第一夜 ー5(2)


「失礼いたします。ご朝食をお持ちしました」

 齢に程よく乾燥した声が、柔和な笑みと共に扉を開いて入ってくる。受付の老人だ。小ぶりだがホテルで見るようなワゴンに食事をのせ、そのままてきぱきと、白葉が座ったままのベッド上に、朝食の準備を整えていく。

 ひとり用の大きさの足つきのベッドテーブルが小脇に置かれ、しゃれた名称のついていそうな食パンではない高そうなパン、家庭用に見えない皿と盛り付けの目玉焼きにベーコン、彩の美しいサラダ、ヨーグルト、フルーツコンポート――と充実した朝食が並んでいく。みるみる目の前に支度されていったそれに、白葉はもはや呆然とするしかなかった。


「……海外ドラマの貴族かよ……」

「朝食というよりはもうブランチの時間だけれどね。中村の料理の腕は確かだから、どうぞ堪能して」

 貴子の言葉に、恐縮ですと微笑みながら、老人は部屋の広い窓を覆うカーテンを開ける。とたんに寝室の柔らかな照明などより、ずっと強く眩く差し込んできた陽光に、白葉は目をすがめた。

 ひどく空腹であることは間違いなかったので、ひとまずパンに手を伸ばす。眠れぬせいかいまひとつ食欲を覚えなかった昨日までが嘘のようだ。


「……うま!」

「それもこの焼き菓子も、手製なの。美味しいわよね」

「ありがとうございます」

 紅茶傍らに焼き菓子を頬張る貴子へ、老人は軽く頭 《こうべ》を垂れる。

 確かに、素人とは思えぬ仕上がりだ。種類の違う小ぶりのパンが、おしとやかに二個だけ並んで、バスケットから香ばしい匂いを放っているが、いくつでもいけそうである。


「なにこれ、胃袋を握られる」

「食事はいつも中村か、雇いのプロが作っていってくれるから、味は保証できるわ。寝室はここともうひとつ、ふたつ、あまった客室があるから、好きに選んで。身の回りの品は好みがあるだろうから、明日来る外商にいいように頼んでくれればいいわ」

「やめて、謎の高品質で俺の衣食住を保障してこないで」

「職歴も、私の医院か、実家の系列会社のどこかに勤めていたことにすればいいんじゃないかしら? そもそもきちんと職務に見合った給与は支払うし、すべて〈胡蝶〉を封じられた時は退職金も用意するわ。そうしたら、そもそも次に職歴を書く必要もなくなるかもしれないし、私の式神となることで、困ることはないはずよ」

「怖い! 話がうますぎる! 普通に怖い!」


 するすると提示される福利厚生以上のなにかに、白葉は身を抱いて叫んだ。だが、花綻ぶ微笑みは、相変わらずどこか掴みどころなく浮かべられるばかりだ。

「だって、当然ではない? 夢路を繋げる資質を持つ者は限られている。その数少ない力は適切に揮われるべきだし、身命を賭す以上、使う側は相応の対価で贖うべき。それだけのことよ」

 柔らかな声音は変わらぬはずなのに、ふっと硬質な――反論を阻む強さのようなものが薫って、思わず白葉は貴子の表情へと目をやった。

 だが、それを意図なく断ち切るように、最後のフィナンシェを優雅に片付け、紅茶に口づけて、貴子は席を立つ。

「今日は午後から診察なの。シャワーを浴びて出るわ。中村はここにいてもらうから、なにか困ることがあったら言ってちょうだい」

 波打つ海色の長いスカートの裾をふわりとゆらして、微笑みがさっとドアの向こうに消えていく。


 中村老とふたり、取り残されて、思わず彼を無言で見つめる。よほど途方に暮れた顔をしていたのか、深々と老人に頭を下げられてしまった。

「いろいろとご気苦労をおかけして申し訳ありません」

「いえ……いや、まあ……本当にそうですね」

 取り繕う気力を途中で削がれて正直に物申す。中村は気を悪くした風もなく、白くふっさりとした眉と温和な垂れ目で、柔らかな笑みを描いた。

「お嬢様は少々特殊なお育ちなので、いわゆる普通の人の心の機微とは、ずれたところがおありになります」

「ああ、そんな感じ……というか、お嬢様? え? そもそも、中村さんはどういったご関係の人で?」


「ご幼少の頃より、お側仕えをしております。執事、というのが一番近いでしょうな。本家を出てこちらでお暮しになり始めてからは、しばらく離れておりましたが、このたびの〈胡蝶〉騒動でまたお側に呼んでいただきまして。病院の受付事務から、家事全般まで、貴子様の身の回りの細かなお世話事をしております。黒峰殿の運搬なども仰せつかりましたな」

「ちょ……! 俺運んだの、中村さんなの? 噓でしょ?」

「こう見えて、鍛えておりますので」

 ほっほっほと笑う、柳のような老人のどこに、自分より背の高い男を運ぶ力があるというのだろう。にわかには信じがたい思いで、白葉は不躾な視線を上下させた。


「にしても、どういったおうちの『お嬢様』なんすか? なんか巫女とか言ってたのは聞いたんですけど、結局よく分からず仕舞いのままというか、なんか色々教えてくれてはいるみたいなんすけど、頭に入ってこないというか……」

