第一夜 ー4(2)
「ちょ……こんなん夢でも嘘だろ~!」
フロア内と打って変わった風吹きすさぶ外気の冷たさが生々しい。室内よりもなお明るく思える鮮やかな満月と、雲間の儚い星明かりが目に入った気がするが、そんなものに見入る余裕などあるはずもない。
だが、悲鳴を上げて落下する白葉の傍らで、同じように白衣をはためかせ落ちゆきながら、おっとりと貴子は彼を振り返った。
「ずいぶんと高いわね。上手く着地できる?」
「馬鹿も休み休み言ってくださいやがれですよ!」
いったい何階建てのビルだったのか。建物内から見下ろした時より、ずっと地上の明かりが遠くか細い。ひゅうひゅうと耳元で風切り音が唸りをあげている。手足がもげそうなほどの抵抗を感じるのに、身体はぐんぐん速度を上げて地上に近づきゆくばかりだ。凍えた指先で背骨を撫で上げられるような不快感に、身中から悶えてしまう。こんなものは、夢であっても願い下げたい。
「着地できないなら、飛んでもらえないかしら? あれも、追ってきてることだし」
貴子が頭上を指さすとともに、月明かりが翳った。下方ばかりうかがい見ていた視線をちろりと持ち上げる。
先ほどのトラックの巨体が、タイヤを急加速で回転させながら、さらに窓硝子を叩き割って、空に飛び出したところだった。
「……冗談、きっつ」
もはや声を張る気力もなく、白葉は乾いた笑い声をもらした。きらきらと、無数の硝子片が月明かりとトラックのヘッドライトに照り映え、氷の礫のように降り落ちてくる。
「いつまでも車に追われ続ける。死ぬまで。死んでもなお。ここはそういう夢ですもの。しつこいのも仕方がないわ。目覚めまで逃げ切るか、または〈胡蝶〉を封じてこの夢を終わらせなければ」
「逃げ切るの相当しんどいんで、さっさと封じて欲しいんですけど、巫女様」
「それにはまず、この夢の内から〈胡蝶〉を見つけてもらわないといけないわ」
嫌味を込めて告げたというのに、堪えた素振りなく、美しい紅い唇は微笑む。それに、どうしても二の句が継げなくなって、白葉は押し黙った。
甘やかに、心の片端をくすぐるような、捉えどころのない笑み。彼女の持つその不可思議な色をひく微笑みには、なぜか吞まれてしまう。
「〈胡蝶〉は現実の蝶と同じで、幼虫、蛹、蝶と姿を変えるの。夢を食むほど成長していく。幼虫や蛹の間は、夢のどこかに潜んでいて、蝶になると
「見つけるったって、こんなどれだけ広いとも知れない夢の中を、闇雲に探せってことですか?」
「活動している悪夢のそばにはいるはずだから、近くには潜んでいると思うわ。ただ今は――この落下をなんとかしないと」
にっこりと笑いかける背景に、けばけばしく煌めく看板が見えて、一瞬で通り過ぎていった。いつの間にか、落下地点は夜空のただなかから街中へ移り変わっている。つまりもう、地面がすぐそこだ。
「どうしろと!」
「大丈夫大丈夫。飛べるから」
掴まるものもないのに足掻くように宙をかいた掌を、指先から絡めとって、白い手が握りしめる。冷やりとした感触が、焦りを冷ましていくようだ。
「願って。思い描いて。もう感覚は掴めているはずよ」
そういわれても、と反論しようとした言葉を、上方からの轟音に飲みこむ。二人を追いかけ落ちてきたトラックが、看板をへし折り、ビルを叩き壊し、すぐそこまで迫ってきていた。
「ああ、くそ……!」
握りしめられた掌ごと貴子の腕を引き寄せ、抱きしめて白葉は歯を食いしばった。瞬間。
その背中に、白い翼が街の乱雑な明かりを切り裂くように広がった。ぐいっと身体が軌道を変えて、落ちる速度そのままに真横に向かって空を切る。靴の先が一瞬、ちりりとアスファルトにこすられた感触に痺れた。
間一髪で、地面すれすれを、白葉の翼は風を生み出し飛翔していた。
