土星とマラソン

 今日は5時間目に体育があるので、いつもより早く家を出た。登校中からすでにワクワクしている。ドッジボール、縄跳び、サッカー、鬼ごっこ。今日は何をするんだろう。全部の授業が体育だったらいいのにとさえ思う。全部は言いすぎだった。少なくとも、時間割の「国語」と「社会」の文字が「体育」で塗りつぶされたらどんなに愉快な気持ちになるだろうか、と都合良く想像する。ありえないけれど。でも、今日は体育がある。


「まじでサイアクだよ。今日の体育マラソンだって。」

 昼休み、親友のそうたの一言で、僕は急に崖から突き落とされたような気持ちになった。さっき2組のゆうすけ君から聞いたらしい。2組は3時間目が体育で、1月のこの寒い中1500メートルも走らされたという。


 マラソンが大嫌いだ。特に冬の寒い日のマラソンは、息が切れてくると肺が凍るように冷たく、痛い。真正面からの冷たい風は、否応なしに目に入ってきて涙が出そうになる。おまけに、マラソンをしている時は普段と比べて明らかに時間の流れが遅い。サイアクだ、と僕は絶望する。嫌だ嫌だ、そもそも体力づくりなら鬼ごっこやサッカーでもいいじゃないか、走るだけの行為になんの意味があるんだ、と、そうたに愚痴をぶつけることしかできなかった。家を出た時の気持ちなんかは、もう思い出せない。


 5時間目、重い足取りでグラウンドに集合する。案の定、今日の内容はマラソンだと告げられ、「えー!」という落胆の声と分かりやすいため息で騒がしくなった。静かに、と先生に注意され、渋々説明を聞く。


「今日は1500メートルのマラソンコースを走ってもらいます。道を分かっている人も多いと思いますが、学校の正門を出たら左に曲がってください。校舎の周りをぐるっと一周して、正門からグラウンドに入ってきたらゴールです。」

 スタートラインに立つと、なんだか真下ばかりを見てしまう。小学3年生にとって、1500メートルは長く険しい道のりだ。本当に、銀河の果てまで続いているんじゃないかと思うほど。隣にはやっぱりそうたがいて、「いいことを思いついた」と耳打ちしてくる。

「マラソンの時って、マラソンのことばっかり考えてるから辛いだろ?楽しいこと考えれば良いんだよ。俺は昨日食った焼肉のこと考えることにした!」

 単純すぎる、と呆れる。そもそも焼肉のことなんて考えてたら、絶対に途中で脇腹が痛くなるだろう。


「焼肉食ってたら時間が早く過ぎるだろ?」

 そのように感じたことはなかったが、そうたはそうなのだろう。

 マラソン中に、そんなに簡単に切り替えられないよ。そう答えつつも、楽しいこと、楽しいこと、と頭をぐるぐると巡らせる。1番に思いついたのは、去年お母さんに買ってもらった宇宙の図鑑だった。望遠鏡で見たいろんな星の写真と説明が載っていて、自分の部屋で毎日のように開くほど好きな本だった。何人かの友達には、将来宇宙飛行士になる!と話していたところだ。火星は赤くて、木星は緑。宇宙。格好良い。ロマンがある。中でも好きなのは土星だった。星のまわりに大きな輪っかがあって、ほかの星とは違う、特別な綺麗さがあると思った。


 ピッ!とマラソン開始の笛が鳴り、我に帰る。

 すぐに、サッカーや陸上のクラブに入っている人たちが先頭になり、ひと足先に正門を抜ける。次に他の運動部の人たち、中ぐらいの位置に運動部ではないけれどそれなりに走れる人たち、そして下の方に運動が苦手な子、と続く。僕は中ぐらいと下の子のちょうど中間を走っていた。楽しく体を動かすのは好きだが、楽しくないマラソンは苦手だった。


 正門を抜けて、ぐるっと校舎を一周する。それだけの作業が、ここまで辛いのか。もう足が重くなってきた。後ろを振り向くとまだぎりぎり正門が見えるので、半分も走っていないのだろう。どうしてこんなに時間の流れが遅いんだ。時間、早く過ぎてくれ。時間、早く。

 

 時間?そうだ、宇宙は時間の流れが速いんだ、と図鑑の説明を思い出す。


 ここが、宇宙なら。

 そうだ、土星だ。土星のまわりを走っているつもりになればいいんだ、と思った。校舎を囲むようなマラソンコース。そうだ、校舎が土星で、マラソンコースが輪っかだ。不思議と、目の前の景色が変わる。辺りは真っ暗で、たくさんの星屑が輝いている。静かだ。さっきまでうるさかったまわりの子たちの息遣いも聞こえない。

 僕はつるつるとした土星の輪っかに立っている。一歩踏み出すと、ずしんずしんと重い足音を跳ね返すように、土星の輪っかが弾む。その力を受けた僕はまた一歩、足を前に踏み出す。星屑が輝いている。 






 スタート地点につけた印が見えてきた。それはつまり土星の輪っかを一周したということで、今回の宇宙旅行の終わり。すなわち僕の楽しいマラソンが終わることを意味している。地球に戻った僕は、歓声に迎えられる。


「箱根2区、区間新記録達成、おめでとうございます!」


 あの日の僕が夢見ていた宇宙飛行士にはなれなかったが、こうして宇宙を旅している。宇宙に対してなのかマラソンに対してなのかはいまだに分かっていないが、とりあえず、今はワクワクしている。

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ショートショート集 北見 羊 @3ban3rd

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