2章 ~黄金と翡翠の輪舞~

 ルクドの大森林——魔力濃度の高いこの地では高すぎるが故にその土地に住まう生物に対して大きな影響をもたらす。あらゆる生物が体内に魔力を宿しているが、その魔力が変質し暴走することで生まれるのが人類の敵となる魔獣だ。

 その魔獣達もルクドの大森林の魔力を浴び続けた影響で通常とは比べ物にならないほどの力を手に入れ、容姿を変える個体もいる。

 大森林の外から侵入してくる存在を許さず、独自の生態系を作り出しているこの場所はあまりにも危険で、滅多なことで人が足を踏み入れることは無い。

 そんな大森林の比較的奥深い場所には異様な空間がある。木々が一切無い開けた土地があり、その中心には場違いな立派な家が1軒ぽつんと建っている。

 周囲には柵や壁などの存在は無く、その気になれば簡単に侵入され蹂躙されるはずなのに大森林に住まう魔獣達は一体たりとも森の切れ目から中に入ってこようとはしない。

 そんな広い土地で轟音が響き渡った。あまりの轟音に近くの木で休んでいた鳥が驚いて飛び立っていく。轟音は一度だけでは済まず何度も森に響き渡る。

 轟音の中心には二人の男女が距離を開けて向かい合っている。両者の間をいくつもの魔法が飛び交っては地面に着弾し、時には互いの魔法がぶつかり合い相殺される。

 ぶつかり合っていた魔法だったが、男の放った魔法の一つが迎撃をすり抜けて女性へと真っ直ぐ飛んでいく。すり抜けた魔法がもう少しで直撃するかというところで、まるで壁にぶつかったかのように阻まれた。透明で淡い虹色の光を放つ壁がいつの間にか女性を守るように出現している。

 「相変わらず信じられないくらいの量ね」

 煌めく長い銀髪をなびかせながら誰に言うわけでもなく呟いた女性——サーリャ・ブロリアスは内心ヒヤッとしながら前を見据える。青い騎士礼服で身を包んでいるが鎧は身に着けていない。

 「ちょっとルイン!今の当たっていたらどうするのよ」

 「当たっていないだろ?被害が無いならいちいち文句を言うな」

 サーリャの抗議にルインと呼ばれた男は感情のこもらない表情のまま冷たく言い返した。黒髪で青い瞳のルインはサーリャよりも少し年上のようだが、実際の年齢は聞かされていない。

 「それよりも随分と余裕そうだな。もう少し厳しくしても問題なさそうだな」

 「えっ⁉」

 ルインの一言にサーリャは先程までの余裕は引っ込み顔を引き攣らせる。

 「えっと……今でも結構ギリギリだから、できればこれくらいで十分なんだけどな~」

 若干上目遣いでルインの反応を窺うサーリャだったが、ルインの反応は実にあっさりしたものだった。

 「何を言っているんだ。敵が毎回自分と同じ力量なわけがないだろう。自分よりも力量が上の存在を相手にうまく立ち回れるようになって初めて成長に繋がるんだ」

 まったくもってその通り。正論を前にサーリャも反論することができない。相手の言い分が正しいとわかっていても納得できない自分自身もいるわけで……。

 そんなサーリャなどお構いなしに視線の先でルインの右手に膨大な魔力が集まっていく。魔力量からして明らかに1人に向けて放つ規模ではない。

 「ちょっとちょっと‼何するつもりなのよ⁉」

 「今日の締めくくりだ。しっかりと防いでみせろ」

 ルインが右手をサーリャに突き出すと同時に魔法が完成し、サーリャなど簡単に呑み込んでしまう規模の水の奔流が襲い掛かってきた。

 咄嗟に魔力障壁を目の前に全力で展開し本流を受け止めるが、あまりの勢いに受け止めた瞬間からさっそく障壁にヒビが入る。

 ルインからの攻撃を必死に耐えていたサーリャだったが、ふとあることに気が付いた。

 (この光景見たことあるわ)

 抗えないほどの力の本流をたった一人で正面から受け止め、最後は抵抗空しく負けてしまう。たしかあれは……。

 記憶の海に僅かばかり沈んでいたサーリャだったが、障壁が破られたことでその状況はすぐさま終わりを迎える。考え事をしていた意識だけでなく身体も大量の水の中に呑み込まれ、水の本流はサーリャだけでなく進行上にあるものをすべて押し流していく。

 大量の水はその先にある森へと流れ込み、近くにいた魔獣達は巻き込まれないようにと慌ててその場から離れていく。

 「……」

 水が引くと元々の位置から少し後ろに下がった位置でサーリャは仰向けになったまま空を見上げていた。すでに日は傾いており、青かった空は赤く染まっている。全身はびしょ濡れで髪は張り付き、服は濡れたせいで気持ち悪い感触だ。

 そんなサーリャに近づいてくる音に気が付き、サーリャは首だけを動かして音の正体を見る。ルインが近寄ってきており、両手をサーリャに差し出している。左手には何も無いが、右手には事前に用意していたタオルが握られている。

 「今日はここまでだ。好きな方を選べ」

 サーリャは黙ったままルインの両手を見つめていたが、ゆっくりとした動きでルインの右手へと手を伸ばした。



 「まったく、酷い目にあったわ」

 その日の夜。脱衣所から出てきたサーリャは火照った身体を冷ましながら悪態をついた。入浴後ということもあり、上気した肌は赤みが増し、着ていた服は洗濯中なので今は予備として持ってきていた薄いシャツ姿となっており、普段よりも艶めかしくなっている。

 「毎回どうして水属性の魔法で私を濡らすのよ。ルインってそんな性癖でもあるの?」

 サーリャはリビングに設置されたソファーでくつろいでいるルインに膨れっ面で文句を言いながら近づいていく。知り合いとはいえ異性の前でラフな薄着姿など以前のサーリャならば信じられない行為だった。それでも以前に下着姿のサーリャを前にしてもたいした反応を見せなかったルインを目にすれば、サーリャも気を払う必要を感じなくなり今に至る。

 ルインはソファーに深く座ったまま肩越しに振り返ってくる。

 「勝手に変な認識を植え付けるな。ただ魔法の指導をしているだけで何でそうなる」

 「だっていつも水魔法で攻撃してくるじゃない。他の属性も使えるのに何で使わないのよ。火とか雷とかあるでしょう?」

 サーリャはルインの対面に位置するソファーに座って柔らかな感触に身を沈める。そんなサーリャをちらりと目だけ動かしたルインは呆れるようにため息を吐いた。

 「お前な、少しは考えろ。こんな場所でそんなものを使えば下手すると森が焼き尽くされるだろう。森だけでなくおまえ自身も全身火傷は免れない。それに——」

 「それに?」

 「せっかく綺麗な髪を持っているのだから焦げたりしたら大変だろう」

 さらりと口にしたルインの言葉は完全に不意打ちだった。何か言い返すつもりだったのに、「あ、ありがとう」と消え入りそうな声しか出せない。落ち着かなくなり理由も無く、もじもじと自分の髪先を指でいじる。

 「お?どうした。まさか照れているのか?貴族令嬢ならこれまで何度も言われているだろう」

 「う、うるさいわね。慣れていないだけよ」

 からかうように口元をにやつかせているルインにサーリャは顔を赤くしながら言い返すが、嘘である。ブロリアス家の長女であるサーリャはこれまで何度か社交界に顔を出しており、貴族としての繋がりを持ちたいために何人もの男性から声をかけられ似たような言葉を言われている。

 それでも彼らとルインでは決定的に違っていることがある。

 (なんでそういうことを自然と口にできるのかなぁ)

 ルインは基本的に言葉を飾らない。思ったことを素直に口にするのでそれが欠点でもあるが、少なくとも嘘偽りはない。下心ありきの他の貴族男性とは違う。

 「ほ、ほら。私のことは別にいいでしょう。ルインは今日何を読んでいるのよ」

 「新しい魔法のアイデアを探しているところだ。別に貴重な本ではないから読んでも構わないぞ」

 「読んでも構わないって……これただの絵本じゃない。こんなのが参考になるの?」

 テーブルに積まれた中の1冊を腑に落ちないまま手に取ったサーリャは中身を確認してみるが、どこの書店でも手に入るようなありふれた幼児向けの絵本だ。ルインほどの実力者が参考にするほどのものとは思えない。

 半信半疑でパラパラとページをめくっていたサーリャだったが、あるページでその手が止まった。

 開かれたページには子供向けにデフォルメされた可愛らしいキャラクターが描かれている。ピエロが大砲から砲弾代わりに撃ち出されて離れた土地に飛んでいるシーンだ。

 慌ててサーリャは別の絵本を手に取って中身を確認していく。何冊か確認したところで再びページをめくる手が止まる。今度は巨大な炎の柱の中から鳥が生まれる瞬間が描かれている。

 絵本のように可愛い表現にはされていなかったし、状況も多少違いはあるが似たような光景を見たことがある。

 「魔法とは想像の具現化だ。ならば完全とはいかなくても似たような効果を魔法で再現することは理論上可能になる」

 サーリャの驚いたような反応を見たルインはさらに補足を加えていく。

 「〝これはできない〟〝魔法とはこうあるものだ〟などの認識は結局のところ、これまで生きてきた中で得た常識や経験が大きく影響している。俺もその常識の枠から抜け出すことはできない。しかし絵本という物語の中でそれは関係ない。どれだけ非現実的で非常識でも〝物語だから〟という言葉で納得することができる。魔法にはそんな自由な発想が重要になるんだ」

 つまるところ常識を疑えということだろう。だからこその絵本だと理解したサーリャは感心したように頷く。しかし真面目な表情で絵本を読むルインの姿は理由を知っていたとしてもなかなかにシュールだ。

 思わずクスリと笑ったサーリャの耳にどこからともなく鈴の音が聞こえてきた。綺麗な鈴の音は家の中に響き渡り、やがて再び静寂が戻ってくる。

 「あっ!私が行ってくるわね」

 鈴の音の意味を理解しているサーリャはルインの反応を待たずにそそくさと玄関へと向かい、遅れてルインが背後で魔法を行使しているのが見えた。

 真っ直ぐ玄関へと向かったサーリャはそのまま扉を開け放った。扉の先には一人の女性が穏やかな表情で扉が開け放たれるのを待っていた。

 「ようこそミラン様」


 「お邪魔するわねルイン。これは差し入れよ」

 「わぁ!ありがとうございます。夕食の後に出しますね」

 「何でサーリャが当たり前のように仕切っているんだ」

 ミランが持ってきたケーキを嬉しそうに受け取ったサーリャはキッチンへと向かう。背後から呆れたようなルインの声が聞こえたが無視する。

 ミラン・リルコット。ルイリアス王国の最高戦力であり王国を救った英雄。そして数少ないルインの知り合いでもあり、戦友でもある。かつて認識の違いから一度はルインと敵対してしまいその関係は白紙へと戻ってしまったが、数か月前に偶然再会した。その時にひと悶着あったのだが、今はこうしてプライベートとしてならルインの許可のもと何度か会う程度には関係が修復されている。先程の鈴の音は外部からルインの家に転移魔法で飛ぶための許可を求める音だ。

 ミランが来たことでメンバーは揃った。サーリャは夕食を作るためにキッチンへと向かった。

 夕食を作り終えたところでサーリャが顔を上げるとルインとミランは二人で何か話し合っている。

 「ほう。やっぱりサーリャの実力はある程度の水準まで届いているのか」

 「ええ。騎士学校で魔法の時間を剣技に充てていたからでしょうね。その後に無詠唱を加えたことで実力は一気に上がったと思うわ。ただ、魔法を使用しながらの立ち回りにはまだぎこちなさが残るわね。魔法が飛んでくるという兆候が分かりやすいわ」

 苦笑するミランにルインは腕を組みながら眉を寄せる。

 「これまでは無詠唱という強みを活かすことを重要視していたから当然だな。使える魔法の種類が増えたわけでは無いからどうしても攻撃パターンが単調になるのは仕方ないだろう。そもそも虚実を混ぜるような戦い方より、深く考えずとりあえず突っ込んでみるというのがサーリャのスタイルだ」

 「えっ?今私って褒められているの?それともバカにされてる?」

 ルインの評価にサーリャは思わず突っ込んでしまう。厳しめの評価だがこれはある意味仕方ない。サーリャを指導しているのはかつての王国の危機を救った英雄と呼ばれる存在なのだ。今のサーリャでは決して届くことのない高みの存在。

 ミランからは剣を。ルインからは無詠唱魔法の手ほどきを直接受けているのだ。最高の環境で指導を受けることができるサーリャは周囲からすれば羨むほどだ。

 「そんなことよりこっちの準備ができたから一旦夕食にしましょう」

 「あら、そうなの。私も手伝うわ」

 ミランが立ち上がりルインも遅れてキッチンへやって来て準備を整えていく。

 「今回の料理はなんだかとても綺麗な盛り付けね」

 「そう思いますよね。私も本で見つけた時、綺麗な料理だなって思って作ってみたかったんですよ」

 大皿の上には薄くスライスされた魚の切り身と果物が交互に円を描くように並べられ、その上から少量のソースがかけられており、細かく刻んだ野菜も周囲にちりばめられているので真っ白な大皿が色鮮やかに彩られている。

 「それじゃあいただきましょうか」


 食事をしながら世間話を交えていた3人だったが、話題は再びサーリャの訓練へと自然に移り変わる。しかしサーリャはその話の中には入らず食事を続けながら2人の話に耳を傾ける。

 「少し訓練内容を変えた方が良さそうだな。実戦により近くして、反撃されたときの対処と最適な魔法の使い方を覚えてもらおうか」

 「うぇ」

 サーリャはあからさまに嫌そうな表情になり、内心では悲鳴を上げていた。話の流れ方からしてこれまで以上に厳しい訓練になるのは間違いない。

 (この2人、訓練の時は全然手加減してくれないのよね)

 ルインだけでなくミランも訓練に関してはスパルタで、毎回サーリャが地面に転がり立てなくなるほどには遠慮が無い。

 今後始まるであろう過酷な訓練に憂鬱になるサーリャだったが、そんなサーリャに救いの手が差し伸べられた。

 「待って。言ったばかりで悪いけど、しばらく私とサーリャはこっちに来られなくなるわ」

 「えっ?そうなんですか」

 知らされていなかった内容にサーリャは目を丸くし、ミランは静かに頷く。

 「私達はミルス領に向かって、そこで領主の護衛と黒幕の確保を受け持つことになるわ」

 「なかなかに物騒なことになっているな」

 どうやらミルス領とはルイリアス王国の南方にあり、穀倉地帯が広がる領の1つらしい。その土地で作られる作物はミルス領だけでなく王国全土へと供給されており、重要な土地の1つとされている。

 もちろんミルス領だけで王国全ての食糧事情を賄っているわけでは無く、あくまでもその一部を担当しているだけである。

 「今、ミルス領は王国の食糧事情を改善させることができる研究を続けているらしいの。領主自ら研究を進めていて、話によると完成すれば食糧生産量は劇的に増加する見込みらしいわ。……でも、最近になってその領主周辺が騒がしくなってきているの」

 ミランの話によれば初めは警告文のようなものが届くだけで受け取った領主は悪戯程度だと感じ、特に対策も講じなかったらしい。しかし日に日に内容がエスカレートしていき、最近では領主の馬車をごろつきが襲ってくるようになっているらしい。

 今は護衛の兵で対応できているそうだが、いずれ限界が来てしまうというのがあちらの言い分らしい。

 「でもそれって言い方は悪いですけど襲われているだけですよね。そこから何で黒幕の確保に繋がったのですか?」

 「研究自体は何年も前から進められていたらしいわ。ただ成果が芳しくなくて実現は不可能かもしれないと思われていたから、周りからの反応はいまいちだったらしいわ。その時期は特に今のような脅迫などは無かったらしいけど、それなのに完成の目途が立ち始めると急に脅迫文が送られてくるようになったとのことよ」

 「……それは怪しいですね」

 研究の中止を求めるのが目的ならもっと早い段階から騒ぎがあったはず。しかしそんな動きはこれまで無く、目途が立ち始めてきたころから騒ぎ始めるなど明らかに不自然だ。確実に何らかの思惑が絡んでいるのは違いないだろう。

 「いったい誰が中止を求めているのかしら。研究が完成すれば食糧の供給が増えるのよね?」

 1番の疑問はそこだ。自分達の生活が豊かになるのだ。なぜそれを妨害するような真似をするのだろうか。自分達の食糧事情を停滞させていることがサーリャにはどうしても腑に落ちない。

 そんなサーリャの問いに答えたのはルインだ。

 「そんなの決まっているだろう。自分達の利益を守るために動いているんだ。生産量が増えるということはその分自分達の作る食糧を買い求める人間が減るということだ。多少値段を上げたとしても生きるためにはそれを買わざるを得ない。それが通用しなくなるんだ。だったら不利益になる対象を排除するのは当然の流れだ」

 「そんな!」

 サーリャはルインの言葉に強い憤りを覚えた。多くの人々の暮らしを豊かにさせる研究が自分達の利益を守るために潰されるなど許されることではない。

 「馬鹿な奴が考えることなどそんなもんだ。それにわざわざ黒幕の確保なんて明言しているのだから、ある程度相手の目星はついているんだろう?」

 「疑いがかかっているのは同じ南方の領主であるザイスト・コーランドよ。先代はそうでもなかったのだけど、彼が領主になってからあまりいい噂は聞かないわ」

 ザイストの父である先代は堅実な領地経営をしていたそうだが、数年前に〝不慮〟の事故によりザイストが領主を引き継いだそう。しかし代替わりしたことで経営方針は利益優先へと変更となり、小規模ではあるが何度かトラブルを起こしているらしい。

 「今はまだ疑いの段階でしかないわ。向こうもそれが分かっているのか本人に繋がる証拠を一切出さないの。それでも決定的な証拠が見つかれば即座に領主の座を下ろす準備は整っているわ。陛下もこの判断には賛成しているし、たとえザイスト以外の人物であっても対応の変更は無いつもりよ」

 思っていたよりも重要な任務に思わずサーリャは息をのむ。先程まで真剣な表情だったミランだったが、すぐさま優しげな表情に戻った。

 「そんなわけで、しばらく私達はこっちに来られないと思うから理解しておいてよね。いろいろと準備があるから出発はもう少し先にはなると思うけどね」

 しばらく出発に猶予があるのならば、サーリャも済ませておきたい予定があるので、頭の中である程度スケジュールを組み立てていく。

 「わかっていると思うが油断はするなよ?大抵の奴なら二人で問題無く対処できると思うが、今回の相手は魔獣とは違うからどんな手を使ってくるのかわからないぞ」

 「わかっているわよ。黒幕を捕まえてまた戻って来るんだから!」

 わずかに浮かれ気味なサーリャにルインは静かに釘を刺してくる。滅多に表に出さないルインの優しさを嬉しく感じながらサーリャは胸を張りながら力強く言い切る。

 一度は冷え切ってしまった関係のミランもルインの言葉は嬉しかったようで、最初は目を丸くしていたが、今は目を細め嬉しそうに微笑んでいる。サーリャとミラン、2人から微笑みを向けられたルインは2人からの視線を遮るかのようにカップを口元に運ぶのだった。



 「ルイン。そろそろ食糧庫の食材が心持たなくなってきたのだけど、どうするの?」

 「ん?もうそんなに減ったのか」

 その日の夜、サーリャはキッチンから顔を出しながらルインに声をかけた。ミランは夕食後しばらくくつろいだのちに先に転移で帰っており、今はサーリャとルインの2人きりだけだ。

 サーリャは今晩ルインの家に泊まるつもりなので帰る心配はない。

 「さすがにあれだけ作っていたら在庫も減ってくるわよ。作る側からしたら自由に使えて嬉しいけどね」

 ルインから魔法の指導を受け始めてから今日まで対価として料理を作り続けている。初めて訪れた時はその備蓄量に圧倒されたが、補充せずに作り続けていれば当然その備蓄が減り続けていくのは当然だ。

