003.『闇に咲く光』1

 そうじゃない生き方もあったと思う。

 たくさんの人を傷つけた。もう償えない。どうしたって取り返しがつかない。一番謝りたい人はもういない。

 ずっと同じことを繰り返してる。ずっと同じことを繰り返し続ける。




「たすけて」

 静謐せいひつな空間に忽然こつぜんと若い女の涼やかな声が響いた。それは近くで聞こえるようでもあり、遠くのどこかで聞こえるようでもあった。耳朶じだに直接響くようでもあり、体の内から鳴り響くようでもあった。それは聞いたことのある声のようでもあり、聞いたことのない声のようでもあった。辺りを包む白い光の中で彼はそれを聞いた。光はあまりにもまばゆく、辺りには影さえなかった。白い光が景色を強烈に染め上げたため彼は自身がどこにいるかさえ判然としなかった。不意に重力から自由になり、彼は中空を漂うような心地を味わっていた。同時にどこか柔らかい地面に立っているかのようにも感じていた。彼は光の中で何かを強く求め、手を伸ばした。同時に何かを諦めて、その手の内からすべてがこぼれていくようにも感じた。彼ははじめその光を怖れた。しかし次第に慣れると恐怖は薄らぎ、やがて彼はそれを受け入れた。光は次第に強さを増した。同時に彼の意識は遠のいた。徐々に彼の体はその光の白さの中に溶けていった。




 少年は床の固さと冷たさで目を覚ました。彼は小さくうめきながら体を起こした。固い床にうつ伏せで寝ていたため彼の頬や腕は赤く、体はきしんだ。彼のぼやけた視界の中で景色は次第に鮮明になっていった。そこには灰色の床があった。同じ色をした壁と天井があった。そこは床が五メートル四方ほどで、天井も五メートルほどの高さの立方体の部屋だった。部屋の一面にはアーチ状の出入り口があり、部屋の外からは日の光が差し込んできてまぶしかった。少年はその景色をしばらくぼんやり眺めていた。どれほどそこにそうして寝ていたかわからず体は重かったが、彼は何とか四肢ししに力を込めて立ち上がった。彼は白いシャツに黒いズボンという格好で、それはところどころ土で汚れていた。彼の背後には彼の身の丈よりも大きな扉の形を模したオブジェのようなものがあった。材質は石膏せっこうか青銅か、何か重くて堅そうなものだった。床には紋様のようなものが刻まれていたがその意味するところは判然としなかった。

 彼はゆっくりと重い足取りで歩き出した。アーチ状の出入り口をくぐると、日の光はその先が見えないほど強くなった。彼は目をすがめながらさらにその先へややためらいがちに足を運んだ。部屋の外は丘の上だった。丘の下には街があり、出入り口の正面には街へ下りる階段があった。街並みはヨーロッパのそれを感じさせる風情だが、同時に時代を感じさせた。眼下の街並みには往来があり、そこを人がまばらに行き来していたが、みな西洋風の古めかしく染色のほとんどされていないような素朴な衣服をまとっていた。しばらくその景観をぼんやりと眺めた少年はつぶやいた。

「ここは…どこだろう…」

「フラマリオンだよ」

 不意に少年の耳元で明るい女の子の声がした。少年は心底驚いて声のする方に慌てて体を振り向けた。するとそこにはやはり少女がいた。しかし少年は彼女の姿を見てさらに大きく目を見開いた。栗色のポニーテールの髪に華奢きゃしゃな体。レオタードから伸びるすらっと長い手足、弾けるような笑顔。それだけ見ればともかく、少女には明らかにおかしな点がいくつかあった。まず体が不自然に小さかった。一般的な胎児よりも小さいほどだった。さらに彼女は背中に半透明の薄い羽根のようなものをもっており、その羽根のためか彼女は宙に浮いていた。彼女はその体の小ささにもかかわらず少年と同じ目の高さにいた。このとき少年は気付かなかったが、彼女の羽根は動いてはいなかった。風もないのに羽ばたきもせずに空中に静止していたのだ。

「ごめんごめん、驚かせちゃったかな」

 そう言って彼女は少し悪びれるように微笑んだ。彼女の表情や言葉は友好的だったが、驚きのため少年は彼女に返す言葉を見つけられずにいた。そんな少年の混乱をよそに少女は言葉を継いだ。

「ようこそフラマリオンへ」

 やはり何と返して良いかわからない少年は仕方なく胸に去来する疑問を素直に口にしてみることにした。

「ここは、どこ…?」

「フラマリオンだよ」

 彼女は先ほどと同じことを言った。しかしすぐに質問の意図を履き違えたと思ったのか彼女は訂正した。

「ああ、この世界の名前? それならムーングロウ」

 親切そうで愛想の良い少女に対し少年はいつしか警戒心をおおよそ解いていた。彼はおそるおそる質問を重ねた。

「君は…誰?」

 少女はにっこり笑った。

「私? 私は樹李じゅりだよ」

「樹李…」

 少年はその名を復唱した。

「こらこら、お客様が混乱しているでしょう? 樹李」

 その声は階段の方からした。建物を出たところで唐突に樹李に話しかけられた少年は気付かなかったが、丘の階段を上って若い女性が近づいて来ていた。声の主はまさにその女性だった。

「相手を唖然とさせるような挨拶をするなんて、本当にいたずら好きね」

 樹李は声の主に向き直って弾けるような笑顔を見せた。

神楽かぐら様」

 若い女性は階段を上りきると中空に浮かぶ樹李の隣で足を止め少年に向き合った。それは古風な白いドレスに身を包む華奢きゃしゃで美しい女性だった。往来を行きかう人々の身に付ける衣服の色彩や意匠の素朴さの中で、彼女のドレスの繊細な美しさは異彩を放っていた。日の光を浴びて彼女の瞳と肌と布地の薄いドレスは透き通るように輝いていた。少年と同じくらいの背丈をし、地に足を付けて歩く彼女は隣の樹李が不自然に小さく中空に浮かんでいることなど気にも留めていないようだった。

「初めまして旅の方。私は神楽と申します。この街の管理と旅人の案内をしている者です。どうぞお見知りおきを。ようこそフラマリオンへお越しくださいました」

 そう言って神楽と名乗った女性は綺麗なお辞儀をした。少年は慌てて会釈した。

「いえ、あの、すみません、僕は…」

 樹李にも自己紹介をしていなかったことにようやく気付いた少年は、その焦りもあって慌ててそう言いかけて言葉を失った。

「僕は——」

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