第一夜 ー4(1)


 そこは、硝子のビルのフロアだった。外壁は開ききった展望の一面の硝子窓。広がるフロアには壁の隔てひとつなく、白銀のように眩い磨かれた床が、差し込む月明かりに濡れている。

 満月は天頂を過ぎてやや西に傾いているが、窓の下の夜景はいまだ輝き衰える風もなく、星空のごとき煌めきで眼下に瞬いている。

 それに対し、室内は灯る明かりのひとつもなく、光源は月と夜景に頼るばかりだ。見渡せば、ずっと遠く蹲る闇の端に、エレベーターらしきものがぽつんとあるのが伺えた。階下へと伸びるものだけで、上行きのものはない。この、他になにひとつ物のない階が、最上階のようだ。


「……ここ、どこ」

「〈胡蝶〉の巣食う夢の中よ」

 呆然と零れた声に、ふいに隣から答えが返った。

 驚き跳ね上がれば、いつの間にか、そこに貴子が立っている。先ほどより身長が高い。足元を見れば、細いヒールの靴を履いていた。クリニックで出会った時の出で立ちと同じだ。

 気づいてみれば白葉自身も、先まで着ていたはずの普段着ではなく、仕事の時と同じ服装になっている。


「一番、馴染んだ服装になるの。それがあなたの勝負服といったところね」

「いや、まあ……ある意味、仕事は勝負っちゃ勝負ですけど。最近は別に戦う気、そんなありませんし……」

 まじまじと黒を基調とする軽薄なスーツ姿を眺める貴子に、少し身を引く。すると、あら、と彼女は、細い指先を唇にあて、おかしげな笑い声をたてた。

「それは困るわ。これから、戦ってもらわないとならないのだから」

「はい?」

 白葉が眉をしかめた――瞬間。

 ふたりの佇む薄暗がりを、眩く光の一閃が切り裂いた。同時に静寂を破り耳をつんざくエンジン音と、唸るようなタイヤの音。

 振り返れば、さきほどのエレベーターを軋ませて、赤い車体が階下から躍り出てきた。その勢いをさらに加速させて、白葉たち目掛けて突っ込んでくる。


「嘘でしょ!」

 エレベーターより幅広の車体がどう走り昇ってきたのか理解できない。そのうえ運転席には人影がなかった。ただ、カーブもしないのに無意味にハンドルが、無人の虚空で回っている。

「この夢の主、私の患者さんなのだけど、最近車に轢き殺される夢ばかり見て参っていると受診に来たの。悲惨な夢らしくてね。眠るのが怖くなってしまったって。跳ねられて、絶命しても意識が残っていて、何度も轢かれてしまうのだそうよ。鉄の塊がぶつかってくるんですものね。腕はひしゃげて、足は砕かれ、胴は轢き潰されて、その痛みにのたうちながらも、また眼前に迫る車から逃れられない。車に数十メートルも引きずられて、肌が割かれ肉がえぐれ、剝き出しの骨が削られる感触を何度も味わいもしたというわ。

 私たちも、そうなってしまわないうちに、なんとかしましょうか」

「とんでもねぇ夢に連れてきやがりましたね!」

 照りつけるヘッドライトの中、のほほんと微笑む貴子にありったけの恨みを込めて白葉は吠えた。


 その眼前でふわりと白衣が、迫る車の風圧に翻る。と、気づいた時には、体が唐突に動いて、白葉は貴子を抱きかかえて床を蹴っていた。足先にぐわっと空気の振動が押し寄せ掠めていく。紙一重のところで車の弾丸の上を飛び、避けきったらしいと分かった時には、白葉は無様なありさまで、床に転がるように着地していた。

 同時に硝子が叩き割れる甲高い破壊音が轟く。停止せぬまま走り抜けていった車が、空中へと飛び出していた。いまだどこかを走っているつもりなのか、虚空をかいて回転し続けるタイヤと車体の腹が、きらきらと散る硝子片とともに視界から遙か地上へ滑り落ちていく。


「――なに、いまの……」

 夢と分かっているのに、覚える感覚は恐ろしいことにうつつのものと遜色ない。はねられていたらと思うと、背筋が凍った。

「というか、また俺をなんかしましたね?」

「あなたがまるで動きそうになかったから」

 立ち上がる気力もないまま、腕の中にいまだ居座っていた貴子を睨む。だが彼女は相変わらず、歯牙にかける素振りすらなく笑った。


「すでに支配下にあるといっても、操るのはなかなか疲れるのよ。そう何度もやりたくはないわ。次はちゃんと自分で動いて、私を守ってちょうだい」

「いや、なんで俺が……あなた、巫女だとか言ってたでしょ。不思議な力でばっと解決できないんですか?」

「あくまで私の巫女としての力の基本は、夢に関するものを操る能力と、〈胡蝶〉を封印するものだから。何でもできるわけじゃないわ」

 げんなりと整った顔を曇らせる白葉に、貴子の返答内容は無情だ。


「夢を見ている人は、潜在的に、己の夢で思い描いた力を揮えるの。たまにないかしら? 自分の夢を夢と認識した瞬間、少し、思うとおりに夢の展開を変えられること。もちろん、通常はいつでも任意に使える力ではないけれど、私はそれを思った通りに使えるようにしてあげられる。