 最近ではミランも夕食を共にすることが多くなってきたので、その消費量も加速している。

 「さすがに買い込む量が多いからルインも一緒に来て手伝って欲しいわ。転移魔法なら運ぶのにそれほど手間はかからないでしょう?」

 ルインの食糧庫は保存魔法が常時展開されているので食料品が傷むことも鮮度が落ちるということも発生しない。鮮度や保存期間を心配することなくありったけ買い込むことができるのは嬉しいが、買い込んだ食材の重量が消えるわけでは無いのでさすがにサーリャ1人では運べない。

 ルインがいれば転移魔法で食料品を運ぶことができるのでその問題は解消される。

 「別に食材が無ければ残っているパス……」

 「却下!明日一緒に買い出しに行くわよ」

 「面倒だな……」

 サーリャは呟くルインをそのままにして買い出しのリストを作るために食糧庫の中へと戻っていくのだった。



 翌日、太陽がもう少しで真上に差し掛かろうという時間帯に2人は王都の大通りを並んで歩いていた。2人が歩いているのは商店が多く立ち並ぶ商業区で、店ごとに取り扱っている品物が違っているので様々な商品が並んでいる。王都の外からも行商人がやって来て通りの隅で簡素な店を設置していたりしている。

 王都では滅多に手に入らない物が並んでいたりすることもあるので、毎日この通りは多くの人で賑わっている。

サーリャは動きやすい私服姿ではあるが、ルインはフードを目深にかぶって顔を隠している。さすがに一般市民がルインのことを知っているとは思えないのだが、念には念をということらしい。

 「それじゃあ、必要なものを買っていきましょうか。ルインも必要なものがあったら追加してもいいけど、とりあえずどれから済ませていこうかしらね」

 サーリャは事前にリストアップしておいたメモを取り出しながらどうしようかと思案する。

 手書きのリストには野菜や肉・乳製品や調味料などが種類別にびっしりと書き込まれており、全て買い揃えるには相当な時間を要するだろう。

 「そんなに買い込むつもりなのか?少し多すぎだろう?」

 「これぐらいは買っておかないとまた買いに来なくちゃいけないわよ。ルインだけならともかく私やミラン様の分も考えるとこれぐらいは必要よ」

 リストを横から覗き込み呆れるルインにサーリャはさも当然といったように言い返す。

 「それよりもわざわざ王都まで出てきたんだ。先に俺の用事を済ましたいんだがいいか?うまくいけばサーリャの予定も一緒に済ませられるかもしれん。目的の相手は知っているが場所が分からん」

 「へぇ。私も全部は知っているわけじゃないけど、有名な所ならわかるかもしれないわね。どこに行きたいの?」

 ルインの目的に興味を持ったサーリャは先にルインの予定を優先することにする。食材を買い揃えるのは別に今すぐでなくても問題ない。逆に他のことをすべて終わらせてから買い揃えた方が段取り的にいいだろう。

 「それはだな——」

 「……は?」

 相手の名前を聞いたサーリャは理解するまでにたっぷり時間を使った後、自分でも驚くぐらい間抜けな声を出すのであった。



 王都商業区に佇むひときわ大きな建物。その中の一室で1人の男が目の前に置かれた紙束を相手に必死にペンを動かしていた。1枚1枚書かれている内容を確認しては許可を現すサインを書き走らせていき、許可の出せないものに関しては不許可のハンコを押し付けて突き返す。サインを書き終えるや否や、すぐさま傍で控えている女性がテーブルから書類を回収する。

 「これで全部か?」

 「はい。これで会長の許可が必要な書類は以上です。お疲れさまでした」

 秘書に書類を手渡しながら会長と呼ばれた男はペンを置き、書類仕事で凝り固まった身体をほぐすように大きく伸びをする。

 「毎回こんなことを続けていると身体が石のようになってしまいそうだ」

 ルジー・ブルリンドはうんざりしながら背もたれに身体を預ける。あと数年で30歳を迎える彼は最近自分の仕事内容が書類業務ばかりになっていることに対して愚痴をこぼす。

 「それが会長の仕事でしょう。会長は商会を守っていくことが仕事であり、私はそんな会長を支えるのが仕事です。それにそのような言葉はまだ会長には早すぎます。あと10年ほど経ってから言ってください」

 「相変わらず君はストレートに言ってくるね」

 秘書からの言葉にルジーは気分を悪くすることなく、相好を崩す。彼女は仕事に対して非常に真面目な性格であまり融通が利かないが、会長である自分に対しても遠慮なく思ったことを口にしてくる。

 上司に対して全く物怖じしない性格と、秘書としての能力も非常に優秀なので自分の補佐として働いてもらっている。優秀過ぎて些か一日のスケジュールが細かすぎるような気もするが……。

 「ただただ現場で働いていたころが懐かしいな~」

 「たしか会長は元々料理人だったそうですね。どこかの店で修業をしていらしたのですか?」

 「いいや。実は独学で学んだものなんだ。ただ、本場で修業をしていないからどこの店も雇ってくれなくてね、最終的に偶然通りかかった騎士の付き人兼料理担当として同行させてもらえるようになったんだよ」

 「よく許してくれましたね。普通なら相手にされませんよ」

 ルジーの経歴に流石に彼女も驚きで目を丸くしている。これに関してはルジー自身も今から思えばよくそんな行動に出たなと思わざるを得ない。

 騎士というのは様々な脅威から人々を守る盾であり、剣でもある。彼らは常に危険と隣り合わせの環境下に身を置いており、命を落とす可能性もある。

 厳しい訓練を受けた騎士ではないただの一般市民が同行するなど正気を疑うだろう。実際のところ、今こうして生きているのはある意味では奇跡だとルジーは思っている。

 ルジーの付き人となった騎士は他の騎士とは違い自分から危険へと突っ込んでいく命知らずで、基本的に対応は出たとこ勝負。対応はその時に考えるスタンスなので魔獣がはこびる森の中で震えながら野宿なんてことも当たり前で、時には夜通し移動し続けることもあり寝不足が続いた日もある。

 そのくせあまり戦果に対しては拘っていないようで、倒した魔獣の魔核を放置して帰るなどが多かったためにルジーが売却や価格交渉をする羽目になった。そのおかげで商人との繋がりや経営者としてのスキルも磨くことができたのはある意味嬉しい誤算だったのかもしれない。

 周囲とは比べ物にならない厳しい環境下での下積み時代だったが、それでもルジーはあの貴重な体験は経験して良かったと思っている。

 男女入り混じっている騎士の中でいかに食事とは数少ない幸せな時間なのだとわからされた。新米にすぎない当時はとりあえず量を用意すれば騎士は喜んでもらえると思っていたが、それは間違いなのだと同じ騎士である女性からはかなり厳しい言葉をもらったのは今でも覚えている。

 そこからは量だけでなく彩りやバランスも考えたメニューを提供し続け、時にはオリジナルメニューを考えて雇い主と同僚の女性騎士に試食してもらい研究も重ねる日々だった。

 それから数年を経て独り立ちすると決まった時には、自分をここまで成長させてくれたことに対する感謝で人目もはばからず泣いてしまった。そんな中でもルジーは恩人の言葉を今でも覚えている。


 「そうだな。そこまで感謝しているのならまた俺に料理を作ってくれ。今の未熟な腕ではだめだ。お前が更に腕を磨いて、これ以上のものは作れないとお前自身が納得できるような一品を作ってくれ」

 「約束します。必ず期待に沿えるような一流の料理人になってみせます!」


 あれから数年。あの時の約束はまだ果たされていない。いや、これから何年経とうともその約束は果たされることは無いだろう。……なぜならその恩人はすでにこの世にはいないのだから。

 王都で小さな料理屋を開き、ある程度軌道に乗ってくると様々な情報がルジーのもとに入ってくる。その中に恩人の名前が出てき、さらに反逆者と聞いた時は自分の耳を疑った。


 あの人はそんなことはしない。何かの間違いだ!


 しかしどれだけ時間が過ぎてもその事実は変わることはなく、ついにその人が討ち果たされたと聞いた時は頭の中が真っ白となった。

 自分は何の恩も返すことができず、最後に交わした約束すら守ることができなかった。

 ショックから一度は仕事を辞め、国を出て行こうかとも考えたルジーだが今はこうして王国に留まり商会を大きくしている。

 自分だけならまだしもすでに何人もの従業員が雇っており、自分の都合で彼らの生活を犠牲にするわけにはいかない。そしてここで諦めてしまえば今度こそこれまでのことが無駄になってしまう。

 だからこそルジーは今も必死に仕事をこなしている。いつか自分の商会の名があちらにも届くようにと。


 「失礼します。会長、お忙しい中ちょっとよろしいでしょうか」

 「おっ?どうしたんだね」

 過去を思い出し遠い目をしていたルジーだったが、部屋に入ってきた従業員の言葉で現実へと引き戻された。入ってきた従業員の男性はなぜか申し訳なさそうにルジーを見てきているが、なぜそのような表情をするのか原因がわからない。ルジーはできるだけ緊張しないようにと気楽な態度で彼を迎え入れる。

 「実は先程食事で来店されたお客様が、料理を作るのは会長にしてくれと言ってきておりまして……」

 「……またか。その件に関しては受けることは無いと伝えておくように言ったはずだが?」

 ルジーはうんざりしたようにため息を吐いた。

 料理人という立場から商会の会長へと立場が変わってもその腕を錆びつかせないようにルジーは料理を定期的に作っている。しかし、それは決して客の前に出すことは無く、あくまでも個人で消費する分だけに留めている。

 それ以外では従業員と共にレシピ開発はしているが、それを一般の客には決して出さない。

 だが、たった1人で王都の中で知らない者はいないという規模にまで商会を発展させた人物の料理を食べてみたいという人は後を絶たない。

 ルジーはその要望に関しては一貫して拒否という態度を貫いている。

 「それが、お伝えはしたのですがどうしても相手の方が納得してくださらなくて、通常よりも料金は支払うと言って聞かないんです」

 「わかった。私が直接対応しよう」

 どうやら今度の客は少し面倒な相手なのかもしれない。ルジーはそう言って椅子から立ち上がるのだった。


 「あちらの席に座っておられるお客様になります」

 「そうか。ありがとう」

 ゆっくりと近づいていくルジーの視線の先には二人の人物が席についており、1人は女性で椅子に座りながらそわそわしている。もう1人は店の中だというのにフードも取らずにこちらを背にして座っている。対応次第ではトラブルに発展する可能性を考慮して他の客達から少し離れた場所に案内されている。

 「お待たせして申し訳ありません。私が当商会の会長をしておりますルジー・ブルリンドです。従業員から私に料理を提供して欲しいと聞いておりますが?」

 「す、すみません。ほら、あなたが変なことを言うから大ごとになってきたじゃない!商会のトップに料理を作らせるなんて馬鹿なの⁉」

 女性の方は常識というものをわきまえているようでこちらに向かって申し訳なさそうに何度も頭を下げている。どうやら今回の無茶を言ってきたのは対面に座るフードを被った人物のようだ。

 「申し訳ありません。現在私は経営の方に力を入れておりまして、現場から離れております。しかしながら従業員は教育が行き届いており、お客様が満足できるだけのものを提供できると自負しております」

 「駄目だ。おまえの作るものじゃないとここまで来た意味が無い」

 「ちょっと!」

 フードの下から発せられた男性の声に女性は咎めるように声を上げた。……なんだか聞き覚えのある声が聞こえたような気がする。

 「サーリャは食べたことが無いからそんなことが言えるんだ。こいつのクリーム煮は絶品なんだぞ。鶏肉でも魚でもしっかりと合うし、その時に採れた山菜を入れるから同じクリーム煮でも違いが出てくる」

 「いえ、ですから——」

 そう言ったところでルジーの言葉が止まった。男性はまるで自分の作る料理を食べたことがあるような口ぶりだ。しかし一般の客に料理を提供などしていないし、そんな記憶も無い。それに……

 (どうして料理の詳細をそれほどまで詳しく言えるんだ)

 男性が言うクリーム煮はこの店でも提供している。しかし提供しているクリーム煮は鮮度の関係上今は鶏肉を使っており、食材の組み合わせを毎回変えているわけでは無い。

 それに同じメニューでも使用する食材の組み合わせを変えていたのは、まだルジーが店を持っておらず騎士の付き人として限りある食材を有効利用しようとした際の結果だ。その事実を知っている人はかなり限られる。

 そんなルジーの頭にある可能性が浮かんだ。それは叶うことの無かった約束であり、会いたくても二度と会えないと思っていた人物。

 「まさか……もしかしてあなたは」

 身体だけでない。声も震え始めたルジーを面白がるようにフードを被ったままの人物が振り返り、ルジーだけに見えるようにそのフードを少し後ろへと下げて顔を見せた。

 「ここまで大きな商会の会長をしているんだ。その腕がどんなものか是非とも知りたいんだがな」

 僅かに口角を上げこちらを試すような物言い。これまでの自分の努力を軽く見られるような発言は普段なら多少でも思うところはあるのだが、今回に関してはそんな感情は一切抱かない。

 「少々お待ちください」とだけ言い残してルジーはその場を後にして真っ直ぐ調理場へと向かった。

 調理場では何人ものシェフが次々と入ってくる注文をこなすために、自分の持つ技術を総動員して完璧な一品を作り続けている。彼ら1人1人がこの商会を支えていると言っても過言ではない。

 「これは会長。こちらに何か御用でしょうか?」

 ルジーの存在に気がつき1人の料理人が近づいてきた。彼はルジー自ら料理の技術を一から叩きこんだ1人で、今ではこの店の調理場を任せる料理長をしている。

 「料理長。今キッチンの1つを私が使っても構わないだろうか?」

「そうですね、今なら空きが出ているので使ってもらうのは問題ありませんが……まさか会長自ら作られるのですか⁉」

 さすがの料理長もまさかルジーが料理を作るとは思っていなかったのか驚きを隠せないでいる。周囲の料理人も事実なのかとどよめきが走る。

 「ああ。君たちの邪魔をしてしまうことになってしまうかもしれないが、どうしても使わせてほしい。スペースだけを借りるだけで十分だから私の方に人員を回さなくてもいいんだ」

 「問題ありません。どうぞご自由にお使いください」

 料理長は詳しいことは聞かずに了承してくれ、その気遣いに感謝しながらルジーは誰もいないキッチンへと向かう。上着を脱ぎ、袖を捲り準備を整えると真剣な眼差しで食材を1つ1つ手に取って選別する。

 最高の食材、最高の設備でルジーはクリーム煮を作っていく。ブランクがあることに多少の不安はあったが、体が動きを覚えているため自然と次の動きを迷いなく進めていくことができる。

 滅多に見ることができないルジーの姿に何人ものスタッフから視線を向けられていることに本人は気がつかないまま、最後まで集中を切らさず作業を進めるのであった。

 食材の選別から盛り付けまで誰の手も借りず1人で終わらせたのは久しぶりな気がした。まるでかつて付き人をしていた時に戻ったかのようで、完成した料理を目の前に胸に込み上げてくるものがある。

 この料理を振舞うのはこれまでの感謝という気持ちだけでない。付き人という立場を離れそれからどのような道を進んできたのか、どのような思いを持ち続けていたのかを伝える意味もある。

 ルジーは料理を乗せたワゴンを自ら押して、食べてもらいたい相手の元へ向かうのであった。



 「本日はありがとうございました。何か御用でしたらいつでも当商会をご利用くださいませ。お連れの方も是非ともご利用くださいませ」

 「あ、あはは……ありがとうございます」

 食事を終え、ルインと共に商会の外へと出たサーリャは目の前で深々と頭を下げるルジーに表情を強張らせていた。

 商会を訪れた時はルインと2人だけだったのだが、建物内に入ってから状況が大きく変わってしまい帰る時にはなんと商会のトップが見送りに出てくるというとんでもない状況になっていた。

 「おい。あれってブルリンド商会のトップじゃないか」

 「ああ。トップが直接対応するなんて相手は相当な人物だぞ。隣の女性はおそらく護衛だと思うが、もしかするとどこかの貴族令嬢かもしれん」

 「たった1人で護衛を務めることができるなんて相当な実力だぞ」

 さすがにトップが見送りに出てくるという光景は目立ちすぎて周囲の注目を集めてしまい、さらには変な誤解までされ始めている。別にルインが目立つ分には構わないが自分自身が関わるとなるととんでもない。

 (やめてー!私はただの一般騎士なのよ)

 挨拶を終えるとサーリャは周りに注目されながらルインを連れてその場から逃げるように離れるのだった。


 「まったく、とんだ目に遭ったわ」

 ブルリンド商会から離れたサーリャは大きく息を吐いた。食事をしただけなのに、なんだかどっと疲れた気がする。

 ルインがブルリンド商会で食事をしたいと言い出した時はとうとう食事に関心を持つようになったのか程度にしか考えていなかったのに、まさかブルリンド商会のトップと知り合いなのだと誰が思うだろう。

 「何を疲れているんだ。歩き回らなくても一箇所ですべて揃えることができたんだから、楽できただろう」

 「確かにそれはそうだけど、それなら先に言っておいてよね。緊張し過ぎて心臓に悪いわ」

 食事のあとそのまま商会で購入予定だった食材のすべてを買い揃えることができた。それは確かにありがたいことではあったのだが、料理に引き続き買い出しの付き人担当がルジーと知った時は悲鳴を上げたくて仕方なかった。どこの世界にただの一般市民が商会トップを使用人のように扱えるというのだ。

 ルインの食糧庫に初めて入った時に商会が販売している調味料や食材などを見つけた時、ルインは本人から貰ったと言っていた。いつもの冗談だと思って聞き流していたがまさか事実だとは……

 「それよりもルインってよくあれだけの金額をぽんって出せたわね。いったいどうやってあれだけの金額を簡単に出せるほどのお金を得ているのよ。何か人に言えないような仕事をしているんじゃないでしょうね?」

 必要な量だけ買うつもりが結局は食糧庫に収まりきれるかどうかというぐらいの量を購入することになってしまったのだが、ルインは特に気にした様子もなく懐から金貨の詰まった袋をテーブルに置いた時はさすがのサーリャも大きく目を見開いてしまった。

 サーリャと教育していた時もルインは大量の回復薬を提供してくれたが、それ以外にも魔法の研究費用など何かと経費はかかっているはず。そんな生活を維持できるほどの収入をルインはいったいどこから得ているのだろう。

 「そんなくだらないことをするわけないだろう。元々持っていた分もあるが、俺だってその辺りはいろいろと考えている」

 「どんなことをしているの?教えてちょうだいよ」

 サーリャはワクワクしながら上目遣いをしながらルインにスッと近づいた。人との関わりを持たないルインがしている仕事は興味ある。

 先程よりも顔が近くなったルインがサーリャをちらりと見返してくるがすぐに視線を前へと移してしまった。

 「まぁ機会があれば教えることもあるかもしれないな」

 「え~~!教えなさいよ」

 昼下がりの大通りにサーリャの楽しそうな声が響くのだった。



 数日が過ぎ今日もサーリャはいつものようにルインの家を訪れ敷地内で魔法の訓練を受けていた。実戦形式ではないのでルインは用意したテーブルと椅子に飲み物を用意してくつろいでいる。

 そんなルインを横目にサーリャは目の前の相手に悪戦苦闘していた。

 「もぉー!全然先に進めないじゃない!」

 サーリャの目の前には2メートル四方の物体が用意されている。ルインが用意したのは半透明のゼリー体で、ゼリー体の中心にはルインが用意した的が埋め込まれているが傷は1つもついていない。

 サーリャは怒りに任せて全力で剣を振るい目の前のゼリー体を深く切り裂く。切り裂くと同時にできた傷へと追い打ちで攻撃魔法を叩き込み、周囲にゼリーをまき散らしながら掘り進めていく。

 しかし至近距離からの一撃だけでは的まで攻撃が届かず、あと少しというところで魔法が消失してしまう。さらに追撃を加えようとしたサーリャだったが、背後に気配を感じすぐさま振り返りながら魔法障壁を展開させた。

 展開した障壁に無数の何かがぶつかってくる。目を凝らしてぶつかってきたものの正体を確認すると、先ほどサーリャが攻撃して撒き散らしたはずのゼリー体だった。障壁にぶつかったゼリー体は力を失ったかのように地面へと落ちていく。

 思っていたよりも背後からの攻撃に対して時間をかけてしまった。すぐさま本命の的へと振り返ると先ほどサーリャが広げたはずの傷口が小さくなっている。周囲のゼリー体が蠢き盛り上がっていくことで傷口を塞いでいき、しばらくすると何もなかったかのように綺麗な四方体に戻ってしまった。

