第一夜 ー5(1)
◇
「おはよう」
目覚めは、鮮やかな微笑みに出迎えられた。白葉は深く長い溜息をひとつ吐く。
「夢だけど夢じゃなかったかぁ……」
頭を抱える。最初のリビングではなく、寝室か客室らしき部屋だ。横にされていた広いベッドの柔らかさと、上質な羽毛布団の軽やかさが微塵もありがたく感じられない。どうか客室であれと願うばかりだ。
そもそも、クリニックからこのマンションへもだが、どう運んだのだろうか。男としては細身とはいえ、そこそこ身長もある。意識を失った人ひとりを運ぶなど、とても女性ひとりでできる芸当ではない。
(……いや、でもこの人、変な力持ってそうだし……)
ちらりと額にやった手の隙間から貴子の方を伺い見る。
ベッドから少し離れた場所に設えられた、品の良い小ぶりな机と高いホテルでしか見ないような椅子。その背に凭れるでもなく背筋美しく腰掛けながら、焼き菓子を口に運んでいる。相変わらず香る茶葉の芳香が甘やかだ。装いも、白衣ではなく、薄い青を基調としたゆったりとしたものに変わっていた。
いつ着替えたのだろうと廻った思考に、念のため義務として己の着衣を確認する。クリニックを訪れた時と変わらぬ服装だ。脱ぎ着した痕跡はない。
(まあ、とっくに取り返しのつかない状態にはなってるみたいなんだけどね……)
首筋を撫でる。今は違和感すらないが、あの時窓硝子に映った契約の印とやらは、見えないだけでまだここにあるのだろう。
「……というか、『おはよう』じゃないんですよ」
銀色の髪をかきやり、白葉はのほほんと次のマドレーヌへ伸びた白い指先を睨みつけた。
「最後のあれ、なんなんすか。指から光が出て、なんかバリアみたいな。あんなのが出来るなら最初からやっといてくださいよ」
無駄に逃げ回らされたと愚痴を吐く白葉に、気を悪くした風もなく、マドレーヌを一度置いて、貴子は笑う。
「あら? 特別と言ったはずよ。確かに多少、身を守るために使える力ではあるけれどね。本来は、あれほどの強度と威力で使えない。あの車の群れを防げたのは、夢路を閉じる目覚めの瞬間だったから。
あの強さは目覚めの瞬間だけ揮える、特別な力なの。〈胡蝶〉の夢と繋がっていたあなたの夢路を強制的に閉じることで、疑似的な目覚めを生んだ。だから、あの時は使えたのね。でも、私たちの目的は、〈胡蝶〉を夢の中で見つけることだから、ちょっと危ない程度で毎回あの力を引き出していたら、夢から目覚めることになってしまうわけだから、〈胡蝶〉を見つけられないわ」
「なんか分かったような、分かんないような……」
要は普段も使えはするが、強力な特殊能力となるのは、寝起き間際だけ、ということのようだ。
「でも、夢路を閉じて強制的に目覚めさせたって……確か、朝まで逃げ切るか、〈胡蝶〉捕まえるしか道はない、みたいなこと言ってませんでした? 個人的には危なくなったら、さっさと夢から退却させてほしいんですけど」
不服滲む白葉の視線に、マドレーヌを一口、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、貴子は答える。
「パソコンで例えると、朝を待つのと〈胡蝶〉を封印して夢を終わらせるのは正規の電源の落とし方。夢路の強制切断は、強制シャットダウン。暴力的かつイレギュラーなやり方ね。頭を殴りつけて終わらせているみたいなものだから、あなたへの負荷が大きいわ。よほど危険じゃない限り、お奨めはしないわね」
「毎回毎回、どうしてそういう地獄のような選択肢か出してこないんですか?」
悪夢で踏ん張るか、身体を犠牲に逃げ出すしかないとは、どういうことだろうか。
そこで、ふと、白葉は引っかかって首を捻った。
「え? ってことは、あの時相当ヤバかったってことですか?」
確かに背中に尋常ではない痛みが走ったが、すぐに貴子によって消えていた。そう思えば、さして危機的状況ではなかったようだが。
「初めての〈胡蝶〉の夢だったし、あなたは相当、夢に引きずられやすいみたい。あのままだと、負傷をきっかけに、〈胡蝶〉側の夢にのまれてしまう危険性があったの。自分の夢路を遠く離れ、相手の夢の奥底まで取り込まれてしまえば、もう私にも助けられない。目覚めのない悪夢に堕ちていくわ。だから――ちょっと強制的に」
「助けていただいたようなのはありがたいんですけど、ほんと、俺との契約切っていただけません?」
うふふ、と楽しげに微笑まれても、不穏な内容はなにひとつ緩和されない。白葉は淡々と訴えた。だが、目の前の笑顔はどこ吹く風で小首を傾ぐ。
「でも、よく眠れたでしょう?」
「よく眠れたでしょうって、そうじゃなくて! ……て? あれ? 確かに……?」
目覚めの浅さゆえの倦怠感もなければ、残る疲労感も、眠気も消えている。
「〈胡蝶〉の夢から目覚めたのが深夜前。それから本来の眠りについて、いまが十一時。少し寝過ぎではあるけれど、久しぶりに深い眠りを楽しめたんじゃないかしら?」
もう昼時間近というのは驚きだが、確かにずっとうなされていた悪夢のひとつも見なかった。
「いやでも……リターン少なすぎですし、うん……」
うっかり人生初めてかもしれない快眠に心を揺さぶられかけて、白葉は思い直せとばかりに頭を振った。ここで流されては、なあなあのまま、違法契約のリコール期間が過ぎてしまう。
「っていうか、仕事! 俺、昨日の夜もシフト入ってたんですけど!」
貴子のクリニックを訪れてから、一晩を越えている。つまりは無断欠席をしたということだ。
「ああ、それなら安心して。連絡をして、引き抜くなりのお金を渡して、こちらの仕事に専念できるように取り計らってもらったから」
「なに一夜にして外堀埋めきってるんです? 秀吉、家康でもそこまでしない。こわ」
素晴らしい成果とばかりに報告する声に、冷めた音色で白葉は返した。
「そして、俺は無職にされたってことですか?」
「あなたにはこれから、式神として夜のお仕事があるから」
「履歴書に書けるか、そんな職歴! いや、ホストも大概ですけどね!」
「まあまあ、私との契約については、もう少しよく考えてみてちょうだい。悪い話ではないはずよ?」
「いや俺、あなたと出会ってから、悪い話しか聞いてないです」
「そうかしら?」
「そうですよ!」
まったく響かないどころか、暖簾に腕押しな会話に、白葉が焦れたところで、ノックの音が割っていった。
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