【短編】ストーカー化したセクハラ女上司を逆に死ぬほど甘やかす

夏目くちびる

第1話

 僕が陰キャなのは当然として、童貞なのも自己責任だとして、女と付き合った事も無いのも仕方ないとして、割と悲惨な未来しか見えないとして。



 僕の人生、どこを探してもバラ色の思い出がなく、だから女の人とどう接していいのかが就職した今となっても分からなくて、今の今まで逃げ続けてきたどうしようもない甲斐性の持ち主であれど。

 それでも、別に人に迷惑をかけているワケではないのだから、罰を受ける謂れなんてないハズだ。



 なのに。



「佐伯君、お疲れ様。今日も大変だったでしょ?」



 そう言って、中原主任は僕の肩に嫌な手付きで触れてきた。



「い、いえ。大丈夫です。主任」



 なぜ、僕が主任の中原主任にこんなセクハラなんてされなければいけないのか。こういうのって、言っては悪いけど女の子の新入社員が受けるような不幸なんじゃないのか。



 きっと、中原主任は男社会で働き過ぎて心から女の部分が抜け落ちたのだ。

 だから、いつの間にか男よりも気が強くなってしまって、感性がバグって自己肯定感が暴騰して、30過ぎても仕事ばっかりしている女になったに違いない。



 そのせいで、僕とは違ったベクトルで異性と向き合ってこなくて。巷に蔓延るエロ親父と同じように、言い返しもやり返しも出来ない立場を利用して弱い僕にセクハラ的な絡み方をしてくるのだ。



 大人って汚い。汚いぞ大人。



「んふ、かわいいね。まだ照れてるの?」

「はは、サーセン。はい」



 セクハラする人って、なんで肩を揉んでくるのだろう。



 こっちからしてみれば、下心で体に触りたがっている事なんて丸わかりなのに。

 むしろ、ストレートに変なことをされるより、こうしてさも『自分は気を使ってるんですよ?』的な関わり方をされる方が嫌悪感が強くなる。



「すんすん」



 というか、髪の毛の匂いを嗅ぐなよ。気持ち悪い。そんな変な趣味だから、せっかくの顔の良さが打ち消されて誰にも相手してもらえてないんだろ。



 僕でストレス発散なんて本当に性根の腐った女だ。



「ところで、今日って何か予定あるかしら?」

「随分と急ですね。仕事の話ですか?」

「まぁ、そんなところ。奢ってあげるから、ちょっと付き合いなさい」



 今日は、金曜日。



 よくある、飲み会ならば残業代を払え的なミームを避けるための術だろうか。

 シングルでいると人との関わりが薄くなって、現実ではほとんど誰も言わない意見に注意深くなってしまう。しかし、そこに感情が含まれれば、根本的に誘わないという答えに行き当たらないのは当然だ。



 絶望的に、経験が足りてない。中原主任は、驚くほどにテンプレ通りの平成アラサーだと思った。



「まぁ、別にいいですけど」



 ここで、しっかり断れない僕の弱さが僕は大嫌いだ。



 別に、世間で言われてるほど仕事を辞めることが正解だとは思っていないが、嫌われて居場所がなくなるくらいならやめた方がいいと思う程度には精神の安定を求めているのも否めない。



 とはいえ、辞めて別の仕事を探す労力があまり甚大だし、人間関係で辞めたら次も人間関係に怯えなくてはならない。

 ならば、ここで美人だけどウザい女上司にセクハラを受けているだけの方がマシだ。



 ……なんて、そんなふうに思うから、世の被害を受けてる社会人もみんな仕事を辞められないのだろう。

 あまりにも可哀そう。同情するから、同情して欲しいと思うくらいだ。



 ただ、僕は一部の声がデカい有能の言葉を鵜呑みにして、無能な自分をちゃんと過大評価しない自分だけは好き。

 逆に言えば、それ以外の自分は嫌いだ。もしも15年前に生まれていたら、僕は世捨て人にでもなっていた事だろう。インターネット社会に感謝だよ。



「お疲れ様でした」

「おつかれ」



 それにしても、生きてるのが大好きなのか、心の奥底にある臆病な自分を隠すためなのか、中原主任はいつも笑っているような気がする。



「あはは、佐伯君は気が小さいわねぇ。私が周りにガツンと言ってあげようか?」

「いえ、別に困ってませんから。はい」



 悪の大魔王や詐欺師が常に笑っている事を考えれば、逆説的にいつも笑っている人は悪人なのだろう。それに立ち向かう主人公は苦しそうな顔をしているし、だったら意外にも僕は正義の主人公なのかもしれない。



