第百六話 なんで逃げ切れると思った?
満月の夜。
封印の森から数十キロメートル離れた林の中に、周囲から隠れるように孤立した薄汚い小屋があった。
元々は近場の森林資源を得るために土地の管理者の建てた仮の拠点。
窓は割れ、壁には蔦が
街道から外れたその小屋は、当然近隣の街からも離れた立地にあり、魔物への侵入対策でもある外壁の外のため、常に魔物の脅威に晒されている。
しかし、旅人や遭難者、大陸を縦横無尽に移動する冒険者にとっては、一時とはいえ雨風をしのげるだけでもありがたい存在だった。
そこに彼らは潜伏していた。
「……オイ、
「…………」
「水だよ、水。コップの水をくれ」
「…………」
「チッ」
外見から見れば
その中でも汚れや染み、引っ掻き傷こそあるが、大きな損傷のない寝台に横たわる男がいた。
つい数時間前まで月食竜エクリプスドラゴンを首輪の力で意のままに操り、グラニフ砦、ひいてはそこに配属された騎士たちに甚大な被害を及ぼしたその男の名は――――モーリッツ・アバチア。
彼は再三の問い掛けにも無言を貫く
ぎこちない動きだった。
当然だ。
彼の右手と右足はすでにない。
一方はヒルデガルドが跡形もなく削り切り、もう一方はヴァニタスが魔力砲撃で吹き飛ばした。
処置の結果か出血こそ止まっているものの、彼は無くなった己の手足を見詰め苦い表情を浮かべると、なんとか水の入ったコップを手に取り口へと運ぶ。
「ウ……ウグ、プハァっ…………クソっ……なんでオレが水を一杯飲むだけでこんなに苦労しなくちゃならねぇんだ」
「…………」
「それにしてもこんなボロ小屋しか用意出来なかったのか? 街で適当な民家を奪えばそれで良かっただろうが、そうすればいまより遥かに快適に過ごせたものを」
「…………」
「……あの生意気なエリメスもいねぇ。エクリプスドラゴンも結局回収出来てねぇ。……今回の指令は失敗だ。それもこれも全部! アイツのっ! ――――まあいい、もうあんな
「…………」
モーリッツだけが独り言のように口を動かし続ける静かな夜。
割れた窓からヒューヒューと
「…………外を見てくる」
「好きにしろ。どうせオレは
「…………」
「……なんとか言えよ、ったく」
出口たる扉も歪に曲がった廃屋。
彼は振り返らなかった。
ただ闇夜に当たり前のように消えていく。
「痛え……」
既に無い腕と足の痛みにモーリッツは顔を歪めた。
無くなったはずの手足の痛み。
彼は
その鈍痛の中、いつまで経っても脳裏をよぎるのは、昼間自分をこんな目に合わせた張本人の一人、ヴァニタスのこと。
「……ヴァニタス、あいつは一体何者だったんだ? 貴族の坊っちゃんには間違いねぇ。だがヤツは……オレたちの組織の名前を知っていた。普段は表に出ることの少ないオレのことまでも知っている素振りを見せた。なにより、あの
昼間のグラニフ砦近郊での激闘が嘘のように静かな夜。
ふとモーリッツは割れた窓から外へと視線を移した。
そこには雲一つない夜空に浮かぶ満月。
月明かりが嫌に眩しかった。
彼は……油断していた。
ここを安全な場所だと錯覚していた。
自分はあの命の危機から逃げ切れたんだと信じていた。
――――その声を聞くまでは。
「
「ぅ……ぁ……なん、で?」
聞こえるはずのない声。
聞こえてはいけない声。
深夜の林の中に響くにはあまりに不釣り合いな少年の高い声。
アレはつい数時間前まで幾度となく聞いていた――――。
「――――
小屋が一瞬で
屋根が、柱が
「う、うおっ」
埋もれる。
恐怖からモーリッツは魔法を発動した。
「ち、地殻大百足!」
それは己の身を守るための咄嗟の行動。
魔力は昼間のあの時から大分回復している。
魔法の行使に支障はなかった。
だがそれよりも、生き埋めになり窒息、あるいは圧迫死することよりも遥かに恐ろしい事実が頭から離れない。
(いるはずがない! いるはずがないだろ! オレは逃げた! アイツの手の届かないところへ逃げられたんだ!)
