挑み続け、青年の方がとうとう根負けして自ら敗北を認め、お開きとなった。

寝ることになった。

ダブルベッドだから二人で横並びで寝ることになる。彼女は仰向けで天井を見つめていて、青年は腕を枕に彼女とは反対側に身体を倒して目を閉じている。

彼女がふと呟く。


「ゾンビ映画だったら寂しさを紛らわすために二人のベッドシーンっすよねこの展開」

「残念ながら今は現実だ」

「とか言いつつもおんなじベッドで寝るんすね」

「久々にベッドで寝る誘惑に耐えられない」

「またまたぁ。私に誘惑されてるんじゃないですか。頑張って背も向けちゃって」

「お前よりベッドの方が100倍魅力的だ」

「ベッドに負けた!?」

「くだらないこと言ってないで寝ろ」

「はい……」





夜が深まる。

天候は悪くなる一方だった。

横殴りの雨が窓を割れんばかりに叩きつけ、雷がログハウスを揺らすほどに轟いていた。






青年は家族で食卓を囲んでいた。向かいには父が座り、左手には妹が座り、その向かいには母が座っている。テーブルの上には母お手製の美味しいビーフカレーと味噌汁とサラダが四人分並ぶ。最近中学校に入学したお喋りな妹は喋りたいことが沢山あるようで、母はうんうんと愉快そうに相槌を打っていて寡黙な父は何も言わずに黙々と食べていて、青年が時々妹を茶化して、それに妹は頬を膨らませて、母がそれを宥めて、父が黙々と食べる。そんないつも通りの平和な食卓の筈、だった。

カレーの色が変わった。

ルウの溶けたとろみのある茶色が黒ずんだ赤色の液体に変わった。スプーンで肉を掬い上げたら人の指だった。視線を感じて顔を上げる。妹と父と母が涎を垂らしながら青年をじっと見ていた。青年は恐怖を感じて椅子からガタリと立ち上がって慌てて玄関に走り寄って扉を開けようとした。だが開かなかった。鍵を外しても押しても引いても何をしても開かないのだ。振り返ったら白目を剥いた家族が三人とも立っていて、一斉に飛びかかってくる。青年は廊下を走って死に物狂いで逃げる。





「うああぁぁぁぁあぁぁぁぁっっ」


野太い悲鳴を上げながら青年がログハウスの中を走り回っていた。何かに怯えるように顔を恐怖で引きつらせながら壁まで全速力で走り、ぶつかる寸前になると方向転換してまた全速力で走っている。まるで打ち出されたビリヤード玉のように部屋の中をあちこち走り回っている。

彼は夢を見ていた。夢の中でゾンビとなった家族に追われていた。夢遊病。今の青年にとって現実と夢の境界は曖昧で、部屋の中の景色は見えて入るけれど意識は夢の世界にある。壁は避けられるが、ゾンビだって居るのだ。確かに居ないが居るのだ。怖いのだ。

この症状は時々起こった。酷い悪天候だったりゾンビを殺したり―親子と思しきゾンビを殺したことは良くなかった―その他諸々の条件が偶然にも作用して当時のトラウマが呼び起こされてしまうのである。


「ああああぁぁぁぁああぁぁぁ」


たまたま走った先は玄関で青年は自ら解錠して真夜中の外へと飛び出した。

走る。走る。追ってくる家族から逃れるために必死に走る。だが視界はあまり効かず足場も悪い。直ぐに地面の出っ張った部分に足を取られて前のめりに派手にすっ転んだ。恐怖ですっかり腰が抜けてしまってもう立ち上がることすら出来ず、青年は這ってでも逃げようとする。だが背後から何者かに押さえつけられ、そのまま仰向けに転がされてしまった。さらに馬乗りされて抵抗も許されない。

