第一夜 ー3(2)


「多少強引だったのは認めるわ。けれど、私も少しばかり急いでいたの。夢の通い路を生み出せる式神となる相手を、早く見つけなければならなかったから」

「……それはまた、どうして?」

 多少、のところで大いに首を捻りたくなったが、ぐっと突っ込みたい気持ちを飲んで、白葉は大人しく尋ね返した。事態があまりに理解を越えている。情報を知ることに、意識を傾けたかった。


「〈胡蝶〉という、まがつモノがいるの。禍つモノとは、生きた災いだと思ってもらえればいいわ。意思はないけど生きていて、存在し、活動することによって、人間世界に良くないことを引き起こすの。

 〈胡蝶〉はそれこそ、蝶に似た禍つモノ。人の夢に巣食い、み、夢を悪夢に変え、やがてそれを現実にする。ずいぶん昔に私の先祖が群れごと封印をしていたのだけど、近ごろ、それが破られてしまってね。放っておくと、うつつの世界が悪夢に侵食されてしまうのよ。

 だから、〈胡蝶〉の潜む夢へ夢路を開いて、乗り込んで見つけ出し、封印する必要があるの。でも、私は夢路を操りはできるけど、夢路を生み出しはできないから、それが可能な相手を探して、呼びかけていた。それに応えて来てくれたのが――あなた」」

 白葉の灰色がかった瞳を、蜜色の双眸がゆるりと絡めとった。

「〈胡蝶〉の作る悪夢がうつつに蔓延る前に、一緒に頑張りましょう」


 まどろむように心地よい眼差し。西の端へ溶け消えた夕陽の欠片が残っていたのか、柔らかな光が灯火のように奥底で揺らめいている。

 恍惚とその視線に沈みかけて――白葉は慌てて頭を振るった。

 呼びかけなど知りもしない。応えたつもりも毛頭ない。このまま流されてなるものかと、一息、そっと呼吸を整えて、仕事と同じ笑みを端正な顔の表面にたたえる。くすぐるように甘い視線を投げかければ、傾げた首筋を銀糸の髪が優しく撫でた。


「……言いたいことは色々あるんですけど、なによりまず、それって俺にメリットあります?」

「働いた後は、質のいい睡眠を約束するわ」

「デメリットに対して見劣り激しすぎやしません?」

「でも、もう契約してしまったし」

「『してしまったし』、じゃないんですよ? 勝手にしたんですよ、あなたが」

「時間もないわ」

「おっと~、流しちゃいます?」

「昼間の自動車事故、覚えているかしら?」

「……覚えてます」


 のんびりと、しかし決して己が話の腰を折らすに続ける貴子に、白葉は早々に白旗をあげることにした。抵抗は無益だ――この短かい会話で、それだけはひしひしと感じ取れた。

 遠慮なく愛想を取り下げ、苦々しげに眉を寄せる。

 どうにも、彼女の声音の響きには、上っ面を取り繕う気力が削がれてしまう。たいていの女性は転がせた笑みも、彼女相手には効果が見られず、おまけにこの会話が金にもならないのだから、仕方がないのかもしれないが。


「あの事故の起こり方がおかしいと、あなたも気づいていたでしょう? まさしくあれは、事故。〈胡蝶〉の生み出した悪夢が、現の世界に影響を与えたものなの。

 封印から抜け出て、だいぶ力をつけた個体が現れたみたい。早く封じないと、今度はきっと人が死ぬわ」

「はぁ……そいつはなにやら大事ですねぇ」

 やる気なく、ぼやけた相槌を白葉は返した。

 光る首輪のせいで、彼女の言葉が妄言ではないと理解はしている。だが気持ちは、この非現実についていく気が全く起きなかった。それこそ夢語りを聞く心地だ。物騒な話題をちらつかされても、身に迫る危機感も緊迫感も、一切湧きあがってこない。


「で? それを封印しなきゃいけないとして、あなたの式神にされちゃった俺に、具体的になにさせようっていうんですか?」

 もはや体裁を取り繕うのも億劫で、白葉は座り良いソファにだらしなく凭れかかった。上着のポケットから煙草を取り出し、断りもせずに火をつける。

 まだくゆる貴子の紅茶の香りを、きついスパイス交じりの匂いが、押し出すように打ち消していく。

 向かい合う微笑みが吐き出した煙に、灰色にかすんだ。瞬間。


「あらあら、駄目ね。寝煙草は体に悪いわ」

 柔らかに諫める声とともに、ぐいっと勝手に腕が動いた。口にしていた煙草を、そのまま眼前の硝子のローテーブルに押し付けられる。

「ちょ……! せめて別のもんで、つか、これ高そ、」

「二百万程度だったはずだから、大丈夫」

「なんも大丈夫じゃないんですけど!」

 持ち主以上に狼狽する白葉を意に介さず、貴子はそのまま値段相応の重厚感漂うテーブル上に、吸い殻を放り棄てさせた。


「煙草はまたあとでね。あなたは、これから私と一緒に寝るのだから」

「はぁ?」

 棘ある訝しみを躊躇わず全身で表す白葉へ、するりと立ち上がった白衣が歩み寄る。

 細身だが、女性の割には長身だ。高めのヒールを履けば、白葉とそう変わらないくらいだろう。

 座る白葉をまっすぐに見つめる掴みどころのない瞳に、つい体を固くする。と、しなやかな掌が、ゆるやかに両目を覆って被せられた。


「眠って」

 深く澄んだ、甘い、香りがする。

「眠って、一緒に、〈胡蝶〉へ繋がる夢路を辿りましょう」

 耳元に寄せられた唇が、優しい子守歌のように囁いた。

 とたん、両のまなこの奥から、眠気が芽吹くように込み上げてくる。

 ――抗おうと意識する暇さえなく、白葉は急速な睡魔に絡めとられ、現の世界を手放した。



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