 振り出しへと戻ってしまった事実にサーリャはプルプルと身体を震わせた後、押し込めていた感情をついに爆発させた。

 「あーー‼イライラするわ。これで何回目なのよ!」

 「向かってくる脅威に対して時間をかけ過ぎだ。攻撃と防御の切り替えをもう少し早くしろ。攻撃を中断して一からプロセスをやり直すから時間がかかっているんだ。すべての行動を流れ作業のように最適化しろ」

 サーリャの怒りとは真逆の落ち着いたルインの指摘がすぐさま飛んでくる。

 「そんなこと言ってもさすがにこの組み合わせは反則よ!」

 実のところサーリャは目の前にある物体の正体は知っている。ゼリー状の物質はシーリングジェルと言い、どこにでも目にすることのできる工業資材の一種だ。

 主に穴の開いたパイプや壁などを一時的に塞ぐことができるもので、魔力を与えれば体積が何倍にも膨れ上がり、魔力が尽きるまではその状態を維持し続けることができる。

 的になっているのはネリムの枝と呼ばれるもので、あまり珍しくもない植物の一種だ。

 この植物は自身に危険が迫ると魔力で周囲の枝葉などを引き寄せ、鎧のように身に纏う性質を持つ。

 身を守りながら生存圏を広範囲に広げようとした末にこのような進化を遂げたのだが、所詮は植物。引き寄せられる時間は短く、長くても数秒程度しかもたない。

 ありふれた2つの物体。取るに足らない組み合わせだが、場所がルクドの大森林だと話は変わってくる。

 他とは比べ物にならない魔力濃度を持つこの大森林では僅かな魔力でも大きな影響を及ぼす。

 シーリングジェルはサーリャやルインが魔力を与えなくてもその場に置くだけで少しずつ魔力を吸収してしまい、放置すればとんでもない大きさに膨れ上がってしまうものをルインが魔法で制限しているので今以上に大きくなることはない。その代わりに傷つけられれば驚異的な速度で開いた場所にジェルが満たされるので、信じられないような再生速度を持つようになっている。

 ネリムの枝に関しても例外ではない。普段なら脅威にもならない引き寄せの力だが、この場所ではその力が何倍にも増幅されてしまう。それこそただの小石が弾丸に成り代わってしまうほどに。

 驚異的な再生速度を持つ物質を身に纏い、傷つけられそうになればそれを弾丸のような速度で引き寄せる。そんな相手をどう攻略すればいいのか。

 「別に難しい話じゃない。サーリャが料理をする時とやることにそれほど違いはない」

 見ていられなくなったのかルインは立ち上がり、こちらへ近づいてくるとネリムの枝に向かい合う。

 「複数の工程を連続で行う場合、1つ1つ終わらせて一呼吸置かなければ次の工程に移ってはいけないのか?作業を効率よく進めるために『ついでに』と別の作業も同時進行させることがあるだろう。理論としてはそれと同じだ」

 ルインは虚空に手を入れ中から一振りの剣を取り出すとそのまま横凪に振るった。サーリャの時と同じように周囲にシーリングジェルが飛び散るが、攻撃に反応したネリムの枝が飛び散ったジェルを弾丸の速度で引き寄せる。

 ルインは横目でジェルの位置を確認するや左手をまるで幕を広げるかのように大きく振るとその動きに合わせて魔力が瞬時に形成し始める。

 サーリャはルインの魔力が形作るものに目を丸くした。

 「障壁が⁉」

 サーリャの目の前で魔力障壁が展開するが、それは普段サーリャが見ているような立派な壁ではなく、まるで布を広げたかのように緩やかな曲線を描いている。

 引き寄せられたシーリングジェルが障壁に次々とぶつかる中、ルインはその間も攻撃の手を緩めることはない。左手で障壁を制御しながら右手は目の前の的を斬り続けている。

 ルインは見やすいようにジェルを散らす方向を、自身の立ち位置を毎回変えてその都度流れるような動きを見せてくれる中、サーリャはその動きに心奪われたかのように目に焼き付ける。以前ルインの戦いを見せてもらった時も感じたのだが、本当にルインの動きには無駄が無く1つ1つの動きが洗練されていて綺麗だ。

 何度目かの攻防の末、とうとう剣の切っ先がネリムの枝に届いた。真っ二つに切られた枝は力を失い、さらにジェルを撒き散らしても引き寄せるようなことはなく地面へと飛び散る。

 目の前で起こったことにサーリャは感嘆の言葉しか出てこない。

 枝を失いただの置物となったシーリングジェルをルインは高火力で一気に燃やし、数秒後には跡形も残ることなく蒸発した。

 「とまぁ、こんな感じだな。魔法は術者のイメージに沿って発動するんだ。固定概念を捨てなければ自然とできる範囲が狭まってしまうことになる。魔法障壁も強度がしっかりしているのならば壁である必要は無い」

 「その固定概念を捨てることが普通の人には大変だと思うけどね」

 さも当たり前のように説明するルインにサーリャは苦笑した。

 「それにしても、ここだといろんなものが魔力の影響を受けるのね。ルインが用意したものだから軽視していたってわけじゃないけど、正直ここまでとは思っていなかったわ。他にも身近なもので影響が出るものってあるのかしら?」

 無害だと思っているものがその土地の影響を受けるとここまで凶悪な改変をされるのだ。使い方によってはこのルクドの大森林が難攻不落の要塞と化してもおかしくはない。

 そう考えると他のものに興味が湧いてくるのは自然の流れだ。

 「……そうだな。あるにはあるが、今それを教えるといろいろと影響が大き過ぎるな。今晩見せることはできるが明日は平気なのか?」

 「明日なら問題ないわ。私もそのつもりで着替えを持ってきているんだから」

 「……泊まることはすでに決まっているのか」

 「いいじゃない。私の手料理が食べられるのだから問題ないでしょ」

 ルインから魔法を教えてもらうという名目でサーリャは用意された部屋にいろいろと持ち込んでいる。最初は美容液やトリートメントなど急な宿泊になった際に必要な物資だけだったのだが、今では数日分の着替えなども持ち込んでいる。

 未婚の女性が知り合いとはいえ異性の家に何度も泊まり込んでいるなど両親に知られれば危機管理が無さすぎると発狂しそうなものだが、その点に関してはルインを信頼しているのでサーリャは今のところ気にしていない。

 実際、ルインはサーリャの部屋の中には入っておらず、部屋の中に置いてある荷物はサーリャが最後に見た時のままになっている。その代わりにいろいろと荷物を持ち込んでいるサーリャへとルインから無言で抗議の視線が向けられてはいるのだが……。

 「なら用意はこっちでしておく。やるべきことをすべて終わらせて落ち着いた時に声をかけてくれ」

 「わかったわ!」

 嘆息するルインとは違って嬉しそうに返事をするサーリャなのだった。


 「準備ができたわよ」

 その日の夜。入浴も済ませて他にやることも無くなったサーリャはキッチンで食器を片付けているルインにリビングから声をかけた。

 今のサーリャはすぐに就寝できるような薄いキャミソールに着替えている。

 一度自室へ戻ったルインはしばらくすると再び戻ってきて対面ではなく何故かサーリャのすぐ隣に腰掛けた。二人掛けのソファーとはいえそれほど大きくはないので、少しでも身体を動かせばお互いの肩が触れ合ってしまう。肩だけではない。端正なルインの横顔がこれまで以上に近い。

 (別におかしなところはないわよね?こんな近くに座るならもう少しマシな服にすれば……って私は何を考えているのよ!)

 落ち着かないようにソワソワと何度も自分の姿を確認しながら自分の髪を撫でるサーリャ。

 就寝前なので自然とゆったりとした服装なのだが、それでも身体の起伏を完全に隠すことはできず、一部は身体のラインに合わせて膨らんでしまっている。肩も出しているのでルインがサーリャを覗き込もうものなら下着を着けているとはいえ胸元が見えてしまう。

 気を許しているとはいえ、少し大胆過ぎたのかもしれない。

 自然とサーリャの顔がじわじわと赤くなっていく。

 「おい、顔が赤いようだが大丈夫か?体調が悪いなら無理をすることはないぞ」

 「だ、大丈夫よ!入浴の熱がまだ残っているだけだから。それより、私に何を見せてくれるのかしら?」

 「それならいいが……試してもらうのはこのポーションだ」

 そう言ってルインは目の前のテーブルにコトリと1つの小瓶を置いた。片手に収まりそうな小さなガラスの小瓶の中には液体が満たされている。このポーションにサーリャは見覚えがある。

 「これって魔力ポーションよね?」

 「そうだ。だがただの魔力ポーションではなく、材料から精製まですべてこの森の中で行った代物だ。普段目にするポーションとは比較にならないほどの効果があるぞ。魔力譲渡のロスなど気にする必要が無いくらいだ」

 使用者の魔力を回復させる魔力ポーションは消費した使用者の魔力を回復させるものではなく、正確には魔力譲渡の意味合いの方が正しい。

 ポーションを精製する術者の魔力を液体に溶かし、それを専用の容器に保存することでポーションは完成する。

 中身の液体を摂取することで液体に込められている魔力を自身のものとして扱うことができる。それが魔力回復の原理だ。

 しかしポーション作成者が込めた魔力のすべてを自身のものとして吸収することはできない。

 指紋が1人1人違うのと同じように魔力も人の数だけ違いはある。

 他者の魔力を自身の魔力に変換し直さなければならないのでその変換過程でどうしてもロスが生じてしまう。だからこそ魔力の回復量は込められた魔力の半分近くにまで落ちてしまう。

 ならば、そもそも込める魔力量が桁違いに濃縮されていた場合はどうなるのか?疑問は言葉にすれば簡単だが、実際にどうなるのかは使用者本人しかわからない。それだけの高品質なポーションを誰も摂取したことがないのだ。

 「もしかして私の隣にルインが座ったのもそれが関係しているのかしら?」

 「そうだ。サーリャの保有魔力量がどれくらいなのかわからない以上、近くにいる必要がある。心配しなくても害があるわけじゃない。俺も一度試したがこの通り何の影響も残っていない。飲むかどうかはサーリャの判断に任せる」

 サーリャは目の前のポーションを見つめる。ルインがそう言うからには危険視するような影響は出ないのだろう。未知のものを摂取するのには若干の抵抗があるが、それよりも興味の方が勝った。こんな経験はそうそう巡ってくるものではない。

 わずかに緑かかった液体を目の前で揺らしたサーリャは蓋を開け中の液体を一気に飲み干した。気持ちの良い冷たさと共に液体が喉を通っていく。

 変化はすぐに訪れた。

 「ふわぁ……なにこれ。なんだかふわふわする」

 ソファーに座っているだけのはずなのに、まるで全身をその道のプロに揉み解してもらっているかのように疲れが一つ残らず消えていく。

 肉体だけでない。心も柔らかな毛布に包まれたかのように軽く感じられる。目もトロンと蕩け始め、身体が左右にゆっくりと揺れ始める。このまま私はどうなってしまうのだろうかとわずかに残った理性が考えていると、

 「安心しろ。しばらくすれば治まるはずだ」

 揺れるサーリャの身体をルインが優しく支え、ゆっくりと背もたれにもたれ掛けさせる。サーリャの右手にルインの手が優しげに重ねられたのが分かった。重ねられた手からルインの体温が感じられる。

 しばらくすると徐々にふわふわとした気持ちが薄れ始め意識がはっきりしてくる。隣からサーリャの顔を覗き込むルインと至近距離でばっちりと目が合ってしまったサーリャは、さりげなくルインから顔を背けた。

 「落ち着いたみたいだな」

 「……ええ。さっきのはいったい何なの?今までポーションを飲んでもこんなことにはならなかったわよ」

 「サーリャの保有魔力量を超えて魔力が補充されたことによる副作用だ。器から溢れ出した魔力が今回は多幸感となって消費するように身体が反応したんだ。溢れた魔力の一部は途中から俺の方にも移したからこの程度で済んで回復も早かったんだ。……体験した感想はどうだ?」

 「正直に言うなら2度と使いたくはないって思うわね」

 サーリャは先程まで身に起こっていたことを冷静に振り返る。

 確かに今のサーリャはこれまで感じたこともないくらいに魔力が満ち溢れている。このポーションをたった1度摂取するだけで失った魔力のほとんどを回復できるのならば、確かに申し分ないほどの効果だ。

 しかしその副作用の方が問題だ。魔力は回復したとしても溢れてしまった魔力で本人が動けないのであれば何の意味もない。

 これならば回復量が少なくても従来のポーションを飲んでいる方がマシだ。

 ちなみに今回サーリャは多幸感となって余剰魔力を放出したが、どうやらルインの時は違った反応だったらしい。詳しいことをルインは苦虫を嚙み潰したかのような表情で決して喋ろうとしないことから、何があったのかはおおよそ察せる。

 「強力な薬は時として毒になりえる。便利だとしても強過ぎれば回復するどころか逆にそれを妨げて本末転倒な結果にしかならない。まぁ、これは精製したものをそのまま飲んでもらったから効果は強力だが、薄めれば副作用をある程度抑えたうえで使用することはできる」

 「他のポーションもあるの?」

 魔力を回復させるものがあるのならば肉体の怪我を治すポーションもあるのではないだろうか。材料がこのルクドの大森林に自生しているのかはわからないが、材料が揃えば十分作成は可能なはず。

 もちろん先程身をもって副作用を経験したばかりなので、もう一度経験したいとは考えていない。あくまでも聞くだけだ。

 ルインは記憶を探るようにわずかに上を見上げる。

 「治療用のポーションは以前作ったことはあるが今は無いな。作ろうにも材料のいくつかが不足していたと思う。自生している場所はある程度見当はつけているが、道のりが面倒だからわざわざ取りに行きたくはないな」

 意外な反応だ。この森の中で生きていくことが奇跡とも言えるような場所で悠々自適に生活できるルインが行くことを避けるとは。

 「ルインでも行きたくないの?」

 「ああ。さらに森の奥へ進むとここよりもより魔力濃度が高くなり、より魔力の操作と精密な調整が必要となってくる。普段と同じように周囲から魔力を不用意に取り込めばさっきのサーリャと同じ状態になるぞ」

 「それは確かに遠慮したいわね」

 ルインの話によれば森の中心近くはサーリャが想像もできないほどの高濃度の魔力地帯で、ルインであっても迂闊に魔法の使用ができないほどだという。魔獣一体を焼くほどのつもりで放った火球が周囲一帯を焼け野原にするほどの威力に増大するらしい。

 踏破できないわけではないようだが、普段よりも魔力調整に気を配らなければならないため精神的に疲れるらしい。

 うんざりとしたように話すルインの表情を見れば、どれだけ面倒な場所であるのかがわかる。

 「まぁ別に無くても困るような物でもないから問題無いだろう。今日はここまでにしておくか」

 「それもそうね。内容はともかく貴重な経験をできたのはよかったわ」

 前向きなサーリャの反応にルインは「変なやつ」と呟くのだった。



 ミルス領へ出発する前日。サーリャはとある部屋で直立不動のままこれから会う人物を緊張した面持ちで待っていた。騎士礼服に身を包んではいるが、帯剣はしておらず今は身一つだ。

 (どうしてこんなことになっているの……)

 顔には出さないままサーリャの内心は疑問と不安で大きく揺れていた。

 豪華絢爛。まさにそれを体現したかのような室内は誰かを招き入れることを想定しているかのように広く、数々の美術品や装飾が部屋全体を飾り付けている。煌びやかでいながら嫌味にならないように配慮もされているが、今のサーリャはそんな意図を汲み取れるほどの精神的余裕は無い。

 何かおかしな所はないかと改めて身だしなみをチェックしようとしたところで扉が開く音が聞こえ、サーリャはすぐさまその場で片膝をつき頭を下げた。

 「よく来てくれたサーリャ・ブロリアス。面を上げよ」

 「はっ!」

 厳かな声に反応し、サーリャはゆっくりと顔を上げる。視線の先には2人の人物がサーリャを見下ろしており、1人は立派な椅子に座りもう1人はその側に控えている。この2人を知らぬ者などこの王国には存在しないだろう。

 ルイリアス王国国王ルシャーナ・ヘルオンスと宰相であるクレス。王国のトップ2人が今回サーリャを呼び出した張本人であった。


 「随分と緊張しておるようだな。なぜこのような場に呼び出されたのかわからぬと言った様子だな」

 「恐れながら私のような者がなぜ陛下からお声がかかったのか全く心当たりがなく、困惑しているところであります」

 「まぁおぬしの立場からすればそう感じてしまうのも仕方ないことだな」

 3人しかいない謁見の間でサーリャは失礼が無いように慎重に言葉を選びながら会話を進める。

 いくらサーリャが貴族令嬢だとしても階級で言えば最底辺の名誉貴族で男爵位。さらに付け加えると今のサーリャは騎士として活動している身なので貴族社会からも離れている。なおさら声がかかる理由が見つからない。

 「心配せずとも、今日この場にそなたを呼び出したのは何か問題があったからではない。先の魔獣による大侵攻の際にそなたが大きな功績を挙げたと報告があったためだ。騎士学校を卒業して日が浅いのにも関わらず、皆を守るために1人魔獣の群れに正面から立ち向かったそうではないか」

 とりあえず罰せられないことにほっと胸を撫で下ろしたサーリャはルシャーナの認識を訂正した。

 「私1人の力ではありません。周りで共に戦ってくれた仲間の力があったからこそあの結果に繋がることができたのです。私1人で守り切ることなどできませんでした」

 「謙遜せずともよい。レーゼマンからも報告が来ておる。おぬしのおかげで多くの者が命を救われたとな。たとえそうだとしてもおぬしが動かなければ救われなかった者がいるのも事実」

 「レーゼマン様がですか⁉」

 まさかの人物から評価を受けていたことにサーリャは衝撃を受けた。

 「この度の勝利は確かにおぬしの言うとおり皆で勝ち取ったものだと言える。しかし、そのことに注目して大きな功績を挙げた存在を埋もれさせてしまう愚か者にわしはなるつもりはない。そこでだ——」

 ルシャーナが名案だと言わんばかりに玉座から身を乗り出してくる。

 「今回の功績を鑑みて、おぬしに貴族位を授けようと考えておる。いきなり子爵を授けるわけにはいかんが、男爵位は確実だ。名誉貴族ではないから1代限りではなく、子を成せば貴族位はそのまま引き継がれることになる。今後の働き次第ではさらに位を上げることもできよう」

 突然の話にサーリャは必死に現在の状況を整理しようと思考をフル回転させる。

 功績を挙げた者が貴族位を授かることは——滅多に起こることではないが——全く無いというわけではない。現にサーリャの父はこの制度のおかげで名誉貴族として末端ではあるが貴族社会に入ることができたのだ。

 しかし今回の件に関しては事情が異なる。名誉貴族ではなく男爵位を授けるということは——。

 (ブロリアス家を新たに興すということ)

 同じ男爵でも優先されるのは正当な男爵位を持つ側となる。そこには明確な上下関係が存在しており、名誉貴族の下に貴族の者が仕えることはない。

 この時点でサーリャは両親よりも上の立場となってしまうことになる。そうなると家を分けるのは自然な流れとなる。

 「今は慌ただしい時期ですので正式な通達は年明けとなりますが、望むのであれば通達前に土地を与える準備もしてあります。領地経営となればそれ相応の準備も必要でしょう」

 「どうだ?おぬしにとって悪い話ではないと思うが?」

 「……過分な評価をいただき大変嬉しく思います。あまりにも突然のことで理解が追い付かないのが正直なところです」

 サーリャが情報を整理している間にも2人の間でどんどんと話は進んでいくので、サーリャは無難な返答をしながら時間を稼ぐ。

 2人の話から判断するに、サーリャが望めばすぐにでもブロリアス領として土地を与えられるということ。そうなるとブロリアス領主として忙しい毎日が始まるだろう。

 クレスが言ったように領地経営などサーリャにとっては初めてのことなので、その辺りのノウハウを知る者から教えてもらわなければならない。そうなると動くのならば早いに越したことはない。だが——