絶体絶命。


「やめろぉっ!! 食うなぁ!! くそおおお!! 俺から離れろおおぉっっ!!」


青年は最後の抵抗として必死に叫んだ。

だが。

青年に乗っていたのはゾンビ、ではなかった。


「先輩。先輩、落ち着いてください。私です。ゾンビじゃありませんよ」

「うあえぇ……?」


後輩であった。

青年の頭は混乱に陥る。自分に乗っているのはゾンビとなった妹の筈なのに、視界に映っているのは自分を愛おしむような微笑を浮かべた後輩なのである。

「大丈夫。大丈夫っすからね先輩。私と先輩の二人っきりっす。他には誰も居ませんからね」

「ゾ、ゾンビぃっ。居るっ。後ろにいいっ」

「……ん?」


青年の言葉は嘘では無かった。活動が多少鈍るといってもゾンビは夜にも行動をする。騒ぐ青年の言葉に反応して周囲に居た数体のゾンビが後輩の背後にまで接近してきていた。


「ちっ」


舌打ちした彼女は腰に下げていた拳銃を握ると視界に入ったゾンビ達目がけて迷うこと無く発砲していった。銃弾は次々とゾンビの頭部を打ち抜いていく。


「いま良いところなんだから邪魔すんなよ死に損ない共」


不機嫌そうに眉をしかめて言った。

今の彼女に昼間にゾンビを撃つことを躊躇っていた面影は微塵も無かった。

当然だ。アレは演技だから。本当はゾンビを撃ち殺すことに抵抗なんて無いのだから。

だけれども、先輩の前では守られる存在でいたいという彼女の思いが彼女の姿を偽らせた。先輩が好きなのだ。いつまでも一緒に居たいと思っていた。彼女がゾンビも撃ち殺せない気弱な女の子である限り優しい先輩は彼女を放って一人にすることは絶対にあり得ない。恋愛対象になどまるで見てもらえなくて良くて妹扱いだから、こんな小狡い方法をとらざるを得ないんだと、彼女は先輩に逆ギレ的に思っている。

昼間だっていよいよ命の危機ならば彼女は迷わず銃を抜く覚悟だった。でも大抵彼女が襲われた時は先輩が飛んで助けに来てくれるから彼女は弱っちい後輩のままでいられた。

今の彼女は逆に強い後輩だ。先輩が雑魚になってるから彼女が守って上げなくてはならない。それにどうせ何も覚えていないから多少欲望をぶつけたって許される。

役得役得。


「これで本当に二人だけっすよ、先輩。ゾンビなんていません」

「い、いやだぁっ。ゾンビが居るぅっ! 食べないでくれぇえっ! 足音がぁっ! 声がぁ、聞こえるぅうっ!」


青年の瞳孔は開きっぱなしで、泣いていて、表情は恐怖で歪んでいる。青年には後輩の姿もゾンビだったり後輩だったりしていて、周囲は居るはずの無いゾンビだらけである。


「大丈夫っすよ。私が居ますから。ほら私だけを見てください」


そう言って彼女は顔を鼻の触れあう距離まで近づけて強制的に青年の視界に彼女以外誰も何も映らないようにする。


「足音も声も聞こえないっすからね、耳塞いじゃいましょうね」


そう言って彼女は両手を伸ばして青年の両耳を塞いで強制的に無音の世界を作り出す。


「先輩大好きっすからね。ずっと一緒に生きてくださいね」


そう言って彼女は口元を近づけ、強制的に唇を奪った。

青年の聴覚神経が唾液の交わる音でいっぱいになって視覚神経は目を蕩けさせる彼女の表情でいっぱいになって触覚神経は舌が絡み合う心地よさでいっぱいになって、強制的に彼女で満たされた。

暫く彼女はそうしていた。

青年の世界が全て自分で塗り潰されて恐怖が無くなりますようにと願って、そうしていた。

やがて青年の世界からはゾンビが消えて、青年は穏やかな表情で目を閉じた。

青年は彼女のおかげで安眠を手に入れた。

彼女は顔を離して再び眠りについた青年を見つめた。閉じた瞼の目尻から涙を流しながらも安心しきった子供のような表情で眠っていた。

彼女は、青年の髪を優しく撫でると新たなゾンビが来ないうちに大急ぎでログハウスに引き返して、敷地内に放置されていた台車を引いて戻ってきて、青年を乗せて部屋へと連れ帰った。






翌朝。

空は雲一つ無い晴天であった。


「んあー。やっぱりベッドだとよく眠れるな」

「そうっすね! 眠り心地最高っす!」

「支度して昼には出るか」

「了解っす!」


青年は何も覚えていない。

二人は旅を続けた。

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カッコいい女に愛されるシチュ集 もぐら王国 @mogu_mogu

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