雪が降ったら

好きなの。月野木くん。

2月の雪の朝―。


「先輩…なんで俺なんすか?」


けいは尋ねた。


「良いじゃない。月野木つきのぎくん、私のこと、嫌いじゃないでしょう?」


「そりゃまぁ…」


昨日の夜、会社の飲み会の後、酔っ払った瑞雪みゆきが慧のアパートに転がり込んだのだ。

2人は、セックスをした。ベッドの上で、恥ずかしげもなく上半身を露にしながら、瑞雪は慧に言った。


「月野木くん、彼女いるの?」


「あ、まぁ…」


「そっか」


『…』


しばし、2人の間に沈黙が流れる。しばらくすると、あっけらかんと、瑞雪は言った。


「ねぇ、私と付き合わない?」


「え?でも、言ったじゃないですか。俺、彼女いるんすよ、一応」


「仲良いの?」


「まぁ」


「ふーん。シャワー借りるね」


そう言うと、瑞雪はベッドから起き上がり、バスルームへ向かった。シャワーの水音が聴こえる部屋で、慧はとりあえず朝食の用意を始めた。と言っても、男の1人暮らし。目玉焼きとトースト、インスタントコーヒーくらいの簡単なものだった。

シャワーを浴び終えると、瑞雪はなんの言葉もなく、コーヒーを口に運んだ…。すると…。


「…ニガイ…」


「へ?」


「私、コーヒー、飲めないの。牛乳とかある?」


「あ、はい」


(めんどくさ…)


慧は、心の中で呟いた。


「月野木くん、今、めんどくさいって思ったでしょ」


「へ?」


慧はドキッとした。


「いいの。私、好き嫌い激しいし、我儘だし、自分勝手だし、あんまり物事深く考えないから、すぐ他人ひとに嫌われるか、呆れられる。まぁ、もう慣れたけど」


「はぁ…。でも、会社ではそんな感じしなかったっす。いつもしっかりしてるし、仕事だってめっちゃできるし、28歳でチーフってすごいし…」


「あはは!なに?そんなに褒めて、またセックスしたいの?」


「…んなわけないじゃないですか…」


もう、慧は瑞雪が自分で言っていた通り、呆れていた。…が、体の関係を持ったのは、事実だ。何故、してしまったのか…。酔っ払っていたから?昨日…何があってこんなことになったんだっけ?


慧はお酒に弱く、滅多に口にしない。しかし、昨日はなんであんなに…上司を自宅に連れ込むほど、酔っていたのだろうか?


「じゃあ、私、家帰って着替えるから。ご飯、ご馳走様でした。会社でね」


そう言うと、玄関の扉を閉じた。


「…なんだったんだ…」


【♪~】


水絵みずえ?どうした?こんな朝っぱらから」


〔昨日、電話もメールもなかったから、どうしたのかと思って〕


「あぁ…ごめん。俺、昨日会社の飲み会でさ」


〔え?慧、飲んだの?お酒〕


「うん。なんかよく覚えてないけど」


〔明後日の土曜日、会える?映画でも行かない?〕


「うん、解った。また、時間連絡する」



電話を切って、少し腕時計を気にしながら、慧は玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、瑞雪だった。


「な!何してんすか!」


「水絵ちゃんて言うんだ。可愛い名前だね。…じゃあ、本当にバイバイ」


カツカツカツカツヒールを鳴らし、瑞雪は階段を降りて行った。





☆☆☆☆☆




「…?」




会社に着くと、どうしたことだろう?瑞雪の姿がない。周りの社員も何だか様子がおかしい。


「本村先輩、神楽かぐら先輩、今日休みっすか?」


「…は?お前のせいだろ」


「え?」



慧は、何とか記憶を取り戻そうとした。そして、だんだん記憶の断片が見えて来た。


(そうだ…!俺、昨日部長に…)


慧は、ちゃらんぽらんな性格がそのまま出るような仕事をするので、上司から疎まれていた。お叱りを受けるのは毎日だったし、怒鳴られることも多々あった。そんな時、いつもフォローしてくれたのは、瑞雪だった。


そして、昨日。


もうお酒も料理もたらふく食べ飲みした部長が、ウーロン茶を飲んでいた慧に絡み始めたのだ。


「おい、月野木!お前、女はいるのか?」


「え…あ、はい」


「はぁああ!いっちょ前に!仕事も碌に出来ない、甘ったれによく女が寄ってくるな。不思議でたまらん!女なんか作ってる暇あったら、仕事せんか!!」


「…すみません」


心の中では煮えくり返りそうな心境だったが、慧は何とか自制心をコントロールした。しかし、部長のセクハラ、パワハラは、それで終わらなかった。


「お前なんぞ、いつでも首にできるんだぞ!それになぁ、接待もあるのに酒が飲めない?バカかお前は!良いから飲め!」


「いや…でも…」


「なんだ、俺の酒が飲めねぇのか?」


「あ…じゃあ、頂きます」


ビールをジョッキで一気させられた。…もうそれだけで、慧はべろべろになった。そんな慧の様子を、静かに見守っている人物がいた。瑞雪だ。そんな中、部長の暴言は、止まる事を知らない。


「お前の女なんてどうせどえらいブスだろうになぁ!チャラチャラチャラチャラしおって!そんなもんに時間と力を注ぐなら、もっと仕事せんか!!どうせ、女の方もお前のことなど好きかどうかも怪しいな!」


「!!」


慧の頭にカッと血が上って行くのが解った。思わず、殴りかかりそうになった。しかし、その瞬間、


バシャーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!


