新たなる中世

паранойя

新たなる中世


『戦勝記念日を迎え、フロントラインでは軍事パレードが行われています。この記念すべき一日に際し、偉大なる女王陛下は以下のような――』


 旧型テレビの向こう、報道記者の背後で、女王陛下の軍隊が行進している。血のように真っ赤な軍服をはためかせ足並み乱さず歩く兵士たちの姿は、まるで単細胞生物の群体のようだ。


 レニーは思う――戦勝だと? 終戦すら迎えてないだろ? 


 今、この瞬間も防壁の向こうでは魔物が増え続けている。一日たりとも銃声を聞かない日はないし、昨日だってジェット爆撃機が低空を飛び去り、彼の住むあばら家は怯えているかのようにガタガタと震えていた。月に二度の配給は相変わらず戦時体制で、彼は健康的な成人男性であるにも関わらず一日に一六〇〇キロカロリーしか与えられていないのに。


 これを勝利と呼ぶのなら、事態はより一層悪化の一途を辿るだろう。


 人生と同じくらい、テレビは耐えがたくて不愉快だった。


 不満を抱きつつも現状を変える力を持たないレニーには、いつも同じ一日が巡ってくる。同じ時間に起き、同じ職場に向かい、同じ時間に眠る。彼は昨日と同じように、朝食を準備するために冷蔵庫を覗いた。

 同じ日が巡りすぎて、今日の日付も分からない。


 中には水が二リットルと、包装紙に包まれたパンが一塊あるだけだった。

 配給で配られた食料。今や貧困の代名詞ともなっている、悪名高き所有物プロパティ向けのグリスパンだ。


 レニーはグリスパンを薄く二枚切った。一枚は朝食に、もう一枚は昼食に。

 生で齧るのが最善の方法だ。色気は無いが、焼くともっと酷い事になる。

 食感ばかりが重い粗雑な小麦と、ツンと鼻を付くグリスの臭い。これをトースターに入れようものなら最後、グリスが溶けだしてとても食えたものではなくなってしまう。


 正式名称国民的パンのこれがいつからグリスパンと呼ばれるようになったか定かではないが、由来だけははっきりしている。

 《国民的パン》を製造する工場で働く所有物プロパティたちが、本来であればパンの型に塗る為のバターを横流しし、代わりに機械油グリスを塗っているからだ。


 貧すれば鈍する。貧困によって想像力を失った所有物プロパティは横流ししたバターが市民シビルの口に入ると思っているが、それは違う。上層の人間は国外から入ってくるバターを食べることができる。実際は横流しバターも粗悪品であり、向かう先は多少マシな生活を送る同じ所有物プロパティの元だ。


 涙のようにしょっぱく、胆汁のように苦い。

 それがグリスパンの味だった。



 雨が降り始めたのは、レニーが家を出るほんの少し前だった。

 フロントラインに犇めく工場群が絶えず吐き出す毒の煙を含んだ有害な雨。彼は年季の入ったレインコートのフードを被り、両手をポケットに突っ込んで歩く。


 戦勝記念日という割に外は静かだった。それもそのはず、パレードが行われているのは都心周辺であり、レニーが住むスラムからは遠く離れているからだ。


 バス停へと向かうレニーの前を、子猫ほどの大きさのネズミが横切る。でっぷりと脂肪を蓄えていて、自分よりずっと良い物を食べていそうだ。


 自分の暮らしぶりがネズミ以下だと考えると、自然と口元が自嘲的な笑みに歪む。

 苦難を前にして笑うのは、昔からレニーの悪癖だった。


 歩いているうちに、右の踵にできた靴擦れが疼き始めた。先日、散々履き潰したスニーカーをようやく買い替えたばかりだったのだ。と言ってもそれは中古のサイズ違いで、結果として彼の踵の皮は剥がれ、じくじくと滲出液が流れ出てしまっている。それでもちゃんとしたスニーカーであるだけマシだと、すれ違った老人を見て思う。老人は廃タイヤを加工して作ったサンダルを履いていた。


