泣かないで

高柴沙紀

泣かないで

 陽子。


 今日、初めて優子が愛美を連れて帰って来るよ。

 スマホの小さな画面で見ることしか出来なかった、小さな小さな女の子に、ようやく俺も会えるんだ!



 まだ夜も明けきらない時間だというのに、ぱっちりと目が覚めてしまった俺は、もう居ても立っても居られずに起き出して、陽子の位牌に手を合わせていた。

 口元が緩んでいるのが、自分でもわかっている。


 きっと君も天国で、この日を待ちわびていただろう?

 愛美がこの家にやって来るのは、初めてなんだから!


 思い出すなあ。

 それこそ座布団にちんまりと収まってしまうような、小さくて、ふにふにと柔らかくて、脆くて……そうっと、そうっと手で触れた、その温かさ。見ているだけで心配と幸せを、心の底から交互に味わったあの頃。

 もぞもぞと短い手足で、一心に庇護者を探すように空をかくのが、やっとの頃。

 そんな稚さに、それこそ愛しさが募って胸が温かくなるような頃。

 優子が赤ん坊だった時のこと、もう三十二年も前のことだっていうのに、昨日のことのように覚えてるよ。


 愛美が乳児だった時間も、そばで見ていられたら、きっと優子の時と同じ、あんな幸せをもう一度手にすることが出来たんだろうな。


 ああ、本当に。

 どれだけ俺が、あの子達の住む町へ飛んで行きたかったことか!



 小さな古書店をひとりで営んでいる俺は、そもそも店が休みの日以外、ほとんど外へは出て行かない。

 だから電話は、店の固定電話があれば十分に事足りると思っていたんだ。


 君は、俺がものぐさだって、今でも笑うかい?

 若い頃、さんざん最先端を追い続けてきた反動だよ、きっと。だって会社を辞めたら、途端に世に出てくる新しい製品になんて、全く興味がなくなるような有様だったからね。

 それこそ俺が部長だった頃なんて、まだパソコンさえ、それほど世間には広まっていなかったじゃないか。覚えてるだろ?


 本当に、技術の進歩は早いよ。早すぎて、俺みたいな年寄りはとてもじゃないけど、追いついていけない。


 七十そこそこで年寄りだなんて言ったら、優子には笑われたけどね。

「今時の七十代なんて、まだまだ現役でしょ?」だそうだ。


 そんな俺のところに、スマホを買って訪れてくれたのが、信一君だ。

 気の優しい───優子を任せるのに彼ほど相応しい男はいないと、俺は誇りに思ってる。本当だぜ? ───彼は、結婚と同時に優子が家を出たことで俺が寂しい思いをしているんじゃないかと、いつも気にしてくれていたらしい。


 ビデオ通話という手段を、俺達の間に作っておこうと思い立ったからって。仕事帰りにわざわざこの町に寄ってくれたんだ。三時間もかけてね。

 もちろん、優子には連絡済みだったらしいが、結局、真夜中に帰宅するハメになっちまった。申し訳ないやら、嬉しいやらで……彼には、本当に頭が下がるよ。


 だって、こっちはパソコンさえ、ろくに触ったことがないしさあ。

ついつい腰が引けてしまったんだが───実際、ビデオ通話の機能を覚えるのも少々(?)時間がかかったんだが───今は、根気よく物わかりの悪いジジイ相手に付き合ってくれた信一君に、ただただ感謝するばかりだ。


 優子や信一君と話すためだけにビデオ通話を使うのは、正直気恥ずかしいし、わざわざ話すような特別な用事なんて、そうはない。

 もっぱらそれは、優子からの電話に出るためだけのものだったんだ。


 けれど。


 優子が満面の笑顔で、

「お父さん! 来年にはおじいちゃんよ!」

 と、電話をかけてきた日から、そのパターンは逆転した。


 俺は、一瞬呆然として……それから、じわじわと顔が崩れていくのを感じた。ほんとに顔って、崩れるもんなんだな。


 もちろん、いつかそんな日が来るとは、思っていたさ。けれど、実際にそれが現実のものとなったら、もう!

