第5話 彽徊・低回・低徊←どれが正解?どう回る?徘徊との違いは?
国語の授業で「芥川龍之介」といえば、たいだい「羅生門」。そこにこのような一節がある。
――下人の考えは、何度も同じ道を
「逢着」についても、またいつか取り上げたいが、今回は「低徊」がテーマ。
ただ回るのではない。『大辞林』(三省堂)によると、
「行きつ戻りつすること。心を決めかねて同じところをうろうろすること。徘徊。」
とある。
では同じ意味なのかと「徘徊」を調べてみると、
「目的もなく、うろうろと歩き回ること。うろつくこと。」
ここで注目したい点が、ふたつある。
(1)ていかい=はいかい だけれど はいかい=ていかい ではない。
(2)「ていかい」には、様々な表記がある(彽徊・低回・低徊)のに「はいかい」には「徘徊」しかない。
(1)については、高等学校の数Ⅰで学習する「十分条件」と「必要条件」の関係で考えてもよいが、次のような使い分けができる。
【ていかい】
うろうろすること、だけれども、どちらかといえば、「あれこれと思案を巡らせながら」というニュアンスを含むことが多い。
【はいかい】
うろうろすること、という意味では「ていかい」なんだけれど、そこに「あれこれと思案を巡らせながら」というニュアンスは無い。
いや、実際には「徘徊」も、傍目から見れば「徘徊」だけれども、実は演芸発表会で詩吟をやることになって、脳内リハーサルしながら歩き回っていたのかも知れない。でも当人の内面までは考慮されないことが多い。
「認知症を起因とする徘徊」が地域の社会問題になることが多いけれども、「ていかい」は社会問題にはなっていない。
(2)について。ここまで「ていかい」と平仮名表記だったのも、私が認識しているだけで、
彽徊
低回
低徊
3つの表記があるからだ。私の大好きな「呪術廻戦」の「廻」でもなく「ぎょうにんべん」でなければいけない理由なども、考察したい。
さてまずは「彽」か「低」か。
調べてみると、実は司馬遷の『史記』に「低回」と出てくる。これは私も意外だった。「低回」が時代的に最も新しい表記だと思い込んでいたのだ。
実は「彽」という文字こそが「行きつく」という意味を持つので「行きつ戻りつ」ということでいえば「低」ではなく「彽」でなければいけないはずなのだ。ただ見た目が似ていて発音が同じだから「低」も使われるようになった、と思っていたら、紀元前から「低回」が用いられていたなんて。
それでいうと「かい」も同様。「ぎょうにんべん」がつく「徊」は、この文字だけで「行きつ戻りつ」という意味がある。
漢語で「
要するに、文字の成り立ちからすれば「ていかい」は、
彽徊
と書くのが正解であるはずなのだ。ところが紀元前の大昔にはすでにこれが、大学者・司馬遷の手によって、
低回
という表記で広まって、今となってはもう「どっちでもええ」状態になっているのか。
いやしかし・・・司馬遷大先生直筆版『史記』では
「彽徊」
となっていたのを、当時印刷機なんて無いから、お役人や学者さんたちが書き写すのに「ああめんどくせえ」と
「低回」
にしちゃって、それがまるで司馬遷本人がそう書いたかのように広まってしまっているのかも知れない。
古典は「写本」として広まった歴史があるから、例えば日本では『古事記』や『萬葉集』などでも、写本によって漢字表記がマチマチで「どう書かれていたか」問題は本当に切実。『萬葉集』でも『校本萬葉集』という、どの写本がどんな漢字(万葉仮名)表記を用いているか、詳細に比較研究された事典が発表されるまで、混乱は続いた。研究は今も継続中。平安時代から令和に至るまで、研究され続けている。
鴨長明の『方丈記』なんて、写本の写本の写本・・・と写されていくうちに、長明さん本人が書いてもいないエピソードまで勝手に追加されて広まってしまうなど「写本」の世界は沼・・・だからこそ面白いところもあるんだけれど・・・
結局「ていかい」はどれが正解なのかって、まあ、今となっては、どれでも正解。
芥川は「低徊」を選んだ。選んだ理由は本人に聞かないとわからない。「彽」には「行きつく」という意味があり、下人はまだそこまで「行きついていない」、つまりその時点では「老婆の着物を奪う」という決断はできていない、だから「低徊」という表記をあえて、選んだという、ちょっと待ってこれ、近代文学専攻の方?誰かこれ、論文は書かれていますか?ええ!?誰も書いていない?(そこを調べるまでの元気はない)
(おまけ)
ちなみに私の大好きな「呪術廻戦」の「廻」は、どうして「廻」じゃないとダメなのか。「廻」は、
まわる
めぐる
まわす
めぐらす
かえる
もどす
という意味があります。
もし「呪術徊戦」だったら、打ち切りになっていたかも知れないです。呪術師が、行ったり来たり、呪ったり、呪わなかったり、どっちつかずの戦いをする物語。
参考:『大漢語林』(大修館書店)
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