004.『闇に咲く光』2

「慌てなくて大丈夫」

 神楽がそう言ってさとす声を掛けると少年は顔を上げた。

「少し混乱しておいでのようですね」

 樹李は少年にたずねた。

「どこか体が痛んだりはしてない?」

 彼は呆然としながら答えた。

「え? ううん、大丈夫…」

 樹李は元の奔放ほんぽうな調子で続けた。

「じゃあ、少し街を歩こうよ! 案内してあげるね」

 まだ混乱のさ中にいる少年は戸惑いながら返事をした。

「う、うん…」

 少年はどうして自身がここにいるのかわからなかった。どれだけこの建物の中で眠っていたかもわからなかった。さらに自身が誰なのかも思い出せなかった。少年は思索した。この奇妙に小さく宙に浮かぶ少女が街を案内してくれると言う。それに付き従って街の案内を受けること、それは自分が今一番すべきことなのだろうか? しかし少年の思考はそれ以上うまく働かなかった。ともかく好意的に接してくれるこの二人の女性を頼り、二人に従うのがこの状況における最善策であるような気がした。

「ありがとう…」

「さあおいで」

 樹李は弾けるような笑みを少年に向けると、階段の上の中空を滑り降り、意気揚々と案内をし始めた。彼女のあとについて階段を下りると、体は先ほどより軽く動いた。神楽も二人に続いた。少年はまだ戸惑う思考の中で一段ずつ階段を下りて行った。三人はそのまま丘を下りて街に出た。




 街の人々は神楽を見かけるとみな会釈をしたり挨拶をしたりした。そういった人々の顔や所作はあるいは晴れやかであり、またあるいはかしこまっており、神楽という人物がこの街や地域において有名で人望の厚い人物なのだとわかった。

 少年は二人の案内で街を歩いた。主に案内役は樹李が務めたが、時折樹李をたしなめるように神楽が案内の順番を変えたり、樹李の案内の文言に漏れた言葉を補ったりした。二人の女性の関係性を観察すると、どうやら神楽が主人であり、樹李はその部下にあたるようだった。しかし仕事における単なる主従以上の信頼が二人にはあるように見え、少年から見た二人は親友のようでもあり、また姉妹のようでもあり、また母娘のようでもあった。

 不思議なことに、というより当たり前なのだが、樹李のような体の小さな中空に浮かぶ人間は彼女の他に街のどこにもいなかった。だが街で樹李に接したり樹李を見たりするすべての人々は彼女の体の小ささや彼女が宙に浮いていることを神楽同様まったく気にも留めていないようだった。

 街はのどかだった。往来の脇に立ち並ぶ建物や並木に派手なものや意匠をこらしたものはないが、素朴な生活感の中に花の彩や屋根の彩があり、そこに住む人々の心の余裕を感じさせた。往来をゆく人々の表情も穏やかで豊かだった。表通りばかり歩いているためかもしれないが、浮浪者や生活に困窮こんきゅうしている人の姿をどこにも見かけなかった。きっと治安の良い街なのだろうと少年は思った。

 ただ、時折甲冑かっちゅうに身を包んだ兵士とすれ違うことがあった。また、街を高い城壁のようなものが囲んでおり、その上には四方に高いやぐらが立ち、物々しい雰囲気をかもし出していた。

 しばらく少年と樹李と神楽が街を散策しているとこちらへ呼びかける女性の声がした。

「神楽様、御機嫌よう」

 声のした方を見ると、そこに清潔なメイド服に身を包み、髪を束ねた華奢きゃしゃで若く美しい女性の姿があった。彼女は中身の詰まった紙袋を抱えており、袋の口からは野菜が覗いていた。彼女は神楽の前に立つと袋の口から野菜がこぼれないように気を付けながら深く腰を曲げて綺麗なお辞儀をした。神楽は微笑を浮かべてそれに応じた。

「あらマリア。また買い物をしてくださっているのですね」

 会話から察するにマリアと呼ばれたメイド服の女性は神楽の世話や手伝いをする立場の人物であるようだった。

「はい。今日は晴れて心地が良いですね」

 マリアはそう言って微笑み、少年に目と体を向けた。樹李が少年をマリアに紹介した。

「こちらは旅のお客さんだよ」

 「旅のお客さん」という紹介をされた少年はそれがはじめ自分のことだとは気付かなかった。

「あらお客様、ようこそフラマリオンへ。私は神楽様のお世話をさせていただいておりますマリアと申します」

 少年は子どもらしくどぎまぎとしながら挨拶をした。

「よろしくお願いします。僕は——」

 少年は再び自己紹介を試みたが、名前はどうしても思い出せなかった。しかしそれを察してか少年の自己紹介の終わらぬうちにマリアは微笑んで挨拶を返してきた。

「よろしくお願いいたします、お客様」

 少年は慌てて苦笑いして会釈した。すると神楽が思い出したように言った。

「そうだわマリア。ぜひこの方にもお食事とお布団を用意してくださる?」

 驚いた少年は神楽に目を向けた。初対面の自分に食事と寝床を用意してくれるなんて。驚き様はマリアも同じだった。

「まあ、おやしきにご案内なさるのですか?」

 神楽は少しためらいがちに答えた。

「少し私の昔の知人にそっくりなんです。もしかしたら…。いえ、ぜひまだ混乱されているようですし、懇意こんいにさせていただければと思った次第ですわ」

 マリアはやや戸惑いを表情に浮かべつつも了承した。

「ええ、喜んで」

 マリアは笑顔を神楽に、続いて少年に向けた。少年はただただ唖然としていた。

「え…」

「ではお客様、のちほどぜひおやしきへいらしてください。お食事をご用意いたしますわ」

 少年は遠慮しようかと思ったが、自身の身の上を何も思い出せず、この場所がどこなのかもわからない状況をかんがみれば、家に泊めて食事と寝床を提供してもらえることを遠慮するわけにはいかなかった。少年は深々とお辞儀をした。

「すみません、ありがとうございます」

 それを聞いた神楽は再びマリアの方を向いて言った。

「私たちはもう少しこの方に街を案内するわ」

「では私は先におやしきで支度いたします」

 そう言うとマリアは笑顔で一礼してその場を辞した。少年は戸惑う頭で慌てて会釈を返した。

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