 事と次第が許容を大いに超えているうえ、理解を拒んでいる部分がある。思い返してみれば、彼女が何者かも、実はよく分かっていない状況だった。

「では、手短にお話いたしましょう。どうぞ、お食事なさりながら」

 そう奨められるままに、中村手製の朝食に舌鼓を打ちつつ、白葉は彼の話に耳を傾けた。


 いわく、貴子の生まれた月宮家とは、祖を辿ればやんごとない血筋の名家なのだという。いまは土地を転がし、株を運用し、会社から病院まで手広く経営して、先祖代々の資産を育て、増やし続けているらしい。白葉がまず疑った、法に触りある組織ではないということだ。

 正直、まだ危ぶんでいる部分はあるが、素直に言われたままを信じておくと、そうした俗世的な生業は月宮家の莫大な財産の礎となりながら、しかし副業でしかないのだそうだ。本業は古来より変わらぬ巫祝ふしゅく――つまり、神事に携わる業務になるという。

 特に月宮家は、夢という異界に関与できる力を持っている点で、特別らしい。


「夢とは、もっとも身近な異界ですからな。己が属さぬ世に力を及ぼすというのは、困難をきたすものです」

 とのことだが、白葉にはいまいち、その特異さがぴんと来ない。ただ月宮家は、そうした稀有な力を持つゆえ、人の世に災いを呼ぶ此の世ならざらぬモノ――禍つモノを、代々打ち払う役目を負ってきたそうだ。

 時代の移ろいとともに、そうした魔を封じる業は、世人の前で活躍する機会が減っていっていたが、いまなお脈々とその血と力は、役目と共に受け継がれているらしい。


「つまり、先祖代々続く、偉い妖怪退治人の血筋ってわけ?」

「砕けた言い方をしますと、そうなりますな」

 権威も格式もあったものではない白葉の言い様にも、害された様子なく中村は白い口髭を揺らして笑った。

「こと本家筋の貴子様は、近年稀な強い力を持って生れつかれました。そのため、ご両親を始め、ご一族の皆々様は、いかにその力を使うべきかを説いてお育てになられたのです」

 柔らかな眼差しは、ほんのりと、白葉ではないどこかへ投げられた。

「その力は己ひとりのものではない。その力は、この世を守るための授かりもの。力ある者は責務を持つ。ゆめゆめそれを忘れて、個として己が力を捉えることはなきように――と」


 静謐に昔日を見つめているのか、穏やかな表情は、どこか優しい切なさを薫らせた。

 が、ふとまた、好々爺の愛嬌ある笑みにほころび崩れる。

「まあ、それゆえ大局ばかり目がいってしまうのでしょうな。少々、個々人の細やかな情の機微というものに無頓着になられました」

「無頓着っていうか、もはや無視でしょ。俺の別に細やかでもない、分っかりやすい意思表示もまったく眼中なしでしたよ?」

 困ったものです、と微笑ましげに纏められたが、こちらは被害を受けてばかりだ。老人のように甘やかした広い心で流せない。


「ややご苦労おかけするかとも思いますが、悪い方ではありません。そして、確かに今の事態は、お嬢様の力と、あなたの生まれ持っての性質を必要としているのです」

「……悪夢が外にって、そんなに厄介なものなんですか?」

 〈胡蝶〉が蝶まで羽化すると、悪夢が現実のものになる。そういう話だったと思うが、いまいちピンと来ない。

(現実だって……悪夢みたいなもんだろ……?)

 眠れぬ夜に傍らにあったのは、優しい子守歌ではない。朝日が昇っても続く、あくむを見ていた。


 白葉の疑問に、中村は無言のまま、リモコンを手に取った。寝室には大きすぎるほど十分なテレビのものだ。

 電源を入れる。映し出されたのは、昼のニュース番組だった。右端に表示される生中継の文字ともに、事故現場が飛び込んでくる。大型のトラックが、大通り脇のコンビニに突っ込んでいた。壁も屋根も大破して、店舗がトラックで分断されたような壊れ方だ。


「死者が出ます。このトラックは無人で突っ込んできたそうで、幸い、突入した部分に人はおりませんでした。しかしそれは本当に幸運だっただけです。〈胡蝶〉がうつつに完全に飛び立てば、夢が現実になります。ゆえに、多くの人命が失われましょう」

「……空から暴走トラックが降ってきて、人を轢き殺しまくる、って?」

 夢の光景を、辿る。茶化そうとした声は、思いのほか真摯な響きを纏って低く落ちていった。

「そうです。夢のような話ですが……〈胡蝶〉は夢を現にしますので」


 空撮の小さな映像の端。コンビニの入り口脇に止まっている子供用の自転車が目に入った。トラックが突っ込んできたとき、子供が店内にいたのだろうか――。

 幸運という中村の言葉を噛みしめかけて、白葉は、いま湧き上がっているのが安堵の情だと気が付いた。

 安心したのだ。己が〈胡蝶〉を封じられていないことで、人が死ななくてよかった、と。

(――力ある者は責務を持つ、か……)

 巻き込まれただけなのに、ずっとこの不眠には悩まされているだけなのに、ひどい話だ。

 でもどこかで、その言葉が引っ掛かってしまった。

「どうも……悪い夢にしか思えないな」

 ぽつりと零れた言葉は、静かにシーツの上を転がっていった。




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