 通りを埋める下水のような臭いが雨の湿度を纏い、やたらと鼻につく。


 煙草を吸えば誤魔化すことができるだろうか……そう考えて懐の煙草に手を伸ばし、厚紙のパッケージに触れたところで思い留まる。記憶が正しければ、煙草は残り八本だったはずだ。そして今月はまだ十二日も残っている。

 

 『煙草は月に一箱まで』――公衆衛生局のスローガンだ。


 より高価な煙草を製造する際に発生するタバコ葉の屑を集めて作られる所有物プロパティ向けの安価な煙草は、俗に《ダスト》と呼ばれている。正式な製品名などは存在せず、パッケージにはただ『煙草』と印字されているのみ。

 

 極度に乾燥したタバコ葉の燃焼は超高速なので急いで吸わなければならず、紙に含まれる燃焼材の刺激は口に苦く、フィルターは粗雑で硬いゴムのようだ。しかもうっかり逆さまにすると先端からぱらぱら零れてしまう。


 《ダスト》は、レニーが手に入れられる唯一の煙草だった。

 吸えば吸うほど彼の肺細胞は破壊され、死に近づく。

 緩慢な自死こそが彼の希望であり、政府に対するささやかな反抗だった。


 公式発表によると、煙草の購入制限は国民の健康増進が目的であるとされている。

 しかし、実際のところは社会保障費の低減と労働人口の維持が目的であろうとレニーは睨んでいる。国民の健康が目的なら、グリスパンなどを配るはずがない。


 煙草への欲求を堪え、レニーは目線を下げて歩く。

 過去にブラックマーケットで闇煙草の購入を考えたこともあったが、《ダスト》でさえとても手の届く値段ではなかった。レニーには何一つとして手に入らない。この生活以外は、何一つ。


 苦痛を堪え歩いているうちに、いつしかバス停に着いていた。

 バスはまだ来ない。ひび割れた屋根の下で雨を凌ぎ、ただ待つことにした。


 ふと背中に視線を感じ、振り返る。

 通りに犇めく廃墟同然の建物群、その中でも一際風化した元酒屋の窓枠に打ち付けられた材木の隙間から、老婆が血走った眼で睨んでいた。


 一瞬視線が交差したかと思うと、老婆はもう消えていた。

 居場所なく、人知れず朽ちてゆく老人たち。


 哀れだと思うと同時に、明日は我が身と背筋が震えた。

 自分とあの老婆との間には、一体どれだけの距離があるのだろう。どうしても、あの狂った老婆に自分を重ねずにはいられない。


 タイヤが水溜まりをかき分ける音を聞き、どうにか思考を断ち切れた。バスが来たのだ。電気自動車のモーター音は静かすぎて、注意を払っていないと目の前に現れるまで分からない。


 ハンドルもなければ運転手もいないバスにレニーは乗り込む。料金は必要ない。これは《アカバ・メディカル》が運行する職場までの無料送迎バスだ。真っ白な車体に張り付くナンセンスな広告ホログラムさえ無視すれば、乗り心地は実に素晴らしい。


 白を基調とした清潔感ある車内は、どこか病院のようにも感じられる。具合の悪そうな労働者が老若男女問わず座っているところを見ると、尚更そうだ。


 レニーのような下層労働者にとって大企業の雇用は命綱であり、特にこのバスの中は唯一安心していられる聖域だ。どんなに治安が悪い場所であっても――例えばこんなスラムでも――企業が所有するバスが襲われることはない。それは企業に対する明確な敵対行為であり、自殺行為だからだ。


 バスに限らず、企業の所有物に手を出そうものなら二十四時間以内に武装した私兵集団がやってきて、司法に裏付けされた合法的暴力を思う存分行使していくだろう。あるいは直接的でなくとも、その個人に関係する一切の社会的インフラを停止することだって出来る。


