第一夜 ー3(1)


 ◇


 跳ね起きる。横になっていたのは肌になじむ心地よい布張りの大きなソファ。瞬きを繰り返す視界に、広い硝子窓から差し掛かる西日が淡く黄金色に揺れる。見慣れたビルがいくつか、遙か高層から眺め渡された。

 茜色の空が淡く鴇色に変わりかけたところで藍が溶け、やがて東に伸びればそれは宵の薄闇に染まりゆく。黄昏時の影と煌めきが、細工物のような眼下の街並みに落としかけられていた。


「あら、起きた?」

 優雅な声に窓から真向かいへ振り向けば、高価そうな硝子のローテーブルを挟んだ向こう。月宮睡眠医療クリニックの医師――貴子と呼ばれた彼女が、見るからに高級なティーカップ片手に品よく座していた。


「え? ……え?」

 鼻をくすぐる、紅茶の甘い香り。彼女の手元からくゆる仄かな匂いは心地よく、気持ちを穏やかにしてくれそうなものだが、白葉としてはそうはいかない。

 怪我はない。拘束もない。そう我が身を確認しつつ、もう一度周囲に目を走らせる。やはりクリニックの一室とは到底言えない、高層マンションのリビングルームだ。意識を失っている間に、連れ込まれたらしい。


「犯ざ、」

「まあ、そう言わずに話を聞くところから始めましょう?」

 微笑む指先がすっと口を塞ぎとめるように空を撫でた瞬間。唇は動けど声が出なくなった。動揺と驚きに飛び上がり叫ぼうとするも、空気を求めて喘ぐように口が開閉するだけで、何も音が紡げない。

 闇に消えゆく赤がね色が、眼前の女性の儚い輪郭を彩り、濃い陰影のベールを被せる。得体のしれない不安をさらに掻き立てられて、逃げを打とうとした体が、突如重たくなった。

 何かが圧しかかっているとしか思えない負荷が肩に、背中にかかって動けない。引きずり下ろされるように、そのまま膝を折って白葉はソファへと座りこんだ。


「驚いた? 体験してもらった方が、理解がしやすいかと思って」

 柔らかに細められた蜂蜜色の眼差しが、そう一口、ゆったりとカップに口づける。

「診察室での話の続きから始めましょうか。不眠の原因は身体的なものから精神的なものまで様々だけれど……あなたの場合、原因は明白。ただ、言葉で説明して、そうすぐ納得できる類のものではないの」

 カップを置いた長く白い指先が、もう一度そっとくうに一文字を切り、にこりと笑いかける頬に添えられた。

「夢の通い路ってご存じ?」

「はぁ?……あ、出た」

 柳眉を寄せての全力の不審面に、その気持ち通りの音声がこぼれ出た。思わず白葉の声は喜色に弾む。

 それを微笑ましげに見やりながらも、気に留めた風はなく、貴子は続けた。


「人の夢と夢を繋ぐ路のことよ。普通、夢は個人個人の持つ個別の空間で、互いに干渉しあうことはあり得ない。けれど通い路を繋げる者は、他人の夢へ踏み入ることができるの。もちろん、誰しもが持つ力ではないし、特異な能力だから思い通りに出来ることも少ないわ。そして、夢の通い路が開いている間は、いわゆるレム睡眠。眠りが浅い状態が続くの。あなたの幼い頃からの不眠の原因は、これのせい。あなたは――夢の通い路を生み出し、繋げてしまいやすい体質だわ。それも非常に高頻度で。気の毒ね。私にとっては大変有益で、興味深い性質だけれど」


「いや……そういう霊感商法的なのは、ちょっと俺、遠慮してるんで。なんも余所に言いませんから、俺じゃないとこでやっていただいていいですか?」

 虎の尾を踏まないように、けれど明確な断りとなるように、言葉と語調に気を配りつつ、白葉はにこにことした笑みから視線を逸らした。やはりぼったくりだったか、行くのではなかったと後悔が渦を巻く。