ひたすら自分に言い聞かせる。
その
鎧のような甲殻を纏った大百足はモーリッツに覆い被さるように落下してきた瓦礫を押し退けると、モーリッツを月明かりの照らす地上へと這い上がらせた。
彼は見た。
見たくもない現実を。
「…………な、なんでいる。なんでいるんだ!」
夜空に浮かぶ月の光に照らされる影。
地面から必死に見上げた先に彼はポツリと立っていた。
瞳は闇より深い漆黒。
銀に近い
右手には厚く巻かれた白い包帯。
視線は氷塊のように冷たかった。
「――――ヴァニタスゥ!!」
モーリッツにはもう
「なんで? さあ、なんでだろうな」
「ああ、ああ、
共に逃走した相方を呼べども返事はない。
悲鳴のような声は虚しく闇に消えていくだけ。
そこに新たな人物が闇より現れる。
筋肉質なスラリと長い手足に、豊満な胸を揺らす大柄な女性。
「……あの男ならもう逃げたようだな」
「ラゼリア・ルアンドール! 皇女、まで。それより……
「ウム、こうも正面からまともに戦わない相手とはな。……せっかく汚名を返上するべく張り切って来たというのに……残念だ。またもや逃げられるとはな」
「……そう気に病むな。戦ったというより少し衝突しただけだが……あの男は別格だった。少なくともこの場に無様に這いつくばる
「ヴァニタスに励まして貰えるのは非常に嬉しいが……私もいま以上に成長しなければと痛感したよ。鍛錬の旅だけでは到底足りなかった。まだまだ私には足りないものがある。私にも……力技でない戦い方が必要かもしれん。だがどうにも私には合わない、それが課題だな」
激しく動揺するモーリッツを無視し、ヴァニタスとラゼリアは軽い談笑を続ける。
といっても彼らは地面に這いつくばるモーリッツから視線を逸らすことはない。
もう彼を逃すつもりなど彼らにはなかった。
「アイツ……オレを見捨てたのか!?」
「ん、ああ、見捨てたというより囮にされたんじゃないか? あまりに撤退が早い。それにお前を守る素振りもない。僕たちがここに来た時にはもうヤツの姿はなかった。お前何をやった? その状態で置いていかれるなんて相当恨まれているぞ」
「馬鹿な! 馬鹿な! オレが……捨てられる?
「……逆らえない?」
「ああっ、クソっ、いやいまはそんなことより。ヴァニタス! 何故お前がこんなところにいるんだ! 怪我は、あの時のお前はもうボロボロだったはずだろうが! それにどうやってこの場所を見つけた! オレはお前から逃げ切ったはずだ!」
「? これはおかしなことをいう。逆に聞こう。――――なんで逃げ切れると思った?」
「!?」
「お前が何を仕出かしたか。自分が一番良くわかっているだろう? 犯した罪から逃れられるとでも思っていたのか?」
「ぐっ……」
「……まあ罪の話はいい。お前が好き勝手動いていたように、所詮は僕もお前と変わらない。同じ穴の
「ハァ、ハァ……」
「どうした息が荒いぞ。そう興奮するな。そうだな。せっかくだ。教えてやろう。僕がここに来れたのには大きく二つ理由がある」
月明かりの照らす中、ヴァニタスは二本の指を立てる。
それは油断から来る迂闊な行動ではない。
「一つ、僕たちには優秀な仲間、いや正確には配下かな。監視や追跡に長けた人物がいる。その彼女にお前たちを尾けさせた。……もっとも彼女に命令したのは僕じゃないがな」
「尾行……だと? ウソ、だ。オレたちは尾行されるほど間抜けじゃない!」
「フ、私の護衛さ。彼女は実に優秀でね。彼女に無理を言って頼んだ」
「皇族の……影の護衛かっ!?」
「いまは
