第一夜 ー2

 ◇


 かのお洒落なぼったくりクリニックのことは、あくびと共に忘れ去った――ことにしたはず、なのだが。

 優しいオフホワイトとベージュピンクを基調とした設え。鼻腔をくすぐる穏やかな甘い香り。心地よく保たれた室温の中、ふわふわと加湿器から漂う潤いの靄。しっくりと身体に寄り添う高そうなソファ。そして、目を刺激しすぎない、まろやかな橙交じりの照明。

 深い吐息に合わせ、白葉はソファの背もたれに勢いよく身を凭せかけた。

(場違い……!)


 彼はなぜか、月宮睡眠医療専門クリニックの待合室に座していた。

(いや、明らかに場違い! なんで来ちゃったの、俺!)

 仕事明けに着替えたはずなのにも関わらず、浮ついた軽薄さが抜けきらないジャケット姿。銀色の髪と、昼には目立ちすぎる耳や腕の貴金属類や時計。滲み出る夜の仕事の空気が、淡い癒しの空間で異彩を放っている。

 他に診察に訪れた患者がいないのが救いだが、待合に置かれている冊子、雑誌の類からして女性向きの医院のようだ。閑古鳥が鳴いてくれていなければ、さらに肩身の狭い思いをしていただろう。


(いや……しかし、おかしい……。おかしいぞぉ……)

 頭を抱えて、白葉は己が挙動を振り返った。確かに明け方マンションに帰り着き、眠れはしないと諦めて、だらだらと欠伸しながら、見る気もない動画を眺めていたはずだ。

 それがふと、ここに来てみようとなったのはなぜだっただろう。後輩の言葉が頭を過ったわけでもない。ただ、動画の合間に流れた美容整形外科のコマーシャルに、同じ医者繋がりでこのクリニックのことを思い出した瞬間――

「黒峰さん」

 名を、呼ばれた。


 受付の声だと気づいて、慌てて返事をして立ち上がる。

「そのまま診察室にどうぞ」

 柔らかな口ひげを蓄えた老人が、皺の寄った目じりにさらに穏やかな皺を寄せた。

 年齢や性別で物事を捉えるのは今時らしくないのかもしれないが、それでもやはり珍しいと思う。病院の受付事務といえば、女性のイメージが強い。

(縁側でお茶すするか、執事でもしてた方が似合いそう……)

 好々爺とした細面にそんなことを思いながら診察室へ向かう。

 自分はどう頑張っても、もうああした年の重ね方はできまい。そこまで生きていられるかも危ういものだ。

 妙に襲われた感傷を絶つように、白葉は淡い白色の扉を開いた。


 瞬間――意味も分からぬまま、痺れるように、鼓動が跳ねた。

 待ち受けていたのは、待合室と似た色彩の予想よりも広い診察室。おかげさまで、相変わらずの居心地の悪さだが致し方あるまい。

 だがそんなことなどどうでもよくなるほど、そこにいた人に目を奪われた。パソコンの前に座す、白衣を纏う、華やかな女性――。


 年のころは三十に差しかかったぐらいだろうか。茶色がかった柔らかそうな髪が、ふわりと華奢な肩から胸元へ流れかかり、橙交じりの照明に蜜色に濡れている。凛とした大きな瞳に、少し垂れた目元が柔和さを添えていた。いっそ妖艶な唇が、たおやかに傾く印象をきゅっと引き締め、大人びた落ち着きを生んでいる。

 ああ、佳人とはこういう人をいうのだと、数多の女性を目にしてきてなお、初めて出会った心地で、白葉は息をのんだ。


「どうぞ、座って」

 立ち尽くしたままの白葉へ、首を傾いだ優しい声が、耳をくすぐる。弾かれたように白葉は曖昧に頷いて、奨められた椅子へ腰を下ろした。

 ただの丸椅子ではなく、背もたれもしっかりとした座り心地のいい椅子だ。基本的に、この医院は睡眠を専門と謳うだけあり、人にとって気持ちのいい場を提供してくる。

 しかしどうにも、白葉は胸がざわついて仕方がなかった。それが目の前の女性のせいだということは明白だ。

 だが、なぜかは分からない。ただ、この胸裏をひっかくむず痒い不快感は、甘い感覚ではない。もっと、違う、別の――


「眠れないのはいつからかしら?」

「え? ああ、ここしばらく。一、二週間前からです……」

 思考を断ち切る甘い音色に、しどろもどろとなりかけたのを意地で隠して答えながら、眠れないといつ伝えただろうかと首をひねる。

(受付でも言ってないよな……?) 