 今や政府は縮小を続け、治安維持や統治機構の維持など最低限の機能を担うのみとなっている。対照的に機能を拡大しているのは、《アカバ・メディカル》などの巨大企業だ。


 無秩序な発展と開発を続けた世界は、新たなる中世へと回帰しつつある。

 現代における巨大企業コングロマリットは、かつての大領主オーヴァーロードなのだ。


3


 柔らかな光が微睡みを拭い去る。

 知らぬ間にレニーはうたた寝していたらしく、先程まで降っていた雨は止み、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。時間にして三十分ほどだろうか。もう職場に近い。


 バスが都心に近づくにつれ、街は煌びやかで近未来的に、行き交う人々の表情も柔らかくなってくる。窓の外に広がるのは、最前線フロントラインと渾名された女王陛下の植民地。生存限界圏の鍔際に位置する、ネオンサインの不夜城だ。


『労働者の皆様、おはようございます。交通規制の影響により、当バスは路線を一部変更して運行しております。遅延に伴う労働時間の短縮につきましては、各人の給与より差し引かせて頂きます。どうぞご了承下さい』


 嫌味なほど温かで、無機質な男性の声。当然ながら合成音声。

 暴挙にも等しい通達だったが、車内は死人の心電図みたく静かだ。

 

 模範奴隷は声を上げたりしない。


 信号待ちでバスが止まった。とその時、激しく車体が揺れたと思えば、はらはらと空から何かが降ってくる。一瞬雪にも見えたそれは、よく見ると燦然と輝く紙吹雪だった。

 

『皆様、当バスより2ブロック先の《ヴィクトリー・ロード》にて行われている第一魔術騎士団の行進の模様を中継いたします。戦勝記念日の喜びを、共に分かち合いましょう』


 窓の景色が消え、一瞬のうちにレニーはパレードの最前列にいた。金の刺繍で縁取られた赤いマントを片側に垂らした魔術師たちが、隊列を組んで練り歩いている。周囲の人々は拍手喝采、空には五本の飛行機雲。どうやら先程の揺れは低空飛行の戦闘機によるもので、ついでに紙吹雪もぶちまけていったらしい。


 中継映像が窓ガラスに投影されたのだ。


『我が社の代替部品オルタナ技術は、人類を勝利へと導く大きな要因となりました。皆様のような素晴らしい労働者の多大なる献身は、我が社のみならず人類全体への――』


 レニーの意識はアナウンスへと向いてはいなかった。彼の視線は女王陛下の魔術師へと釘付けになっている。

 

 人知を超えた強大な力を宿した個人。

 魔術師全体の上位十パーセント。

 誉れ高き選良たち。


 かつて戦争の花形であり国家運営の中心にあった魔術師は、今や殆どが政府によって管理されている資産プロパティだ。無人兵器同士の衝突によって発生する計算結果リザルトを突き付け合う先進国の戦争において彼らの居場所は最早なく、投入されるのはその多くが同族の魔術師狩り――即ち、カウンターテロリズムだ。


 飛行機を吹き飛ばすのに爆弾は必要ない。何も持たず、どんなに厳重な身体検査も通過し、その身一つで飛行機を、地下鉄を、原発を吹き飛ばすことができる存在、それが魔術師だ。少なくとも政府はそう考えている。


 強大な個人は国家運営の妨げになる。

 そう考えた政府はしかし、数多くの魔術師を丸ごと抱え込みはしなかった。


 とりわけ強力な魔術師を選抜し、幼い頃から政府への忠誠を叩き込み、鍛え上げればそれで済む。悪しき思想に感染した魔術師への対処は、首輪の付いた魔術師に任せれば手っ取り早い。


 その為に、政府は資質のある魔術師を子供のうちから集めている。レニーの前を行進しているのは、そういった集団だった。


 彼らの首に不可視のリードが見えた。手繰っていくとそれは大陸を超え、海の向こうに座す女王陛下の元へと伸びている。政府に飼われる魔術師と企業に飼われるレニー。材木の隙間から血走った目で見つめる老婆とバス停に佇むレニー。それらの間には、一体どれだけの距離があるのだろう。


