通行人の咳き込みが、母の咳き込む姿に似ていて

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 同棲中の後藤は、珈琲が冷めても抵抗がない。私は熱いものを冷やすのは不愉快だから、彼の行動は目に付いてしまう。


「あれ、首藤って歯ブラシ買った?」


 後藤は私の目線からコップをさらい、口に運んだ。気配に気がついたらしく、スマホを足に置いている。


「予備ある」

「あー、何か忘れているような……」


 私たちは近くの喫茶店に来ていた。窓際の席に座ってスマホをいじっていると、咳き込みが聞こえる。透明なガラス越しで、年配の女性が苦しそうに、口元を手で抑えていた。

 買い出し終わりの後藤が言う。


「ワクチンの接種券きた?」

「いや。連絡したら、実家に届いてるかも」

「えー、住所変更してねえの?」

「あっちが間違えたんやないの」

「帰る?」


 彼は私が実家に帰りたくないことを知っている。普段なら、鼻で笑って帰りたくないと吹き飛ばすところだ。ただ、私は心残りがあった。


「行こうかな」


 一瞬の間が流れる。彼は、次の発言を決めるために思考している様子だった。そして、瞬きする。


「着いていこうか?」

「知られたくないからいい」


 強く言いすぎてしまった。自分の悪い癖が出て、下唇を噛む。

 後藤は背もたれに体を預け、ガラスの方に顎を向けた。


「土産を頼むよ。いちばん高いやつ」

「わかった」

「今から帰れば相席食堂みれるか」

「エムワン決勝の人のやつだっけ」

「うん。首藤、ウエストランド見れるよ」

「いいね」


 ここから歩いて十分経てばマンションに到着する。家に入るまで、私は母親の後ろ姿を思い出す。通行人の咳き込みが母親の患った時に似ていた。



 実家は、新幹線で移動して2時間。そこから乗り継いで無人駅、親の車に乗って30分の先にいる。


「おかえり」

「いつからいたの?」


 母親は新幹線の改札出口で私のことを待っていた。肩には、紐がくたくたになった鞄が付けられていて、風船のように膨み詰め込まれている。


「買い物の帰りだから早めに来た。何か食べたいものがある?」

「コンビニで済ませた」


 出で立ちを観察する。髪の毛は後ろにまとめてあり、白髪染めを続けていた。目のシワはより深くなってクマもある。以前よりも老けて見えるのは、変化に気がつくほど距離ができたからだろう。


「いつまでいるの?」

「明日には帰る」

「ならカレーは食べていくよね。もう作るって決めてるから」

「いる」

「いらないって言ってたら捨てようと思ってた」


 私は実家に帰るのを後悔した。母親は高圧的な態度で、行動を支配してくる。親しくなれば気を遣わせるようになっていく。私もその1人だった。


「母さん痩せたね」

「ちょっとね。あんたこそ痩せたんじゃない? 食べてるの?」

「食べてるよ」

「作ってくれる人でもいるの?」


 母親の中で、俺はまだ幼い子供のままだ。包丁を持つことすらできないと思い込んでいる。その枠を私は壊さないままで成長した。認識を改める労力に見合ってないと判断している。


「俺も作れる」

「はいはい。私がいつも作ってたじゃん」

「それは、まあ。そうだね」

「ほんと感謝しなさいよ」


 そう言って車に乗っていく。車内から家に向かうまでの道路を眺める。自転車で登校した道は割れ目が残っている。店もシャッターでひしめく。周りはダンボールを固めたような部屋。買い物できる店よりも老人ホームが目立っている。やはり、この街は緩やかに死んでいた。


「そういえば、近くのみっちゃん覚えてる?」

「野球部の?」

「そうそう。警察官になったらしいよ。頑張ったのね」

「俺は嫌いかな。そいつ、イジメしてたよ」


 車が右折して、遠心力で窓に体がもたれる。


「そうだったかな。忘れてた」

「そういうところあるよね」

「でも今は立派になったから良いじゃない」

「そんなもんかな」


 みっちゃんは、クラスで口数の少ない子の飲み物に虫を入れていた。その子が教室で嘔吐するたび、友達と指さして笑っている。未だに強く記憶に残っていた。実家周りは、嫌な記憶を鮮明に引き出してくる。どうしても過去と思えないのは、そのいじめを見て見ぬふりしたからだろう。いじめられた子は転校して名前も忘れた。罪の意識だけ残っている。


「仕事はどうなの?」

「しんどいよ。やめたいね」

「帰ってきたら笑ってあげる。だって、家を出たいって言ったの自分だもんね。それなのに、すぐ実家に帰ってきたら情けないよ」

「そんなの分かってるよ」

「そんな怒らなくていいよね」

「そうだね」


 ため息を吐いて、俺は後藤に到着したよとラインを入れる。彼はすぐにスタンプを送信してくれた。このつながりが、私を正気に戻してくれる。未だ感情に囚われていない。冷静なまま、母親の刺激に耐えられている。


「どこかよる?」

「よらない」

「真っ直ぐ帰るね」


 自分の家に到着した。道路脇に植えられた木々は、成長がたくましく、根っこからコンクリート下を持ち上げている。自宅のマンションは色錆びていて、駐車も以前より減っていた。