 ……なんて。



 僕は、きっと中原主任とは違う別の悪だ。弱い自分を肯定してあげられない、それなのに他人や世間の間違いを粗捜しして悦に浸っている生産性のない悪。



 同じ悪なのに立場が違うのは、やっぱり悪としてのスケールがショボいからか。僕は所詮、他人に迷惑をかけることすら出来ない小悪党という事だな。



 ならば、他人に迷惑をかけない悪があったらいいのに。僕は、そんな都合のいい存在になりたいとずっと思っているのでした。



「ほんと、女の子みたいな顔してる。かわいいわ」

「あぁ、はい。はは」



 僕は、すっかり泡が無くなって生温くなった一杯目のビールを、一気に飲み干して適当に中原主任の話に相槌を打っていた。

 きっと、僕がつまらない思いをしているとか、全然興味がないとか、そんなことを考えたりなんてしないのだろう。こうしてずっと自慢話なんて出来る理由が、他に一つも見当たらないし。



 そうやって生きているから、きっと自分の事を大好きでいられる。僕は、中原主任のそういうところが心の底から羨ましくて。



 本当に、心の底から大嫌いだ。



「んふふ、佐伯君はお酒強いねぇ」

「そんな事ないですよ、ついていくので精一杯です」



 箸を手放して、無防備にテーブルの上に晒していた左手を触られた。中原主任は、飲みたがるクセに妙に酒に弱い。

 こうしてダル絡みして、翌日には何にも覚えていないと宣うのはズルいし、何より僕が女だったら懲戒モノなんじゃないかと疑いたくなってくる。



 それにしても、どうしてこんな虚しい事をするんだろう。僕は、初めて中原主任の心の内側を考えた。



 ……。



「おーい、千春ぅ。私が飲みたいって言ってんだから付き合いなさいよぉ」

「流石にやめた方がいいですよ、三軒目なんて焼酎一杯で出たじゃないですか」

「そんなことな〜い」



 22時過ぎ。



 僕は、周囲にも酔っ払いが増え始めた夜の始まりの時間に、中原主任の肩を担いでタクシー乗り場へ向かっていた。

 実を言うと、僕は言うほど酒が強い方ではない。主任に見えないように水で薄めたり店員に頼んだりして、ちょいちょいズルをしていたので無事にいられるのだ。



 昔、酒で失敗して以来の知恵。因みに、千春というのは僕の名前だ。



「なら、どっか泊まって行こうよぉ。私、歩きたくな〜い」

「僕が同じ会社で働いてること、分かってます?」

「分かってるよ〜ん。だから、千春にしか嫌がらせしないんじやん。んふふ」



 どうやら、僕は僕が自分で思っていたよりも主任にナメられていたらしい。やり返さないって分かってるからベタベタ体に触って、挙句の果てに酔った看病をさせるだなんて。



 彼女は酷い人だし、捨てていけない自分が情けなくて仕方ないと思った。



「ねぇ、お願〜い」

「笑って誤魔化せるような話じゃなくなるじゃないですか」

「あ、なにぃ? エッチなことしようとしてるのぉ? 私、別に泊まるって言ってるだけなんだけど〜」



 キッツいし、こんな事で恥ずかしくなってしまうのも辛い。

 どうして僕は、いつだって出来事のその先を考えてしまうのだろう。本当に悪い癖だ。



 ……ただ、そんな事を抜きにしたって。



 今週は疲れたし、見たい映画もあるし、何より主任で童貞を捨てるというのも想像出来ないしで、何ていうか本当にもう勘弁して欲しいと酒で霞む頭に思い描いていた。



 しかし、こういう時に無傷で乗り越えるのは無理だと僕と世界の歴史が証明している。自分が傷つかず、相手も傷つかず平和に事を終えるだなんてありえないと分かっている。



 ……その時、僕は誰も傷付かない悪者の事を思い出した。僕は帰れて、尚且つ主任がプライドを汚されない方法なんて、きっと正攻法には存在していないのだろう。



