「すずめの戸締り」批評――ダイジンは何者か

平岡遼之

Ⅰ 新海誠の覚醒

 今から三ヶ月くらい前だろうか、私の友人の間にも「すずめの戸締り」についての話題が蔓延してきた。「すずめの戸締りもう見た?」とか、「次部活が休みの時に、部活の子等で行こうと思ってる」とか、そういう話である。ただ、その話題を取り扱う彼らは、私が訊ねてもどうにも映画についての感想を言ってくれない。「お前が見るかもしれないから」とか「ネタバレしたら面白くないから」とか何とか言って、うやむやにごまかすばかりである。

 そんな中でも、或る一人の友人は、「あんまり言葉にするのが難しい内容だった」という感想を述べてくれた。そこで私は、竟に合点がいった。私の質問に対してうやむやに答えていた友人等は、この映画の内容について、他人に対して説明ができるまでには彼らの中で消化しきれていなかったのである。

 そのことにまで思い至った時に私は、少しく戸惑った、「あの新海誠が⁉」と。

 私は特に新海誠監督の熱心なファンというわけでもないから、氏の監督作品については、大ヒットを記録した「君の名は。」とその次回第一作である「天気の子」のみを見に行った。その二つともが、内容を、或いは特徴的な設定を簡単に相手に伝えられるものであった。前者は「同い年の男女が入れ替わる話」、後者は「天気を操れる力を持つ少女が、主人公の手元から離れて、それを迎えに行く話」。

 ……果たして、「すずめの戸締り」という映画については、確かに一言で安易に人に説明するのがはばかられる内容であった。その内容についてはこの後で詳らかにしていくつもりであるが、重要で示唆に富んだ設定が、幾重にも折り重なってつづられている。

 Ⅱ以降では「すずめの戸締り」の内容に絞って話を展開していくから、Ⅰでは、氏の過去二作との比較について述べていきたいと思う。


 「君の名は。」についての端的な批判を述べれば、「設定先行」の一言に尽きると思う。この作品の後半では、観客も登場人物二人も同じ年代の同じ年の相手だと思っていた「瀧」と「三葉」が実は未来と過去という時間関係で「入れ替わり」をしていて、しかも「三葉」が住んでいた山奥の集落は、「瀧」が「入れ替わり」を経験する以前に、隕石の衝突によって廃墟となっていた、という展開になる。この物語の展開によって、映画館を出たところで感動して泣きながらインタビューを受けた人が続出するわけであるが、それにしても、この作での人物の心理的な描写というのは、端的に言って失敗していた。それは、登場人物の心理が、観客に全く理解しえないような間違った方向性だったということではなく、描き込みが甘かったということに尽きる。

 さらに指摘を続けると、登場人物らの感情は、悪い意味で受動的で、悪い意味で能動的だった。前者は、物語全体を包み込む「入れ替わり」という構造によって無理くりに作り出さざるを得ない感情が多いということであり、後者は、物語が規定されたうえで、それを進めるための感情があり、その作者の恣意性が、観客に生々しいほどに伝わってくるということである。

 上に掲げた「君の名は。」についての批判は、どれも物語の設定が先行していて、それに引っ張られる、或いはそれを正当化するために、人物の感情が作られているというところに起因している。


「天気の子」については、「君の名は。」とは全く逆の失敗を犯している。即ち、「感情先行」である。

 天気という人間の力が及ばないものに対して人間の力を及ぼそうとし、それに対して何らかの報いがあるという設定自体には、社会に対する批評や示唆を受け取ることも出来るし、いくらでも面白くできる設定であると感ずるが、映画を見終わった後に、その設定がうまく生かされた作品だったかと言われれば、私は首をかしげるばかりである。つまるところ、物語の設定が、登場人物の感情を突き動かすための取り換え可能なデザインのようにしか感ぜられないのである。

 無論、人間の感情に重きを置いた映画や、小説などは星の数ほどあるし、そういう作品ほど、それが人間の核心を捕らえていれば、後世に長く残る場合も多かろう。しかるに、今言ったような大掛かりな設定を持ち出してくるくらいであるから、氏には、何らかの観客に伝えたい寓意や、批評があったに違いない。それが心理描写のデザインに成り下がっているという点からいえば、この作品も失敗だったと言わざる得ないのではないか。


 氏のヒット作二作についての批判を上に掲げたが、今作「すずめの戸締り」は、上の対局する氏の失敗を、完全に克服した作品に仕上がっていると思う。

 私なぞはこの映画を見て、「物語の作り方について、映画で弁証法をやってるのか?」と思ったくらいである。

 ともかくも、今作では扉や地震といった象徴的な設定が、登場人物の心理と分かちがたく関係していて、その二つともが、お互いを程よくリードしリードされながら、物語が進んでいく。こういう、作品全体を通底する監督の物語設計のバランス感覚というのは、我々観客に心地の良い見終わりを提供してくれる。そういう土壌があったからこそ、私が氏の作品をべた褒めするための批評を書くのだと、考えてもらって構わないだろう。


Ⅱ以降では、今作が孕んでいる監督が観客に伝えたかった寓意とは何であったのかを、私なりに解釈して詳らかにしつつ、監督が提供した寓意を、現代社会にまで敷衍しながら、論じていけたらと思う。

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