「なんか人少ないな」

「え、うん。ほとんど引っ越したよ」


 自宅に入ると、もので溢れていた。ダンボールの空き箱や、丸まったレジ袋が目立つ。汚部屋程では無いが、人を呼べる体勢ではない。母は綺麗好きだったはずだから、この現状に面食らった。

 入口で足を止めてしまい、背の母が気がつく。


「ほら、片付けても人こないから」


 廊下を歩き、左の台所を確認する。


「母さん。料理手伝ってもいい?」

「そう? ありがとう」

「いいの?」

「ほんとはさせたくないけど、今は腰が悪いからね」


 私は手洗いして料理を手伝った。母親は料理を手伝うことに抵抗があったけれど、野菜を切る姿を眺めたあと、何も言わなくなる。私が手伝う姿を新鮮に思っているのだろう。言葉にして伝えなくても、価値観を改めてくれているのかもしれない。


「通院してるの?」

「かかりつけ医のところに行ってる」

「友達とは遊んでる?」

「電話は時々かけている」


 母親は食材の用意をする。そのすぐに、肩を揺すって笑いをこらえていた。


「何?」

「やっと親のこと聞いてきた」

「そうかな」

「あんたはずっと家のことなんて関心ないと思ってた。どこか見下した態度で接していた。さっきだって私から質問しないと答えなかった。帰りたくないと思わせる要因が私にあるとは思えなかった」


 母親の言葉が鋭くて動揺した。その思いを認めたくないから、答えないことで抵抗する。

 親は私の切った野菜を採点する。これだと一口が大きいとか指摘してきた。心に積もる嫌な思いに気を向けられない。自分の考えが閉じこもってるような息苦しさを覚え、口を開いた。思ってもないことを聞く。


「父親は帰ってくるの?」

「父親のことは興味がないでしょう。他に聞きたいことあるんじゃない?」


 換気扇の回る音がする。冷蔵庫が低い声を鳴らしていた。


「なんで台所に入れてくれなかった?」

「今入ってんじゃん。腰痛くて」

「前の話だよ」


 母親は、学生時代から台所にたっていた。私が手伝おうとしたら嫌な顔してくる。だから、私は母親の聖域に立ち入らないようにしていた。今なら、その理由が聞ける。


「ここだけ私の場所だから。寝てるところも、リビングでテレビを見ている時も、ここに私はいなかった。分からないからって顔をして、誰も来ない。その居心地の良さを守りたかった。それに、あなたは断れるとわかって手伝いを申し出たんでしょ」

「そんなこと」

「別に認めなくても責めないよ。こんな面倒くさいことやりたくないだろうし。だから、私はいまやらないの。今はここが私の家なの」

「家族の暮らしは苦痛だった?」

「嫌なことばかりじゃなかったけど、やり直したいとは思わない」

「それを苦痛って言うんじゃないの?」

「言わないよ。でも、察してしまうよね。家族なら言葉にしなくてもわかるってやつ。信じそうになる」

「言葉にしなきゃ家族でも分からないよ」


 母親が私の本質を見抜いていることを分からなかった。


「小さなことが、積み重なったんだとおもう。何で、服を着回すの? 襟元がよれたなら、買い直せばいいのに」

「別に興味がない。カバンだって使えたらいい」

「どうして自分を下げて人を立てようとするの?」

「だるいから」


 料理が完成した。話を理解しようとしているうちに、母親が慣れた手つきで皿を並べていく。体がついて行かず、盛りつけをする。


「今だから言えるけど、あなたってどうして極端なの? 好きと嫌いは両面じゃなくて、好きと嫌いの間に、たくさんの感情があるんだよ」

「そうなの?」

「あなたも好きな人がいるならわかってるんじゃないの? あとは受け入れるだけだと思うよ」


 私はスプーンを片手でクルクルと回す。食べようとしないから、母親は続ける。


「どうして、帰ってきたの?」

「それは━━」


 自分で口に出して、本意に気付く。昔、母親が風邪をひいたことがある。その時は、無理しないで寝てほしかったけど、台所にたった。手伝おうとしたのに、拒絶され、逆恨みで入らなかった。私は、敵じゃないと安心して欲しかっただけ。それを不意に振られて、嫌いになって、見下した感情に果てた。


「母親の咳き込みを思い出したから」



 翌日。

 あの後は食器を片付けて、何事もないように就寝した。調理時のような心の探り合いは1度も起きていない。夢を見せられているような感覚だった。


「じゃあ、彼女によろしく」

「彼氏」

「あ、彼氏によろしく」


 私は新幹線に乗り込んだ。自由席を確保して、スマホを確認する。後藤に帰宅する連絡を入れ、ふと窓を見た。

 母親が私に手を振っている。わたしが家から出た時も、こうやって手を振っていたのかもしれない。あのころは、自分で精一杯で、とにかく逃げたい一心だった。

 本心に触れてみても、母親のされたことを許すことが出来ない。それでも、許さないまま関われることがあるのかもしれなかった。

 新幹線が私の体を運び、母親の姿を小さくさせる。その速度に身を委ね、私は咳払いした。

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通行人の咳き込みが、母の咳き込む姿に似ていて 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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