 だから。



「ダメですよ、中原



 僕は、僕の体に残されているすべてのパワー注ぎ込んで、ニヤニヤしていた中原主任を抱きしめた。

 理由なんて、直感だ。今なら、何となくこの程度の交わりで誤魔化せると思ったのだ。



 こんな町中で、自分が上だと思っている主任を胸に押し付けて、力じゃ勝てないって教え込む。そうすれば、少しくらいはビックリして黙ってくれると思ったのだ。



「へ、へぇ……っ?」

「僕は童貞なんです。ここまで捨てられなかったモノを、例え不名誉な称号でも今更恋人じゃない女に捧げようとは思えないんです」

「ひゃ、ひゃい。というか、ど、どど、えぇ?」

「だから、今日はバイバイしましょう。もしも、今日一緒に泊まって、明日になったら全部忘れただなんて言われたら、僕は二度と立ち直れないですから」



 もう、二人きりの飲み会には付き合わない。



 そんな事を考えながら、僕は僕が考えうる限り最高にモテそうな男を妄想し、且つギリギリ僕が言えてもおかしくなさそうなセリフを捻り出した。



 イケてる風には程遠いのに、モテなさそうな感だけはリアリティがある。これが、僕の人生の集大成なんだろうな。



「でも、えっと……」

「でもじゃないです。これで、満足してください」



 あぁ、なんて痛い事をしているんだろう。僕は、若干の自己嫌悪に陥りながらも、セクハラのお返しに中原主任の首筋に唇で噛み付いてやった。



 少しばかりのサービスだ。酔っ払ってしまった僕だから出来る、いつかの未来の為の練習と言ってもいい。

 どうせ、セクハラする奴なんて相手は誰でもいいのだから、少しくらいハートに僕を刻み付けて困らせてやろうと思ったってだけ。



 大体、こんなのチンコ入れてないだけでセックスと変わらない。僕なんて、AV見ても本番まで保つ方が珍しいのに。



「ね、中原さん」

「う、うんうん。あはは。ご、ごめんね。なんか、なんか。……ご、ごめんなさい」



 つーか、いる訳ねーだろ。



 たった一度のスキンシップで惚れてしまう、行き遅れた美人な女上司なんて。主任だって顔はいいのだから、休日はラウンジだのクラブだのマチアプだので遊んでいるに違いないのだ。



 ……仮に。



 仮に、本当に仕事しかやっていなかったとしても、そんなところだけ女になるなんて許さない。

 それが許されるのは、セクハラなんてしない不幸なだけの女の子なんだ。夢見て破れた、守ってあげなきゃいけない可哀そうな子だけなんだ。



 だから、僕はあなたが女になるだなんて絶対に許さない。



 絶対に、許さないんだからな。



 × × ×



 翌日。



 昼過ぎになってスマホを見ると、3件のラインが来ていた。一つは母さん、一つは友達、そして一つは中原主任からだ。



 寒いから電気代をケチらないでエアコンをつけろという母さんの説教と、今月のどこかで遊びに行こうという友達の誘いに適当な返信をしてから、僕は主任のトークを覗く。



『二日酔いないですか?私は頭が痛いです』



 なんで敬語なのかがよく分からなかったが、僕は『お疲れ様です、こちらは問題ないです』『ゆっくり休んでください』と、ソッコーで会話を終わらせるための短文を二つ送った。



 すると、僅か10数秒後。



『そうなんだ。佐伯君が具合悪くないか心配だよ〜(絵文字)もしも頭痛かったらお薬飲んだほうがいいよ(絵文字)でも、一人暮らしの男の子はお薬なんて常備してないかな?(絵文字)因みに、私は生理痛用の痛み止め飲んでベッドで横になってる(笑)ドラマ見てるけどあんまり分からない〜(絵文字)』という連絡が来た。