 店の常連さんのひとり、大学生の兄ちゃんがよく「テンパる」って言うけど、あれこそテンパったってやつだろう。

 思い返すと恥ずかしいんだが、もう優子が引くくらいの勢いで唾を飛ばしてたよ。


「何時、生まれるんだ!?」

「順調なのか!?」

「おまえ、具合は大丈夫なのか!?」

「信一君も喜んでくれたか⁉」

「お義父さんやお義母さんは、何て言ってるんだ!?」


 さっそく、次の定休日は優子たちの家に向かったよ。

 信一君の仕事の都合で、あちらのご両親と同居しているから、どうしても気が引けてなあ。普段はなかなか訪ねられないんだが、あの日だけは、別だった。


 あちらのご両親も喜んでくれてなあ。皆で、飲めや歌えの大宴会になった。

 翌日店があるからと、早めに切り上げはしたけど、あちらも、ずいぶん残念がってくれたよ。俺も名残り惜しかった。


 ───うん。変に気兼ねしてないで、もっと訪れていればよかった。



 優子が愛美を産んだのは、最初の緊急事態宣言が発令した直後だった。


 首都圏でコロナの感染が広がり、日本中にウイルスと疑心暗鬼が蔓延し始めるのを、俺はただ、テレビ越しに黙然と見ていることしか出来なかったよ。

 今思い出しても、日本中がヒステリーを起こす一歩手前って感じだった。


 友人から受け継いだ小さな古書店は、大学の近くにあるせいか、それなりにお客さんも入ってくれてさ。代々の常連めいた連中も、それまでは、よく顔を出してくれた。

 こんな店に好んで来るような人達だからさ、本当に本が好きな、気のいい奴らばかりだよ。


 信一君も、そのひとりだった。

 彼が看板娘(言い方が古いかな、やっぱり?)の優子と結婚した時は、皆がひとりになる俺を心配して……うん、激励してくれようと、慰労会を開いてくれたぐらいだ。

 嬉しかったなあ。


 本当に、ただの客という全くの他人の関係だったっていうのに……彼らは優しかった。

 コロナの感染が広がり始めた頃から、外出自粛が叫ばれていた真っ最中まで───社会人の皆は、さすがに無理だったけど───大学だって休みだろうに、時おりわざわざ来てくれて、代わる代わる、顔を覗かせてくれたよ。


 ……それでもさすがに、近くに来て話すのは遠慮してたみたいだ。


 ひとり暮らしの俺のところに……高齢者の俺のところに、万が一にもウイルスを持ち込んだらマズイって、気を遣ってくれてたんだって、もちろんわかってる。


 窓ガラスを挟んで、ちょっと気恥ずかしいけれど笑って手を振り合う度、嬉しい気持ちと、ちょっと……ちょっとだけ寂しい気持ちを味わったよ。


 ───優子が生まれるまで、君もこんな気持ちでいたのかい?



