ゴドフスキーを弾く女性
増田朋美
ゴドフスキーを弾く女性
今年もついに春一番が吹いたというニュースが舞い込んできた。そうなると、暖かくなってくるのもそう遠くないことだろう。そうなると、また春が来て、夏がやってくる。日本は、四季があってそれぞれ異なる持ち味があって、それぞれにそれぞれの良いところがあるのだろうが、中には、それを超えて美しくなろうとか、恒常的に良い評価をくだされようとか、そういうことを求めてくる人がいるから困ったものだ。そういう人に対して、みんなどんな反応をするか、それが、人としての手腕が問われるのかもしれない。
その日、杉ちゃんがいつもどおり、水穂さんにご飯を食べさせようと奮戦力投していたところ。いきなり製鉄所の玄関がガラッと開いて、
「こんにちは、右城先生いらっしゃいますか?ぜひ、レッスンしてやってほしい女性がいるものですから、連れてきました。ぜひお願いします。」
と、言いながら、水穂さんのかつての弟子だった桂浩二くんがやってきた。特にレッスンの予約もなく、浩二くんはこうして入ってくるのである。それが迷惑というわけでは無いけれど、せめて、今日の何時頃にレッスンに来ますとか、そういうことを言ってほしいものだ。ちなみに、製鉄所というのは、単なる施設名で、鉄を作るところではなく、居場所のない人たちに、勉強や仕事をするための部屋を貸している施設である。中には、そこに部屋を借りて住み込みで暮らす人もいるが、現在のところ、そのような形態で、生活しているのは水穂さんだけであとの利用者はみんな自宅から通っている。
「右城先生、連れてきましたよ、えーと、名前は、長島恵美さんです。お年はえーと、」
そう言いながら浩二くんは四畳半へやってきた。一緒に連れてきた女性は、ちょっと恥ずかしそうな顔をして、
「はじめまして、長島恵美と申します。宜しくおねがいします、右城先生。」
と、挨拶した。髪は長く伸ばし、この時期用の薄いセーターに、黒いスカートを履いた、今どきの女性という感じの人であった。
「生憎ですが、僕の正式名称は磯野で、右城ではありません。よく間違えられるんですけど、それはあくまでも旧姓で、現姓ではありませんので。」
水穂さんがそう言うと、恵美さんは、
「申し訳ありません。失礼しました。」
と、ペコンと頭を下げるのであった。
「それでは、そこにあるピアノで、早速演奏していただきましょうかね。えーと恵美さんが演奏する曲は、ゴドフスキーの、ジャワ組曲から最初の曲でしたよね?」
と、浩二くんがそう言うと、
「はあ、ゴドフスキーだって?とてもそんな辛辣な作曲家を弾きこなせそうには見えないぞ。ゴドフスキーを弾くんだったら、ジャイアント馬場くらいの体格の女性じゃないとだめじゃないの?」
杉ちゃんが横から口を挟んだ。
「僕もそう思いますね。確かに、ゴドフスキーをリサイタルで取り上げるピアニストも増えていますが、今の時代であっても、全員が男性であり、女性の演奏例は、聞いたことがありません。もしかしたら、怪我をする可能性もありますので、やめたほうがいいのでは?」
水穂さんもそう言うが、
「まあですね。でも、彼女の挑戦を評価してやってくれたっていいじゃありませんか。一生懸命世界一難しいと言われる作曲家をひこうとしてくれてるんですから、まずはじめにそこを評価してあげてくださいよ。」
と、浩二くんが言った。
「とりあえず、弾いてみてくれますか。とても指定テンポでは弾けないと思うけど、、、。」
水穂さんに言われて、恵美さんは、わかりましたと言って、ピアノを弾き始めた。確かにゴドフスキーのジャワ組曲の第一曲であることは疑いないけれど、なんだか、無理して弾いていると言うことが丸見えで、メロディーラインもほとんど聞こえてこず、ただ、大量の音を叩きまくっているという印象しか残らなかった。確かに、今は技巧的な曲を弾くピアニストは多いけれど、女性がゴドフスキーを弾くというのは、ちょっと無理なのではないかと思われるところがあった。とりあえず、ジャワ組曲の第一曲は弾くことはできたけれど、恵美さんの演奏は、弾きこなすということには非常にほど遠いものであった。
「そうだねえ。まあ、無理なものは、無理だねえ。こんな大曲ではなくて、女性らしいものをやったらどうだろう?コンクールに出るにしても、これでは入賞しないと思うよ。こんな難しすぎる作曲家の作品を無理してやらないでさ。もっとお前さんの味というか中身を出してくれる作品をやったほうが良いと思うよ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんも、