 ……なんですか?これは。



 おじさん構文を必死にモダナイズしようとした努力は伝わるが、やっぱりイタくてキモい感じが否めなくて逆にキュートになっているではないか。



 分かった。あの人って、やっぱり中身はおじさんだったんだ。



『そうですか、お大事にしてください』



 さて、今日は暇だし最近ホットな例のインド映画を見に映画館にでも――。



『佐伯君は何してるの?私の頭痛いのが治ったらお薬持っていってあげようか?というか、本当は私が看病してほしい(笑)』



 ……。



 既読を付けずに放置していると再びピコンと音が鳴ったから、僕は何も気が付かなかったフリをして身支度を済ませて映画を見に行った。



 最近のファストコンテンツに真っ向から喧嘩を売るが如く三時間もあるクソ長い映画だったが、退屈もなくて満足度はとても高い。

 僕は、インド映画の太陽みたいな登場人物たちの陽キャっぷりを見るのが結構好きなのだ。



「……え?」

「あ、佐伯君。今から行こうと思ってたの。休みの日に会うのは初めてね」



 家に帰ろう最寄り駅を降りると、まったく同じタイミングで改札から出てきた中原主任の姿があった。

 というか、なに?僕の家に行こうと思ってた?なんで?なんで僕の最寄り駅を知ってるの?ストーキングでもされてたの?



「ほら、心配だったから。あなたは、健康とかに無頓着だもんね」



 ……聞いたことがある。



 ストーカーという存在は、どうやら自分が悪い事をしていると自覚していないらしい。

 それどころか、相手と自分は両思いであって、だからあたかも仲のいい関係に見える手紙やメールは本気で送ってきていて。

 そして、被害者と自分の認識にズレがあることに気付かずに、無視や通報に逆上してしまうのだそうだ。



 昨日までとは違う、明らかに一線を超えた主任の未来はそうなるのだろうか。

 しかし、不幸にも僕はそうなってしまったキッカケを、頭が痛くなるくらいにちゃんと覚えている。



 主任の首を見ると、酔ったせいで思っていたよりも強い力で吸ってしまったらしい。

 赤くなったキスマークが、しっかりとシャツの襟の下に残っていた。



「それにしても、外出してたんだね。私、既読もつかないからキツくて立てないくらい辛いのかと思ってたよ」

「そ、そうですか。すいません、休日はスマホ見ないので」

「よかった。なんか、安心したら頭痛くなって来ちゃった。いてて」



 現実は小説よりも奇なりとはよくいったモノだが、それともたった一回のキスらしき行為は、アラサーの女を狂わせてしまう程度にパワーを持っているのが常識ということなのだろうか。



 何れにせよ、僕は困り果てていた。自分の認識の甘さが、今になって非常に恨めしい。主任がイカれたのだとすれば、責任が自分にもあると分かってしまうのも悔しくて仕方ない。



 僕は、そんなに浅慮な人間だったのか。



「主任の家って、どこなんですか?」

「えっと、芝浦の近く」



 港区に住むのは独身女のステータスなのか、それとも普通を装う世間へのカモフラージュなのか。主任は、いわゆる港区女子だった。



 キモっ。



 それはさておき、芝浦はここから帰るには割と遠い。そして、仮に頭が痛いと言っている男がいたとして、そいつが僕の知り合いだったとして、果たして僕はそいつを突き放して「帰れ」と言えるだろうか。