 「申し出は大変嬉しく思います。しかしながら私は騎士としてまだ王国のために働きたいと考えております。領地経営は今の私には手に余ります」

 「騎士として民を守るということか。だが力を振りかざすばかりが守ることとは言わぬぞ?安心して生活できる場を作ることも結果として民を守ることに繋がる。知力という力をもって戦うことはおぬしにとっては重要ではないと申すか?」

 ルシャーナの目が僅かに細められ、問いかけの中にこれまで感じていなかった威圧が混ざりサーリャへと浴びせかけられる。息が詰まるようなこの威圧こそが国を守る王としての威厳。

 「そのようなことは微塵にも思っておりません。今の私がこうして安心して暮らせているのは陛下とそれに携わる多くの方々の努力の賜物です。しかしながら私は剣をもって人々を守ると心に決め騎士になったのです。その志を簡単に曲げてしまえば、これまでの私の決意はその程度なのかと周りから嘲笑されましょう。信念を貫けない者が領主になったとして、果たしてそこで暮らす人々に認められるでしょうか?」

 確固たる意志を持ってサーリャは自らの想いを2人へとぶつける。

 ルシャーナの言うとおり、力を振るうことだけが守ることには繋がらない。時として力を振るわずに済ます道を選ぶことも1つの守り方だ。

 それでもサーリャは今はまだ騎士として生きていたい。貴族位を授けられる以上、いずれは領主の責務を果たすため戦場から退かなければならないが、少なくとも今ではない。

 ルシャーナから放たれる威圧を正面から受け止めていたサーリャだったが、突然その威圧が霧散した。そして厳格な態度でサーリャを見下ろしていたルシャーナがニヤリと笑みを浮かべる。

 「ははは!さすがはミランの部下だ。どうだクレス?やはりこうなったぞ。わしの見立ては正しかったから賭けはわしの勝ちだな」

 「ええ、そのようですね。しかしながら私も陛下と同じ意見でしたので賭けは成立しませんよ」

 破顔して楽しそうに盛り上がる2人を前にサーリャはただただ呆気にとられるばかりだ。

 しばらく2人の姿を眺めていると、ようやくルシャーナはサーリャが戸惑っていることに気がついた。

 「おっと、すまんな。おぬしからすれば戸惑うのも無理はない。……実はここに来るまでにクレスと話していたのだ。今回の件でおぬしがどのような答えを出すのかとな。報告はいろいろと聞かされていたが、それだけで判断を下すには些か不十分だ。直接話をすることでしか見えない部分もあろう。勘違いしないように言っておくが男爵位と領地の件は嘘ではない。おぬしがどのような答えを出そうとも我らはそれを尊重すると決めておったからな」

 つまり自分は試されていたのだ。目の前に提示された褒美を前にサーリャがどのような反応を示し、どのような行動をするのかと。

 ルシャーナへと口にした言葉に嘘偽りはなかったが、それでも王に対して意見したのは精神的にかなり疲れた。さすがのサーリャもこの時ばかりは隠すことなくほっと安堵の息をついた。

 一息ついたところでサーリャは先程の問答で一つの疑問が浮かんだ。

 「恐れながら陛下。1つ質問があるのですがよろしいでしょうか?」

 「よい。遠慮せずに申してみよ」

 「先ほど陛下は『ミラン様の部下』だと仰られました。あの問いにはミラン様と私に何か関係のある話だったのでしょうか」

 「ああ、そのことか。心配せずとも特に深い意味があったわけではない。実はな、かつて同じような話をミランにも持ちかけたことがあるのだ。その時の反応が今のそなたと全く同じ反応だったのでな。自然と似た者同士が集まるものなのかと感じたからだ」

 「なるほど。そのようなことがあったのですね」

 ルシャーナの返答にサーリャは納得した表情になる。確かにミランがそれほど自分の立場にこだわっているようには見えないのでミランらしいと言える。その辺りの価値観は確かに近いものがあるのかもしれない。

 話すべきことも終わりと判断したのかルシャーナは軽く咳払いをして緩んでいた場の空気を締めなおす。それに伴ってサーリャも自然と気持ちを引き締めた。

 「おぬしの意思は確かに聞き届けた。領地の件はいったん保留としておき、今後自らの進む道を変えることになった場合は遠慮なく申すがよい。それまでは王国の民を守る剣としてわしに力を貸してほしい」

 「はっ‼」

 さらなる期待に応えるべく、サーリャは覚悟をもって2人に頭を垂れるのだった。


 用件が済み、立ち上がったサーリャは退室するために歩き出そうとしたところでルシャーナに呼び止められた。

 「おお、1つ聞いておくことがあったのを忘れておった。すまんがあともう1つだけわしの質問に答えてもらっても構わんだろうか?」

 「はい。それはもちろん構いませんが?」

 ルシャーナは何を知りたいのだろうか。特に気にすることなかったサーリャであったが、そのあとに続けられたルシャーナの質問にサーリャは表情を凍り付かせた。

 「おぬしが使えるという無詠唱魔法。それを教えたのは誰だ?」



 全く予期していなかった内容。それでいながら決して無視することのできない内容にサーリャは一瞬頭の中が真っ白になった。

 「……陛下。なぜそのような質問をされるのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 サーリャは動揺で早くなっていく自身の鼓動を感じながら絞り出すように言う。質問に対して質問で返すという無礼は今のサーリャにはどうでもいいこと。そんなことを気にする余裕は無い。

 「今回この場を設けるにあたり、事前にあなたのことは調べさせていただきました。騎士学校に在籍している間、あなたは魔法の実力が実践では使い物にならないくらいに低かったそうですね。剣の腕で辛うじて現状を維持していたようですが、いよいよ退学目前というところで特別課題を出されて王都から離れた。そして期間終了間近というところで戻ってきたあなたはルクドの大森林に生息するハイロウウルフを討伐するだけでなく、特殊個体までをも単独討伐。それに加えて無詠唱魔法を習得していた。たった一か月でこれまでの評価を完全にひっくり返すほどの結果を残すなど明らかに異常とも言えます」

 サーリャの経歴を次々と明かすクレスを前に、サーリャは握っている拳の中でじんわりと汗が出ているのを感じていた。

 自分のこととはいえ、確かに事情を知らぬ者からすればサーリャの急成長は異常だと言える。

 「おぬしは現地の者に無詠唱魔法を教えてもらったそうではないか。その者にわしは興味があるのだ。どのような人物か教えてもらえるだろうか」

 まずい展開だ。無詠唱魔法が使えるようになったサーリャにその質問が向けられることは想定していたから詳細を伏せ、曖昧な表現を使ってこれまで対処してきた。まさか王であるルシャーナからこの質問をさせるとは思わなかった。

 (どうしよう……陛下を前に噓をつくわけにはいかない。でも話したらルインと会えなくなっちゃう)

 ミランと一応は和解したルインだが、何もかもが解決したわけではない。個人的なわだかまりは無くなったとしても、自身の命を奪おうとした王国に対する負の感情は必ず持っているはずだ。

 すでに大侵攻の際に姿を見せているので知られるのは時間の問題ではあったのだが、それでも王国のトップに自身の生存を知られることをルインは良しとはしないはず。たとえ王相手で逆らえなかったとしても話してしまえば今度こそサーリャはルインから関係を断ち切られてしまう。

 ならばサーリャが選ぶ選択肢は決まっている。

 「申し訳ありません陛下。その問いに対して私は答えることができません」

 「ほう。理由はもちろんあるだろうな?」

「はい。その者はできるだけ静かに暮らしたいと考えております。私が魔法の手ほどきを受けることができたのは本当に偶然で、何かが違えば会うことすらなかったでしょう。私は魔法を教えてもらう条件の1つに素性を口外しないという約束をしております。話すことでその平穏が壊れてしまうのであれば、私は受けた恩を仇で返すことになってしまいます。それだけは避けたいと考えたうえでの判断となります」

 「わしは周囲に言いふらすつもりはないぞ?」

 「噂に戸は立てられぬものでありましょう。陛下を信頼しておりますが、話さないことで守られるものもあります。どうかご理解ください」

 サーリャは願うようにその場でルシャーナに頭を下げた。不敬だと理解しているが、少しでも広まる可能性があるのならばできる限りそれは避けたい。

 サーリャの反応に何を思うのかしばらくの間沈黙が謁見の間を包み込む。やがて頭を下げるサーリャにルシャーナの言葉が届いた。

 「おぬしがそう言うのならばわしはこれ以上追及はしないでおこう。2人の関係を壊してまでこちらも知りたいとは思っておらぬ」

 「ありがとうございます」

 「その代わりに1つだけ聞かせてほしい。その者がもしも我が王国と敵対した場合、どれほどの被害が出るとおぬしは見る」

 ルインが王国と敵対。それはサーリャが想像する中では最悪の結末であり、おおいにあり得る話。サーリャやミラン、もしくは王国の誰かが対応を一つでも間違えればすぐにでも現実として引き起こされるであろう結果にサーリャは思考を巡らせる。

 身近で見てきたルインの力。サーリャでは到底追いつけないだろう魔法技術と莫大な魔力。追われていた際は傷つけることに躊躇して守りに徹していたが、敵意をもってその力を振るえばどうなるのか。悩みそうな内容のはずなのに、自然とサーリャはその結末を口にする。

 「我々は全員皆殺しです。王国は確実に滅ぶでしょう」



 翌日、護衛任務のためにミルス領主の館に到着したサーリャは馬車から降りると固まった体をほぐすように大きく伸びをした。同じ馬車に乗っていたミランもサーリャと同じように伸びをしている。

 王都リンガルから馬車に揺られることほぼ1日。朝早くリンガルを発ったが日はすでに傾いており空が赤く染まっている。休憩があったとはいえ1日馬車の中にいればさすがのサーリャも堪える。

 「ようこそいらっしゃいました。私がこのミルス領の領主をしておりますナイアン・ミルスと申します。ミルス領の者達はお2人の到着を心より歓迎します」

 屋敷の前に整列していた人の中から1人の男性が進み出てきた。眼鏡をかけこちらに向かって穏やかな表情を見せる彼が領主のナイアンなのだろう。サーリャから見ればナイアンは領主というよりも研究者という印象が強く感じられ、年齢も30代後半と領主にしては若い方だ。

 「初めまして。今回ナイアン様の護衛を務めさせていただくミランです。こちらは部下のサーリャ」

 「お初にお目にかかります。サーリャ・ブロリアスです」

 ミランからの紹介に続くようにサーリャは軽く頭を下げる。

 「存じております。まさか私の護衛に王国の英雄とその部下の方が来てくださるとは思いませんでした。さぁ、長旅でお疲れでしょう。部屋を用意しておりますのでそちらでおくつろぎください。夕食の準備が整いましたらお呼びいたします」

 英雄。その言葉にミランの表情がピクリと動いたのをサーリャは視界の隅で捉えたが、ミランがそれ以上の反応を示さなかったのでサーリャも特に何も言うことなく黙って2人の後をついて行く。

 割り当てられた部屋でくつろいでいたサーリャだったが、しばらくすると使用人の1人がやって来て食堂へと案内されるとナイアンとミランの3人で夕食をすることになった。

 「どうです?お二人があまり目にされないようなメニューを選んでみたのですが、お気に召しましたか?」

 「大変美味しいです。王都から離れて各地を巡っていた時もありましたが、このような料理は初めてですね」

 「そうですね。私も初めて見ました。これもミルス領で作られているものなのですか?」

 サーリャは興味深そうに目の前にある料理を見た。深めの皿には海の幸である魚介類と一緒に白い粒のようなものが混ぜ込まれており、食べてみれば適度な柔らかさがある。

 初めて見るという2人の反応にナイアンは嬉しそうだ。

 「おお!それは良かった。仰る通りお二人が口にされているものはミルス領で試験的に育てている作物で、スーイラと言います。収穫量が多く新たな主食として期待しているものとなります」

 ナイアンによればスーイラは収穫されたばかりの状態では固すぎて食べられる状態ではなく、適切な分量の水と一緒に炊き上げれば今のような柔らかさになるらしい。

 「美味しいものを食べるということは素晴らしいことであり幸せなことです。その素晴らしさを少しでも多くの人に知ってもらうためにも、私たちは日々作物を育てながらレシピ開発にも力を入れております。幸いにも私の領では研究気質の者が多くおりますので、毎日進んで試行錯誤を重ねております」

 食に対するこだわりを熱く語るナイアンの話を聞きながらサーリャも引き付けられるように身を乗り出す。

 「私もナイアン様の意見に同意します。そのうえで相談なのですが、今回の件が終わればスーイラを少し分けてもらうことはできないでしょうか?私の知り合いに食事はただの作業だと言って毎日同じものしか食べない人がいるのですよ」

 「サーリャ……あなたね」

 今日到着したばかりでまだ護衛の仕事も始まったわけでもないのに帰る時のことを口にし、サーリャの言う知り合いが誰を指しているのか理解したミランが呆れるようにこちらを見てくるが気にしない。

 ナイアンも特に気分を害した様子もなく、逆にサーリャの発言に食いついてきた。

 「それはもったいない!そのような理由でしたら是非とも協力させてください。必要でしたらスーイラと一緒にレシピもお教えします」

 「ありがとうございます」

 意気投合したサーリャとナイアンはしばらく楽しそうに笑うのだった。



 食堂からナイアンの執務室へと場所を移動するとソファーに座りながら本来の仕事である護衛任務の情報共有をすることになった。

 「すでに詳細はお伝えしていますが、初めは嫌がらせのような手紙が何通か届くだけでした。手紙が届くだけでそれ以外では特に実害は無かったのでこちらも特に大事にするようなことはせず対策も取らなかったのですが、ここ最近はどこからかごろつきを雇って襲撃するようになりそうも言っていられなくなりました」

 「報告を見る限りでは誰も雇い主の情報を知っているわけではなさそうですね。高い報酬を餌に人を集め、その代わりに依頼主の詮索はしない取り決めでもしているのでしょう。知らないのであれば尋問しても情報が漏れることは無いので有効な手段ですね」

 ミランが話を進めていく中、サーリャは手元の脅迫文の1つを手に取り内容に目を落とした。

 他にも何枚か脅迫文はあるが多少内容に差はあれど書かれているのは研究の中止を求めるもので、従わない場合は危害を加えるというものだ。

 「あの~。話の途中ですが1つ質問してもいいですか?」

 「どうしましたか?」

 ゆっくりと手を挙げるサーリャにナイアンが反応する。

 「今までの経緯をお聞きしてナイアン様に悪意が向けられていることは理解しました。勿論この件は解決しなければならないのですが、私にはどうして相手がここまで研究を止めようと必死なのかわからないんです。相手の狙っている研究というのはスーイラの事ですか?」

 そう。サーリャは説明を聞きながら腑に落ちないでいた。確かにスーイラは新たな王国民の主食としてなりえる食べ物の一つになるのかもしれない。しかし実際のところそれは普段口にする食べ物が変わるだけの話であり、栽培方法と育てるうえでの土地の条件がそろえばミルス領でなくても作ることは可能だ。

 わざわざ犯罪を犯してまでその研究を止めるようなものとはサーリャはどうしても思えない。狙いは本当にスーイラなのだろうか。それとも他に狙いがあるのか。

 「ご想像通り相手の狙いはおそらくスーイラではありません。この場で説明することも可能なのですが、実際に見てもらった方が理解しやすいかと思いますので明日、現地でご説明します」

 ナイアンはそう言って笑みを浮かべるのだった。



 翌朝、ナイアンに連れられサーリャ達は屋敷から徒歩で移動していた。詳しい説明がされていないので2人はただナイアンの後をついて行くしかない。

 屋敷から離れるにつれて周囲から領民の家や商業施設などが見えなくなり、代わりに広大な農耕地が広がり始める。

 のどかな道を歩き続ければ朝から農作業をしていただろう領民が木陰で休憩している姿を何度も見かける。

 そんな領民を何度か通り過ぎたころで前方にとある建物が見え始めてきた。

 「これは……なんとも重要そうな建物ですね」

 目の前の建物を見上げながらサーリャはどう反応していいのかわからず、ありきたりではあるが思ったことを辛うじて口にする。今は警備が厳しくなっている状況なので気にはしていなかったが、ナイアンの屋敷の外には門番だけでなく警備の兵が巡回している。

 しかし今サーリャが目の前に見ている建物はそんなナイアンの屋敷とは比べ物にはならない。

 建物自体は一般的な工場よりも少し小さめという印象で特に変わった点は見受けられない。しかし誰も入れないという意思が分かるほどの高さがある金属製の塀が建物をぐるっと囲んでおり、その内側には常にミルス領の兵が巡回している。

 のどかな農村地帯の端に領主の屋敷以上に厳重な警備の建物は明らかに目立っている。

 (明らかに何かありますってアピールしているようなものじゃない)

 ミランもサーリャと同じ感想を抱いたようだ。

 「ナイアン様。重要な研究なのだと思いますが、明らかにやりすぎではありませんか?これでは自らこの施設の重要性を周囲に宣伝しているようなもので危険だと思いますが」

 「確かにミラン様の言う通りです。本来なら秘匿すべきところでこのような対応は間違いなのだとは私も重々承知しているのですが、どのようなことがあっても内部に誰も侵入されるわけにはいかないのです。その分警備に関してはかなり厳重にしてありますよ」

 門をくぐり建物の中に入るや否やなぜかナイアンは地下へと続く階段を下りていく。

 (農作物を地下で育てているの?それとも何か研究設備が地下にある?)