 ああ、いや……、うん、ごめん。

 今さらだよな。


 ええっと。

 うん、世の中がそんなふうに、ピリピリしてたからさ。

 優子がお世話になった産婦人科でも、危うく受け入れてくれないんじゃないかと、危ぶまれたぐらいだ。

 それでも、前々から医師せんせいと話し合って、予約も入れていたというし。

 それに加えて、事あるごとに綿密な連絡を取り合い続けた結果、ようやく病院側は、厳密な検査と互いの保障契約を条件に、優子の入院を受け入れてくれた。


 でもさ。

 あちらのご両親はもとより、信一君さえも面会が出来なかったって言うんだから、俺に至っては問題外もいいところだ。


 出産当日……あの日は、一日中、君の位牌に手を合わせていたような気がするよ。

 本当に、母子ともに無事だと電話があった時は、腰が抜けたみたいになっちゃったよ。内緒だけどな。



 さあ、そろそろ用意を始めなくちゃな。

 優子と信一君が愛美を連れてやって来るのは、昼前だ。


 愛美に埃を吸わせるなんて冗談じゃない。そうだろ? だから大掃除は昨夜までに、きっちり終わらせたとも。

 普段から、ちゃんときれいに暮らしているから、手早いもんさ。


 店の中こそ本が山積みになっているけど、もともと奥の居住空間は物が少ないぐらいだ。

 優子がいた頃は、それなりに華やかだったもんだが、趣味らしい趣味もない男やもめの一人暮らしなんて、さっぱりと、こんなもんさ。

 まあ、大型新古書チェーンやネット書店の台頭で、売り上げが激減した小さな古書店の経営者としちゃ、慎ましく暮らさざるを得ないっていうのも事実なんだが。


 それでも俺ひとりの暮らしなら、それほどきついもんじゃない。

 食い物にこだわりがあるわけでもないし、家賃もかからない。服やレジャーに金をかけるタイプでもない。俺ひとりなら、どうとでもなるからさ。


 ……優子を育てていた三十年ちょっと。退職金と日々の売り上げだけでも、あの子に平穏な暮らしをさせてやれて、よかったとつくづく思うよ。

 あの子に不自由をさせなかったことだけは、今でも君に胸を張れるさ。



 今日は奮発して、寿司を頼んでおいたんだ。

 それから、豚汁を作ろう。

 寿司には合わないかな? でも、俺の料理の中でも特に優子の好物だったからさ。


 台所に向かった俺は、ちらりと食器棚の中を見た。

 数少ない食器の中に、鮮やかなピンクが覗いている。乳幼児用の、プラスチックの小さな茶碗に描かれた花々だ。その隣には同じ模様のコップもある。

 ううん。今の子が好きそうなキャラクターなんて、全く見当もつかないからさ。


 一番、可愛らしいからと選んだそれは、今日のために、ベビー用品店に買いに行った物だ。

 やっと離乳食が始まったっていうから、いいかな、と思って。

 ……いい、よな? 何か愛美の物を、この家に置いておきたかったから、さ。


 思ったよりもいろいろな種類の食器が大量に並ぶ売り場で、散々迷って選んだそれを、大事に両手で掲げるようにレジに持っていったら、年配の店員が微笑ましいものを見るような目で俺を一瞥してから、丁寧に紙に包んでくれた。


「お孫さんのですか?」

「ええ。初めての孫でねえ。やっと会えるんですよ」

 聞かれてもいないのに、俺は喜び勇んで口を開いた。


 ずっと、ビデオ通話でその成長を見守ることしか出来なかったこと。

 這い始めた時も、初めて立った時も、よちよちと歩くのさえ、小さな画面越しにしか見られなかったこと。

 スマホ越しに優子の「ほら、じいじだよー」という言葉に、きゃっきゃと笑うけれど、直接会った時、本当にあの子が自分を「じいじ」であるとわかるのか、実は心配であること。


