筋肉つけたい【KAC20235:筋肉】

冬野ゆな

第1話

「お願い、弘。出てきてちょうだい」


 ゴンゴンと部屋をノックする音が聞こえる。

 母さんだけではなく、弟や父さんの声も聞こえる。だけどもうこれ以上声を出すこともできなかった。というより、声を出そうとしても、まともな声にならなかった。

 ……どうしてこんなことになったのだろう。

 俺は部屋の中で丸くなりながら考えていた。


 確かに、筋肉質な人には憧れがあった。

 俺には女の子がコロッとなるような甘いマスクもなかったし、かといってそれを補えるような性格でもなかった。特に女の子がいるとなると変に意識してしまう。自覚があるだけまだマシな方だと思いたい。

 ……いや、そんなことは関係なかった。

 とにかくこのぶよぶよの体だけはどうにかしたかったのだ。しかし家でやるにしてもやっぱり限度がある。だから強制的にやるようなジムに行きたいと常々思っていたのだ。

 そういうわけでジムの体験みたいなものに来てはみたが、既に帰りたくなっていた。


「そうですね、山本さんはまずはダイエット目的ということなので――」

「はあ……」


 俺は愛想笑いを向けた。

 入会するとこうしてコーチがついて目標を設定してくれたりするらしいが、二人三脚なんて俺の人見知りレベルからすると無理難題だった。


 ――家から離れたところを選んだが、失敗だったかな……。


 かといって、自分の行動範囲だと知人や同級生に会ってしまう可能性もあった。

 俺はコソコソと退室した。

 ジムのトレーニングルームは建物の二階にあり、受付は一階だ。

 そこではトレーニング用の小型の器具や、服、水着、それからエナジードリンクやプロテインなども扱っていた。こういうものだけでも買っておこうかな……、そんなことを思いながら、エナジードリンクを手に取った。


「大変ですよね、筋肉をつけるのって」

「えっ!? は、はあ……」


 突然人に話しかけられ、俺はびくっとした。

 羊の角のような飾りのついた帽子から、黒髪が飛び出た小柄な少年がこっちを見ていた。

 なんだ、こいつ……。

 初対面にも臆面無く話しかけるタイプは苦手だ。どうせ陽キャってやつだろう。俺は陰キャだからわかるんだ。だが小柄な少年は構わず話しかけてきた。


「ああ、すみません急に。僕はこういうものでして」


 少年は懐から名刺を取り出した。

 なんだ、バイトか何かなのか。それとも少年に見えるが実際は二十歳を超えていたりするのか。名刺には「黒山羊研究所・黒山羊滅斗」の文字があった。なんの研究所なのだろう。


「実はいま、うちの部署のひとつがプロテイン関係の研究をしてまして。飲むだけで筋肉がつくお手伝いをするってものなんです。簡単に言えば『飲むだけで痩せる!』というやつですね。お試しでどうです?」

「はあ……」

「ついでにアンケートにもご協力ください。住所を送ってくだされば、継続した結果も見たいので」


 そういうわけで、結局、ジムに行ってお試しの薬を貰ってくるだけ、という事になってしまった。

 お試しというわりには結構な量があった。これで二週間分らしい。まあとりあえず飲むだけでいいというのなら飲んでみるかと、夕食後に一粒ずつ、飲んでみることにした。

 そんなことがあってから一週間。

 会社でいつものように、荷物を運んでいた時だ。


「なあおまえ、最近ちょっと引き締まったんじゃないか?」

「え?」


 会社の同僚が話しかけてきて、俺はびっくりした。


「だってこれ、結構重いぞ。力もついてきたんだろ」

「そ、そう……かな?」

「ジムとか通ってるか?」

「あ、ああ、まあ……」

「へー。良さそうなとこなら、今度紹介してくれよ」


 運動なんてあれ以来していない。飲んだものといえば、薬だけだ。しかも一週間だぞ。

 それからまた一週間ほど飲んでから、そういえば急に服が緩くなってきたと思った。風呂の中で確認してみると、ふっくらしていた腹は引き締まって、やや堅くなりはじめていた。ベルトの穴も変えないとズボンが落ちそうになるくらいだった。

 まさか、あの薬のおかげなのか。

 俺は慌てて受け取ったアンケートの用紙に解答し、サンプル継続したいのところに丸を打った。薬はなかなか来なかった。やきもきしている間に、あの筋肉はあっという間に無くなっていった。食べる量が変わっていないから当たり前なのだが。

 一週間経ち、二週間経つうちに、完全に元の体型に戻ろうとしていた。同僚たちの目線も、苦笑するようなものに変わっていた。畜生。あの薬さえあれば……。


 そうして二十日が経とうとした頃、待ち望んだあの薬がやってきた。

 今度は注意事項もあった。

 ダイエットが目標なのか、それとも筋骨隆々になるのが目的なのかで錠剤の量を調整してくれというものだった。

 それ以外にも色々と書いてあったが、面倒臭くなって捨てた。

 とにかくあの体を取り戻さないといけない。

 俺は蓋を開けると、二週間分の量を一気に飲み込んだ……。


 それが、昨日だったかおとといだったかの出来事だ。

 目を覚ました俺は、体が動かないことに気付いた。


「……なに……、どう、なっ、て」


 なにか堅いものが邪魔をしている。

 なんだ。

 腕を動かそうとしても動かない。

 それどころか、体が燃えるように熱い!


「た、たすけて。たすけてえ」


 体が爆発するみたいに熱い!

 体のあちこちから何かが膨張するように膨れ上がっていく。耐えきれなくなった皮膚はとっくに破れ、全身に痛みが走っている。それなのにまだ止まらない。頼む。頼む。止まってくれ。もうこれ以上は耐えきれない。目玉が筋肉の海に沈んでいく。もうどこを向いているのかも定かじゃない。膨張した筋肉は近くにあったあらゆるものを巻き込んだ。ドアがどこにあるのかわからない。


「弘、弘。どうしたの?」


 母さんの声がする。


「だ……だず、げ」


 なんとか出た声は、声にならなかった。







「ふむふむ。なるほど……」


 黒山羊滅斗は悲鳴のあがる家を眺めながら、メモをとっていた。


「どうやら大量に接種すると、全身の筋肉が異常に発達してしまうみたいだなあ。今回の実験は失敗かな。もう少し効果を薄めた方がいいかもね。まだ膨張してるみたいだし。……本当に膨張なのかなあ、あれ」


 見上げた部屋の窓が割れ、びしりと音がした。


「ま、痩せたいなら僕は自力で運動するの一択だけどなー」


 中からは赤黒い筋肉がどくどくと動いていた。

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