「僕の家で休んでいきますか?」

「うん」



 無理だった。僕は、ここで見捨てればきっと嫌ってくれるであろう中原主任に、あろうことが救いの手を差し伸べてしまったのだ。

 なるほど、僕は断る勇気どころか悪者にすらなれていない半端者のようだ。



 本当に、自分が嫌になってくるな。



「どうぞ、散らかってますけど」



 部屋の中に通すと、中原主任は特に何も言わず中を見渡して僕のベッドに寝そべった。

 顔を見るに、どうやら本当に頭が痛いらしい。心配よりも、それを抑えるアドレナリンを放出したエネルギーに僕は驚いていた。



「水、置いときますよ」

「うん」



 いつもならば、妙に上から目線のウザったい講釈でも垂れてくるところなのだが、主任は枕の匂いを嗅いでから黙って僕のことを見ていた。



 匂い嗅ぐの、本当に止めてほしいです。



「自分の具合が悪いのに部下の心配するなんて、主任ってそういうタイプでしたっけ」

「わ、分かんないわよ。なんか、気が付いたら会いたくなっちゃったんだから」



 妙な気分だった。



 何もやり返してこない相手にセクハラをする嫌な上司が、しおらしくなって申し訳無さそうな顔をしている。

 これ、あれだな。ヤンキーが気まぐれでいい事して人格を褒められる的な。普通に真面目に生きてる奴が可哀そうに思えるズルい方法に似てる。



 ……問題は、そんな小手先のテクニックに僕があっさりとハマってしまっている事だった。



「そうですか」



 僕は、主任の頭の隣に座るとポンと膝を叩いた。



「どうぞ」



 どうにも、主任は僕が何を言っているのかよく分かっていないみたいだった。僕のことを見上げて、目をパチクリと動かしている。



 しかし、やがて。



「う、うん。ありがと」



 僕の膝に頭を乗せると、背中を向けて小さく丸まっていた。頭を撫でてみる。

 女は男に髪の毛を触られるのを心から嫌うというが、ラフな格好をしている今日の主任には大した問題でもないらしい。



「主任、なんで僕の家知ってるんですか?」

「え、えっと……」

「ダメじゃないですか、ストーカーなんて。僕じゃなかったら、普通に通報されてたかもしれませんよ」

「つ、通報? なんで? 佐伯君だって、私のこと……」



 最後の方はゴニョゴニョ言って聞こえなかったが、やっぱり僕が主任のことを好きなんだと勘違いしているようだ。



 ……昔のことを思い出した。



 学生時代。一緒に出かけて、ご飯を食べて、手を繋いで、おまけに肩を寄せあって座ってプラネタリウムを見た女子がいた。

 しかし、その日の夜に告白すると、彼女は僕の告白を断ってさっさと帰っていってしまった。最後に見たのは、少し困ったような表情だった。



 その時は、あれだけイチャツイていたのに、デートより前からもあれだけ一緒にいたのに、どうしてフラレたのかが分からなかったが。



「そうですか」



 今になってようやく、初恋のあの子の気持ちが分かった気がした。



「主任」

「なに?」

「会社で僕のことをペタペタ触ってるとき、どんな気分だったんですか?」

「……えぇ?」



 絞り出すような声だった。向こうを向いているせいで表情は分からないが、肩が僅かに震えたのを見るに気まずい面をしているのだろう。



 いい気味だ。



「どうだったんですか?」

「ま、まあ、最初は部下とのスキンシップというか。その方が、リラックス出来るかなとか」



 そんなワケがない。新入社員にとって、上司ほど威圧感のある存在なんて世界中を見渡してもそうそう無いというのに。



「でも、段々変な気持ちになって。許してくれてるのかなって思って」

「はい」

「なんか、佐伯君になら何しても許されるのかなって。そしたら、なんか。うん」

「まったく。悪い子ですね、主任は」

「は……ぅ」



 随分と素直に話してくれたモノだ。録音でもしておけば、それなりの制裁を与えられたのかもしれないな。

 しかし、自分に逆らわないというのはこんなにも気持ちのいいモノか。どうりで、ラブコメを称した奴隷関係の恋愛モドキが流行るハズだ。



 まぁ、普通の恋愛を知らない僕が言えた義理ではないけど。



「頭痛いの、治りましたか?」

「……まだ、ちょっとズキズキ」



 薬を飲んで、撫で始めて、気が付けば30分近く経っていた。膝が痺れてきた気がする。時々、僕の顔を見上げては前を向く姿を見て、何だか猫みたいだと思った。



 悪者は、膝に猫を乗せる生き物だ。ならば僕も、少しはそちら側に行けたのかもしれない。



「まったく、こんな事したら月曜からどんな顔して主任に会えばいいか分からないですよ」

「なんで? いつも通りでいいじゃない」

「みんなに職場でセクハラプレイしてた変態だと思われるじゃないですか」

「……あの、私ってそんなに佐伯君のこと触ってた?」

「触ってましたよ、欲求不満丸出しって感じです」



 すると、初めて自分の立ち振舞を思い返したのか、主任は僕の膝小僧をギュッと握ってから更に体を小さく縮めた。