 大半の者が不眠でくるので確認するまでもないのかもしれないが。

「眠れないのはそうだとしても、昔から、眠りが浅かったりしたのでしょう?」

 パソコンでカルテになにかを書き込む素振りもなく、微笑む双眸はまっすぐに白葉を覗き込んだ。

 何かおかしい。どこか腑に落ちない。ちりちりと違和感が肌を引きつらせ、思考をつつくのに、答える言葉は止まらなかった。


「ええ、まあ、子どものころから。夜に何度も目が覚めることがあって。あまり、熟睡できた記憶ってのはない……ですね」

 それで夜中に母を揺り起こし、ひどく叩かれて一晩ベランダに放り出されて以来、起きても大人しくしていることを覚えた。眠れていれば、母と恋人の物音も聞かずに済んで、いまだ心のうろにこびりついている鈍い嫌悪も知らずに済んだかもしれないが、それも仕方ないことだ。


「――寝れないと、いいことってのは、ほんと、ないですね」

 吐き捨てるほどの怒りも削がれ果てていて、ただ零せば、目の前の綺麗な女性は、気の毒に、と紡いで唇に笑みを灯した。

「睡眠時間が少なく、睡眠の満足度が低い人は、高い人に比べて死亡リスクが1・54倍高いという研究結果もあるの。身体のためにも、良質な眠りの確保は大切だわ。明日にも急に――死んでしまわないために」

「……いや、まあ、そうかもですけど、俺、別に明日死んでも、そんな困んないんで……」

 曖昧に笑みを浮かばせながら、歯切れ悪く白葉は答えた。微笑みながら患者に告げる内容だろうか。精神を病んでいたら、この程度の脅しでも相当くるだろう。不信感を抱きながら、白葉は己を見つめる視線から目を逸らした。

 やはりなにか目の前の女性は妙だ。優しく笑んでいるのに、覚束ないながらも警戒心が首をもたげてならない。


「まだ二十三で、ずいぶんと達観してるのね。……諦観、かしら? でもそれならそれで、良かったわ」

「は? どういう、」

「一般的に、睡眠は六時間から九時間が妥当な時間と考えられ、そのうちでもノンレム睡眠と呼ばれる深い睡眠によって脳が休まります」

 投げかけられた理解しがたい言葉に、思わず白葉が苛立ち紛れに返しかけた。それを、唐突な医者らしい口調と態度で遮られる。ゆるやかに煙に巻くように、彼女は続けた。

「目が覚めやすいのは、眠りが浅いものだから。そうすると脳が休まらないので、体に疲労感が残り、負担がかかります。不眠の原因は身体的なものから精神的なものまで多岐にわたり、特定が難しいこともありますが……あなたの場合は、もう原因は分かってる」


 溶けるような茶色の瞳がひたと白葉を捉える。その真意の読めぬ深奥に飲み込まれたようで――白葉は身じろぎできずに固まり、息を詰めた。

 いつも仕事でするすると、上っ面だけで滑り出る言の葉が、ひとつとして引き出せない。それが余計に焦燥を駆り立てた。早く何かを、言い返さなければならない。

(いや、違うな。早く――早く、ここから逃げ、)

 その時、一斉に鳴り響く車のクラクション音と共に、轟音が空気を揺るがした。

 診察室に窓はないから確認はできないが、音の方向的に、ドアと壁を隔てた待合室側の通りからだ。


「事故かしら?」

「え? ちょ……!」

 患者を置いて颯爽と白衣を靡かせ、ヒールの足音は待合室へと向かっていった。それを慌てて白葉も追いかける。


 早朝、白葉がクリニックの窓を見上げた通り。ちょうどそこが見下ろせる窓のところに、すでに受付の老人が立っていた。やはりその通りの――しかも真下で事故があったらしい。

 二人に並んで窓の下方を見やれば、早くも人だかりができていた。車が通りわきの歩道の電柱に突っ込んで、フロント部分が大破している。道路にはスリップ痕もない。ノーブレーキで突っ込んだのだろう。


「うわ……やば。これ、人死に出たんじゃないの?」

 運転席にいた者は、確実に無事ではない壊れ具合だ。その惨たらしさに思わず眉をひそめて白葉がもらせば、横からのんびりと、冷静な年老いた響きが返ってきた。

「いえ……車に人は乗っておりませんでした。無人です。歩道を走行したようですが、幸い今はまだ怪我人もなく」

「まあ、なにより」

「いやいやいや、そうじゃない。つか、え? 無人? 無人の車がああまで突っ込む?」

 負傷者なしとはいえ眼下は惨事。それをほっこりと収めんばかりの喜ばしげな声に思わず無遠慮に突っ込んで、白葉は驚きの声をあげた。

 下の通りは坂などではなく、平坦な道だ。となれば、ブレーキをかけそこねていたのだとしても、車が半分以上潰れて壊れる勢いで突っ込むことはまず考えられない。


「黒峰殿のおっしゃる通り。少々事は急を要するようです、貴子様」

 すっと折り目正しく流れるように頭を垂れる老人の動きは、病院事務受付のそれではない。向けられた敬称といい、やばいところに来たのではないかとの思いが確信に変わり、白葉はふたりの傍から後退った。

 が、もう、遅かったらしい。

 そうね、と頷いた微笑みが、逃げかけた白葉を振り返る。包み込むような柔和な視線。花香るように麗しい相貌と、甘く弧を描いた唇に魅入られて、白葉は、動きを止めた。


「あなたは呼ばれて、来てくれた。だからもう、治療に取り掛かってもらいましょう」

 唐突な言葉に、理解が追い付かない。だが、何を言っているのかと問いただすいとまもないまま、ぱちりと彼女が細く長い指を弾いた瞬間。

 目の前がぐらりと揺れて明滅した。

(え……?)

 瞼が重くのしかかる。意識が爆ぜて、消えていく。ただ、すべての感覚がなくなる直前――

(月と、蝶だ……)

 白衣の姿に重なるように、真昼の室内に、淡い月明かりとひらりとはためく翅が見えた。

 そしてなにもかもが、闇にのまれた。





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