『アカバ・メディカル第四工場前に到着しました。皆様、今日も一日頑張りましょう』


 ぞろぞろとバスを降りる労働者の列にレニーも混じる。

 退屈な仕事ビスの始まりだ。


4


 アカバ・メディカル第四工場では主に民間グレードシビリアン代替部品オルタナを製造しており、レニーが配属されたのは腕部の完成検査セクションだった。


 完成検査といっても、何かやりがいや名誉があるわけではない。機械の腕をテストするのはその為だけに設計された機械であり、人間の介在する余地はない。レニーの仕事はベルトコンベアがスムーズに流れているか監視し、異常があれば手元の赤いボタンを押して停止させる。ただそれだけ。


 そして仮にラインが止まったとして、対応するのは専門の技師たちだ。

 彼らは代替部品オルタナ製造に関する高度な技能を持ったプロフェッショナルであり、社内での地位はレニーと比べるまでもない。

 

 それでもレニーが雇われているのは、《アカバ・メディカル》が気まぐれに打ち出した雇用促進キャンペーンのおかげだ。所詮は社会貢献をアピールする為に用意された吹けば飛ぶような仕事に過ぎないが、レニーは満足していた。

 退屈なことにさえ目を瞑れば、ちゃんと給料は出るし週に一度は社員食堂だって使える。これ以上を望むなら、ヤバい仕事に手を出してひたすらに沈むしかない。そして名もなき一人としてフロントラインの闇に消えるのだ。他の有象無象と同じように。


 耳と目を閉じ、口を噤んで生きようとレニーは思っていた。日を浴びて黄金に輝くライ麦のように、地に深く根を張って植物のように生きようと。その為にはもっと社会と同化しなくては駄目だ。少なくとも終戦を受け入れ、行進する兵士の列に無邪気な喝采を送る市民に混じれるようにならなくては――と、その時、レニーの身体が左右に細かく揺すられる。


 咄嗟に伸ばした手が緊急停止ボタンに届く寸前、自動的にベルトコンベアが止まった。

 どうやら小さな地震が起きたらしい。


「……まったく、ツイてないな」

「ああ、さっさと復旧させよう」


 壁と同化していた扉が開き、白い作業着を着た二人組の男が現れた。代替部品オルタナ技師だ。

 彼らはライン上の製品に損傷がないことを確かめ、手早く完成検査セクションを再稼働させた。


「くそったれの報告書を書かなくちゃな。原因は何だ?」

「地震じゃないのか」

「だったらアラートが来るはずだろ。少なくとも俺の端末には来てねぇぞ」

「……そういやそうだな」


 二人揃って首をかしげる男たち。片割れの一人がレニーの方を向く。


「なああんた、何か見て――」


 再び、レニーの身体は揺さぶられる。

 しかし今度は先ほどの比ではなく、レニーは地面に叩きつけられた。


 危機に直面した脳が引き延ばした一瞬のうちに、レニーは男がピンクの煙に変わる瞬間を見た。

 子供だった頃、傭兵同士の戦闘に巻き込まれたことがある。その時にも同じようなピンクの煙を見た。あれは確か、ロケット弾が直撃したのだったか。


「――生体至上主義ナチュラル・カルトだ!」


 生き残ったもう一人の男が叫び、すぐに死んだ。

 光の尾を曳く無数の光弾が男の身体を貫き、細かく裁断してゆく。

 飛び散った真っ赤な肉片が、白い床の上で酷く映える。


 粉塵の中を悠々と闊歩する女の姿を見て、レニーは自分が最悪の状況にあることを悟った。その女は丸腰だったのだ。

 であれば、さっきの爆発はロケット弾や爆発物ではない。


 あれは魔術。

 あの女は魔術師だ。


「魔術師に黄金の時代を! 人体の神秘を称えよ!」


 女がたぐいまれな指揮者のように両手を振るうと、炎の鞭がそれに追従する。魔術に理屈は通用しない。万物を超えて“燃える”という結果だけを与える魔術の炎は、不燃材の壁や金属までもを燃え上がらせる。


