第6話 名弓『宗茂』

 依頼斡旋所での一悶着のあと、サイラスは宿へは戻らず、メイタの森へと引き換えしていた。あんなにもまふだを重くした睡魔はどこかへ消え、代わりに今は焦燥感が胸中いっぱいに広がっている。

 一度も休むことなく、数時間走り続けたサイラス。強行軍の影響で、自慢の体も悲鳴を上げていた。しかし、足を止めることはしない。別れ際、大男たちの復讐に満ちた瞳が不安を駆り立てからだ。


 メイタの森についたのは昼過ぎだった。

 森の入口でサイラスが立ち止まり呼吸を整えれば、待ってましたと言わんばかりにべっとりとした汗が体中から噴き出した。それは接通気性の悪い服へと染み込み、接着剤となって皮膚と服をくっつけた。

 拭うことのできない不快感を抱きながら、鉛のように重い足を前に出し、のろのろと歩みを進めた。


「どうやらまだ、他の人は来てないようだね」


 踏み荒らされた様子のない地面を見て、サイラスはそう言った。

 時間の猶予がある。その事実だけで少しだけ気持ちが軽くなった。


 姉妹の痕跡こんせきを探しながら歩くサイラスは、森の中腹辺りで腰かけるのにちょうどよさげな岩を見つけた。隣に逞しい木が一本生えているだけのそれを中心として広がる開けた空間を、秋の柔らかな陽射しが照らしている。


「ふむ。急がばなんとやら、だ。お主よ、少し休んだらどうだ」


 オーラの提案に同意するように、半裸の枝がさわさわと手を招いた。

 ほんの少しの逡巡しゅんじゅんの末、サイラスは「そうだね」と誘惑のままに従った。

 椅子に座ると疲労がどっと押し寄せた。このまま寝てしまおうかと考えてしまうのは、過ごしやすい気温のせいに違いない。気を抜けばウトウトしてしまいそうだ。

 思い出したかのように飛来した眠気と格闘するため、サイラスはオーラのポケットから弓を取り出した。『宗茂むねしげ』の名を冠するその弓は、海を跨いだ東の国で使われる和弓に分類され、サイラスよりも頭ひとつ大きい。腰にあるショートソードとは比べ物にならないほど高価なそれは、没落したタルボット家に残された数少ない家宝であり、成人した日に貰った亡き父からの思い出の品でもある。


「お主が宗茂それを手にするとは珍しいのう」

「まあね。矢は消耗品だから、あんまり使いたくないんだけど、そうも言ってられないから」

「そんなのに金を使うなら、私に払えばいいものを。いくらでも力を貸してやるぞ?」

「嫌だよ。こっちの方が安上がりだし、なにより僕自身自分の腕の方が信頼できる」

「ふん、ひどい言われようだ」


 サイラスは聞こえなかったふりをして、オーラのポケットに手を入れる。

 毎度のことながら、魔法はすごいなとサイラスは思う。小さな体の腹部に浮かぶ半月状のポケットはサイラスの拳程度でありながら、奥行きも広さも底が知れない。今も、ぬいぐるみオーラがすっぽり入る大きさの矢筒がどういう原理か引っかかることなく出てくる。オーラに聞いても「偉大なる魔法に不可能はない」としか答えてくれず、謎は深まるばかりだ。

 考えていることがまる分かりのサイラスを見て、オーラは意地悪く笑った。

 可動域のないはずの口角が吊り上がったように見えて腹が立ったサイラスは、オーラの無防備な額にデコピンをかます。子供たちからの大切な贈り物だ。もちろん手加減はした。指がめり込む程度ではあるが。


「痛ッ!! なにをする!?」

「ムカついたから、つい」

「つい、ではないわ!! お主はホントに私のありがたさが分かっておらぬ!!」

「ちゃんと感謝してるよ。ただ、言動と気持ちが一致しないだけで」

「それが問題だと言っておるのだ!!」

「はいはい」


 適当に相槌を打ったサイラスは立ち上がると、矢筒を背負い、目を閉じた。 

 心を落ち着かせ、ゆっくりと目を開くと、森の中に的が出現していた。それは心の眼で捉えた仮想の存在ではなく、怒っていながらも、オーラが気を利かせて用意してくれた魔法の的だ。立ち並ぶ木々や葉が互い違いに重なっていて、射抜くのは容易ではなさそうだったが、適度な難易度への挑戦はやる気を増長させる。サイラスは目標を調整から、獲物を確実に当てることに切り替えた。

