第三十四話 ラパーナは眠れない


「主、次、いく」

「この訓練……主様は本当に変わったのだろうか……?」


 クリス姉とヒルデ姉は同じご主人様に仕える仲間だ。

 ただし、仲間といっても同じ奴隷というだけ。

 経緯も、境遇も、年齢も異なる三人。


 しかし、わたしたちはある意味で固い絆で結ばれているはずだった。

 理不尽な暴言と暴力を振るうご主人様に共に耐える仲間として。


 ご主人様……ヴァニタス・リンドブルムは変わった。


 確かにそうだ。

 奴隷に自らに向かって魔法を撃たせるなんて以前では絶対に考えられなかった。


 魔法は……痛い。


 ご主人様の光魔法で撃たれる時、わたしは痛みと恐怖からいつも声をあげてしまう。

 クリス姉とヒルデ姉は鍛えているお陰か余裕そうだけど、わたしは違う。


 わたしは弱い。

 いくらご主人様の魔法が鍛えていない弱いものだとクリス姉に説明されても、自分に向かって勢いよく飛んでくる物体に恐怖を覚えないなんてことはない。


 勿論クリス姉もヒルデ姉も私が的に指名されそうになるといつも庇ってくれるし、ラヴィニア奥様はわたしが少しでも怪我をしていたら回復のポーションを使用人の人を通じて渡してくれる。

 だから耐えられた。

 一緒にこの理不尽に耐えてくれる仲間が、姉たちがいたから……。


 でも、それも間違いだったと悟った。






「ご主人様もヒルデ姉も本当に楽しそう………………なんで?」


 楽しそうに模擬戦を続けるヒルデ姉が信じられない。


 ヒルデ姉のご主人様を見る目が変わってしまったのを信じたくない。


 ヒルデ姉にとってご主人様は何でもない相手だった。

 取るに足らない相手。

 いうなれば自分に危害を与えるほどではない存在。


 奴隷でありながら理不尽な主に恐怖心をもたない。

 強く確固たる自分をもつヒルデ姉はわたしにとって希望だった。

 憧れだった。


 でももう変わってしまった。


 ヒルデ姉はご主人様に可能性を感じていた。

 何かを見出してしまった。


 それはきっとヒルデ姉にとって大切なことで、ご主人様は取るに足らない相手からその先を見てみたい相手に変わっていた。


 ヒルデ姉の瞳に弱く先もないわたしは入っていなかった。






 そして事件は起こる。


「……なんで? なんでクリス姉は嬉しそうなの? あんなに理不尽な暴力を振るうご主人様をきらっていたのに。わたしに共に耐えようといってくれたのに……なんで?」


 奴隷商人の店でわたしは見てしまった。


 人が人に魅入られる瞬間を。


 共に歩む人だと認めてしまう姿を。


 ご主人様の胸の内で呆けた様子で我を失うクリス姉を!


 ああ、何故?

 何故二人とも簡単に騙されてしまうの?

 転生なんて、別人だなんて口から出たでまかせかも知れないのに!


 あの辛い日々をわたしは忘れていない。

 殴られたことも、蹴られたことも、魔法の的になったことも、ののしられたことも、嫌らしい目で見られたことも、汚い手で撫でられたことも、全部、全部わたしは忘れていないのに!


 クリス姉もヒルデ姉もわたしの味方だと信じていたのに!






「ラパーナ、今夜僕の部屋に来い。……意味はわかるな?」

「!?」

「っ!? 主様、それは!?」

 

 聞きたくなかった。


 そう、わたしはクリス姉やヒルデ姉とは違う。

 わたしはたとえ『命令』でなくとも断れない。

 歯向かう意思がくじかれていた。


 いや……もう耐えられなかったんだ。


「ラパーナ、元気、出して」

「ラパーナ……私から主様に掛け合ってみる。主様も何かを……そう、間違えただけだ。私に契約の変更を待って下さったのだからラパーナに無体なことをするはずがない。少し部屋で待っていてくれ。すぐに――――」


 二人を信じられなくなっていた。

 すべてが敵にしか見えなかった。


「いいよ……クリス姉……わたしご主人様の部屋に……いくよ」

「ラパーナ!」

「ご主人様が望んだことだから……」


 二人の心配そうな顔を振り切ってわたしはご主人様の寝室を訪れた。

 きっともうこの時のわたしは限界だった。


 ご主人様に添い寝をしろといわれベッドに横になる。

 中々寝付けない中、華奢な背中が目に入る。

 細い首がわたしの目の前にあった。


 わたしの弱い握力でも精一杯力を込めれば折れてしまいそうな首が。


 気付けばわたしはご主人様に馬乗りにまたがっていた。

 両手を細い首にかける。


 ふとわたしは奇妙なことを思い出していた。

 ご主人様が変わったと告げた日、耳を身体を撫でられた日。

 あの時だけは何故かご主人様の手を汚いと思えなかった。


 撫でる手付きが優しかったから?

 思わず声が漏れるほど……心地よく感じたから?

 

 ただ……彼の撫でる手は物を扱う手付きではなかった。

 簡単に壊れてしまうものを慈しむような……そんな繊細さがあった。


 それでもわたしは彼の首を締めた。


「カ、ハッ!」


 首輪が締まる。

 罰だった。

 主に反抗した奴隷への調教のための罰。


 でも……ご主人様はそれすら許した。

 『命令』による罰の取り消し。


 わたしは見上げる。

 漆黒の瞳がわたしを見下ろしていた。

 反抗したわたしを責めるでもなく、呆れるでもなく……真摯しんしに。

 こんなわたしに向き合っていた。


 苦しみ絨毯に横倒れになったわたしはすべてをさらけ出していた。

 わたしに出来る可能な限りの糾弾を彼に浴びせていた。


「――――それがすべてか、ラパーナ?」


 でもご主人様は意に介さない。

 表情は変わらず、感情も大きく動かない。


「泣くな……こっちに来い」

「え……?」


 いつか何処かで見た光景のようにわたしはご主人様に手を引かれていた。

 強引に……違う、導くように引き寄せられていた。


「ここに横になれ」


 ご主人様の膝にわたしの頭が乗っていた。


 わたしは――――。











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