 魔術師を見たのは初めてではないが、魔術を見たのは初めてだった。

 根源的な恐怖がレニーの中で湧き上がる。


「ユニット展開、目標を補足」


 マイクロミサイルがレニーの真上を飛び、女に殺到する。弾頭に充填された二五〇グラムのコンポジションBは無事に炸裂したが、即座に魔術の炎に置き換えられ、再びレニーの真上を凄まじい熱と共に通過した。

 

 脆くなった壁を突き破り、マイクロミサイルを放ったのは強化外骨格エクソスケルトンの小隊だ。《アカバ・メディカル》のエンブレムが施された白い装甲が赤熱するような極限状態でも、その動作には僅かな動揺も見られない。外科的に施されたブレイン・マスキングが扁桃体を麻痺させ、恐怖を抑制しているためだ。


「作戦行動開始」

 

 曳光弾と光弾が飛び交う。

 レニーは助けを求め、必死で這い回った。

 ここはまるで巨大なオーブンだ。


 ライ麦だの植物だの、そんな考えは全く出てこなかった。

 死にたくない。そう思ったのは覚えている。


5


 結果として、レニーは奇跡的に生き延びた。


 病院のベッドで目を醒ましたのが三時間前。

 高額な入院費に眩暈を覚え、最低限の処置で良いと言ったのが一時間前。

 そして着の身着のまま放り出されたのが一分前。


 身体のあちこちがずきずきと痛む。これに比べれば靴擦れなど何でもない。


 火傷に生体ジェルを塗って貰っている間、警察が来て簡単な事情聴取を行い、事の顛末を教えてくれた。


 襲撃犯は――技師の男の想像通り――生体至上主義ナチュラル・カルト、中でも過激派で知られる《トリブーヌス・プレービス》と呼ばれる一派だった。

 身体の不可侵権を掲げる彼らは戦勝記念日に合わせ、同時多発的に襲撃を行った。被害はアカバ・メディカル第四工場のみならず、同社の他拠点や同業他社、果ては関連業者にまで及び、一部ではパレード中の魔術騎士団が事態の収拾に動員される一幕まであったらしい。


 しかし、最早そんなことレニーには関係なかった。重要なのは医療費によって家計が著しく圧迫され、混乱の中で煙草をなくし、病院からスラムへと帰るためのバス代さえ払えそうにないということだ。


 残ったものは、昼食に食べようと切り分けたグリスパンが一切れのみ。それ以外にはなにもない。


 泣き出したい気分だったが、そうしたって誰も助けてくれないのは分かりきっている。

 すっかり雲も晴れた夕暮れの下、羽織ったレインコートのポケットに両手を入れてレニーは歩き出そうとして、ふんわりと漂う甘い香りに後ろ髪を引かれ、立ち止まる。


 キャラメルの香り。さっと辺りを見回し、一人の男が吸っている煙草が目に留まる。

 あれは《ダスト》じゃない。《ダスト》はもっと埃っぽい、掃除機の後ろに立った時のような臭いなのだ。


 レニーもニコチンを欲していたが、生憎ながら来月までお預けをくらっている。

 ――そこで取った行動は突飛で、彼自身にも信じられないことだった。


「なあ、ちょっと」


 レニーは男に話しかけていた。まさか、煙草を分けて貰うつもりなのか。自分の行動が信じられない。相手の虫の居所が悪ければ、この場で殺される可能性だってある。


 その上、近づいてよく見ると男の、煙草を持つ左手は黒い金属だった。少なくとも民間グレードシビリアンではなさそうだ。軍用グレードミリタリーか、一点物の特注品マスターピースか。どちらも高価で危険で、身に付けている人間も大抵ロクな奴ではない。


 不味いことをした。

 緊張で口が渇く。


「何かな」

 

 男の口調は落ち着いていたが、レニーは内心慌てていた。

 しかしここで引き返すには遅すぎる。腹を括るしかない。


「煙草、一本くれないか」

「……」


 無言で男が煙草を差し出してきたのには驚いたが、レニーは一本受け取った。巻紙には『never knows best』と記されていて、口にくわえただけで質の良いものだと分かる。