「僕もそう思いますね。」
と、小さい声で言った。
「でも私、どうしてもやりたいんです。女性が弾くべき曲じゃないって言うのは知っています。そうなんですけど、やってみたくて。それに今の時代は、女性だからとか、男性だからとか、そういうことはあまり関係ないのではないかと思うので。」
と、恵美さんは言うのであるが、
「そうですが、無理をすると、怪我に繋がりますよ。そういう作曲家です。だから女性の演奏者が出てこないんだと思います。」
水穂さんはそこははっきりと言った。
「右城先生は、彼女の挑戦を評価してくださらないのですか?」
浩二くんが、水穂さんにそうきくと、
「はい、これのせいで、大怪我でもしたら、二度とピアノが弾けなくなってしまいますしね。ゴドフスキーをリサイタルで取り上げた著名人は、カルロ・グランデとフランチェスコ・リベッタの二人ですが、いずれも男性であり、女性が演奏したという例は見たことがありません。」
水穂さんは、歴史的な事実を交えて言った。
「それにもっと大事なものは、その人達が、ジャイアント馬場くらいの体格のいい人であったことだよな。そこを忘れちゃいかん。無理して、小柄なやつが弾いたりしたら、手首が折れちまうよ。それでは嫌でしょう?それにお前さんの演奏は、ただ大砲を連発させているか、焼夷弾が落っこちたような音の塊でしか無い。そんなのを、演奏したってしょうがない。」
「それに、聴衆だって、こんなけたたましい演奏をされても困るんじゃないですか?まずはじめに、メロディーも全く出ていなかったし、苦労しているのがわかるだけの演奏では、聴衆は何も印象には残りませんよ。そんな演奏しても。杉ちゃんの言う通り、仕方ありません。それよりも、シャミナードとか、女性らしい演奏をされたほうが良いのでは無いですかね?超絶技巧を見せびらかすだけが、ピアニストでは無いですからね。」
杉ちゃんと水穂さんが相次いで彼女を説得したが、彼女は両目に大粒の涙をこぼして、こういうのだった。
「それでは、あたしには、無理だというのでしょうか?」
「はい、そう言わざるを得ませんね。楽譜は確かにお金出せば買えるけど、弾きこなすというのは、無理な事もあります。それに、ゴドフスキーという作曲家は、女性には、難易度が高すぎて、無理をしたら、怪我の元です。」
水穂さんはできるだけ優しくそういうのであるが、彼女はまだ納得いかないようで、ちょっと悔しそうな顔をした。
「まあ、やってみたい気持ちはわかるけどさ。そもそもなんでこんな辛辣な作曲家の作品をやってみたいと思ったの?誰か見せびらかしたい相手もでもいるの?」
杉ちゃんに言われて、彼女は、とても小さい声で、
「寂しかったからです。」
と、言った。
「はあ、寂しかったのか。それはまたなんで?お前さん普段は何をしているの?学校にでも行ってる?それとも社会人?」
杉ちゃんはその答えを見逃さなかった。すぐに聞いてしまうのが杉ちゃんなのである。彼女は、それが聞き取られた事により、嫌そうな顔をしたが、
「ちゃんと答えろよ。僕は答えが出ない質問って大嫌いだ。質問したら、ちゃんと答えを出してもらうのが、マナーってもんだ。」
杉ちゃんに言われて、更に涙をこぼす彼女の代わりに、浩二くんが答えを出した。
「実は彼女、学校に行っていたんですが、今退学したばかりなんですよ。なんでも、クラスでいじめがあったようで、学校に行くことができなくなってしまったようです。それで、なにかしていたほうが、気晴らしになるだろうからって、小学校時代から習っていたピアノをまた始めて。」
「そうなのねえ。まあそれも事実だから、僕らはそれを責めることもしないよ。それはしょうがないというか、否定できない事実だからね。それで、お前さんは、これからの進路とかどうするつもりなの?」
杉ちゃんがそう言うと、浩二くんが、
「まあ確かに進路は決めなければならないかもしれませんが、ちょっと彼女を休ませて上げることはできないものでしょうか。すぐに親に苦労書けるなとか、進路を早く決めろとか、僕達はすぐ言ってしまいますけど、彼女は、今それができないで、少し休みたいんだと思うんです。」
と、恵美さんを擁護するように言った。