 地下へと続く階段をおり、廊下を抜けた先の扉をナイアンが開けると隙間から眩しい光が漏れ出してくる。あまりの眩しさにサーリャとミランは思わず目を細める。

 目が慣れ始め光の先が見えるようになると二人の目の前に意外な光景が広がっていた。

 「……畑?」

 「ナイアン様、ここはいったい……」

 広さで言えばダンスホールくらいだろうか。天井のいたる所に照明が取り付けられており、外よりも数段明るくなっている。そんな空間の中で作物が育てられている。

 しかしサーリャが知る畑とは違い苗が土の中に植えられておらず、そもそも土が無い。土の代わりに苗は流れる水の中に浸かっており、水の中で根がゆらゆらと揺れている。

 「こちらが我が領で進めている研究で、天候や害虫などの外的影響を一切受けない完全な地下での栽培を可能とした施設となっております」

 「地下栽培、ですか」

 聞きなれない単語に戸惑うミランにミルスは大きく頷く。

 「そうです。親の世代から携わっている大ベテランの生産者でも、今年から生産者としてこの道に入った者も作物を育てるうえで不確定要素となるのが外的要因です。どれだけ対策・予防をしていても自然を相手にしているのですから毎年同じものが作れるわけではありません。これはその影響による生産量のムラをできる限り抑える効果があります」

 自然とは人の意思でコントロールできるものではない。同じ時期であっても雨が多い年もあれば暑すぎる年などいろいろと環境は変化し、まったく同じ条件がそろうことは無い。

 当然不作の年も発生してしまい、収穫量が減ってしまった場合は物価が上がってしまい生活に大きな影響を受けてしまう。

 ナイアンによれば地下栽培ではしっかりと管理さえしていれば収穫量は毎年一定量を確保することができ、有事に備えて備蓄することも可能とのことらしい。

 ナイアンの説明によれば栽培方法は大きく分けて2種類に分かれる。

 1つは従来の栽培方法をそのまま地下で実践する方法。外から仕入れた土を地下へと持ち込み人工的に畑を作り出したうえで育てるという方法だ。育てる場所が地下に変わるだけなのでそれほど作業に変化はない。

 しかし同じ土を使用し続けるということは土の中に含まれている栄養が失われ続ける一方なので長期的に使用し続けることはできず、一定期間使用した後は肥料を混ぜて1年ほど土を休まさなければならない。これでは休眠期の間は収穫が全く無いということになってしまう。

 そしてもう1つというのが外的要因に左右されず、休眠期を設けなくても毎年一定量の収穫を見込めるようにしたのがミルス領で進めてきた研究となる。

 こちらは土の代わりに肥料を混ぜた水に苗を浸けておくことで常に栄養を供給し続ける方法となる。潤沢な栄養が常に流れ続けているので、従来の栽培で発生していた隣り合った苗との間で栄養を奪い合うようなことも起らない。

 「こちらの成果はすでに確認済みで、様々な作物を試験的に育ててみましたがどれも問題なく収穫はできました。今は広い空間の中で数種類の作物を一括して育てていますが、特殊な環境下でしか育たない種類に関しては別室で経過を観察しています」

 熱帯地方でしか育たない作物はわざわざ専用の部屋を設け室内温度を魔法で調整してやれば問題ないらしい。この点は地下で育てることは大きなメリットになるだろう。

 「すごいじゃないですか!これなら食べ物に困る人が減りますね」

 ミルスの説明を聞いたサーリャは画期的な研究内容に嬉しそうな声を上げる。

 安定して作物が育てることができるなら備蓄するだけでなく飢えてしまう人々に余剰分を回すことができる。厳しい環境下で生活する人々にとってはまさに待ち望んだ研究とも言えるだろう。

 一方でミランは何やら複雑な表情だ。

 「素晴らしい研究だと思いますが、この研究によって農家の方達といらぬ軋轢は生まれないでしょうか?不確定要素の心配をすることなく農業ができるのであるならば誰もがそちらを選ぶことになるかと思いますが……」

 これまでのように環境の変化に合わせて自分達が必死に対策してきたことをせずとも同じものが作れる。これまで必死に努力してきた農家からすれば苦労せずに同じものが作れるという事実は納得できるものではない。

 「ご安心ください。たとえこの研究が王国に認証され広く普及したとしてもミラン様の仰るような事態にはならないと考えております……持ってきてくれないか」

 近くに控えていた部下の1人がトレーを持ってサーリャ達の元へやって来て、その中身を見せた。トレーの中には数種類の野菜が2つずつ入っているだけ。

 「1つは農家の方が従来の方法で栽培した芋、もう1つが私達が新しい技術で育てた芋となります。この2つの違いを見てどう思われますか?」

 「これって……」

 「なるほど。画期的な技術であっても欠点は存在するということですか」

 トレーの中に入っている野菜はどれも新鮮で見事のものだ。しかしどの野菜も2つあるうちの1つがもう片方に比べてサイズが小さく、芋類だけでなく葉物系の野菜も同様にサイズの違いがあるので品種による変化ではないのだろう。

 「見てわかるかと思うのですが、地下で育てたものに関してはどのような品種であっても従来よりも大きく育つことはありません。味に関しても違いは出ており、不味いわけではありませんが外で収穫したものに比べると落ちてしまいます。肥料の濃度や太陽の代わりとして光魔法による明るさの調整など何度か調整を繰り返しましたが、従来とまったく同じようなものは作ることはできませんでした。この違いが両方の差別化として役に立つのではないかと思っています」

 ただ単に食べるためや生きていく上では地下で栽培された作物でも十分だが、食事を提供する店や美味しさを求めるような場合には従来のものが圧倒的に優位になる。目的によって食材を選ぶのであるならば確かに差別化はできる。

 「あとはコスト面と収穫量の問題ですね。いくら地下で育てられると言ってもそれらを稼働させるだけの土地は必要となりますし、大規模な生産設備を用意するとなると費用が莫大なものになってしまいます。現状では長い期間をかけながら少しずつ規模を大きくしていくしかないかと思います」

 どうやら思っていた以上に問題は多いようだとサーリャはナイアンの説明を聞きながら感じた。安定して作物が収穫できることばかりに注目していたが、それを実現するには様々な問題をクリアしなければならないことを忘れていた。

 「さぁ!まだまだお見せしたい場所はたくさんありますからご案内します。どうぞこちらへ」

 「え?これだけでも十分すぎると思いますが……」

 「何を言いますか⁉こちらも重要ですが、全体からすればほんの一部です。この場所だけでなく他にも研究員達の努力の結晶とも言える設備が多くありますから、是非ともお二人にはそれらを知ってもらいたいのです」

 目を輝かせ案内を続けようとする今のナイアンは領主というよりも研究者の1人のように見える。そんなナイアンに対し断りにくくなったサーリャとミランは乾いた笑みを浮かべながら互いに顔を見合せた。どうしようか……



 ナイアンからの説明をすべて聞き終え施設を後にしたサーリャ達は屋敷への道をのんびりと歩いていた。思っていたよりも時間が経過していたようで、すでに太陽は真上を通り過ぎて今は傾き始めている。

 そんな道中。ナイアンは愉快そうに笑っていた。

 「いやぁ申し訳ありません。つい夢中になって長いこと話し込んでしまいましたね」

 「いえ、お気になさらず。それだけナイアン様だけでなく皆さんがこの研究にどれだけ情熱を注いでいるのかが分かりましたから」

 ミランの言葉に同意するようにサーリャは静かに頷く。各所で説明するナイアンは実に生き生きとしていて、実に楽しそうだった。

 それでも最初の説明から3時間近くもぶっ通しで説明し続けるとはさすがに予想外だったが。

 「あの施設で行われている研究が今回の騒動で狙われているということですね?」

 「ええ。研究施設ではなく私を狙っているのはそもそもの発案者が私なので大元を排除してから施設を狙うつもりなのでしょう。」

 先程までの楽しそうな表情は引っ込み、領主としてのナイアンは真剣な表情で頷く。

 「研究内容が失われればこれまでの私達の努力がすべて水の泡となります。そんなことになってしまえばこれまで私に協力してくれた研究員の皆さんに申し訳が立ちません。なにより——」

 おもむろにナイアンが前方に視線を動かしたのでサーリャ達も追いかけるように視線の先を見た。山菜を採りに行っていたのだろう。籠を背負った青い髪の幼い少女が少し先の道をゆっくりと横切っていく途中だった。

 「将来を担う子供達が飢えで苦しむような姿を私は見たくありません。だからこそこの研究は必ず完成させなければなりません」

 これまでの優しげな表情ではなく、覚悟を決め真剣な表情で話すナイアンはどこか自分と似ているようだとサーリャは感じるのであった。



 ミルス領に赴いたサーリャとミランは基本的に護衛対象であるナイアンの傍から離れることは無い。ナイアンが移動すればサーリャ達も同じように移動することになり、万が一持ち場から離れる事態になったとしても必ずどちらか一人はナイアンの傍にいなければならない。

 領主であるナイアンは積極的に動き回る人物で、執務室の中でじっと事務作業をする時間よりも外で活動している時間の方が長い。動き回るということはその分刺客に狙われる危険性が高くなるということなのでサーリャもミランも常に周囲を警戒する必要がある。

 しかし数日経過してもナイアンを狙う刺客は来ることは無く穏やかな日々が続いている。そんな中、サーリャは屋敷内のとある場所にいた。

 「サーリャさんは包丁の扱いだけでなく手際が良いですね。日頃から料理を作られているのですか?」

 「そうですね。毎日とは言えませんがそれなりには作っていますよ。……味付けはこれぐらいでいいのでしょうか?」

 「ええ。ちょうどいいくらいですよ。スーイラの料理は味の濃いものもあれば薄めのものもありますが、この料理は薄めの方が美味しくいただけます」

 屋敷で働く料理人の1人である女性が完成したばかりの料理を味見し、その感想を聞いたサーリャはほっと胸を撫で下ろした。

 場所は屋敷の厨房。この日サーリャはミルス領で作られているスーイラを使った料理を教わっていた。厨房には男女問わず何人もの料理人がいるが、食事の仕込みをしている者は僅かで残りはサーリャの料理勉強を手助けしてくれている。心なしか女性の方が多い。

 「サーリャさんはあまり濃い味付けはお好きではないようですが、何か理由があるのですか?」

 「たいした理由はありませんよ。作ってあげている人があまり濃い味付けは好きでないみたいなので、自然とその味付けに慣れているだけですよ」

 「ということは相手はご家族か女性の方ですか?」

 「いえ、男性ですね。ちょっとした縁で私に戦い方を教えてくれている人です」

 自然とサーリャの脳裏にルインの顔が思い浮かんだ。意外なことにルインは濃い味付けの料理を好まない。

 サーリャと出会うまでパスタばかり食べていたこともありルイン自身の料理の腕は壊滅的で、調味料の類は最低限のものしか常備していなかった。特にドレッシングの類は一切持っておらず、サラダはそのまま食べる姿を初めて見た時は驚いたものだ。

 1度本人に理由を聞いたことがあるが、あまり深い理由などは無いようで純粋に味を大きく変えたくないようだ。だからこそサーリャもルインの好みに合わせて味付けをしているのだが、そんなサーリャの料理をルインはいつも美味しそうに食べている。そんなルインの表情を思い出すと自然とサーリャの口元がほころぶ。

 特に面白みもないそれだけの話だったのだが、周りにいる女性達はなぜかサーリャを見るや色めき立ち始めた。

 「ど、どうしたのですか?」

 「サーリャさんが羨ましいわぁ。そんな風に信頼されているなんて」

 「そうそう。私の旦那なんて食べ始める前から味を変えてしまうからね。失礼しちゃうわ」

 「私もそんな素敵な人に手料理を振舞いたいわぁ」

 「あの、彼とは皆さんが考えているような関係ではありませんよ」

 なんだか変な受け取られ方をしているような気配を感じたサーリャは誤解を解くために料理を振舞ういきさつを話した。もちろんルインに関することはできる限り伏せてある。

 しかし、説明を重ねれば重ねるたびに女性達の興奮が高まっていくのは何故だろう。

 「そのお方はとてもサーリャさんの料理を楽しみにしているのですね」

 「さっきも言いましたが、私が料理を作っているのは交換条件のようなものですよ」

 「そんなことはありませんよ。そのお方はサーリャさんを信頼しているからこそあなたの手料理を食べているのです」

 かけられた声に反応して厨房の入口を見るとナイアンが篭いっぱいに盛られた山菜を持って入ってくるところであった。ナイアンはなぜか上着を脱いでおり、シャツ姿だ。

 「ナイアン様。どうしてこちらに」

 「暇な時は私もここで新しいレシピを考えるのですよ。今のところ広めることのできるようなレシピは作れていないですがね」

微笑みを浮かべながら籠を置いて腕まくりをするナイアンの姿に周りの者は誰も驚いた表情をせずに自然と皆の中に交じっている。ちらりと視線を動かせば厨房の外にミランが立っていたがサーリャと目が合うと諦めたように首を横に振る。

 領主としての仕事はどうしたのかと言いたくなるが、それよりもサーリャは先程のナイアンの言葉が気になった。

 「ナイアン様。ル……知り合いが私のことを信頼しているとはどういうことですか?」

 「言葉の通りですよ。何がその方の心に響いたのか私にはわかりませんが、会ったばかりの人物が礼のつもりで料理を作ってくれたとしても私だったら警戒して口にすることはできません。もちろん領主としての立場だからということもありますが、たとえ肩書きが無かったとしても同じような行動になると思います」

 ナイアンは手を止めずにサーリャに言葉をかけ続ける。

 「食事というのは心穏やかになれる大切な時間です。そんな大切な時間に他人が踏み込んでくるのはそう簡単に許容できないものです。それに味を大きく変えないというのは本人の食べ方と言うのもありますが、それ以上にあなたの料理は味を変えなくても十分美味しいと感じられ、変える必要が無いということだと私は思いますよ」

 そんなものだろうか。これまでいろいろな料理をルインに作って来たサーリャだが、どれもルインは美味しそうに食べていて残すようなことは無い。

それでも——と、サーリャは思う。

 サーリャとしては対価として料理を作っている認識なのだが、ルインはどう思っているのだろう。直接口にされたわけでは無いがナイアンの言葉の通りなら嬉しい。

 「そうだといいですね」

 サーリャはそれだけ口にするのだった。



 穏やかな日々がさらに数日続き、このまま何も起きなければいいなとサーリャが思い始めていたころに変化は起こった。

 執務室でナイアンが山のように積み上げられた紙の束1枚1枚確認し、サインを書いている姿を眺めていると突如執務室の扉が勢いよく開かれた。突然の事態に何事かとサーリャはすぐさま傍に立てかけていた剣を手に取り腰を浮かせる。

 「ナイアン様大変です!」

 「どうしたのですか⁉」

 入ってきたのはミルス領の兵だ。余程急いでいたのか息を切らせている。武装はしているがナイアンがすかさず制止の合図を出したのでミランもサーリャも直前で動きを止める。

 「領内を流れる川の水位が急激に下がっております。今はまだ辛うじて影響が出ておりませんが、このままでは領内が深刻な水不足に陥ってしまします」

 「そんなバカな⁉すぐさま原因を突き止めるので馬車の準備を!」

 兵からの報告に愕然としたナイアンだったが、すぐさまハッとしたように我に返り指示を出すやすぐさま移動の準備をし始める。ただならぬ事態にサーリャ達もすぐさま移動の準備を整えた。

 ほどなくして屋敷の前に馬車が用意され、3人が乗り込むとすぐさま馬車が動き出した。馬車の周囲には馬に乗った3人の兵が付き従う。

 「ナイアン様。これから私達が向かう先は?」

 普段よりも速度を上げガタガタと揺れる馬車の中、深刻な表情で俯くナイアンにミランは状況を確認する。

 「領に流れ込んできている川の上流へ向かいます。今回報告が上がっているのは大きな水源の1つで、その一部は研究所へと回されています。以前にも説明しましたが、地下での栽培に水は欠かすことはできません。その水が供給されなくなると作物に壊滅的な被害が出てしまいます」

 研究所への間接的な攻撃。確実に領内で発生している事件に関係しているはずだ。馬車は農村地帯を通り過ぎ領の外へと繋がる林道に入った。木々に陽光が遮られ僅かに周囲が暗くなる。しばらく進むと何かを見つけたのか御者から声がかかり馬車の速度が落ち始めた。

 馬車から降りた3人だったが、三人ともが目の前の光景に愕然とした。

 「……なんということを」

 隣からナイアンの声が聞こえてくるが、サーリャは彼にどう声をかけていいのかわからず、目の前の光景を見下ろすことしかできなかった。

 領を支える貴重な水源ということで川の周りは整備されており、普段なら穏やかな川のせせらぎが聞こえていたのだろう。

 しかし今はその川の中にいくつもの木々が倒れこみ、それが自然のダムの役割を果たして水の流れがせき止められている。木々の隙間からわずかに水が漏れ出しているがその量は微々たるものだ。

 サーリャは周囲を黙って見渡す。川の中に落ち込んだ倒木以外他に倒れている木々は無い。領へと続く川の中にすべての倒木が水をせき止めるように倒れこむことなどあり得るだろうか。

 「サーリャ」

 「わかっています」

 一言だけのやり取り。それでもサーリャはミランの意図を察し武器を構える。

 「お、お二人ともどうしたのですか」

 「ナイアン様はすぐに護衛の兵とともに屋敷へと戻ってください。……ここは私達が引き受けます」

 ミランが言い終えるのとほぼ同じタイミングであちこちから何人もの人間が姿を現した。数にして十数人だろうか。フードを深くかぶっており素顔を知ることはできず全員が武器を手にして穏やかに話せる雰囲気ではない。

 「さぁ、早く」

 「わかりました。屋敷に戻り次第兵を向かわせますのでご無理はなさらないでください。おい、行くぞ!」

 ナイアンが乗り込むと同時に勢いよくその場から離れようとする馬車に向かって魔法を撃ち込もうとするのを確認したサーリャとミランはすぐさま行動を起こした。

 ミランは身体強化魔法を自身に施すと一気に相手の懐へ入るや躊躇いもなく剣を一閃させた。懐へ入られた相手はミランの動きに反応できず腕を上げようとした態勢のまま地面に倒れ伏し、ミランはすぐさま次の目標へと駆け出し次々と屠っていく。

 サーリャも相手へと駆け出し詠唱が終わる前に剣を振り相手の命を奪う。

 しかしどれだけ戦闘技術が高くても2人で全員を同時に相手できるわけではない。詠唱が終わり相手の攻撃魔法が発動した。巨大な火球が馬車を破壊しようといくつも向かっていく。

 魔法が向かっていくのを見たサーリャはすぐさま左手を馬車へと向けて魔法を展開する。あともう少しで直撃するというところで相手の魔法はサーリャの展開した魔法障壁が防ぎ馬車は傷一つない。

 サーリャの役目は護衛。敵の殲滅はその後だ。防がれたことに憤っているのか次々と魔法が馬車へと飛んでいくが1つとしてサーリャの障壁を突破できず掻き消えていく。

 その間にどんどん馬車は離れていきやがて見えなくなった。この場に残っているのはサーリャ達とフードを被った集団だけ。

 そこからの戦闘は長くは続かなかった。護衛する必要が無くなればサーリャ達は存分に力を発揮することができる。1人は王国の最高戦力。もう1人はそんな存在と肩を並べていた存在から徹底的に鍛えられた無詠唱魔法を扱える存在なのだ。十数人程度では決して抑えきれるものではない。

 「ふぅ。とりあえずこんなものかしらね」

 最後の一人を斬り伏せたサーリャは剣に付いた血を振り落とし、辺りを見渡しながら一息ついた。周囲に立っている敵は一人もおらず、ミランの方も片付いたようで遠くからこちらに向かって歩いてきている。

 ミランの左手には情報を引き出す目的で刺客の一人が生かされたまま引きずられている。フードが外され男の顔があらわになっており、気絶しているのか目は閉じている。

 女性であるミランは決して華奢なわけでは無いが、1人の女性が大の男を片手で易々と引きずる姿はなかなかに見る者の受ける衝撃は大きい。

 「お疲れ様ですミラン様。こちらは片付きました」

 小走りに駆け寄ろうとしたサーリャの視界にいたミランだったが、引きずっていた敵を残してその姿が突如として掻き消えた。

 「えっ?」


 ガキィィン


 目の前で起こったことが理解できず呆けた声を出すサーリャの背後で金属がぶつかり合う音が響き、慌ててサーリャは背後を振り返った。

 振り返った先ではミランが瞬時に取り出した盾を目の前で掲げており、ミランの盾はどこから現れたのか刺客の1人がサーリャ目がけて振り下ろした短刀を受け止めている。

 「まだいたの⁉」

 慌ててその場から距離をとるように飛びのいたサーリャに続くようにミランも盾で相手を押し返して距離をとる。押し返された介入者は空中でくるりと一回転して危なげなく着地する。

 「油断するのは早いわよサーリャ。安全が確認できるまで常に周囲を警戒しなさい。でないと簡単にやられるわよ」

 「すみません。でも、まったく相手の気配に気が付きませんでした」

 「私もよ。さっきはたまたまサーリャの背後に現れてくれたから間に合ったけど、よっぽど注意していないと直前まで気が付かないかもしれないわね」

 自分がかなりギリギリのところで助かったのだと実感し今更になってサーリャは寒気を覚えた。魔法具の効果なのかそれとも別の手段なのかはわからないが、相手の存在感が希薄に感じる。

 サーリャとミランがやり取りをしている間、相手は着地したその場から動かずに立ったままで、こちらも先程までの敵と同様にフードを目深にかぶっており顔を隠している。

 そんな相手にミランは挑発するように言い放つ。

 「1人情けなく遅刻かしら?残念だけどあなたのお友達は1人として無事ではないわよ。おとなしく主人の元へ逃げ帰るか私達に投降するか選びなさい」

 敵のほとんどが絶命し一人は気絶して戦力外。そんな状況の中、1人駆け付けたところで何も変わらない。

 相手も当然理解しているはずなのにミランの言葉に全く動じず立ち尽くしたまま。そしておもむろに袖口から刀身の短い剣を取り出すや否や真っ直ぐこちらに向かって突っ込んできた。その動きにミランは短く舌打ちする。

 「ダメか!サーリャ応戦するわよ。可能なら生きたまま捕らえたいわ」

 「わかりました!」

 サーリャとミランの2人は向かってくる敵に応戦するためにそれぞれ武器を構えて身構える。真っ直ぐサーリャ達の方へ突っ込んできていた敵だったが、突如としてその進路を変えた。

 あまりにも突然の方向転換だったため2人はその動きに反応できず初動が遅れてしまった。慌てて動こうとするがフードの下で詠唱をしていたのか、相手の魔法が発動し、決して小さくない雷撃がサーリャ達の元へと飛んできた。雷撃は2人の足元へと着弾し更に動きを封じられてしまう。

 その間にフードの人物は目的地にたどり着いていた。相手はミランが捕らえていた敵の元へと辿り着くや否や手にした剣を躊躇いなく足元に転がる味方の首に突き立てた。

 「そんな⁉」

 味方の命を躊躇いも無く奪ったその行動にサーリャは自身の目を疑い、ミランも思わず顔を顰めた。

 「あくまでも目的は口封じというわけね。随分とあなたの主人は慎重のようね」

 「……」

 ミランが再び声をかけても相手は全く言葉を発しない。突き立てた剣をゆっくりと引き抜くと次の標的だと言わんばかりにそのままミランへと向かって行く。

 「死ぬほど痛めつけるけど悪く思わないことね」

 「はぁ‼」

 相手の剣をギリギリで躱したミランはがら空きの胴体に自身の剣を横薙ぎに振るい、サーリャも反対側から剣を振るう。

 「———ス」

 フードの下からわずかに声が聞こえた気がした。

 左右からほぼ同時に放たれる斬撃。吸い込まれるようにサーリャの剣が敵に当たると思ったところで突如その剣が弾かれた。

 「えっ?」

 「なっ⁉」

 サーリャだけでない。ミランもサーリャと同じように剣を弾かれており、刀身が相手から離れている。予想外の事態に2人とも目を見開き驚きの声を上げた。

 (そんな⁉どうやって弾いたの?)