「あら? まだ信じられないの。契約の効果は体験したと思ったのだけど」

「契約?」

 不穏な単語だ。気づかぬうちに変な書類に署名捺印してしまっただろうかと、白葉はクリニック受付での挙動を振り返った。

 と、くすくす肩を揺らした貴子が、ぽんっと軽く手を打ち鳴らした、瞬間。

「ほら」

 首回りにかすか違和感を覚えるとともに光が走った。驚き手をやっても何も触れるものはないが、薄闇に染まりだした窓硝子。そこにぼんやり映り込む己に目をやれば、首筋に刺青のように、崩した文字か幾何学模様に似た、薄藍色の光の模様が、ぐるりと一巡、巻き付いていた。


「な、なに……これ……」

「契約の印よ」

 事もなげに、色づく唇は微笑んだ。

「夢の通い路を開きやすい体質の人が、その力を自分で制御できることは稀だわ。まあ、あなたほど重度の人も少ないのだけど。記録を辿れば、この体質の人は若くして死にやすいの。満足に眠れないから」

 思考を溶かす柔和な声は、軽やかな響きのまま崩れない。告げられた内容との差異に頭が追い付くより先に、同じ声音は、ゆるやかに畳みかけた。


「そうした体質の人を助けてあげられるのが、私よ。私の家系は、いわゆる古い巫女の血筋でね。夢と夢の通い路を操る、特殊な力を持っているの。通い路を生み出せないけれど、操れる。私の力で、あなたが開いた路を閉ざして深い眠りに誘ったり、繋がった先の悪夢から別の吉夢へ導き直したりしてあげられるわ。でも、そのために必要なのが、その契約。あなたの玉の緒の端を私に結んで、私の力の支配下に置くの」

「最後、べらぼうに物騒なこと言ってません?」

 半信半疑ながらも、語る音色の心地よさに誤魔化され、静かに聞きいってしまっていた白葉は、勢いよく言葉を滑り込ませた。


「え? 玉の緒って、なんかあれでしょ? 命的な、あれでしょ。というか、支配下ってなに?」

「意思までは操れないわ。身体の自由を任意に奪えたり、いざという時は、楽にしてあげられたり」

「それ、『大丈夫よ』、みたいな調子で言うことと違いますからね?」

 鷹揚な笑みに、思わず強い口調で鋭く返す。意思まで操れないのを安心要素のように告げられたが、どう考えても彼女の発言にはそれ以上の問題がごろごろ埋まっている。


「これ以外の治療法がないから」

「患者の意思! 確認して尊重して!」

 ちらりとの申し訳なさもない、あまりのあっさり具合に、白葉はとうとう声を荒げて立ち上がった。

 にもかかわらず、何が楽しいのか、貴子はしとやかに肩を揺らす。

「治療法とは言ったけど、どちらかというとこれは式神の契約なの。あなたを私の式神にしたということ。だから命ぐらい、ね?」

「『ね?』じゃねぇですよ?」

 一見、ふわりと空気を温める陽だまりのような笑顔だが、唇に乗せる内容が凶悪に過ぎる。


「というか、式神? 式神って、陰陽師とかなんかそういう日本の魔法使いの手下みたいなやつですよね? 俺が? あなたの手下にされたってこと? 無断で? これ訴えたら勝てます?」

「さあ、司法がどこまで信じて対応してくれるか分からないし。いざとなったら、楽にできるし」

「……仮定の話ですよ、仮定の。やだな」

 乾いた笑い声をこぼして、白葉は変わらぬ笑みから目を泳がせ、座り込んだ。すっかり宵の闇に飲まれた硝子窓には、よりくっきりと、いまだ首元に鈍く輝く光の輪が映り込んでいる。

 信じたいわけではないが、こんな不可思議を見せつけられては、信じないわけにはいかない。



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