第百五十八話 あの日の思い出 ハベルメシアと反抗心を折られた日


 あれはそう、いま思い出しても恥ずかしくて悔しくて堪らなかった思い出。

 わたしの小さなイタズラから始まった出来事。

 

 ……というかいまでも思い出すとぶるぶると悪寒がする。

 特にモップ片手に掃除しているメイドさんたちを見かける度に思わず内股になってしまう。


 もうっ、なんでわたしがあんな目に合わなくちゃいけなかったの?

 ヴァニタスくんはほんっと酷い!


 




 ラゼリア皇女殿下より封印の森へと誘われたヴァニタスくんは、わたしたちを連れて封印の森へと向かうことになった。


 旅立つその日の朝。

 偶然なのか、ヴァニタスくんが疲れていたのか、わたしの方が先に目が覚めた。


「ふふ、寝てる……」


 隣でスヤスヤと寝息を立てるヴァニタスくんの髪を撫でる。


 むぅ、なんでサラサラなの。

 肌も指でつつくとモチモチしてるし。

 男の子なのに……。


「生意気、だよね。わたしよりずっと年下なのにさ。いっつも翻弄ほんろうしてくれちゃって。……イタズラしちゃおうかな。確か――――」


 ほんの出来心だった。

 なのにあんなに怒るなんて。

 しかも、わたしにあんな仕打ちをするなんてこの時は予想もしていなかった。






「これは何だ?」


 ちょっとしたを終えて、せっかく朝早く起きたからとお風呂に入っていたら突然呼び出された。


 執務室に連れて行かれるなり強引に正座させられる。

 見上げれば見るからに不機嫌といった様子のヴァニタスくん。

 ムスッと口を尖らせる姿は年相応でなんだか可愛かった。


「だって……旦那様が気持ち良さそうに寝てるから……」


 怒っているのはわかる。

 でも、ヴァニタスくんの顔を見ていると、思わず朝のことを思い出してニヤニヤと笑ってしまう。


「……どうやらまったく反省していないようだな」

「え〜、だってすぐに落ちたでしょ〜?」


 わたしはムスッとしたヴァニタスくんを尻目に笑い掛ける。

 自分でも改心の出来だったあの落書きにニヤけるのが止められない。


 そう、落書き。


 メイドさんたちに混ざって家事をしていた時に覚えていた絵の具置き場。

 そこにあった塗料でヴァニタスくんの顔に色々と落書きしちゃった。


 確か内容は『エッチなお子様』とか『変態ご主人様』、『危険人物接触禁止、特に夜』、『可愛いのは見掛けだけ』とか書いた気がする。


 でもいいでしょ。

 いっつもわたしの方が酷い目に合わされてるんだから。


 あ、でもちゃんと油性のインクとかは使ってないよ。

 今日は出掛ける日なのに中々落ちなかったらラゼリア様にも不振がられるもんね。


「……ああ落ちた。だがよくもやってくれたな。あんな罵詈雑言を書き殴るとは」

「ふふ〜ん、まぁねぇ。わたしだって毎度やられっぱなしって訳じゃないもん」


 どうやらヴァニタスくんはクリスティナちゃんたちに教わったか、鏡を見て実際に落書きを確認したらしい。

 ふふ、いま思い出しても我ながら的確な表現に笑っちゃう。

 

 これに懲りたらヴァニタスくんもわたしへの態度を改める。

 この時のわたしはそんなことを思っていた。


 そんなはずないのに。

 この時のわたしは調子に乗ってたんだ。


「……いいだろう。徹底的に教えてやる。どちらが『上』なのかをな」

「フ、フン、そんなこと言ったってどうせいつものことでしょ。ヴァニタスくんのすることなんてどうせエッチなことだけなんだから! わたしだってね。ちょっとは慣れるんだからね! 脅しには屈しないから!」


 どうせ何も出来ない。

 出来たとしてもエッチなことだけ。

 わたしは簡単に考えていた。


 だから予想出来なかった。

 奴隷への命令にあんなに幅があるなんて知らなかった。


「【僕が許可するまで排泄することを禁じる】」

「――――え?」


 しっかりと聞いていたはずなのに何を『命令』されたのか意味がわからなかった。

 は、排泄って何?