 確実に避けられないタイミングだったはず。それを防がれたことでサーリャは混乱する。

 「あれは?」

 混乱する思考を振り払い敵に視線を戻すと先程まで無かったものが敵の周囲にあった。

 大きさとしては相手の上半身が隠れるくらいだろうか。半透明の黄色い板のようなものが4枚、まるで守るかのように相手の周囲に浮いている。これまでサーリャが見たことも無い魔法ということもあるが、それよりも驚愕すべきことがあった。この展開速度は!

 「無詠唱魔法⁉」

 サーリャ自身が扱うことができるようになった無詠唱魔法。今はサーリャにとって身近な魔法となっているが、それはサーリャの事情が特殊なだけである。一般的に知られておらず、無詠唱魔法が使えるということでルインは王国から命を狙われるほどなのだ。それほどの希少な技術をなぜ目の前の刺客は使えるのだ。

 そんなサーリャを置き去りにして敵がミランへと駆け出した。ミランは敵の剣を盾で受け止めながらサーリャに向かって声を張り上げた。

 「サーリャは魔法も使いながら攻撃の密度を上げなさい。どんなに強力な防御魔法でも綻びは必ずあるはずよ」

 ミランからの指示を受けサーリャはようやく我に返り慌てて戦闘に参加した。サーリャは剣を振りながらも僅かな隙を狙うかのように即座に魔法を放つ。しかしどれだけタイミングが完璧であっても周囲を守る盾がそれを阻んでくる。今も2枚の盾が即座に移動し、サーリャの剣と攻撃魔法をそれぞれ完璧に防ぎきる。

 ミランも剣に雷撃を纏わせ上段から全力で振り下ろすがこちらも難なく盾に受け止められる。

 「どうなっているの?どうしてここまで正確に魔法の操作を……」

 「考えるのはあと!今は目の前の敵を倒すことだけ考えなさい」

 しかしどれだけ2人が攻撃を叩きこんでもすべてが盾に阻まれ有効打を決められずにいた。魔法も属性や威力・タイミングをランダムに変えながら放ってはいるが、どのような仕組みなのか1つとして盾を突破できたものはない。同じ魔法ならともかく、込めている魔力量も変えているすべての攻撃に対して見ることすらせず完璧に対応しきるなどありえない。

 「—————————」

 またしても直前で自身の斬撃を受け止められたサーリャの耳に敵の声が入ってくる。声が小さく何を言っているのかまでは聞き取ることはできなかったが、少なくとも会話目的ではないだろう。

 サーリャの剣を受け止めた盾はまるで意思があるかのようにサーリャを剣ごと押し返し術者から大きく距離を取らせた。その隙に敵はミランとの距離を詰める。

 サーリャは追いかけながら剣に纏わせた魔力を変化させ、切っ先をまるで針のように鋭く尖らせる。

 半端な攻撃ではだめだ。障害などものともしないだけの威力が必要だ。

 (力の一点集中して盾ごとぶち抜く!)

 そう考えていたところで前を走る敵がコートの前を開けたように見えた。敵の向こうにいるミランは迎撃の構えを見せていたが、相手がコートを開けた瞬間顔色を変えた。

 「サーリャ!全力で障壁を張りなさい‼」

 ミランの言葉に反応してサーリャが自身の前に障壁を張り終えたのとほぼ同時だった。

 突如目の前が真っ白に染まり、次の瞬間至近距離で大爆発が起きた。あまりの威力に障壁が軋み爆風が周囲へと広がる。

 爆風が収まってくる頃には目もようやく慣れてきてサーリャは目を細めながら先を見て、絶句した。

 周囲はまるで爆撃でもされたかのように吹き飛んでいる。川は無事だが、その周囲に立っていた木が爆発の衝撃で根元から吹き飛んでしまっている。

煙の晴れた先にはミランが立っている。しかし防御が間に合わなかったのか身体のあちこちが焼け焦げて鎧の一部は破壊されてしまっている。

 「ミラン様‼」

 崩れ落ちそうになるミランにすぐさま駆け寄ったサーリャは慌ててその身体を受け止めた。ミランは意識を失ってぐったりとしており容体が心配だ。すぐにでも屋敷へと戻って手当てをしなければならない。

 先程サーリャが聞き取った声はおそらく魔法を発動するために詠唱していたのだろう。自分を起点とした自爆攻撃。そう考えていたサーリャだったが、すぐ近くから土を踏みしめる靴音が聞こえ、音の方向に視線を向けるとその考えが間違いだったと思い知らされた。

 「そんな……あれで無傷なの⁉」

 少し離れた場所で敵はまるで何事も無かったかのように立っていた。服には焦げ目すら一切付いておらず、四枚の盾も健在だ。

 サーリャの右手は剣を握ってはいるが左腕はミランを支えている。この状態ではまともに戦うことはできない。

 「っ。来ないで‼」

 サーリャは向かてくる相手を拒むように障壁を展開させると同時に、サーリャ達の命を刈り取るはずだった白刃が直前で阻まれ金属音を響かせる。

 サーリャはすぐさま障壁を解除すると眼前にいる相手に対して全力で蹴りを放つ。相手の盾に防がれるだろうが、防がれたとしても蹴った勢いで後方へ飛び退くつもりだ。

 そう考えていたサーリャの蹴りは予想に反し盾の間を潜り抜けて相手の腹に吸い込まれた。至近距離からサーリャの蹴りを受けた相手は大きく後ろへと吹き飛ばされる。

 「えっ?」

 これまで1つとして通らなかった攻撃が通った。しかもただの蹴りがだ。何故攻撃が通ったのか理由が分からずサーリャは驚きと困惑が入り混じった表情で足に残った感触を確かめる。相手の操作ミスだろうか?

 蹴り飛ばされた相手は僅かな間痛みで蹲っていたが、すぐさま立ち上がってくる。立ち上がった拍子に被っていたフードがめくれ、隠れていた顔があらわになった。相手はなんとまだ幼さの残る少女で、顔だけでなく澄んだ空のような青い髪が風でなびく。その顔と青い髪にサーリャには見覚えがある。

 「っ、あなたは!」

 サーリャが言い終える前に敵は何かに気づいたのか突如サーリャ達に背を向けてその場から離れて行った。

 何故と思っていたサーリャの耳に遠くからいくつもの馬蹄の音が聞こえてくる。おそらくはナイアンが手配したミルス領の兵だろう。敵が撤退したのはこれに気が付いたからだ。

 かろうじてサーリャは生き残ったのだった。



 「とりあえず施せる治療はさせていただきました。命に関わるような傷はありませんでしたが重傷なのは変わりありません。まったく動けないというわけではありませんが火傷の範囲が広いのでしばらくは安静が必要です」

 「私も1度執務室へ戻ります。サーリャさんはミラン様の傍にいてあげてください。一度防いでいるので今日はもう襲撃は無いと思います。一応こちらでも護衛は付けておきますので」

 「……ありがとうございます」

 屋敷まで戻って来たサーリャ達はすぐさま治療が行われ今はミランの部屋にいた。ミランの治療を終えて退室するナイアンと医師に頭を下げたサーリャは沈痛な面持ちで背後のベッドに振り返った。

 「……」

 ミランは用意された部屋に備え付けられた広いベッドに横になったまま目を閉じている。そんな彼女の頭や腕にはいくつも包帯が巻かれており、見ていて痛々しい。

 鎧を外したサーリャは楽な服装に着替え終えている。ミランとは違い爆発の直前に目の前に魔力障壁を張り爆発の影響をほぼ受けていないので軽症だ。

 (まさか無詠唱使いだなんて……)

 ベッドの傍にある椅子に座ったサーリャはこれまでのことを思い出していた。その表情は暗く、自然と俯いてしまう。

 領主であるナイアンの命を奪う以上相応の実力を持つ敵が送り込まれるとは思っていたが、その相手がまさか無詠唱使いとは完全に想定外だ。

 ミランが動けない今、迫りくる敵の脅威をサーリャ1人では対処しきれない。それどころかあの少女が再び送り込まれたら自身の命すら守れるのかもわからない。

 魔法による攻撃手段はそれほど多くはなさそうだが防御面に関しては同じ無詠唱使いだと確実に相手の方が上。あの魔法の前ではどんなに強力な魔法も意味をなさなくなる。

 (でもあの時の攻撃は詠唱をしていたわよね?彼女がその気なら無詠唱で自爆攻撃ができたはずなのにどうしてそうしなかったのかしら?)

 そんな中、目の前のベッドで動きがあった。

 「うっ……」

 「ミラン様、気が付きましたか!気分はどうですか?」

 サーリャがベッドに近づくとミランは身じろぎしたあとゆっくりと目を開ける。

 「ここは?」

 「ナイアン様の屋敷です。あれからナイアン様が手配してくださった兵が駆けつけてくれたんです。そのおかげでナイアン様も私も無事に屋敷まで戻ることができました」

 「そうなのね。2人とも無事でよかったわ。部下の目の前でこんな姿を晒すなんて情けないわね」

 「そんなことはありません。ミラン様がいなければ私達はこうして生き残ることなんてできませんでしたし、あんな簡単に自爆攻撃してくるなんて想像できませんよ」

 無詠唱で自爆攻撃をしてくる相手から即座に身を守るなどそう簡単にできることではない。もしもあの場に他にも仲間がいたのならば、詠唱が必要な王国騎士はそのほとんどが対処できずに命を落としてしまうだろう。

 無詠唱魔法が使えるサーリャだからこそあの攻撃は防げたようなものだ。

 それからサーリャはミランが気を失っていた間のことを報告した。敵の無詠唱使いは撤退し再度襲撃してくる可能性が高いということ。そしてミランは怪我の影響でしばらく安静が必要なのだということなど。

 「情けない話ですが今の私では1人でナイアン様の護衛を務めるには力不足です。王城へ連絡してリンガルから兵を派遣してもらい守りを固めた方がいいと思います」

 自身のあまりの不甲斐なさに思わず拳を握るサーリャだが、今は現状をどうにかするのが最優先だ。

 「それはあまり賛成できないわね。相手の実力が分からない以上、どれだけ守りを固めていたとしても今回みたいに自爆攻撃されてしまえば一網打尽されてしまうわ」

 「だったらどうするのですか」

 「……そうね」

 ミランは天井を眺めながら思案顔になる。

 「サーリャ。悪いのだけど私の剣を持ってきてもらえないかしら?」

 しばらく考え込んでいたミランだったが、唐突に剣を求めたミランの意図にサーリャは首を傾げるが大人しく言われた通りに立てかけられていた剣をミランへと差し出した。

 布団の中からゆっくりと手を出したミランは剣の柄にはめ込まれた宝玉に触れた。ミランの魔力に反応して宝玉が淡く光を放ち始める。

 「ミラン様これは?」

「この宝玉は通信用の魔道具なの。対となる宝玉を持った相手としか話すことはできないけど、その代わりに傍受されることは無いわ。……使えるかどうかは相手次第なのだけど」

 「相手次第?」

 なぜかミランの反応は歯切れが悪くそれ以上話そうとはしない。理由を話すことなくミランは黙って宝玉に触れたまま相手を呼び出し続ける。しかしいつまで経っても繋がる気配はなく宝玉はゆっくりと点滅を繰り返している。

 そろそろ諦めた方がいいのではとサーリャが口を開こうとしたところでようやく相手が呼び出しに反応したのか宝玉から放たれる光が点滅から点灯へと変わる。

 しかし通信が繋がっても相手は何も話さず黙ったままだ。そんな相手にミランはゆっくりと話しかけた。

 「突然ごめんなさい。少し話を聞いてもらえるかしら?」



 翌日、夕焼けが部屋の中を赤く照らし出す中サーリャは再びミランの部屋を訪れていた。昨日の今日ということもありミランは相変わらず起き上がることができないためベッドの上で横になったままだが、昨日とは違い2人の人物が部屋の中に集まっていた。

 1人は領主であり屋敷の主でもあるナイアン。そしてもう1人は——。

 「あらためて突然の連絡に応えてくれてありがとう。そして私達の都合に付き合わせる形になってしまってごめんなさい」

 ミランは頭を動かしながらもう1人の来客に申し訳なさそうに謝罪した。

 「まったくだ。いつまでも呼び出し続けるから仕方なく出てみれば俺を都合のいい傭兵として使うのだからな」

 ミランの視線の先では呼び出されたことに対して不満を隠そうともせず、いかにも面倒だと言わんばかりの表情で腕を組むルインがいた。

 昨日ミランが魔道具で連絡を取った相手はなんとルインだった。ミランと個人的な繋がりのある相手だとは思っていたが、まさか通信の相手がルインとはサーリャは思っていなかった。僅かな警戒心と不満を混ぜ合わせたルインの声が聞こえてきた時には驚いたものだ。

 あの魔道具はまだルインが騎士だったころ、たった2人しかいないチームの連絡手段として2人でこっそりと作った物らしい。緊急用なのでその存在は周囲の騎士にも明かさなかったので今もこの宝玉は飾りだと思われている。

かつて間違った判断のもとルインを裏切ってしまい、その行方を捜して各地を巡っていた際ミランは宝玉を使ってルインに連絡はとらなかったらしい。

 そもそも敵である相手からの連絡にルインがわざわざ反応する必要はどこにも無いし、なによりも通信に出ないことがミランの中にある不安をより大きくさせてしまうことが怖かったと本人は言っていた。

 今は謝罪をしてある程度関係は修復されてはいるがそれでもわだかまりが完全に無くなったわけではないし、対となる魔道具をルインが破壊・破棄していれば繋がることは無いので今回の呼び出しは一種の賭けだったらしい。

 「えっと……お知り合いだということは聞いておりますが、できれば紹介していただきたいのですが……」

 話についていけず戸惑ったナイアンの様子からどうやらルインの正体は知らないらしい。王国を救ったほどの存在なら知られていそうなものだが、サーリャが思っているほどルインの存在は知れ渡っているわけではないらしい。もしくはナイアンが領主よりも研究者としての一面が強いために知らないだけなのかもしれない。

 「ナイアン様、こちらはルイン。王国騎士ではなく一般人ですが信頼できる人物で、実力はミラン様と並ぶほどです。私が以前食事の席で話した例の彼です。ルイン。こちらはミルス領の領主であるナイアン様よ」

 ミランの代わりにルインをナイアンに紹介したサーリャだったが、続くナイアンの言葉にサーリャは顔を青くしてしまった。

 「ああ!料理が壊滅的でまともな食事を作ってあげなければならないほどに生活力が無いと言っていた彼ですか」

 ナイアンの言葉にルインは僅かに眉を顰めると、説明しろと言わんばかりにサーリャを見る。

 「……サーリャ・ブロリアス、どういうことだ?」

 「えーっと……話を盛り上げる言葉のあやといいますか、あながち嘘は言っていないといいますか……」

 まさかここであの時の話がばらされるとは思っていなかったのでサーリャはなんと言い訳したものか胸の前で手を合わせながら目を泳がせる。口は災いの元とはまさにこの事だろう。ミランは自業自得だと言わんばかりに天井を見つめて助ける気配はない。

 「ほ、ほら。今はそんなことより今後のことを考えましょうよ!来てくれたってことはルインは私達のことを助けてくれるのよね?」

 「……あくまでも手伝うだけだ。言っておくが昨日話した条件は守ってもらうからな」

 「わかっているわよ。私からは特に異論は無いわ。ナイアン様もミラン様も大丈夫ですよね?」

 反応を求められた2人はお互いにそれぞれ頷くことで異論は無いと示す。

 当然だがミランが事情を説明し、ルインに協力を求めると即座に拒否されている。騎士でないただの一般人であるルインにはわざわざ護衛任務に協力する義理も理由もないからだ。それを理解したうえでミランはルインへ連絡を取り、頼み込んでいる。サーリャも一緒になって必死に頼み込み、しばらく話は平行線となった。

 最終的にルインの方が根負けをした形となり、協力するうえで3つの条件を出した。

 1つは自由行動の許可。あくまでもルインはサーリャ達の〝お願い〟を聞いたうえで協力するということになるので、騎士でないルインには命令に対する行動の縛りは一切ない。

 基本的にルインは護衛に支障が出ない範囲内で自由行動となり、お願いをすることはできても命令することは一切できない。こちらからのお願いを聞き入れるかどうかはすべてルインの判断に委ねられる。

 2つ目は経費の負担。ルインがミルス領に滞在している間に発生するすべての経費を負担するというもの。

 これに関しては特に問題ない。サーリャ達と同じようにルインは屋敷で生活してもらう予定となっており、これに関してはナイアンも了承をもらっている。他に必要な物資があったとしても王国騎士であるサーリャ達には十分な給料が支払われているのでこちらもたいした負担にはならない。

 そして最後の1つが——

 「せっかくミルス領に来てくれたのだからスーイラ料理を食べてもらうからね」

 胸に手を当て自信ありげにサーリャはルインに意気込んだ。

 ルインの食事はサーリャが用意する。それがルインの提示した最後の条件だ。もっと複雑な条件を出してくるのではと思っていたサーリャ達としては若干拍子抜けだが、ルインの過去の一部を知っていれば自然なことなのかもしれない。

 普段からルインの家で料理を振舞っているので苦ではないし、新たなレシピを実践できるいい機会なのでこちらとしては助かる。

 条件の確認が終われば話は自然と昨日の襲撃内容へと切り替わった。怪我人であるミランの代わりにサーリャが当時の状況を説明し、ミランが補足を入れていく。

 「つまり2人はその防御系の魔法を前に手も足も出なかったということか」

 「そうなるわね。こっちの攻撃に合わせて盾が最適な場所に移動するから隙間を狙っても意味が無かったわ。周囲も含めた広範囲に攻撃を仕掛けたとしても全てを防ぐわけじゃなくて自分に影響のあるものだけを見抜いて捌いているようだったわ」

 「盾の強度も相当なものよ。サーリャの攻撃に合わせてこっちも魔法を上乗せして斬り込んでみたけど全部阻まれてしまったわね」

 「それほどの実力者が力の片鱗すら見せずにただの領民として暮らしているのは明らかに不自然だろう。どこかで確実に戦い方の手ほどきを受けているはずだ」

 「その件なのですが……」

 ルインの言葉にナイアンが反応し全員がナイアンへと視線が集まる。屋敷に戻ってからサーリャはすぐさま青い髪の少女についてナイアンに説明した後調査をお願いしていた。

 ナイアンも襲撃が起こる前に青い髪の少女を見ていたのだが、その表情は明るくない。

 「こちらで調査したのですが、私達が見た青い髪の少女は領民ではないとわかりました。あの付近で暮らしている者や研究所内のスタッフにも確認しましたが、そのような少女は見たことは無いとのことです」

 つまりあの日研究所から帰る際に見かけたのはただの偶然ではなかったのだろう。情報収集をしていたのか襲撃のタイミングを狙っていたのかは不明だが、万が一サーリャ達がいなかったらと思うとぞっとする。

 「とりあえず同じ手は使えなくなった点に関しては喜ぶべきだろう。あとはある程度相手の打ってくる手は予測できるからそれに備えておけばいいだけだな。……それにしてもたった一人にこのザマとは随分と情けないな」