 店員は、うんうんと頷いて、優しく笑ってくれた。

 少しばかり恥ずかしかったけれど、初めて人に聞いてもらえたのは、やっぱり嬉しかったなあ。



 さて、まずは大根と人参を冷蔵庫から出して、と。


 うん。

 若い頃、単身赴任の度に自炊してきたことが、優子を育てるうえで物凄く役に立ったのは事実だよなあ。

 君と結婚する前なんて、ほんとに西に東に、よく飛ばされたもんだよ。


 あの享楽に浮かれたバブルの時代は、同時に容赦なく仕事が奔流みたいに襲ってくる時代でもあったもんなあ。

「二十四時間、戦えますか」

 なんてCMが流れていても、別段、誰も、何の不思議にも思わなかった。

 今なら、そんなCMが放映されたら、ええっと……炎上? するところだよなあ。


 はしゃいだ喧騒と、ブランド品や高級ホテルやレストランの映像が、当たり前のようにテレビ画面に流れ、接待でゴルフや繁華街のクラブで気軽に大金が動く。

 今思うと、凄いよなあ。

 高卒の新入社員が、入社半年もしないうちに、男に奢らせる子だけじゃなく、自腹で宝石を買うような子さえ珍しくなかった時代だったんだから。


 まあ新入社員の挙動はともかく、そうして金が動くってことは、それだけ大きな仕事があったってことだから。

 君と結婚した直後に、ちょうど部長に昇進して、俺は、ようやく単身赴任からは解放されたけれど。

 それでも、忙しく会社と取引先とを飛び回っていたことに、変わりはない。

 それが不可抗力……だと思うのは、やっぱり言い訳がましいかな。


 ───専業主婦だった君を、ずっとひとりっきりにしていた。


 夫の稼いだ金で遊びまわるなんて、考えもしないような君を。

 子供が好きで、俺との子供を心待ちにしていた君を。

 ───でも、なかなか子供に恵まれなかった、君を。


 ……本当は、気づいていたんだ。

 陽子。

 君が、もしかしたら寂しかったのかもしれない、と。


 だから余計に、あれほど子供を作ることに必死だったんじゃないか、と。

 長く辛い不妊治療が続く日々、こっそりと失望に幾度も泣いた君を、本当は知っていた。

 どう慰めていいかわからなくて……仕事に逃げていたところも、もしかしたらあったのかもしれない。


 ごめん。


 だから、やっと優子を授かった時。

 俺は、長い間辛い思いをさせてしまった君と、ようやく生まれてくれた大事な優子のためなら、何でもしようと決めたんだ。

 それが亭主としての、俺のせめてもの責任で……ささやかながらも、俺の望みだったんだ。



 だからって。

 まさか俺よりずっと年下の君が、可愛い盛りの優子を残して、逝ってしまうなんて思いもしなかったけれど。



 君が逝って、俺に、たったひとり残された、大切な小さな優子。

 この子のためなら───そして、きっと途轍もなく心残りだっただろう君のためなら。

 それまでの人生を正反対の方向に変える程度、俺にとってたいしたことじゃない。

 ごく自然に、そう思ったんだ。当たり前のことじゃないか、って。


 それまで通り、会社員を続けるとしたら、優子の世話を誰かに委ねなくちゃならないだろう?

 当時は、今みたいに学童保育なんてほとんど見当たらなかったし、保育園さえ、それほど遅くまで子供を預かってはくれなかった。

 それに、優子を『鍵っ子』にするつもりなんて、微塵もなかったよ。

 誰もいない家に、ひとりで帰って、ひとりで時間を過ごし、せいぜい寝る前に帰宅した俺と顔を合わせるだけ、なんて寂しい子供時代を、あの子に送らせたくなんかなかった。


 君にそんな思いをさせていたんじゃないかって、ずっと後悔してきたからね。

 だから、いつでも優子の傍にいられる暮らしにすると、決めたんだ。


 君の葬儀が済んで、迷いなく退職届を出した俺を、上司や同僚は慰留してくれたけど、俺にとって何が大事なのかなんて、明白だった。

 そうだろう?

 再婚相手を紹介してくれようとした人もいたけれど、そんな気になれなかったし、ましてや優子を女性と結婚するなんて、いくらなんでも、相手にだって失礼だ。


 ……うん。

 俺は、運が良かったと思うよ。


 バブルが弾けた直後で、まだ退職金が減額される前だったことも。

 友人が郷里に帰るからと、この古書店を売ってもらえたことも。奴に、ちゃんと仕事のイロハを教えてもらえたことも。

 気のいい歴代の常連客の皆に、優子も支えてもらえたことも。


 俺は、優子の傍で、自分の手であの子を育てられた。

 今度こそ、後悔することなんて何ひとつなかった。

 うん。運が良かったし……幸せだった。



 ああ。店といえば。

 あれは、何だったんだろう……?


 俺は、つい人参を切る手を止めて、台所のガラス戸越しに店の方へと目をやってしまった。


 昨日のことだ。

 緊急事態宣言が解除になったとはいえ、まだ誰もが様子見をしながら、恐る恐る外に出るようになったばかりだから、こんな小さな古書店にわざわざ来る客はそうはいない。

 常連の皆も、まずは生活を取り戻してから……落ち着いてから、顔を出してくれるだろう、と思ってのんびり店番をしていたんだ。

 うん。外出自粛が解除になったんだから、いつまでも店を閉めていてもつまらないだろう?

 たとえ、やって来る客がほとんどいなくても、店の扉は開けていたかったんだ。

 

 いい天気だった。

 開け放した扉の向こうを、ぼんやり眺めていたのは、久しぶりに店の前をぽつぽつ通り過ぎる人達の姿が、懐かしかったからかもしれない。

 ……そりゃ確かに真剣に、ずっと外を見ていたわけじゃなかったけど。


 気がついたら、戸口に女の子が立っていたんだ。

 ほんとに、いつからそこにいたのか。全く気がつかなかった。


 十歳になるかならないか、くらいの女の子だった。

 たぶん、可愛い女の子、なのだと思う。大きなマスクで顔半分が隠されていたけれど、そう思った。

 いや。可愛い、というよりも───何故か、懐かしい気がしたんだ。


 そうだ。目元が優子に似てるんだ。


 その視線が、何故か店内の何よりも先に、まっすぐ俺に向けられたような気がした。

 そして何かを言おうとするように、一度だけ唇が開いて、閉じた。

 何かを言いかけて、慌てて止めたかのように。


「いらっしゃい」

 目が合ったんだから、無言でいるのも、なんだろう?