 これは〈胡蝶〉に巣食われた患者さんの夢ではあるけれど、そこに自分の夢路を繋げた、あなたの夢でもあるの。だから、ただ他人の夢にお邪魔している私と違って、あなたは、ここで夢の力を使えるわ。もちろん、他人の夢と混じり合っているし、〈胡蝶〉の影響下にもあるから、夢の力を十全に――とはいかないかもしれないけれど、戦うには十分だと思うわ」


 白葉の長い足に囲われて、ちょこんと座ったままの蜜色の瞳はふわりと柔らかに、彼の切れ長な灰色を間近で見つめ上げた。

「〈胡蝶〉の夢は現実にも影響があるから、夢で死ぬと目覚めても無事かは約束できないし。私が死んでしまうと、結びついたあなたの玉の緒も引きずられる運命だし。頑張ってね」

「俺史上最低最悪の悪夢!」

「そこは現実よ」

 顔を覆い天を仰ぐ白葉に、たおやかな音色が追い打ちをかける。

 クリニックの入り口をくぐってしまったあたりから夢だったことにしてしまいたい。だが、どうもこの貴子との出会いは、目覚めれば終わる悪い夢で片付けられないようである。


 そこにまたどこかからか、車のエンジンの唸りがせり上がってきた。建物内からではない。響きが違う。嫌な予感がしてそろりと白葉が割れた窓の方へ視線を流した、瞬間。

 外壁を走り昇ってきた車が飛び上がった。しかも、幾台も窓硝子を叩き割り、フロアの内へと躍り込む。

「なんか増えてる!」

 叫んで、白葉は貴子を肩に担ぎあげると同時に、立ち上がって駆け出した。

「っていうか、物理法則どうなってんの! 重力仕事しろ!」

「仕方ないわね、夢だから」

「都合のいい適当法則ぶち上げやがって!」

 のんびりと肩口から返る言葉に、夢へのやり場のない苛立ちを吐き出して、白葉は逃げ道を探した。


 明日死んでも困らない――ほんのりと内にくすぶる希死念慮は偽りではないと思うが、この死に方は嫌だと抗う程度には、まだ己は生へしがみつく元気があったらしい。轢き逃げされてもいいなどと思った今朝がたの自分を恨みながら、エンジン音の轟く伽藍洞のフロアを走り抜ける。


「もう絶対赤信号無視はしない!」

「向こうが無視してきたら、どうしようもないけれどもね」

「なんでそんなに落ち着いてられるんすか!」

 ふふふっと、花びらのようにこぼれた笑い声にがなりたてる。

 振り落としてやろかとの考えが一瞬頭を掠めるが、できもしない話だ。玉の緒が繋がっていると言われたのもあるが、そこはどうも実感がないからか危機感というには薄い。ただ、夢とはいえ目の前で無残に轢死体になられては、それこそ目覚めが悪かろう。


 肩にある華奢な体が少しずれたのを抱え直す。そこでようやく、白葉は己が人ひとり抱えて、いまだ走りくる車から逃げ続けられていることに思い至った。

 背後の車は、唸りを上げるエンジン音と、跳ね上がる速度に擦り切れるタイヤの悲鳴さえ聞こえてきそうな暴走車だ。人の足で追いつかれないなんてことは、有り得ない。

(夢の力――)

 思い描いた力を揮える能力。かいつまめば、そういう話であったはずだ。


 その時、真横から照り付けた閃光に、白葉は一瞬目をすがめた。暗がりの向こうでいくつものライトが爛々と目玉のように輝き、彼の白銀の髪の上で波打ち跳ねる。闇間からみるみる露になっていく輪郭に、白葉は腹をくくった。

 踏み出した次の足で、床を蹴りつけ、跳躍する。高い天井すれすれまで飛び上がった身体は長く大きな弧を描いて、真後ろから走りくる車の群れを飛び越した。


 標的を失った車の群れと、横からの新手が勢いそのままに互いにぶつかり合う。金切り声のような高音と鈍く腹に響く重低音が混じり合った衝撃に、鼓膜が痺れるほど震えた。

「っしゃ! 自滅! ざまあみやがれ!」

 ぐしゃぐしゃに潰れ、飛び散る部品の哀れな残骸に、白葉は思わず声を弾ませた。

「あらまあ、雑で破壊的なルーブ・ゴールドバーグ・マシンみたい」

「ルー……ぶ? よく分かんないですけど、絶対誉め言葉じゃありませんよね」

 手を叩いて面白がる肩の貴子を、灰色交じりの黒の眼差しが睨み上げる。


「楽しませてはもらっているわ。それで、次のあれはどうするのかしら?」

「……次?」

 嫌な予感に白葉がかすか震えて繰り返した、瞬間。貴子の焦げ茶色の髪が、目を射る光に当てられて、琥珀色に透けて煌めいた。

 光線の方を慌てて振り仰ぐ。そこにあった光景に、白葉は絶句した。

 巨大なトラックが、唐突に天井から滑り出てきている。現実には存在しえない大きさは、闇の海ゆく鋼鉄の鯨だ。


「あんなもんどうしようもねぇですよ!」

 叫ぶと同時に巨体の全貌が躍り出た。それだけで押し潰されそうな前輪が乱暴な着地を果たしたとたん、地震もかくやと、フロア全体が崩れんばかりに揺れ動く。巻き起こった風圧と激しい横揺れに完全に安定を奪われ、抱き込んだ貴子ごと、白葉の身体は鞠のように跳ね転がった。

 打ち付けられた痛みに顔を顰める間もないまま、車が叩き割った外壁代わりの窓の外。そこへ、為すすべもなく放り飛ばされる。

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