「……奴隷に対する絶対の命令権だ。これでも僕に逆らう気力が残るのか見物だな」

「え、排泄って……」

「どうせ僕のすることなどどうってことないとたかを括っていたか? 残念だったな。僕は僕のものに舐められたままには決してしない」 

「だって、まだ朝なのに……え、これからずっと……? え! ずっと我慢するの!??」

「そうだ。今日はこれから竜車に乗り封印の森へと向かう。だがお前にはその間我慢し続けて貰うぞ。――――大人なんだから漏らす訳ないよな」


 わたしに告げるヴァニタスくんはそれこそ悪いお子様そのものだった。

 ここからわたしの長い長い戦いが始まる。






 ラゼリア様も使う皇族御用達の封印の森へは結構な距離があるらしい。

 馬車では時間が掛かりすぎるため今回は竜車で向かうことになった。


 竜者とは特別に使役された小型の地竜に移動用の乗り物を牽引けんいんさせる馬車のようなもの。

 移動速度は馬車の何倍もあって、平坦な場所をルートに選べばさらに早く目的地に辿り着くことが出来る。


 ラゼリア様との合流もそこそこに竜車へと乗り込む。


 


 一時間経った。


 はじめに考えていたよりは全然余裕だった。

 というよりこれなら楽勝だななんてわたしは楽観していた。


「ハベルメシア様、よろしければご一緒にお紅茶をいただきませんこと? わたくし、この日のために良い茶葉を用意しましたの。ハベルメシア様もきっと気に入っていただけると思いますわ」

「……う、うん」

「今日はちょっと気温が高いようですからアイスティーにしましょうか。いまご用意しますわね」

「あ、ありがとう」


 移動の合間、休憩中にマユレリカちゃんにお茶に誘われる。

 断るのも不自然だし、なんとなく頷いたけど……大丈夫だよね。


 この日は確かにちょっと暑くておかわりまでして飲みすぎちゃった気もするけど……うん、わたしなら大丈夫。




 二時間経った。


 ちょっと、ほんのちょっとだけムズムズとする感覚がある。

 でも我慢出来なくもない状態。


 ……これならなんとかなるかな。

 封印の森へと到着するまで後半分。

 絶対に漏らしたりなんかしないんだから!




 三時間経った。


「んっ……くっ……フー、フー」


 竜車の振動は思ったよりものがある。

 しかも、波のように襲ってくる感覚はわたしに我慢なんか必要ないとしきりに訴えてくる。


 意識しなくても息が荒れ、自然とヴァニタスくんに助けを求めて目線を向けてしまう。

 でもそんなもの関係ないとばかりにすぐ逸らされた。


 ぐむむ……負けない!

 わたしは負けないんだから!




 七時間経った。


 何度かの休憩を挟んだからか少し予定より遅くなってしまった。

 でもやっと、やっと封印の森へと到着した。


 長い道のりにみんなもちょっとだけ疲れの色が見える。


 でも、わたしにはもう周りに気を配る余裕なんてほとんどなかった。

 辛うじて残る理性に、こっそりと人目を避けるようにしてヴァニタスくんの元へと行く。


 小声で『許して欲しい』と伝えたけど軽く無視された。


 う〜〜、なんてイジワルなの!

 絶対我慢してやるんだから!

 それで、ヴァニタスくんの方から謝らせてあげるんだから!!




 九……時間?


 封印の森の手前に天幕が設置され、拠点となる場所が整った。

 森の前へと設置された簡易拠点、これでみんなが休憩出来る場所が出来た。


 そろそろ夕ご飯の時間になる。

 お肉や野菜を煮込んだのか天幕の建てられた空間には何処か落ち着くようないい匂いが漂っていた。


 でも……わたしはそんなことより自分との戦いをいられていた。

 すでに波は何度も訪れている。

 訪れる度に強烈になる波に、太ももをつねっては痛みで誤魔化していたけど、それももう限界に近い。


 わたしは……どうすればいいの?

 もうわたし――――。




 限界だった。

 本当に限界の限界。

 立ったままなのに漏らしてしまいそうなほどの衝動についにわたしは――――。


「ん、ハベルメシアどうした?」

「…………」


 みんなの集まる夕ご飯の席だというのに、わたしは無意識にヴァニタスくんの服の裾を引っ張っていた。

 あまりにも目立つ行動にみんなの注目が集まる。


 でももう関係なかった。

 

「ご、ごめんなさい……もう無理です。ゆ、許して下さい」




 ニヤニヤと笑うラゼリア皇女殿下の背後からの視線に、居た堪れないものを感じながら、ヴァニタスくんを天幕へと連れ出す。

 もう我慢なんて出来なかった。


「ねぇ、ヴァニタスくん! も、も、もう、もう限界だから! ねぇもう許してよ! わたしが悪かったから! ねぇ!」


 わたしの懇願こんがんにもヴァニタスくんは眉一つ動かさない。

 それどころか『何が限界なんだ?』ととぼけるような至って普通の態度。


 な、何でなの?

