袖すり合うも

「本日はお一人で登山ですか?」

 夕食を食べ終え、食後のコーヒーを沸かしていると、一人の男性が声を掛けてきた。

「ええ、まぁ……。」

「私もなんです。良かったら少しご一緒しても?一人で登山に来るのに憧れていたのですが、いざ来てみると少しばかり寂寞せきばくの念に襲われまして……。」

 周囲に僕たち以外の登山客はいない。この幕営地でテントを張っているのは、今話しかけてきた男性と僕だけだった。

 5分ほど歩いたところに、火山から湧く温泉がある。そこにはコテージや山荘が併設されている。温泉に入りに行った時には、他にも人がいたので、おそらく登山客は皆そっちに泊まっているのだろう。

 夕食を食べ終わった今となっては、コーヒーを飲みながらスマホを見たり本を読んだりしてから寝ようくらいに考えていただけだ。袖すり合うも他生の縁というし、僕は男性の申し出を承諾した。

 男性は僕に礼を言いながら、はす向かいに腰を下ろした。

「コーヒーですか?」

「ええ。こういった星の見える日なんかは、特にコーヒーが美味しいので……。」

「いいですね。私はウイスキーです。最近は飲まないと眠れないことが多くて……。」

 そういって、男性はスキットルボトルを掲げて見せる。

「なんだか大変そうですね。」

「ええ、山の下の生活は、少々息苦しくて……。」

「分かります。僕も、日常から距離を取りたくて、こうして一人で来ているので。」

「え。すみません。話しかけない方が良かったでしょうか?」

「いえ!別に迷惑とかではないんです。ただ、仕事の事とか、そういう色んなことから離れられる環境が欲しいなって感じなんで。」

「そういうことでしたか。」

「はい。」

 そうこうしているうちにお湯が沸いた。用意していたインスタントコーヒーの粉末をカップに入れ、お湯を注ぐ。湯気が立ち上がると同時に、コーヒーのいい香りが鼻へ上ってくる。腰の下に感じる夏草の柔らかい感触と、瑞々しいにおいの中に、人の文明が混ざる。

 思えば矛盾している。仕事のことを含めた雑事を忘れたいと、大自然の中に身を投じておきながら、こういった香りをかぐと、どこか安心感を覚える自分がいるのだ。

 それは目の前の男性も同じだったようだ。

「いい香りですね。なんだかほっとした心地になります。」

「安物のインスタントですけれどね。」

「それでも、いい香りです。こうした環境にいるからでしょうかね?」

「自然のマジックみたいなものですね。」

「人を幸せにするマジック、ですね。」

 なんとなく男性と目が合って、同時に笑い出す。

 普段は初対面の人とそれほど打ち解けることもないのだが、これも、自然の、山の為せるマジックなのだろう。

 心のどこかに感じていた緊張がほぐれたのか、お互いに自己紹介をした。

 男性の名前は真嶋賢人まじまけんとさんというらしい。大手企業の役員らしいのだが、膨大な業務に忙殺され、疲れ切っていたそうだ。そんなときに、何気なく点けていたテレビから、この山域を紹介する特集番組が流れていたのを機に、用具一式をそろえて、一人で登ってきたらしい。

 年齢は真嶋さんの方が一回り上だが、登山者としては僕の方が先達だったようで、登山の時の注意点とか、持ち物をザックにパッキングするコツなんかを聞かれたりした。

 おすすめの山なんかも聞かれたりして、しばらくは山トークで盛り上がった。

 話すのに夢中で時間の流れを忘れていたが、真嶋さんがふと腕時計を確認して、既に22時を回っていることを教えてくれた。

「もうそんな時間なんですね。」

「ええ。いつもは早く寝るんですか?」

「いや、今日は、って感じですね。朝イチで山頂アタックをして、日の出の時間帯くらいに登頂したいなって思ってるので。」

「あぁ。それは早く寝ないといけませんね。」

「そうなんですよ。」

「それじゃ、今日はこれでお開きにしましょうか。」

「すみません。宴もたけなわ、といったところに水を差すようになってしまって……。」

「いえいえ。こういったことは、人がいればいつでもできる事ですから。」

「ありがとうございます。」

「とんでもない。こちらこそ、今日はありがとうございました。」

「はい。それじゃ、おやすみなさい。」

「おやすみなさい。明日は頑張ってください。」

「ありがとうございます。」

 真嶋さんは立ち上がり、僕はお湯を沸かしていたコンロやコッフェル、カップなどの片づけを始める。

 すると、自分のテントへと歩いていた真嶋さんが振り返り、

「ああそうだ。寝る前のブルーライトは良くないそうですから、スマホは見ない方がいいですよ。」

と言った。

 わざわざそんなことまで気遣ってくれるとは、なんて優しい人なんだろう。僕はありがとうございます、と返し、真嶋さんは僅かに微笑んで自分のテントへと戻っていった。

 道具の片づけが終わり、テントに入ってシュラフを広げる。日中よりは涼しいが、シュラフにくるまってしまうと暑い。ジッパーを下げ、敷布団代わりにして寝転がる。

 枕には、タオルを巻いたウォーターキャリー。中に入った水の量だけ容器が膨らみ、空になると平面になるものだ。僕の好みは、1.5L容器の3分の2ほど入れた状態がベストである。

 準備を整えて横になる。しかし、先ほどまで楽しく話していた分、目がさえて眠れない。

 ランタンを点けると強い光で余計に目がさえそうだし、ヘッドランプで本を読むのはさすがに文字が読みづらい。

 仕方なしに、眠くなるまでのお供として、スマホを取り出した。せっかく忠告してくれた真嶋さんには申し訳ないが、これもなるべく早く寝るためだ。少しでも難しい内容であれば眠気もすぐ来るだろうと、ウェブブラウザを開き、ネットニュースを見始める。

 最近起きたニュースだったり、テレビで見て知っていたものの続報だったりしたが、一つ、気になる記事を見つけてしまった。


『当月8日、○○県△△市の建物内で、会社員の男性4人が遺体で発見されました。死亡していたのは、大元孝明さん(58)、小暮新太郎さん(53)、牧田雄介さん(54)、井塚彰さん(48)で、胸や顔には刃物で切りつけたとみられる傷が多数残っており、中には顔を鈍器のようなもので殴ったあともみられています。この事件に関して、警察は殺人事件として捜査しています。


警察が調べたところ、4人の死亡時刻は午後5時頃とみられ、当時4人は会議に参加していました。

警察は現在、4人が参加していた会議に同席したのち、行方の分からなくなっている真嶋賢人(42)を事件の容疑者として捜索しています。』



 背中に冷たいものが流れ始め、にわかに総毛立つ。

 まずい。どうする?どういうことだ?いや、間違いない。名前も年齢も同じだ。聞いていたものと。記憶違いでなければ。記憶違いであってくれ。だめだ。思い出せる。たしかにあの穏やかな声で言っていた。真嶋賢人。42歳。僕の一回り上だ。

 胸が痛いほど心臓が脈を打つ。呼吸も自然、荒くなってくる。

「まだ起きているんですか?」

 外から声が聞こえてきた。

「私、言いましたよね?寝る前にスマホは見ない方がいいって。」

 直後、テントのファスナーが開けられる音がした。

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よもやま夜語り ざっと @zatto_8c

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