 ルインの言葉の後半はミランへと向けられていた。怒っているわけではないがその言葉は辛辣だ。

 「そうね。張り合いのある相手がいなくなったから鈍っているのかもしれないわね。この件が片付いたらもう一度鍛え直さないといけないわ」

 「……」

 ミランはルインの言葉に気分を害した様子もなく笑い返すが弱弱しい。ルインはさらに何かを言おうとしたが、思い留まったのか口を開こうとしてそのまま口をつぐんだ。

 とりあえずナイアンの護衛は引き続きサーリャが務めるということで話はまとまりその場は解散となった。ミラン以外の全員が部屋を出て行く。

 ミランと言葉を交わし最後に部屋を出たサーリャは廊下を少し進んだ先でナイアンとルインが何か話しているのを見つけた。ルインが何かを手渡しているのが見えたが、何を渡しているのかは身体の陰に隠れて見ることはできない。

 「ナイアン様と何を話していたの?」

 「たいしたことじゃない。自由にさせてもらうからには使用人達が不用意に部屋に入ってこないようにしておけと伝えていただけだ」

 「何であなたが偉そうに命令しているのよ」

 用が済み離れていくナイアンの代わりにルインに近寄ったサーリャだったが、ルインの自由さに呆れ、やれやれとため息を吐くのだった。



 その日の夜。皆が寝静まった時間帯にナイアンの屋敷の外で影が動いた。月明かりが降り注ぐ中、闇に紛れるように暗闇から暗闇へと遠回りをしながら徐々に屋敷へと近づいていく。

 塀を乗り越え敷地内に音も無く侵入した人影は黒いマントを羽織り、気配を殺しながらゆっくりと屋敷へ近づく。闇夜の中、青い髪が動きに合わせて左右に揺れ動く。

 屋敷の周囲に警備の兵はいない。やけに静かすぎると侵入者である少女は感じたが周囲に異常は感じられない。仕事を済ますために屋敷へとさらに歩みを進めようとしたところで変化があった。

 「こんな夜更けに来客とは最近の奴らは訪問のマナーすら知らないらしいな」

 決して大きくはないはずなのに、この静けさの中で少女に向けた男の声はよく通った。得物を抜き放った少女は声のした方向に武器を構える。視線の先では柱の陰からゆっくりとルインが姿を現すのだった。


 月明かりの下で両者が対峙する中、ルインは侵入者を観察する。幼さがまだ残っていることから年齢はおそらく13才前後。外見の特徴からして目の前の少女が遭遇した無詠唱を使うとされる刺客だろう。聞いていた話とは違ってフードで顔を隠していないのはすでにサーリャに見られてしまったからだと思われる。

 幼い顔立ちからは信じられないほど殺意のこもった視線がルインへと向けられる。

 「雇われた身としては依頼主の言葉にとりあえず従わないといけないのだが、俺としてはお前がこのまま何もせずに帰ってくれた方が助かる。面倒な報告を長々とする必要もなくなるからな」

 「炎よ。我が命に従いかの者を焼き尽くせ」

 面倒そうに頭をかくルインの視線の先で少女は素早く詠唱を唱えて魔法を発動させた。大きな火球が生まれるとそのまま勢いよく目標であるルイン——ではなく屋敷の一室へと飛んでいく。そのまま窓を突き破って内部を焼き尽くそうとしていた火球はルインが展開した障壁によって阻まれ何も無い場所で弾けた。

 明らかに一室だけを狙ったものではなく周囲の部屋もまとめて吹き飛ばすほどの大きな爆発が巻き起こるが屋敷には一切のダメージは無く焦げ目すらつかない。

 防ぎきったことを確認したルインはすぐさまボルクを数発連続で相手に向かって放つ。勢いよく撃ち出された火球は詠唱するにはもはや遅すぎる距離にまで迫っているが少女はその場から動かない。真っ直ぐ火球を見つめていた少女は呟くように口を開いた。

 「……フォートレス」

 たった一言少女が口にすると瞬時に少女の身体から魔力が溢れ出し形を形成していく。ボルクが目標に到達し凄まじい爆発が巻き起こった。所詮は初級魔法なので出せる威力に限界はあるが、少なくとも直撃すれば大火傷で動けなくなるほどの魔力は込めてある。

 しかし爆炎の先から現れたのはまるで攻撃など無かったかのように無傷で立つ少女だった。障壁を正面に2枚並べ左右には1枚ずつ障壁が浮かんでおり、あらゆる攻撃から少女を守ろうと万全な状態になっている。

 (あれがサーリャやミランが言っていた防御魔法か。瞬時にあれだけの威力を防げるだけの障壁を出せるとはさすがだな。展開速度も悪くない)

 感心するルインに向かって少女が背を低くしながら迫ってくる。懐から取り出した短剣が月明かりの中、鈍い光を放つ。

 ルインも虚空に手を突っ込み、中から剣を取り出し即座に魔力を纏わせる。向かってくる間にもルインは再度魔法を周囲に三つほど展開し撃ち出す。

 2つは少女の両脇を通り過ぎて後方へと流れていき最後の1つは正面だ。少女は速度を緩めることなく真っ直ぐ魔法へと突っ込んでいくが、すぐさま少女に追随する障壁の1枚が正面へと回り攻撃を受け止めた。

 少女は大きく跳び上がり勢いをつけてルイン目掛けて剣を振り下ろしてくる中、剣を構えながら何も持たない左手の中指をわずかに引く。

 先程少女の両脇を通り過ぎた2つの魔法から氷柱が生み出され無防備な背中へと向かって行く。

 斬撃を受け止めるのとほぼ同じタイミングで破砕音が響き渡った。

 「これも防ぐのか」

 こちらも同じように背後へと回った障壁がルインの魔法を防ぎ欠片の1つも後ろへと通さない。

 (剣を振り下ろそうとした時、奴の意識は完全にこちらを向いていた。背後へと注意は向けていなかったはずなのにこちらの攻撃を的確に対処することからあれは術者の意思とは別で動いているのか?)

 相手の剣を押し返すやすぐさま胴体に向かって横薙ぎに剣を振るうがすぐさま間に割り込んできた障壁によってルインの剣が弾かれて正面がガラ空きになってしまう。その隙を見逃さずにルインの胸を貫こうと剣が迫ってきた。

 ルインは体を捻って突きを躱すと突き出された少女の手首を左手で掴んだ。今まで無表情だった少女の顔が驚きの表情に染まる。

 突っ込んできた勢いをそのまま利用する形でルインはそのまま片手で少女を屋敷から遠ざけるように投げ飛ばした。投げ飛ばされたことに動揺していたのか受け身も取れずに遠くでゴロゴロと転がっていく姿を確認するとルインは視線を相手から外して手元を見た。

 「……ふむ」

 ルインは何かを考えながら自分の両手をまじまじと見下ろす。右手には剣が握られ左手には何も握られていない。


 カラクリが見えてきたかもしれない。


 ルインが考えをまとめ終わる頃になってようやく少女が立ち上がった。まだ諦めてはいないようで、ルインを見返す目には鋭さが残っている。

 「やめておけ。お前のその魔法のカラクリは何となくだが仕組みは理解した。これ以上の戦闘はお前にとって不利にしか働かないぞ」

 「それは嘘。こんな短い時間で仕組みを理解するなんて不可能」

 「たいした自信だな。嘘かどうかお前自身が確かめてみるか?」

 「……」

 迷いのないルインの言葉に少女は黙り込む。どうするべきなのか判断に迷っているのだろう。

 「このまま何もせずに帰れ。俺は一応護衛だから追撃などするつもりは無い。お前も勝ち目のない戦いをいつまでも続けるつもりは無いだろう?」

 目を忙しなく動かしながらしばらく迷っている素振りを見せていたが、最後はルインの言う通り諦めたのか背を向けて屋敷から全力で走り去り、暗闇の中へと姿を消した。

 しばらく少女が走り去った方向を見続けていたルインだったが、完全に逃げたのだと判断すると一息つきながら軽く指を鳴らす。同時にこれまで聞こえてこなかった周囲の音——木々の揺れる音やかすかな虫の音が耳に飛び込んでくる。

 こっそりと展開していた遮音魔法を解除したためだ。でなければあれほどの戦闘をしていながら騒ぎになるどころか衛兵の一人すら駆け付けないのはおかしい。

 騒ぎにならなかったとはいえ、その代わりに手入れの行き届いていた広い庭が戦闘の影響で悲惨なことになってはいるが、それはルインの知ったことではない。荒れ果てた庭をそのままにしてルインはのんびりと屋敷の中へ戻り少女が狙っていた部屋を目指す。

 目的の部屋へと到着したルインは音を立てないように静かに扉を開けて中の様子を窺うと、ルインの視界に雷撃が一直線に向かってきた。突然の攻撃も予測していたかのようにルインは慌てることなく魔法を打ち消す。

 「少しは相手の姿を確認してから撃ったらどうだ?相手が俺じゃなかったら良くて重症、最悪は死んでいたぞ」

 「こんな夜中にノックもせず女性の部屋に入ろうとする相手ならこれぐらいは許されるわよ。知らなかったの?身を守るためなら不埒な輩に手加減なんてしなくてもいいんだから」

 「それはそれは。頼もしい限りではあるが随分と物騒な世の中になったんだな」

 皮肉っぽく笑うルインの視線の先にはわずかに身体を起こし、震える腕を持ち上げながら扉に狙いを定めているミランがいた。侵入者がルインだとわかるとミランは安堵したように力を抜きベッドに身体を沈めた。戦闘音は漏れていなかったはずだが、気配で何があったのかは把握しているようだ。

 「賊は?」

 「追い払った。少なくとも今晩はこれ以上襲撃を仕掛けてくることは無いだろう。強力な護衛が雇われていると知ったからにはこの先も同じような手を使ってくるとは思えないな」

 「追い払うだけ?捕らえたりはしていないの?」

 報告内容にミランは疑念を抱くがルインはそれを気にすることなく話を続ける。

 「相手は1人だけだったからな。自身が不利とわかるとさっさと逃げて行った。少なくともどこかの突撃馬鹿とは違って冷静に状況判断ができる奴だったぞ」

 「……それが誰を指しているのか今回は聞かないでおいてあげるわ」

 庭で起こった戦闘に関して嘘を織り交ぜながらルインは軽く報告を済ませるとさっさと部屋を出て行こうとする。扉に手をかけたところであることを思い出したルインは「そういえば」とミランへと振り返った。

 「そういえば1つ聞きたいんだが、領主を逃がした後襲撃者たちは領主を追いかけなかったのか?」

 「ええそうよ。私達が食い止めていたから仕方なく変更せざるを得なかったのでしょう。……それがどうかした?」

 「お前の主観で聞きたいんだが、襲撃者達はお前とサーリャの両方を狙ってきたのか?」

 「それはそうでしょう。まぁ最後の一人に関しては執拗に私ばかり狙って来ていたような気がするけど、まぁ相性の問題だと思うから誤差の範囲だと思うわ」

 「……そうか」

 不思議そうな表情をするミランにルインは挨拶をそこそこに部屋を後にし、そのまま別の部屋へ向かった。面倒ではあるがあちらにも声をかけておかないと後で文句を言われてはかなわない。

 こちらもミランの部屋を訪ねた時と同じようにノックもせずに静かに部屋の中へ入り込んだルインはゆっくりと部屋の使用者へと近づいた。

 「すーすー」

 部屋の使用者——サーリャはベッドの中で静かに寝息を立てて目を閉じていた。穏やかな寝顔を見せるサーリャは普段見る意志の強そうな表情とは大きくかけ離れ、無防備なその姿は守ってあげたくなるような魅力を放っている。

そんなサーリャは周囲を警戒しているわけでもなく、剣に手をかけているわけでもなくぐっすりと夢の世界に旅立っている。

 「……」

 ルインはそんなサーリャを冷めた目で見下ろしていた。


 これは無い


 いくらこちらが遮音魔法で静かに状況を処理していたにしても油断し過ぎだ。

 あくまでもルインはサーリャとミランに協力しているだけですべてを肩代わりしているわけではない。ルインだけ働いてサーリャ達が楽をするようなことなど断じてあってはならない。

 周囲を見渡したルインはあるものを見つけると軽く指を振る。

 椅子の上に置かれていたクッションがふわりと浮き上がると術者の意思に従ってゆっくりと移動し、サーリャの顔の上で停止する。この段階になってもサーリャは気づく様子はない。

 ルインはゆっくりと指を上から下へ動かすと、その動きに従うようにクッションが何倍もの速度で落下した。

 その後、ある部屋から叫び声が屋敷中に響き渡り、屋敷中を騒然とさせたのは言うまでもない。



 太陽が昇ってまだ間もない時間帯。ナイアンの屋敷の厨房は普段とは違う様相を見せていた。朝食を作り終えて使用した調理器具を洗うシェフには目もくれず、普段は立ち入ることの無い使用人やメイドなど役職がさまざまの者が集まっていた。役職だけではない。性別や年齢なども規則性が無く、すべてがバラバラだ。

そんな彼らの輪の中には今回もなぜかナイアンが混ざっており、サーリャも流れで輪の中に加わっている。そして彼らの視線は中央に集められた物に注がれている。

 「それでは皆さん。自由な発想をもって挑んでください。ある程度の見栄えは考慮する必要はありますが、それはとりあえず捨ておきましょう。まずはあなた方の想いをすべてこれからのことにぶつけてください——それではよろしくお願いします」

 ナイアンの言葉と共に全員が行動を開始した。ほぼタイミング同じくして全員が輪の中心にあった物——膨大な種類と量が用意された食材を手に取ってそれぞれ用意された調理場へと向かって行く。

 全員が食材を取り終えたのを確認するとようやくナイアンも必要な食材を選び始めていき、手に持っていた篭の中に入れていく。そして自分も用意されていた調理場へと向かって行く。

 「それでは私も始めたいと思いますので、サーリャさんはしばらく見守っていてください。皆さんの邪魔をしない程度であれば他の人達の所に行っても構いませんので」

 「わかりました。私もせっかくの機会なので勉強させていただきます」

 サーリャはにこりと笑みを返すと調理場を見渡した。それぞれ割り振られた作業場では各々が料理の下準備を始めている。一人ですべてをこなす者もいれば、近くに見えるメイド達のように複数人で挑戦するグループもいる。

 皆エプロンを着けてはいるが、普段調理場に集まらない者全員が包丁を片手に料理に挑戦しているのはなかなか目にすることの無い光景だ。

 彼らがこうして普段とは違うことに挑戦しているのにはもちろん理由がある。彼らは新たなレシピ開発の為に集まっており、それぞれが思いついた料理を作り披露することでそれが受け入れられるものか発表するのだ。

 特に細かな制限は設けられていないのだが、今回は一つだけ大きな決まりが設けられているらしい。

 それは必ずスーイラをメインとした料理であること。今回はスーイラを使った新たなレシピ開発が目的とナイアンから聞かされている。

 新たな主食の候補として期待されているスーイラだが、現時点で提供できるレシピはそれほど多くないのが現状らしい。ふっくらと炊き上げられたスーイラは噛むとほのかな甘みを感じることができるが……それだけである。スーイラだけで食事を済ますには些か味気がなさすぎるのが難点となっている。

 いくら主食として有望であっても調理方法や活用法が分からないのであれば定着しないのは目に見えている。だからこそあらゆる世代・職種から案を募り自信をもって提供できる料理を探しているらしい。その結果料理大会のようなイベントが出来上がったというわけだ。

 スーイラ料理を勉強しているサーリャとしては少しでも料理のバリエーションを増やすきっかけになるのではと思って各グループを回ってはいたが、しばらくするとナイアンのいる場所に戻りそれ以上深く注目はせずにただ成り行きを見守る態勢になった。今回は出来上がった料理を食べてみてから学ぶ方が良さそうだろう。


 時間が過ぎていくと厨房内は食欲を誘うかのような香りが満ち始めてくる。昼時に近づいてくると少しずつ料理を完成したグループが盛り付けを終わらせ蓋をして別室へと料理を運んでいく。

 最後にグループが別室へと移動し、サーリャが最後に移動を始めようとしたところであるものを見つけ、近くにいたシェフに声をかけた。

 「すみませ~ん。これらってどうされるのですか?」

 「あん?それは俺達のまかないに使わせてもらうのさ。さすがに領主様やお客人に残り物を出すわけにはいかないからな。俺達としては食事が豪華になるからありがたいってもんだ」

 サーリャが見つけたのはどこかのグループが盛り付けの際に余ってしまったのか料理が大皿にまとめられていた。確かにシェフの言った通り残り物を出すのはさすがに憚られるし、量もそれほど多くはない。他にも多少余らせてしまった料理が他のグループにもあるみたいだが、全ておかずばかり。少しジャンルが偏り過ぎている。

 (ここの人達のまかないになるとしても少し勿体ないなぁ。いっきに全部を消費できないにしても何か使い道は無いのかしら?)

 顎に手をやり思案顔のサーリャ。別に捨てるわけではないのだから勿体ないわけではないのだがどうしても気になってしまう。

 ふと近くの釜を開けてみると、こちらも残ったスーイラが入っている。スーイラと余ったおかずを交互に見たサーリャはふとあることを思いつきシェフに声をかけた。

 「すみません。すこし相談があるのですけど」


 しばらくしてサーリャが皆のいる別室に入ると既に発表会が始まっていた。始まっていたと言っても見た目はただの立食会で、各々がテーブルの上に並べられた料理を試食しているだけだ。

 「う~ん。これは少し味付けが濃すぎるような気がするな。それにそれぞれの食材の味の主張が強すぎてスーイラの必要性が感じられなくなっているな」

 「こちらは野菜を混ぜ込むことで食事のバランスを図ろうとしているようですが、味付けがいただけない。ドレッシングはサラダなどには確かに相性ピッタリですが、スーイラには少し合いませんな」

 「私はこの料理は好きですよ。卵とスーイラを混ぜ合わせたものはケチャップをかければスクランブルエッグの延長のようなものだと思いますし」

 他にも様々な意見が出てきてはいるが、聞いている限りあまり好意的な評価は多くないように思える。サーリャも紙皿に料理をとりわけ一口食べてみると、わずかにその表情を曇らせた。

 (美味しいのは美味しいけれど……)

 レシピを研究するだけあって味付けに関しては申し分なく、サーリャ好みの味だ。けれども試食した感想としてはまるで2種類の料理を同時に食べているかのようで、1つの料理とは感じられない。これではスーイラをわざわざ組み合わせる必要が無い。

 僅かな甘みしかないスーイラは様々な料理と組み合わせる可能性を持ってはいるが、それが1つの料理として完成するかどうかはわからない。

 「今回もあまり満足できるようなレシピはありませんね。やはり皆が求めるような料理はなかなかできないものですね」

 「仕方ありませんよ。スーイラは炊き上がった時点ですでに完成したようなものですからね。そこから新しい料理に派生させるのはいつものような感じで考えつくようなことではありませんよ」

 残念そうにするナイアンへ参加者が優しげに声をかける。参加者も自分の考案した料理に高評価が付かなかったことは残念がってはいるが、ナイアンほど落ち込んではいない。他の参加者も同意するように頷いている。失敗がつきものな研究職ゆえの反応なのだろうかとサーリャは彼らを眺めながらそんな感想を抱いた。

 新作の発表会からそのまま雑談を交わしながらの昼食へと変わったのを確認したサーリャは自身も厨房から持ってきた食事を用意し始める。食事と言っても厨房に残っていた料理とスーイラを手軽に食べられるように工夫した簡素なものだ。

 (あ、思っていたよりもいけるわねコレ)

 料理と呼べないものではあるが思っていた以上の出来栄えに満足するサーリャ。そんなことを考えながら片手で食事をしていたサーリャだったが、先ほどまで談笑していた室内がやけに静かになっているのに気がついた。

 なんとナイアンを含めた今回の参加者全員がサーリャを凝視している。全員からの視線に思わずサーリャはたじろぐ。

 「な、何でしょうか?」

 「サーリャさん……その食べているものは何でしょうか?」

 「これですか?皆さんが料理を作られた後に余った料理や材料で作った簡単なものです」

 サーリャはまだ口にしていないものを全員に見せる。サーリャが食していたのは一口サイズの具材をスーイラで包み込み丸めたものだ。そのままだとスーイラが手についてしまうのでさらにその周囲を海苔で巻いてある。