 相手は、小さな女の子なんだから。


 見かけない子だな、とは思った。

 そりゃ、この年頃の子ならこんな店よりも大通りの新古書店の方が相応しいよな。

 そうそう見覚えるわけもないか。


「こんにちは」

 しっかりした子なんだろう。ちゃんと挨拶を返してきた。

 でも、その場から動こうとはしない。


 店に入ってくるわけでも、引き返すわけでもない。

 ぶらぶらと……冷やかしや、好奇心で来たわけじゃない、のかな?

 何か用がある? そう思って首を傾げた。

 古本屋に用事なんて、そりゃあ、ひとつしかないだろう?


 でも、ひとりで?

 親が買い物をしている間にちょっと来てみた、というには、この界隈には該当するような店はない。


 女の子の唇が微かに何か言いかけるように開いて、迷うように閉じる。

 それから、沈黙を怖がるように大急ぎで……そんな感じで口を開いた。


「えっと、えっと……お店、ずっと開いてたんですか?」

「は?」

「あのっ、えっと、自粛期間の時もお店やってたんですか?」

「ああ、うん」

 唐突な質問に、ちょっと呆気に取られたけれど、なんだか、勢いに押されて答えてしまった。

「時々、やってたよ。

 と言っても、昼間にちょっとだけ、だけどね。

 食べ物のお店じゃないから、お客さんが来ても、コロナがうつる心配はお互いにそんなにないはずだから、それぐらいはいいかと思ってね」


 だからって、入ってくれたお客さんは数える程しかいなかったけれど。


「そ、そうなんですね」


 なんだろう。なんだか、一生懸命に話の接ぎ穂を探しているみたいだ。

 と思っていたら、ぽつりと女の子は呟いた。


「……それなら、もっと早くにお願いして来ればよかった」


 ───こんな店に?


 思わず首が傾いた。

「ええっと、今日はご家族にちゃんと話して出てきたの?」

「はい。すごく、すごくお願いして……ようやく出してもらえました!」

 問いかけた俺に、女の子はぱあっと花が開くように笑って、弾んだ声で答えてくれた。

 そして、真面目な顔になって問いかけてきたんだ。


「あの、死んだ人にもう一度会えたっていうようなお話って、ありますか?」


 ───もしかして、コロナで誰か身内で亡くなった人がいるんだろうか?

 考えすぎかもしれないけれど、咄嗟にそう思った。


 こんなに小さい子が……可哀想に。


 もしそうなら、ホラーや悲しい話は避けた方がいいよな、きっと。

 万が一そうだったら、なにもそんな話を読むことはない。

 だって、あんまりじゃないか。そうだろう?


「そうだねえ。映画になったような話なんか、どうかな?

 そっちの棚に置いてある『黄泉がえり』とか『鉄道員』とか『ツナグ』なんて、いい物語だと思うよ」

「いい物語?」

「死んだ人も生きている人も、どちらもが悲しい思いをしないで、もう一度会うことが出来た話だよ。

 死んだ人のささやかな手助けや、生きている人の変わらない「いなくなっても、やっぱり大好きで大切な」相手への気持ちが繋がる……上手く言えないけど、死んだ人と生きている人にとって、悲しいことばかりじゃない話だね」