「なるほどね。そういうことか。わかったわかった。じゃあ、そうさせてあげような。そういうことなら、無理してゴドフスキーなんていう、難しすぎる作曲家に手を出さないでさ、もっと心の癒やしになるような作曲家を選んだらいいんじゃないかな。そのほうがよほど楽になると思う。そうやって、少し心を休ませてさ。そうして、また動けるっておまえさんの気持ちが固まったら、また動き出すといいよ。ただそれは、何年かかるかわかないよ。何年もかかる人もいるし、数ヶ月で終わるやつもいるが、大事なのはそれを他の人と比べないこと。お前さんのペースを大事にするんだ。それは覚えておきな。」
「周りの人がなにか言ってきたら、必ず将来動くから、待ってくださいと、必ず言うんですよ。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんも彼女に言った。
「ありがとうございます。今日こちらにこさせてもらって良かったです。あたしのことを、だめな人とかそういうことを言う人がいなかったから、嬉しいです。」
恵美さんは、涙を拭いて小さい声で言った。
「お前さんは犯罪者じゃないんだし、ただ疲れているだけのことだから、心配しなくていいよ。」
杉ちゃんがポンと彼女の肩を叩くと、恵美さんは小さな声でハイと言った。
「つきましては先生、これからも彼女を定期的に見てやってくれませんか。彼女も通う場所があったほうが、そのほうが安定していられると思いますから。」
浩二くんがそう言うと、杉ちゃんが、ほんなら製鉄所に定期的に通ったらどうと提案したが、恵美さんはそれはできないといった。なぜかというと、車の運転免許をとっていないので、自分でこちらに通ってくるのが、難しいためであるという。杉ちゃんはそれなら、バスで通えばと言ったが、バスも、お金がかかっていけないといった。水穂さんが、そういうことなら、無理しなくていいといい、彼女は定期的に浩二くんと一緒に水穂さんの元へ来て、ピアノレッスンを受けることになった。
「わかりました。これから宜しくおねがいします。」
水穂さんは、そう言って、恵美さんに一礼した。その日は、水穂さんにお礼を言って、浩二くんと恵美さんは、製鉄所をあとにした。その後姿を、杉ちゃんたちは心配そうな顔で見送った。自分の後ろ姿は自分では見えないと相田みつをさんの言葉もあるが、後ろ姿というのは、人間の本性が出るという。彼女の後ろ姿はとても自信がなさそうで、小さく縮こまっていた。そうではなくて、もっと真っ直ぐに歩いてほしいなと思うのだが、それは無理そうだった。
それから、数日立って、また浩二くんと一緒に、恵美さんはレッスンにやってきた。今度の曲は、ゴドフスキーはやめて、ショパンの幻想曲であるという。水穂さんは、今度はちゃんと布団の上に正座で座り、弾いてご覧なさいと彼女に言った。彼女はそれを弾き始めたが、どうもなんだか、こないだのゴドフスキーと同じように、無理をしすぎているというか、できない曲を無理やりやっているというような感じで、水穂さんも、杉ちゃんも、曲として印象に残らなかった。その姿勢は、なんだか、自分が強いのだと言うことを、周りの人に一生懸命アピールしているような気がした。なんだか私はこれだけできるんだ!ということを見せてどうするんだろうと疑問を持ちたくなるほど、彼女の演奏は正直に言えば下手だった。
「そうですねえ。確かにできてはいるんですけど、まずはじめに、メロディーを歌わせることからやってみましょうか。もう少し、上の音を響かせるように心がけてもう一度やってみましょうね。」
水穂さんに言われて、彼女は、ハイと言ってまた幻想曲を弾き始めたのであるが、やはり音は響いてなかった。本当に、ただ、機関銃のように、音を叩きつけているだけの演奏だった。
「お前さんの演奏は、演奏になっていない。ただ、音を叩き出して、お前さんの怒りをそれで表現しているだけのように見える。一体誰に対して、何を怒っているの?誰がお前さんをそこまで追い詰めた?悪いけど、ピアノは怒りを叩き出すツールでは無いんだよ。それを勘違いしちゃいかん。」
杉ちゃんに言われて彼女は、また言われてしまったかという顔をした。
「それ、私の母も言ってました。マイナスになることや、苦しかったことや、辛かったことを思い出してピアノを弾かないと。でも、私は今それしか無いのです。怒りを表現するしか無いのです。だって私は、普通の生徒さんみたいに、学校生活を送ることができませんでしたし、卒業もできなかった。だから、そんな自分も、周りの人達も、先生方も、許せないです。」
そう涙をこぼして言う彼女に、水穂さんがそっと、手ぬぐいを彼女に渡した。