 ゆっくりと息を吐き、宗茂を軽く握り直す。


 和弓発祥の地には弓道なるものが存在する。一種の流派であるそれは、練習的で競技性が高く、とても実践向きではないが、“矢を射る”、その一点においてはかなり優れていた。サイラスも独学ではあるが、基礎である射法八節しゃほうはっせつを習得しており、調整に好んで利用していた。

 射法八節は名前の通り八つの動作で構成される。足踏みから始まり、残心で終わるそれらの一連の動作を途切れることなく、それでいて一つ一つを意識して行うことが大切とされている。サイラスもしっかりとそれらに則り、手順通りに矢を引く。

 足踏みと胴造りで打つ体勢を整え、弓構えで的をしっかりと見据える。最初こそ難しいと感じた難易度も、四番目の動作である打起うちおこしでつるを引く段階で精神の統一が完了し、邪魔な木々の存在ごと消え去った。優しさと報いでできた魔法の的だけが視界に残り、それに向かって伸びる一本の白い線がぼんやりと現れる。引分ひきわけを挟み、最終的には矢尻やじりと白線が重なる位置でかいを保つ。キリキリと体の中を満ちるなにかが九割になるかならないかのところで、サイラスは矢を放った。


 残心の状態で立つサイラスに見守られ、矢は空間を一直線に裂き、音を鳴らしながら飛んでいく。瞬きよりも短い時間で的へと到達した矢はど真ん中へと突き刺さる。オーラが仕込んでいたらしい魔法が発動し、的の周りを小さな火花が散った。

 

「お見事。弦が切れなければ、最高の一射だったな」

「だね。戦闘中じゃないのが不幸中の幸いだよ。まぁ、戦いになるとは限らないけど」

「そうだな。あの場で逃げを選ぶ腰抜けどもだからな」

「ハハ、僕としては迷惑になる行動はなるべく避けたいから正直助かったよ。カッとなって剣を抜くなんて、我ながら情けない」

「ふん、男はそのくらい血気盛んで良いのだ。馬鹿では困るが、臆病者ではなにも守れん」

「んー、臆病者が悪いとは思ないけど、少なくともこのままじゃ自分の身は守れないね」

「一人で弦の張り替えは難しいだろう。特別に手伝ってやる」


 末弭うらはずからだらんとぶら下がった古い弦を抜き取り、オーラの手を借り、新しい弦へと張り替える。弓の性質上かなり力のいる作業なのだが、オーラは涼しげな顔で弓張板ゆみはりいたの役割を務める。ぬいぐるみに筋力の概念があるのかどうかは不明だが、なんにしても魔法は本当に素晴らしいな代物なんだとサイラスはしみじみと感心した。

 さほど時間もかからず、矢をつがえる中仕掛けまで完成し、万全の準備が整う。弦の交換時期は五〇〇から六〇〇射と言われている。よっぽどひどい扱いをしなければ、しばらくは問題なく戦えるだろう。サイラスは心の底から戦わずに済めばそれでいいと思いながら、真新しい弦をピンと弾いた。


「ほれ」


 いつの間に回収してきたのだろうか。オーラの手には矢が握られていた。

 サイラスは矢を受け取ると、親指と中指の爪の上に置き、くるくると《の》を回して、歪みがないのを確認してから、オーラのポケットのに収納する。


「使えないのか?」

「いいや。でも、未使用の矢よりは信頼に欠けるから、今回は使わない。それだけさ」

「ふぅん」

「拗ねないでよ。野矢のやとはいえ、捨てずに済んだ。ありがとう」

「別に。用がないならさっさと行くぞ」


 照れ隠しのつもりか、ひとりでとことこと歩き出すオーラ。

 サイラスはその背中を見ながら、本弭の部分を持ち、肩に添えるように宗茂を担いだ。


「のう」

「ん?」

「それ、歩きにくくないのか?」

「めっちゃ歩きにくい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

没落貴族はいつまで経っても貧乏から抜け出せない @Taya_Tomone

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