「……死んだ人に会えたら、やっぱり嬉しい?」

「そうだね。おじさんなら、嬉しいな」

「……見えなくても?」


 この子は……死別した人に会いたいのだろうか。

 会えないとわかっていても、もしも会えたら、と思うぐらいに。たとえ姿が見えなくても、それでも、と。


「見えなくても、気配……そこにいるなって感じはわかるかもしれないね。それだけでも、きっと嬉しいよ」

「悲しいことがあっても、帳消しになるぐらい?」


 なんだか笑ってしまった。

 そんな奇跡が本当に起こったなら、多少の悲しみなんて簡単に吹っ飛んでしまうだろう。


 もし。もう一度、君に会えたなら……。


 思わず笑った俺の顔を見て、そして女の子は、ちょっと考えるような顔をしてから言った。

「あの、小さい本じゃなくて、大きな本がいいんですけど」

「文庫本じゃなくて、ハードカバーがいいってことかな? それなら反対側のこっちの棚で……」

 急に現実的な話になったな、と思いながらそちらに視線を向けたのは、一瞬だった。


 本当に一瞬だったんだ。

 ───なのに、視線を戻した時、そこには誰もいなかった。


 明るい日差しの射し込む戸口の向こうにも、小さな店の中にも、人の姿など影も形もなかった。


「……え?」

 思わず店をぐるりと見まわしてから、俺は戸口から外へ出た。

 やわらかい日差しの下、遠くに歩く人の姿がいくつか見える。けれど、あの女の子の姿は見えなかった。


 たった今まで、ここで話していたのに。

 そりゃあ、会話をしたのは、三分にも満たない短い時間だったけれど。

 狐につままれたような気分で、俺は目を瞬かせた。

 

 え?

 え?

 

 一瞬。

 たったひとりでコロナ禍の長い時間を過ごしてきた高齢者……自分に対して、ふと嫌な考えが脳裏を過った。


 なのに、どうしたわけか、俺はそれに対して不安を覚えなかった。

 あの女の子は確かにいた。あの子と確かに話をした、と……我ながら不思議なほどに確信していたんだ。

 錯覚や思い込み、幻覚なんかじゃなくて。ボケはじめたわけでもない、と。

 自分の感覚以外、根拠なんてないのに、不安も恐怖もなかった。


 あの女の子が確かに存在したのなら、それはそれで怖い話になるだろうにな。



 ただ不思議だなあ、と呑気な気持ちになりながら、俺は昨日のことを思い出している。

 考えてみれば、変な話だよな?

 我ながら、もっと不審に思っていてもおかしくはないのに。


 まあ、いいや。

 それよりも、今は優子と信一君と愛美を迎え入れる準備が先だ。

 ああ、せっかくだ。ビールだけじゃなく、日本酒も冷やしておかなきゃな!


 我ながら浮かれてるのがわかる足取りで、俺は台所を後にした。





 約束の時間から、もう二時間も過ぎていた。


 朝から約束の時間までウキウキとしていた心が、時計の針が動くごとに、ゆっくりと不穏な重みと不安を感じ始めていた。


 ───約束の時間、間違ってないよな?


 寿司桶の中で、ラップ越しに寿司が艶を失いつつあるのを横目に、俺はスマホを取り上げた。これももう、何度目になるだろう。

 相手が電波の届かないところにいる、と変わらぬアナウンスが耳を打つ。

 もちろん、店の固定電話からも掛けてみたが、一向に優子が出ることはなかった。あちらの実家の電話も、虚しく呼出し音が続くばかりだ。


 何かあったんだろうか?

 約束は、確かに今日だったよな?


 スマホを持ったまま、何度も家と外とを往復するが、待ち人の姿はどこにもなかった。

 シャッターの閉まった店の前まで回り込んでみても、通行人が素知らぬ顔で通り過ぎるばかりだ。

 テレビをつけても、電車の遅延情報を流すニュースはない。滅多に開かないスマホのニュースアプリを恐々と触っても、それらしい記事は出て来ない。


 何か、事故があった?

 まさか、愛美の具合が悪くなったとか?

 ───まさか、今さらコロナに感染したとか……。


 背筋に冷たいものが落ちた。

 愛美のあの小さい体が、ウイルスに冒されたら。

 考えるだけで、心臓が縮みそうになった。


 ああ、何があったんだ?!


