愛ある食卓を
寧々子
第1話 無職になった日
仕事を辞めた。付き合って一年の彼と、結婚を前提とした同棲を始めるために。
今まで長く続いた仕事なんてそんなになかったけれど、今回のところは割と長く勤めたんじゃないだろうか。
工場勤務、一年半。
人によっては辞めるのが早いと感じるかもしれないが、私的には長かった。残業も多かったから、余計にそう思うのかもしれない。
そもそも私は、昔から接客業をしていた。大学の頃はコンビニのバイト、卒業してからは携帯ショップの店員だったり、はたまたガールズバーの女の子だったり、旅館のダイニングスタッフだったり。コンビニとダイニングスタッフは、その中でも特別楽しかった。ストレスがなかったわけではないけれど、お客さんと他愛もない話ができたり、感謝をされたり、そういうささやかな幸せが一番感じ取れるやりがいのある仕事だった。
それがどうして工場で働くことになったのか。ただ、疲れたなあと思ったから。
はっきりと覚えている。その日の旅館の予約は満室だった。だからお夕飯も当然混みあうわけで、私たちスタッフはバタバタと対応に回っていた。ダイニングを駆け回って、二十一時ごろ、やっと終わったと思って事務所に上がれば、わざわざタイムカードを切った後にサービス残業で支配人のお小言をくどくど聞かされる。その日は特にひどかった。自分たちはこんなに頑張っているのにだの、ダイニングのせいでうんたらかんたら、口コミの評価がどうのこうの。でも私は知っていたんだ。ダイニングについて悪く書かれることはほとんどなく、悪い口コミの内容の大体が客室に関してのことばかり書かれていることを。
次の日の朝も早くから仕事だということはわかりきっているはずなのに、早く帰してあげようとかならんもんかね、なんて心の中で思いながら帰りの車を運転した。借りているボロボロのアパートに着き、部屋に入ってすぐにベットで横になる。
気づけば、天井を眺めながら小さく、疲れた、と呟いていた。
疲れた。色んな事に。料理長のご機嫌を取るのも、支配人のお小言を聞くのも、というか人と関わることに疲れた。心が疲弊していた。
辞めることを決意した。このままではきっと、何も楽しくなくなってしまうと思った。他人のことなど気にしないでもくもく作業できる仕事、といえば工場しかないだろう。そこまで考えついてからの時間は、あっという間だった。
休みの日に面接を受け、合格になった瞬間に辞めることを伝えた。支配人はやっぱり、くどくどと文句を言ってきた。
「今やめられたら回らなくなるのわかりますよね?」
いや知らねー、どう考えても会社側の責任では? なんて心の中で返してから頭を下げた。しばらく支配人の言葉を黙って聞いていた時、意味の分からない言葉が耳に届いた。
「他の人にも家庭があるんですよ」
これには、形ばかりの申し訳なさそうな顔で話を聞いていた私も、さすがに黙っていられなかった。
「は?」
おそらくこの人の前で、というよりは仕事場で出したことなんかないくらいの低い声で聞き返した。まさかそんな返しが来ると思っていなかったらしい支配人は、ぐっと押し黙った。それから数秒して、喉の奥から絞り出した声でわかりました、と言ったのを聞いた時、勝ったと心の中で見事などや顔を披露した。
そこからはトントンと物事は進んだし、最終日もあの人の顔を見ることなくさっさと帰った。もう二度と会いたくないな、と今でも思う。
初めての工場での仕事は、なかなか楽しかった。私が配属された部署の人達がいい人ばかりだったから、それなりに楽しく過ごせていた。難しい作業をしなきゃいけないわけでもなかったし、土日は完全に休みだし、給料はいい。接客をして生きてきた私からしたら、かなりの好待遇だった。ただ、何事も飽きがくるというか、一年を迎えたころにはもういいなあと思っていた。そろそろ心の疲れもとれたようで、もう一度接客業をしたいと思ったのだ。
今日からしばらくの間ニート生活かあ、なんて考えながら新居となった彼の住むアパートに帰る。
工場での最終勤務は夜勤だった。残業もあったし、彼とは入れ違いになるので、今頃向こうはもう会社に向かっているだろう。
新しい仕事が決まるまでの間、私が家事をすることになる。別に嫌いではないから苦になることはないだろうが、一番心配なのは料理だ。
そりゃあ人並みには出来るつもりでいるけれど、彼も自炊をするタイプだから不味いと思われたら辛い。
「がんばるかあ~」
仕事終わりで少し疲れ気味の、やる気のない声が出た。でも、気持ちは十分だ。
きっと彼も疲れて帰ってくるだろう。だからこそ、これからは私が、彼に愛のある食卓を届けるのだ。
愛ある食卓を 寧々子 @kyabeko
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