「私は佐伯君も喜んでるって思ってた」

「喜んでないですよ。こっちは童貞なんですから、触られる快感より緊張の方が数倍上回ります」

「ど、童貞って」

「なんですか? 主任も、経験人数は多い方が偉いと思うクチですか?」

「べ、別にそうじゃないけど。大人になって初めてだと、どうすれば自分が気持ちいいのかもわかんないんじゃないかなって思うわ」



 ……この人の、こういう考え方が本当に羨ましくて嫌いだ。



 結局、主任は自分が楽しんだり喜んだりする事しか考えていない。僕は、今この瞬間ですら主任の事を考えて必死に言葉を選んでいるというのに。



 見習ったら、少しくらい楽になるだろうな。



「そうやって、自分の事ばかり考えているからセクハラしたりストーカーしたりしたんですよね」

「ち、違うわよ。だって、私たちは両思いでしょ?」

「普通は、その前提の前に相手の感情を確認するんですよ」

「……けど、膝枕してくれてるじゃない。好きじゃ、ないの?」



 どうやら、主任の恋愛観はあの頃の僕と同じレベルらしい。

 それなりに遊んでいるように思えるのだが、なるほど。軽い貞操と感情をどれだけ積み上げても1には辿り着かないという事か。



 きっと、主任はただの一度として本気で恋をした事がなかった。僕のあの日の本気の恋は、主任の数多の経験と天秤に掛けて釣り合ったのだ。



 ……そう思うと、途端に泣きそうになってきた。



 僕にすら嫌われている主任を、僕以外の誰が慰めてあげられるのだろうか。

 僕が嫌っていると告げたら、主任はまた別の男を好きになるのだろうか。

 それとも、恋愛と男に絶望して一生を一人で過ごすと決心するのだろうか。



 まるで、鏡を見ているような気持ちだ。いつも俯いている僕の表情が、酷く歪んだ姿が笑顔の主任と重なって見えて仕方ない。



 同じだ。僕たちはただ、現実を直視しない為の別々の方法を選んだだけ。僕と主任は、同じなのだ。



「……希子きこさん」



 主任の名前を呼んで、頬を優しく摘んだ。エクボに人差し指を押し当てて、そのまま顎先をなぞった。

 少し赤くなった耳たぶを指で挟んで、くすぐったそうに細めた彼女の目尻を撫でた。



「大好きですよ」



 彼女の頭を抱いて、何度も優しく撫でた。つむじと首筋に唇を当てて、指を折り重ねて手を結んだ。

 少し荒くなった彼女の息を治めるように、静かにキスを落とした。額と額を当てて体温を確かめて、前髪の向こうの瞳をジッと眺めた。



 ただ、眺めて。思わず逸しても、我慢出来なくて、視線を戻して、その時に安心できるように。これからも、ずっと隣にいるって分かるように。微笑んで、眺めて。



「あ、あぅ……」



 僕は、誰かにして欲しかった事のすべてを彼女に施した。



 僕は、僕を肯定したくて彼女に好きだと言ったのだ。



「今日は、ずっとこうしていてあげます」

「うん……」

「明日も、ずっと。僕には、希子さんのして欲しいことが全部分かりますから」

「なんで?」

「希子さんが、僕の事を好きだからです」



 僕は、自分の事が大嫌いだ。これから先も、好きになれそうにない。

 だから、彼女を肯定する事に生きる意味を見出そう。生きる意味を他人に委ねるだなんて、とても無責任で悪さ極まりないと思うけど。



 僕たちは、セクハラから始まった。彼女が僕の体を弄んだように、僕が彼女の心を弄んだって文句はないハズだ。目には目を歯には歯をが、悪者の美学なハズだ。



 そうだろ?



「……ありがとう、千春君」



 頭の痛みが引いたのか、それとも再び治まるほど幸せを感じているのか。彼女は、少しだって辛くなさそうに、幼気に笑っていた。



「いいんです。今日までずっと、いっぱい頑張りましたね」

「……うん」

「いい子いい子。もう、嫌われる心配なんてしなくていいですからね。僕が、ずっと一緒にいてあげますから」

「……う、うん」



 僕は、指先一つでこの幸せに満ちた笑顔を破滅させられる圧倒的な支配感に包まれている。

 そんなモノに優越感を覚える自分が浅ましくて醜くて、気持ち悪くて仕方ない。



 けれど。



「大好きです」



 思っていたよりもずっとか弱い、彼女の体が軋むくらいに強く抱きしめて。このまま一生、嘘を隠し通せばこれ以上自分を嫌いにならないで済むかもしれない。



 一生、一人を弄ぶ。僕程度の小悪党なら、このくらいのスケールがちょうどいいだろう。



「ん……ふぅ……っ」



 もう一度、キスをした。伸ばした手が触れて、柔らかく弾み彼女が声を漏らした。



 しかし、僕はその先でどうすれば彼女が喜ぶのか、ちっとも分からなかった。

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【短編】ストーカー化したセクハラ女上司を逆に死ぬほど甘やかす 夏目くちびる @kuchiviru

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