「!!!!!?????」


部長の頭から、ビールが駄々流れた。


「か!神楽君!?」


「良い加減にしな。あんたこそ人格疑うわ。ほら、帰るよ、月野木くん」


「え…う…はい…」


よろよろしながら、何とか立ち上がると、瑞雪の肩にもたれかかり、そのまま、自宅まで送ってもらったのだ。


そして、セックスを志願したのは、慧の方だった。彼女を裏切るとか、瑞雪が好きなのかとか、よく解らない。ただ、瑞雪を抱きたかった。


全てを、慧は思い出した。


家まで送ってもらっている途中で、瑞雪に『すきです。先輩』と言った事も、思い出した。




☆☆☆☆☆




「で、神楽先輩は!?」


「辞めたよ」


「!そんな…」


本当は、水絵のことも、部長の言う通り、好きか、と聞かれると、あいまいな返事になってしまう。水絵は、何となく大学時代から一緒のサークルで、長い付き合いだったから、好きかどうかも、特に考えたことは無かった。のらりくらり対応してきた。



慌てて、瑞雪に電話した。しかし、繋がる事はなかった。




☆☆☆☆☆




「ねぇ、私のこと好き?」


「え?」


瑞雪が会社を辞めて、2か月、慧は水絵ととりあえずな関係を続けていた。もちろんん、瑞雪との関係も、自分の告白も、言えないでいた。


「そろそろ、結婚とか考えてもいい頃かなぁ…と思ってるんだけど…私」


「…結婚か…」


「慧は、考えてないの?」


「う~ん…あんまし」


「何それ」


水絵は、一気に不機嫌になった。しかし、慧はあれ以来、瑞雪のことが忘れられないでいた。


かばって、怒って、セックスして、付き合おうって言って、そして、姿を消して…。慧は、そんな仕事では見せなかった瑞雪の本当の顔を見て、惹かれていたのだ。大人なのに、ベッドの上の瑞雪はこの上なく子供だった。


「…慧、今、違う女の人のこと、考えてるでしょう」


「え?」


「慧は昔からそう。優しいけど、本当は私のこと好きな訳じゃなかったでしょう」


「水絵…そんなこと…」


(ない)


言えなかった。


「私、一方的に慧が好きで…私だけ、慧が好きで…でも、慧は一度も本気で抱いてくれたことはなかったよね」


「そう…だな…」


慧は、初めて自分の気持ちを正直に白状した。それほどに、慧は最後の最後で自由奔放な瑞雪の記憶に囚われていたのだ。


自分からの告白も、瑞雪からの告白も、キスも、セックスも、お酒のせいでよく覚えていない。なんて、勿体ないことをしたのだろう…。

ただ、記憶に鮮明に残っているのは、朝になって、露になった瑞雪の胸。色白で、ふっくらしていて、触りたい…と思ったのを憶えている。

本気で、初めて本気で好きだと感じた女性だった。


「…ほら」


「…ん?」


「今、違う人、想ってるでしょ。…別れ話も…しっかりしてくれないのね…」


「…ごめん。水絵。俺、会社の元上司の人が好きなんだ。セックスもした。付き合わないかって言われた。でも、その時は水絵がいるって言った」


「…」


水絵は何も応えない。


「その人は会社を辞めて…俺のせいで辞めることになって、何処にいるのかもわからない…。でも、その人に好きだって言いたい」


「…」


水絵は、しばらく沈黙した後、静かに席を立つと、


「お幸せに」


と、それだけ言って、喫茶店を出て行った。置いて行かれた慧は、心の荷物が一つ下りたようで、水絵には申し訳ないが、少し、安心した。




☆☆☆☆☆




―3年後―

水絵と別れてから、慧は誰とも付き合うことは無かった。ただ、ひたすら瑞雪との再会を…何の手がかりも、何の根拠もなかったけれど、何だか、必ずもう一度、会える気がして、どうしてもそんな気がして、いつも瑞雪の姿を街で探した。



そして、その日はなんの前触れもなく訪れる。



大きなスクランブル交差点で、小さな顔と、細い脚。長いサラサラのストレートの髪の毛。履いていたハイヒール。間違いない。瑞雪だ。



「瑞雪先輩!!!」


「…?」


慧は、大声で叫んだ。瑞雪は、目を丸くして、驚いたようだったけれど、すぐ、あの笑顔に戻った。あの朝、『付き合わない?』と言った、あの笑顔に。



2人は、交差点で、抱き合った。



「よくわかったね。月野木くん」


「わかんない訳…無いじゃないっすか」


「私、好き嫌い多いよ?」


「知ってます」


「私、我儘よ?」


「知ってます」


「私、自分勝手よ?」


「解ってますって」


「雪が降ったら、会える気がしてた…。すきよ。月野木くん」




しばらく見つめ合うと、キスをした―――…。

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