「飛ぶとなれば、翼。その安直な発想の瞬発力、夢ではとても大切よ」
「褒めるなら褒めるに全振りしてくれません?」
頬を引きつらせながら、舞い上がる。その背後で地響きが鳴り轟いた。
アスファルトを粉々に砕き割って、落下という名の着地を果たしたトラックが、熱を帯びそうなタイヤの回転で、なお唸りを上げて迫ってくる。
「地面に叩きつけられてぶっ壊れないって、どれだけ頑丈なんだよ……!」
「夢の車ね」
「悪夢の車ですよ!」
風を縫い、空を舞いながら白葉は悪態をついた。
電柱をへし折り、街灯を跳ね飛ばし、建物を崩しながら、トラックがぐいぐいと追いすがってくる。
「それで、近くにいるとはいえ、〈胡蝶〉はどうやって見つけりゃいいんです? なんか気配辿ったりとか、そういう巫女っぽいことはできないんすか?」
跳ねられてすっ飛んできた信号機を、慌てて翼で空を打って避けながら、白葉は脇に抱えた白衣に問う。
「そうね、基本は……目視」
「目視!」
短い絶叫が、怒りと呆れがぐちゃぐちゃに綯い交ぜられた絶望色で染まった。
蝶というからには、さした大きさはないだろう。じっくり探し出せるならいざ知らず、こんな逃走下で見つけられるわけもない。まさか、有名な大怪獣の蛾ほどの巨体ではないはずだ。もしそうなのだとしたら、それはそれで対峙するのが躊躇われる。
その時、ちらっと視界の上方に光が差した。
見上げる。とたん飛び込んできた光景に、背筋をざわりと凍えた感覚が波打った。
注ぎ落ちてくる車の一群。無数の車が滑り走る高速道路に、意図せず押し出されたかのような錯覚に陥った。
いっそ滑稽ですらある雨と降る車の弾丸に、白葉の翼は空を薙ぎ、風を切り裂いて軌道を変えた。だが、間に合わない。
翼を掠めた車のフロント部分に羽の一部が引っ掛かり、降下の勢いのまま勢いよく背中から引きちぎられる。
とたん、焼きつくように走った痛みに、白葉は息を詰めた。均衡を失った身体が、空駆ける力を失い、ぐらつき、落ちていく――瞬間。
「まずいわね」
そう囁くとともに貴子が背に手をかざした。その一瞬で痛みがかき消える。だが、それに驚く間もなく、ともに落下しながらも、優雅な微笑みは、腕の中で白葉に笑いかけた。
「今日はここまでにしましょう」
「は?」
白衣の腕が、白葉の背の向こう――空より落ち来る車の群れに伸べられる。と、同時に。
白い指先からするりと立ち上った薄紅の光の渦が、ふたりを取り囲み、朱色に輝く壁を作り上げた。それに突撃した車が弾かれて、あらぬ方向へと吹き飛んでいく。
「ちょ……! んなことできるなら、最初から、」
「特別よ。何度もは無理」
ふざけるなとばかりに噛みつく白葉を遮って、そっと掌が彼の両目元に覆いかぶさった。ひんやりと冷たく、心地いい。
「それより、眠りなさい。この夢から戻りましょう。夢路を閉じて。飲み込まれ過ぎて、戻れなくなる前に」
せんない子をあやすような柔らかな声音。それに、ふっと、すべての音声が奪われた。車のエンジン音も、トラックの迫りくる轟音も、己が落ちゆく風切り音も、もう、聞こえない。思えば、視覚で認識した距離以上に、ずっと空から落ち続けている。
おかしな話だが、不思議には思わなかった。
(だってこれ、夢、だもんな……)
ゆらゆらと感覚すべてが覚束なくなる。もはや自分が今いるところが、車に追われていた不夜の繁華街なのかも怪しい。
「――おはよう。そして、おやすみなさい」
呪文のように、穏やかな囁きが耳朶をくすぐった。そこでまた、白葉の意識は、彼の手から滑り落ちて消えていった。
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