 むぅ、ほんとにイジワル!


「ウッ……」


 ま、不味い。

 いまちょっと漏れちゃいそうだった。

 ぐっと内股になり我慢する。


「ねぇ、ヴァニタスくん! ホントに限界だからぁ!」

「そうか……」

「そうかじゃなくてぇ!」

「ならそうだな。仕方ない……ホラ、そこでならしてもいいぞ」

「え! ホントに!」


 希望が見えた気がした。

 ヴァニタスくんが許してくれた。

 わたしは喜んでしまった。


 ……もう何度も騙されてきたはずなのに。


「ああ……そこでならな」

「……ねぇ、そこって何処? トイレなんて……あっ、そうかヴァニタスくん用の天幕なら専用のトイレが……」


 必死に周りを見渡しても何もない。

 ……おかしい。

 おかしいよ。

 絶対にあるはずのトイレものが何処にもない。


「何言ってる。そこにあるだろう?」


 いつの間にかヴァニタスくんはあるものを指で示していた。

 その先を追う。


 あった。

 あってしまった。


「――――バケツが」


 想像もしたくない事態に視界がぼやける。


 ウソ、でしょ……?


 指先に変わらず鎮座ちんざするバケツに思わずゆっくりとヴァニタスくんを見る。

 自分が青褪あおざめているのだと何故か理解してしまった。


「え……? こ、これにするの? 冗談でしょ?」

「冗談じゃないが……」


 あまりに平坦なヴァニタスくんの声音に否が応でも悟ってしまう。

 本気なんだ。

 本気でわたしにこれにしろって言うんだ……。


「だって、だって! これただのだよ? それにこんなのにしたら……音が……」

「そうだな。バケツだ。もしここにあるいは水っぽいものが注がれれば……いい音が鳴るだろうな」

「ああ〜〜〜〜!!!!」


 初めから詰んでいたんだ。

 『命令』された時からすでにわたしの運命は決まっていた。


 ひたすらに叫ぶ。

 自分自身の不運を羞耻しゅうちと後悔の中で実感していた。


 何で!?

 こんなのってないよ!!


「だが僕も鬼じゃない。最低限の礼節は弁えている」

「え、ホントォ!?」

「後ろを向いていてやるから存分にするがいい」

「鬼ィーーーー!! 鬼畜きちくゥーーーー!!」


 ありったけの悪口を叫ぶわたしに、ヴァニタスくんは不敵に口の端を釣り上げると乱暴にバケツを蹴った。


「ほら、早くしろ。でなければもっと恥ずかしい目に合うことになるぞ。……もっとも服を着たまま恥を晒したいならそれでもいいがな」


 この日わたしは屈辱を味わった。

 わたしはこの夜のことを決して忘れないだろう。


 ……というより、忘れたくても忘れられない。






「聞かれた……旦那様に聞かれちゃった……」


 翌日の朝方、ヴァニタスくんと嘆くわたしにラゼリア様が近づいてくる。

 珍しく気まずそうだった。


「あー、ところでヴァニタス。昨日は何処とは言わないが騒がしかったな。特に私はヴァニタスの隣のテントだったからかもしれないが、何か絶叫のようなものが聞こえ――――」

「う、嘘!? このテントは中の声は外に漏れないはずじゃっ!?」

「はぁ……いまのはカマをかけられただけだぞ。僕の天幕は防音だ」


 ま、また騙された!?

 ラゼリア様まで……何でなの!?


「ハハ、スマン、ついな。ヴァニタスの元にいるお前を見るとからかいたくなるんだ。許せ」

「うぅ……もうやだ……」


 はっきりと思い知らされていた。

 旦那様は本当に……本当に酷い御主人様だって。


「うぅ……わたしにあんなことをしてぇ。ぜ、絶対に許さないんだからぁ」

「そうか、その時はまたお仕置きだ」

「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」











★評価、フォロー、ご感想をいただけると幸いです。


貴方様の応援が執筆の励みになります!


どうかよろしくお願いします!!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る