ラゼリアに闇から耳打ちする姿なき人物こそ皇族の影の護衛シスカ。
当初はラゼリアの追跡の命令にも皇帝陛下直々に護衛の任を受けていると中々動くことのなかった彼女だが、ラゼリアの
「もう一つはお前もよく知っていることだ。お前たちが置き去りにしていったものを有効活用した。……彼女は教えてくれたぞ。お前たちが宿にするだろう場所を、逃走するだろうルートを」
「まさか……エリメスか! 生きていたのか。しかもオレたちの情報を! あの女ぁ!!」
「彼女は実に簡単に話してくれたよ。お前たちがどこで補給し、どんな道を使い、どういった手段で身を隠すか。事細かにな」
エリメス・ロコロフィ。
クリスティナに敗れ捕らえられた彼女は、ヴァニタスがモーリッツたちを取り逃し、グラニフ砦に戻った際、その存在を知り真っ先に話を聞きに行った人物。
元々仲間意識もない集団。
ヴァニタスの問いにエリメスは即座に口を開いた。
彼女の口は仲間を売るにしては信じられないぐらい軽かった。
「さあ、もう疑問は解消したな。モーリッツ。払いきれなかった分を
「ま、待て。オレを殺していいのか! オレは幹部だぞ。結社の情報を複数持ってる。秘密結社、
モーリッツは必死だった。
これを逃せばもう結末は見えている。
だから醜くとも命乞いをするしかない。
ヴァニタス・リンドブルムにそんな
「そうか。……だが悪いな。お前の情報は信用出来ない。たとえ拷問の末に吐いた情報でも信じるに
「そん、な……」
「それに情報源は他にいる。
ヴァニタスは左手を握る。
それは掌握魔法による魔力集束のための動作。
だが違った。
普段とはまったく違う光景がそこにはある。
「なん……だよ。その炎は……」
火炎。
ヴァニタスの左手、その握った拳を中心に、腕を伝うようにして猛々しい火が闇を切り裂き煌々と燃える。
「これか……僕の制御力の問題かな。何故かこの魔法を使うとこうなるんだ。漏れ出た魔力が予期せぬ形で表に表れてしまう。……本来は手のひらの内側に圧縮されるべきなんだが……まあこの火で僕自身は火傷する訳でもないし、これはこれで分かりやすくていいか」
「そんなもの……エクリプスドラゴンとの戦いでは……」
「切り札は最後まで取っておくものだろ? それにこれは現時点ではあまり威力には優れていないんだ」
ヴァニタスの扱う火の魔力。
先天属性が『虚無』であるはずの彼が何故『火』を扱えるのか。
その
大気中に含まれる魔力から特定の魔力だけを選び取り集束する
いまはまだヴァニタスが扱える魔力の種類は多くない。
だがいまヴァニタスが手中に収める力は、弱り地面を這う男一人を焼き尽くすには十分だった。
「その炎で……何をするつもりだ?」
恐る恐る尋ねるモーリッツ。
彼にももうわかっている。
この火炎は
「何って……蟲を駆除するなら火に限る。そうだろ?」
「やめ……やめろ。やめろ! やめろぉ!!」
「これで本当にお別れだ。……じゃあな、モーリッツ。――――
ヴァニタスの前方に突き出した左手から逆巻く火炎が放射される。
拡散する火の波。
「あ゛あ゛! アツい! あ゛あ゛、あ゛あ゛ッーーーー!!!!」
断末魔の声が聞こえる。
猛る火の中にのたうつ影が見える。
「地獄の炎とはいかないが中々の火力だろう? 精々楽しんでくれ。うむ……もう聞こえていないか」
彼は満月の夜に灰となって消えた。
その死を知るものは世界に何人もいない。
悲しむものはさらにいない。
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