「そうですか。それしかいまないのであれば、本当にお辛かったんですね。それしか無いのでは、お辛かったしか言いようがありません。そういうことだったら、たしかに自分を陥れた人たちに、怒りが生じても仕方ないですよね。きっと退学するしか選択肢がなかったんでしょうし、それに対して許せないと思っても仕方ないですよ。人間ですもの、完璧な判断なんて下せないです。ときには間違ったことを正しいと信じ込んでしまうこともあるでしょう。それは確かに誰のせいでも無いでしょうし、それに対して怒りが湧いてしまうことも人間ですから、あるんですよね。」
「そうそう。水穂さんいいこと言う。それで、お前さんは、具体的にはどんないじめがあったんだよ。」
杉ちゃんが、でかい声でそう言うと、
「私は、勉強ができなかったから、国公立大学へ行けないって散々怒鳴られました。勉強ができないから、身分が低くて、養ってくれるのは、先生方だけで、もう、ここから出たら、死ぬしか無いって怒鳴られて。私が行きたかった大学は私立だったので、そうしたら、一千万円も支払わさせてお前は親を殺す犯罪者だと怒鳴られました。」
と、彼女、恵美さんは言った。
「つまりそれは、学校の先生が言ったんだねえ。全く最近の先生は変なやつが多くて困るなあ。学校の先生なんて、偉くも何も無いのにねえ。全く変なやつだねえ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。浩二くんは、そんなことを平気でいう学校の先生がいるのかとがっかりしていた。水穂さんが、そういえば学校の先生がいじめを誘発させた事件もありましたねというと、浩二くんも全くですと言った。
「まあ、いずれにしても、お前さんの行った学校は、そういうろくな教師がいないんだから、これからも評判を悪くなって行くだろうよ。それから逃げられて良かったじゃないか。そのほうが、よほど賢いよ。もし、我慢し続けて、学校の先生の言うことに黙って耐えてて、精神でもおかしくしたら溜まったものではないぜ。そうならないで良かったじゃないか。そう思って今は休むことだな。」
と、杉ちゃんが行った。
「今は、通信制の高校とか、そういう受け皿もいっぱいあります。勉強が遅れていることを気にしているなら、そういうところに行けばいいです。それに何も起こらないのなら、とりあえず流れに乗ってしまうのも一つの手ですよ。」
浩二くんは杉ちゃんの話に続けた。
「大丈夫大丈夫。そういう事で人生全部だめになったわけじゃないから。お前さんは、そこから逃げられたんだ。それはすごいことだぜ。しばらく休憩してさ、そして、別の学校でやり直せばそれでいいだよ。それだけのことなんだ、意外にすることは単純だよ。だから、それができるように元気になろうね。」
「本当にそうですね。杉ちゃんみたいに考えが明るい人がこの世にいてほしいですよ。」
杉ちゃんが続けると、浩二くんは思わず言った。本当にそうである。大体の人は、レールから外れた生き方を奨励しない人が多いから、何らかの理由があって、脱退することを、嫌なふうに見る人がおおい。それも一つの日本社会の病んでいるところかもしれない。
「まあいずれにしても、そういう教師が平気で教壇に立ってしまえるというのも、また問題だと思うんですけどね。教育機関というのは人を育てる場ですし、本当は、彼女のような存在を作っては行けないところなんですがね。」
浩二くんはそう言って、水穂さんの方を見た。水穂さんはとても悲しそうな顔だった。浩二くんは水穂さんが、銘仙の着物を着ているのを見て、思わずこういった。
「大丈夫です。右城先生みたいに、どうにもならない人もいるんだってことは絶対に忘れませんから。」
水穂さんは、それを聞いて思わず首を横に振った。でも浩二くんはそれを無視して、
「僕は、いつか誰でも教育を受けられる日が来るといいなと願います。」
と、若者らしく言った。水穂さんは、なにか決断したようで、
「じゃあ、もう一回幻想曲を弾いてみてください。今度は、もう少し、メロディを歌わせて、左手の伴奏はできるだけ小さく弾いてください。それが、まず第一の課題何じゃないかなと思います。」
と、彼女に言った。長島恵美さんも、なにか決断したようで、わかりましたと言って、幻想曲を弾き始めた。
ゴドフスキーを弾く女性 増田朋美 @masubuchi4996
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