 やきもきしながら、スマホを握ったまま、サンダルに足を突っ込む。

 何度目かになる玄関のドアを開く動作の途中で、いきなり手の中のスマホが大音量で鳴った。

 すぐわかるようにと、さっき自分で設定し直したくせに、思わず飛び上がる。

 画面に優子の名を見るなり、俺は慌てて指を動かした。


「ごめん、お父さん!」

 慌てたような優子の声に、胸の奥がぎゅっと痛む。

「何かあったのか⁉」

 ほとんど叫ぶように問いかけると、スマホの向こうですぐに優子が捲し立てた。

「お義父さんが、階段から落ちたの。たぶん、足を骨折してる。

 救急車を呼んだんだけど、落ち着いたとはいえ、まだコロナの影響があるらしくて。なかなか受け入れ先が決まらなかったの。

 お義父さんは痛がってずっと呻いてるし、お義母さんもパニックになっちゃって」


 一瞬、頭が真っ白になった。

 あちらのご両親だって、俺とそう年は変わらない。骨折となったら、一大事だ。


「そうか、それで今は? 大丈夫なのか?」

「うん。ようやく搬送先が決まって、入院手続きが済んだとこ。

 ずっとバタバタしてたからか、愛美もぐずっちゃって手が離せないし、お義母さんもオロオロして入院の準備が進まなくて。

 ごめんなさい。スマホも切っておかざるを得なくて、お父さんに連絡も出来なくて……」


 俺はようやく、ホッと溜め息をついた。

 とりあえず、最悪の事態ではないようだ。


「それは仕方ないよ。

 病院の処置は終わったのか? お義父さんの容態が落ち着くまで、いろいろ大変だろう?」

「そうなの。これから、医師せんせいとお話があるから、その前にお父さんに連絡入れなきゃ、と思って」

「そうか。こっちは気にしなくていい。お義父さんとお義母さんについていてあげなさい。

 信一君も心配してるだろう? おまえがしっかりして、皆を助けてあげなさい」

「うん。ほんとにごめんね、お父さん。また連絡するから」


「お大事に」とこちらが口にするよりも早く、優子は慌てたように、通話を切った。

 愛美がぐずってると言っていたし、急いでいたのだろう。


 通話を切って、俺は息をついた。

 肩から、何かがごっそりと落ちたような気分だった。

 のろのろとサンダルを脱ぎ、居間に戻る。


 ───テーブルの上に、すっかり艶を無くした寿司と冷めきった豚汁の鍋が置いてあった。



 どうしてだろう。

 それを見た瞬間、涙が零れた。


 仕方がないじゃないか。

 あちらのお義父さんが大変なことになったんだから。

 誰も悪くない。

 そうだ。優子にも信一君にも愛美にも、何もなかったんだから、喜ぶべきなんだ。

 仕方がないじゃないか……。


 それでも、涙が止めようもなく流れて、俺はまるで思春期の子供のように歯を食いしばって右腕で目を覆った。

 静まり返った居間で、自分の震える息遣いだけが聞こえる。


 年甲斐もなく浮かれ切って、ひとりで大騒ぎしていた自分が馬鹿みたいだ。

 そんな自虐めいた気持ちさえ、涙と共に湧いてくる。


 仕方ないじゃないか。


 誰もいない居間で、零れる涙をどうすることも出来ず、俺は鼻を啜りあげる。

 誰もいない。

 仕方がないんだ。


 仕方がないんだ。


 ふと。

 腰の辺りが、温かくなったような気がした。

 まるで───昔、優子がそうしていたように───小さな子供が抱きついているかのような感覚を、俺はそこに感じていた。

 そんな感覚を引き起こすような何物も、ありはしないのに。


 ただ、気配だけが、そこにあった。


 息を詰め、涙に濡れた目を、俺は思わず見開いた。

 それでも何故か、両目を覆っている腕を離すことは出来ない。

 腕を外し、と、無意識のうちに感じていたのだ。


 ───見えなくても、気配……そこにいるなって感じはわかるかもしれないね。それだけでも、きっと嬉しいよ。

 ───悲しいことがあっても、帳消しになるぐらい?


 新たな涙が、溢れてくる。

 両目を覆ったまま、俺は唇を引き歪めた。

 俺が笑っているんだと……君はわかってくれるよね?


「……ありがとう」

 小さく呟くと、温かな気配が笑うように揺れた。そんな気がした。

 そして、ゆっくりと薄れていく。


 ありがとう。来てくれて。

 今、ひとりにしないでくれて。


「ありがとう……陽子」


 ありがとう。

 

 


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