「火は?」

「ない」

「貸すよ」


 続いて差し出された年季の入ったライターで火を付けた。何度か吸うとオイルの臭いも飛び、滑らかな煙が気道を通り、柔らかなキャラメルの香りが後に残る。

 《ダスト》以外の煙草を吸ったのは初めてだったが、これは市民シビル向けの煙草であると確信した。


 暫し無言の時間が続く。

 どういうわけか珍しく、レニーは他人と会話する気になった。


「あんた、仕事ビスは」

「嗜む程度に」


 男はまともに取り合う気がなさそうだが、恐らくは広義での葬儀関係――死体を作るという意味での――だろうとレニーはあたりを付ける。フロントラインではありふれた、珍しくもない仕事だ。


「聞いていいかな」


 男はレニーを見ていない。レニーは頷いて続きを促した。


「どうして話しかけようなんて思ったんだ。運が悪ければ、僕は君を殺してたかもしれない」


 それはレニー自身も気になっていた。今日危うく死にかけたばかりなのに、どうしてまた危険を冒したのか。考えても埒が明かなさそうだったので、口が動くままに任せることにした。それは話しながら思考を纏めるためだったのだが、レニーは乱雑な思考の断片を聞かされる男への配慮が欠けていた。


「……自分でも分からない。今日はとにかくクソな一日で……職場にテロ屋がカチコミやがって、それで死にかけて……自暴自棄だったのかもな」

「今日のテロか、代替部品オルタナ関係の仕事なんだな」

「ああ……つっても、一日中ベルトコンベア眺めてるだけだ」

「真っ当な仕事だ。誇れよ」


 それで、と男は言い、続けた。


「死にかけて、今はどんな気持ちだ?」

「まだ……心臓が騒いでる」

「じゃあ、足りなかったんだな」

「足りないって?」

「一度死んで、蘇った日の朝食はこの世で一番旨い。爽快な気分と新鮮な生命力が満ちてきて……世界が輝いて、美しく見える。幻覚剤サイケデリックなんかよりずっと良い」


 無口だと思っていた男の人が変わったような饒舌さに、レニーは驚いていた。こういった理路整然とした支離滅裂さは、特異な思考形態から魔術師を見抜く上で一つの指標になる。

 ……思ったより、不味い相手に話しかけたかもしれない。


 しかし、魔術師に代替部品オルタナは適用できない。魔力を宿した肉体は一切の侵襲を受け入れないからだ。だとすると男はただの変わり者ということになるが、それはそれで厄介だ。


「あんた、サイボーグだろ。それで……どう思う、生体至上主義ナチュラル・カルトとか……」

「どうでもいいよ。誰にでも神はいる」

「神を信じてるのか?」

「ああ、神はいるよ。僕を憎んでいるようだけどね」


 男は続けた。


「気づいてないふりはやめよう。神は僕らを憎んでるんだ。僕らは望まれぬ忌み子、僕らは神の堕落児なんだ」


 男の口調に熱はない。事実を告げるように、淡々と。

 再び男が口を開こうとしたところで、一台のセダンがレニーの前へ止まった。ガラスには全てフィルムが張られており、社内の様子は伺えない。


「迎えが来た。煙草はやるよ」


 レニーの掌に《never knows best》のパッケージが載せられる。ああ、それからと男が振り返えった。


「僕のボスはスペース・モンキーを探してる。死にたくなったら、訪ねてくるといいよ」

「スペース・モンキーってのは一体……」

「この世はクソで僕らもクズなんだ。決して生まれ変われなんかしない」


 それだけを言い残し、男はセダンに乗って去った。レニーに言い表せぬ予兆と、《never knows best》だけを残して。


 フィルターぎりぎりまで燃えた煙草を捨てる。

 とりあえず、日が沈む前にスラムまで辿り着かなければならない。


 エネルギーが必要だ。レニーは一切れのグリスパンを取り出し、齧った。

 涙のようにしょっぱく、胆汁のように苦い。


 それはまるで、レニーの人生のようだった。

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