 片手で食べることができるので護衛をしている今のような状況では便利ではあるが、料理として出すには些か質素すぎるだろう。

 しかしどうやらナイアン達はサーリャとは別の感想を抱いたようだ。メイドの1人がはっと我に返ると足早に厨房へと向かって行き、周りも遅れて後に続く。

 「ちょっと皆さん、どうしたのですか⁉」

 厨房へ入ると先程のメイドがサーリャの説明したとおりの手順で1つ作るとすぐさま口にし、ゆっくりと咀嚼しながら味わう。

 「美味しい」

 「確かに。これなら手軽に食べられるしスーイラの中に何を入れるかによってバリエーションが生まれるから作る者によって種類は増やすことができる。なにより、食べるまで中身が分からないことによって楽しみが増えるから子供にも受け入れられそうだ」

 「俺もこれはいいアイデアだと思います。うちは1日農作業で外にいる日が多いのですが、休みの日に妻がわざわざ手の込んだ弁当を作ってもらうのが申し訳なく感じていたのですよ。これなら前日の残りを中身にすることで家族の負担がかなり軽くなると思いますよ」

 まさかの高評価にサーリャはどう言っていいのかわからず、ただ話の輪の外でおろおろとするばかり。あり合わせで作った物がまさかこんな結果を招くなど誰が予想できるだろうか。

 結局、サーリャの作ったお手軽レシピは正式にスーイラ料理の1つとして採用されることになり、名前も覚えやすい方はいいとのことで握り料理から「おにぎり」と命名されることになった。

 その後、ミルス領でこのレシピが公開されると驚くほどのおにぎりブームが巻き起こり、様々な具材を入れたおにぎりや見た目に拘ったおにぎりなど数々の種類が生み出されることになるのだが、それはまだ少し先の話である。


 日が落ち、窓の外が夕焼けから闇へと移り変わるとサーリャはナイアンの傍を離れ厨房へと場所を変える。

サーリャが厨房の一角を借りているのはルインに対する対価——夕食を用意するためである。厨房はシェフの聖域。関係のない者が自分の仕事場に立ち入ることを快く思わない者がいると聞いたことがあるが、どうやらこの屋敷ではその心配は不要のようだ。

 「サーリャさん。何かわからないことがあるなら何でも聞いてくださいね!」

 「え、ええ……その時は頼りにさせてもらいます」

 なぜならサーリャのすぐ傍にはサーリャと同い年、もしくは少し年下の屋敷で働くメイドの1人がなぜか立っており、サーリャの作業を後ろで見守っている。メイドだけではない。屋敷の人間の夕食を準備しているシェフ達もチラチラとサーリャに目を向けている。

 教わったスーイラ料理を1つ1つ手順を確認しながら作っていき、控えているメイドはサーリャが求める道具や調味料を絶妙なタイミングで手渡していく。

 「サーリャさん。新しく来られた男性ですけれど、サーリャさんの手料理しか口にしないって本当なんですか?」

 「そこまで大袈裟なものではないわよ。今回私達を助けてくれる代わりにいつもの食事をしたいってだけだから」

 「それって普段からサーリャさんの手料理を食べているってことですよね!もしかしてお二人は恋人だったりするんですか?」

 「こっ⁉」

 おもわず力を入れ過ぎてしまい、コンッと音を立ててまな板の上に置かれていた野菜が真っ二つに切れる。

 「わわっ!すみません。お怪我はありませんか?」

 「ええ。大丈夫よ。少し驚いただけだから。それよりもルインとはそんな間柄じゃないわ。詳しいことは省くけれど、私とルインは師匠と弟子みたいな関係になるのかしらね」

 慌てるメイドに微笑みながらも作業を再開するサーリャはメイドの誤解を解くために簡単に説明する。さっきから若干興奮していたのはルインがサーリャの料理を求めている辺りを聞いた影響だからだろう。

 別にサーリャの料理しか食べられないというわけではないだろうが、メイドはまだ興奮が収まらないのかキラキラとした眼差しでサーリャの話に食いつく。

 「それでもこの屋敷のシェフよりもサーリャさんの手料理が食べたいってことなんですよね。それってサーリャさんの手料理の虜になっているってことじゃないですか」

 どうやら誤解は解けていないらしい。彼女にとってそっち方面のジャンルは年相応の反応なのかもしれない。

 「提案なのですけれど、うちのシェフが作った料理とサーリャさんの作った料理。どちらが美味しいのか食べ比べてもらいませんか?幸いにも今日のメニューはサーリャさんが作っているメニューと同じですし」

 さすがのサーリャもこの提案には難色を示した。

 「う~ん……どうかしら。ルインがその辺りを許してくれるかどうか聞いてみないとわからないわね」

 食べ比べならばあえて伝えずに食べてもらう方がいいのだろうが、ルイン相手にそれはまずい。本人からの了承が無いと実施するのは無理だろう。

 とりあえずサーリャは料理を完成させるべく目の前の作業に戻るのだった。


 夕食の時間になり全員が食堂に集まるとメイド達が食事を配膳していく。そんな中ルインの前に同じ料理が2つ並べられたことでルインは訝しげな表情になる。作った本人であるサーリャはすでに知っていることだが、右がサーリャの作った料理、左が屋敷のシェフが作った料理だ。

 「おい。料理が俺だけ多くないか?」

 「実はルインにお願いがあって、私が作った料理と屋敷のシェフが作った料理、どっちが美味しいか食べ比べてくれないかしら?何か足りないところがあれば教えてくれると次から作る時の参考になるわ」

 「わざわざ今やるのか?」

 「今だからこそよ。どっちが私の料理かわからない方が食べ比べしやすいでしょ」

 厨房で一緒だったメイドに加えて何人ものメイド仲間が部屋の隅で期待の眼差しを送っていることにルインは気がつかないまましばらく考え込むが、最終的には了承してくれた。

 鶏肉やキノコなどをスーイラと一緒に炊きこんだものと生ハムと新鮮な魚を薄くスライスしたカルパッチョ。地下栽培で採れた新鮮な野菜を使ったサラダとなかなかに豪勢だ。

 サーリャやメイド達だけでなくナイアンも注目する中、ルインは同じ料理を交互に食べて2つの料理をゆっくりと味わう。

 やがて答えを決めたのかルインは口を開いた。

 「個人的には右の料理の方が好みだな。それにサーリャが作ったのは右じゃないか?」

 「どうしてわかったの⁉」

 さも当然かのように正解を言い当てるルインにサーリャだけでなく事情を知る者達全員がざわついた。

 見た目に多少の違いはあるが2つの料理はほぼ同じはずで味もサーリャは確認していたが問題無かった。なのにどうして自分の作った料理を言い当てられたのだろう。

 「どちらも同じような料理だが味付けに関してわずかな違いがある。サーリャの作った方はこっちに比べて少しあっさり目な味付けにしてある。さらにこの鶏肉に関してはサーリャの料理の方が柔らかさがある。気にならない程度にレモンの風味が残っていたから依然話していた新しい下ごしらえを試したんじゃないか?」

 「……よく覚えていたわね」

 細かなルインの指摘にサーリャは舌を巻いた。今回サーリャは鶏肉をスーイラと一緒に炊きこむ前に絞ったレモン汁に浸け込んでおいた。今回は短時間でしっかりと浸け込ませるためにレモン汁を魔法で操作して鶏肉を包み込んで圧縮したのだ。今回初めてチャレンジしたやり方なのだが、まさかそれを覚えているとは想像していなかった。

 「サーリャの料理はこれまで何度も食べて来たんだ。さすがにこの程度で間違えたりはしないぞ。それにサーリャの作る料理は俺好みだからな」

 メイド達からはしゃいだように小さく歓声が上がり、ナイアンは感心したように「ほう」と声を漏らす中、サーリャは「そう」と短く返した。そして口いっぱいにスーイラを頬張ると口を動かしながらゆっくりと咀嚼していく。そうでもしないとにやけそうになる表情を誤魔化すことができないのだから。



 襲撃があった数日後の夜。屋敷にいる者が寝静まった真夜中にサーリャは唐突に目を覚ました。

 「……」

 サーリャは目の前に広がっている天井を寝ぼけているわけでもなく、はっきりとした意識で眺めている。

 こんな真夜中に目覚める理由にサーリャは心当たりがない。それにもかかわらずばっちりと目が覚めてしまった。

 (起きちゃったってことは何かあるのかしら?)

 身体を起こしたサーリャは慌てた様子もなく周囲を見渡した。見た限り部屋の中に異常は見当たらず部屋の外も就寝前と同じように静かである。

 特に理由も無いのに目が覚めることは今回が初めてではなく、似たようなことはこれまでに何度か経験したことがある。

 寝つきが悪いとかの理由ではなく、突然時間帯に関わらず目が覚めてしまうのだ。そんな日は何かしら普段とは違うことが起こるとサーリャは経験上知っている。

 何かが起こると言っても実際に何が起こるのかはサーリャ自身にもわからない。正直何が起こるのかわからないので目覚めたばかりのサーリャに対処できるものではないし、これまで起こったほとんどのことが目覚める必要のないものばかりだ。

 記憶に新しいのは目覚めて数秒後にハンガーにひっかけていたコートが床に落下したことである。

 普段ならば一蹴するところだが、今は護衛として仕事を引き受けている状況なので無視するわけにはいかない。万が一ということもある。サーリャは薄いキャミソール姿のままドアを開けて部屋の外へ出ると暗闇が広がる屋敷内を歩き始めた。

 屋敷の中は所々に設置されている魔力ランプが僅かに光を灯しているだけで、当然だがサーリャ意外に出歩いている者は1人もいない。

 (あれ?光が……)

 2階からゆっくりと階段を下りていたサーリャは1階の廊下が僅かに明るくなっていることに気がついた。ランプの光ではなさそうだ。

 静かに光の方へ進んでいき角からひょっこりと廊下の方へ顔をのぞかせると廊下の1番奥にある部屋の扉が僅かに開いている。光はその部屋から漏れていた。

 (あそこって確かルインが使っている部屋よね)

 周囲に人が少なく静かな部屋を用意しろとルインが我儘を言った結果選ばれた部屋だ。他にも部屋はあるが、今は使う者がいないので周囲の部屋には誰もいない。

 扉の隙間からこっそりと部屋の中をのぞくと、ランプの光の中でルインがテーブルで何か作業をしている。こちらに背を向けているのでルインが何をしているのか窺うことはできない。

 「ルイン。ちょっといいかしら?」

 「……サーリャか。こんな時間に何の用だ?」

 「ちょっと目が覚めちゃって少し屋敷の中を歩いていたのよ。あなたこそこんな時間まで起きて何をしていたのよ」

 「ちょっとした雑務だ。別にサーリャが気にするようなことじゃない」

 「そんなこと言って、また本でも読んでいるんじゃないの?わざわざここまで来てそんなことは止めてよね」

 ルインに疑いの目を向けながらサーリャはするりと開いた扉の隙間から身体を滑り込ませて部屋の中へと入った。大森林の家ならともかくミルス領でルインがこんな時間まで起きてまでするべき雑務があるとは思えない。そうなるとサーリャの興味も湧いてくる。

 「さぁ!正直に何をしていたのか私に見せ……て」

 隠し事をする子供の秘密を暴くように悪戯っぽくルインの両肩に手を置き、肩越しに手元を覗き込んだサーリャの言葉は途中で途切れた。

 目の前のことが信じられないといったように目を見開き、視線を外すことができない。

 「声をかけたのならばまずは部屋の主に一言声をかけてから入るべきだと思うがな」

 テーブルの上にはいくつもの書類が広げられている。領内から寄せられる数々の報告書や外部からの手紙や親書など明らかにルインに宛てられた物ではない。領主であるナイアンへ届けられるはずの書類がなぜかルインの手元に集められており、いくつかは封が破られ中身が出されている。

 「ルイン。これは一体どういうことなの……」

 「これか?一応不審な点が無いか俺がチェックしているんだ。心配しなくても当人から了承は得ているから責められるいわれはないぞ」

 「そんなことを聞きたいんじゃないわよ!その手はいったいどうしたの!」

 見当違いの答えを返すルインにサーリャは思わず怒鳴った。

 ルインの手は血にまみれて真っ赤になっていた。何度も拭ったのか傍に用意されたタオルは血を吸いこんで赤く染まっている。

 「襲撃を防いだとはいえ相手が諦めたわけじゃない。また仕掛けてくるだろうが手段は1つではないし、いくらでもある。こうやって遅延型の魔法を仕掛けておいて中身を開く無防備な瞬間を狙った方法もある」

 ルインは書類の束の中から1枚を手に取るとサーリャに中身が見えるように掲げた。小さく折りたたまれた紙には文字は書かれておらず、代わりに中央に魔方陣が描かれていた。既に処理が終わったのか魔方陣の一部が欠けており、魔法が発動する気配はない。真っ白な紙には大小さまざまな赤い斑点がいくつも付いている。

 「こんな大事なことをどうして言ってくれなかったのよ!」

 「言っただろう、ただの雑務だと。俺が勝手に動いていることだから別に言うようなことでもない」

 目の前の事実にサーリャはショックを隠せないでいた。ルインが夜中に1人でこんなことをしていたなんて今まで知らなかった。

 (いったいいつから。ここ数日?それとも襲撃があった日から?まさかこの屋敷に来た時からしていたんじゃ⁉)

 可能性が増えていくたびにサーリャの顔が青褪めていく。

 「ちょっと待っていなさい。治療の道具を持ってくるから私も手伝うわ!」

 ルイン1人にこんなことをさせるわけにはいかない。とりあえずルインの手当ても含めて1度部屋に戻ろうとしたサーリャだったが、すぐさまルインから待ったがかかった。

 「サーリャに手伝ってもらうことは無い。これは俺1人でやっておくからサーリャは黙って部屋に戻って寝ていろ」

 「馬鹿なことを言わないで!そんな傷だらけになっているのを見過ごせるわけないでしょ。私だって無詠唱で魔法が使えるのだから自分の身は守れるわ」

 それでもルインは首を縦に振ることはしない。

 「無理だ。サーリャは命を狙われるということを理解していない。」

 「そんなことないわ。私だってこれまで何度も命のやり取りをしているのだから、何が危険なのか百も承知よ!」

 「そういうことじゃない。そんなものは命を狙われるとは言わない」

 ようやくルインは椅子をくるりと回転させてサーリャへと振り返る。

 「いいか?命を狙われるということは対象が死ぬのが絶対条件なんだ。それ以外の妥協点など一切存在しない。目的達成のためならばどんな手段でも使ってくるし、普段なら信じられないような突拍子もないことを平気で仕掛けてくる。サーリャはその辺りの悪意と殺意を向けられていない。そんな奴が手伝うだと?行きつく先が死だと容易に想像できる」

 「……だからルインがその役割を引き受けるの?」

 サーリャの声が自然と震えてくる。やり場のない怒りをギュッと拳を握ることで耐える。

 「俺はこれまで嫌と言うほどその感情を向けられてきた。相手が何を仕掛けてくるのかはすべてではなくてもある程度は予想することができる。これで分かっただろう。ここでサーリャのできることなど無い」

 明確なルインの拒絶。話は終わったと言わんばかりに椅子を回転させルインは作業に戻ってしまった。背を向けられたサーリャはルインの存在が遠くなってしまったように感じた。

 物理的なものではない。これまで築いてきた関係が白紙に戻ってしまったかのような感覚だ。

 「どうして……どうしてそんなことを言うの?私だって守りたいのに。ルインを助けてあげたいのに‼」

 抑えていた感情が爆発したサーリャはルインの背中に想いをぶつけるとそのまま乱暴に扉を開け放ってその場から走り去った。自分の部屋に戻って来たサーリャは後ろ手に扉を閉め、肩を大きく上下させていた呼吸を整えると力を失ったかのようにベッドに倒れ込んだ。

 ルインの言いたいことが分からないわけではない。それでもサーリャはどうしても言わずにはいられなかった。ルインにすべてを押し付けたくはない。なのに手伝うことすら今のサーリャにはできない。

 「ルインのバカ……」

 何もできない自分自身と1人で抱え込んでしまっているルインに対して悪態をつきながら、サーリャは表情を見られたくないように枕へと顔を押し付けるのだった。



 「以上がこれまでの経過報告となります」

 「ありがとう。ルインが対応した影響からなのかここしばらくは襲撃が無いみたいだからしばらくは時間が稼げそうね」

 サーリャの報告を聞きながらミランはベッドから身体を起こしていた。サーリャがミランの部屋を訪れていたのはこれまでの状況報告と今後の方針を決めるためである。

 「……そうですね」

 「どうしたのサーリャ?」

 「な、何でもありません。少しぼうっとしていました」

 「そう?何か困ったことがあるなら遠慮なく相談してちょうだいね。こんな身体だけどアドバイスは出せるから」

 心配そうな表情をするミランを安心させるように慌ててサーリャは何でもないように取り繕う。

 「ルインはどう?相変わらず自由気ままに動いているのかしら」

 「え、ええ。今日は何か用があるとかで屋敷を離れてどこかへと出かけています」

 気まずそうに報告した内容にミランは顔色を変えた。

 「なんですって⁉こんな時に襲撃があったらどうするつもりなのよ」

 「だ、大丈夫ですよ。万が一の時は設置した簡易型の転移魔法で戻ってくるということですし、出掛けたと言っても街中に出るだけとのことですし……」

 「そう……ルインとは警備についてやり取りはできているのなら何も問題は無いのね?」

 「……はい。大丈夫です」

 僅かにサーリャの返答が遅れた。しかしミランはそのことに気が付いた様子はない。すかさずサーリャは話題を切り替えることにした。

 「ミラン様は身体の調子はどうなのですか?あれから何日か経ちましたけどまだ起き上がれないほどなのですか?」

 「実は全く起き上がれないというわけではないのよ。今もこうして起き上がれるほどには回復はしているのだけど、1日に何度かものすごく体調が崩れてしまうのよ」

 「体調がですか?」

 「ええ。1度体調が悪くなるとなかなか元には戻らなくて、その間は寝たきりになってしまうわ。まったく困ったものだわ」

 うんざりとするミランにサーリャは目を丸くした。その話はサーリャも初耳だ。一日に何度も体調が悪くなるとはどういうことなのだろう。

 「何か体調を崩す要因でもあるのでしょうか?」

 「多分だけど急激に体を治そうとする反動が来ているんじゃないかなと私は思っているわ。ナイアン様の計らいでミルス領にある薬をいくつか提供してもらっているのよ。詳しいことは教えてもらってはいないけれど、相当強い効果があるみたいでおそらくはその影響なのではないかとナイアン様は仰っていたわ」

 たしかに、本来は絶対安静にしなければならないミランを短期間で動ける状態にするとなると相当強力なのだろう。しかし傷は完治しても失ったものが戻ってくるわけではない。本来のミランのダメージと身体の帳尻が合わないことから起こる反応だと言われると納得できる。

 どれだけの時間がかかるかわからないが、ここでさらに無茶をするとさらに回復が長引いてしまうかもしれない。

 「だったらミラン様はこのまま安静にしていてください。私とルインで何とかなりますから」

 安心させるように明るく振舞うサーリャではあったが、心の中では対照的に暗い影を落としているのだった、



 「悩み事ですか?」

 「えっ?」

 これまでのように執務室で書類仕事をするナイアンの護衛に就いていたサーリャは不意に声をかけられた。目を向ければいつの間にかナイアンが手を止めてサーリャの方を見ている。

 「何かに悩んでいるようで心ここにあらずと言った様子に見えたのでね。違っていたのならすみません」

 「ナイアン様が謝るようなことはありません。こちらこそ不甲斐ない姿を見せてしまい申し訳ありません」

 護衛中にもかかわらず自分のことに気を取られて疎かになっていた。気が緩んでいることを相手に指摘されるまで気が付かなかった自分の行動をサーリャは恥じた。

 「謝ることではありませんよ。誰にでも悩みというのはあるものです。……ルイン殿と何かあったのではありませんか?」

 「……どうしてそう思うのですか?」

 「最近お二人の様子がどこかよそよそしく見えますし、あまりお二人が話す姿も見ないので何かあったのかと思っただけですよ」

 そう。あの夜の1件からサーリャはルインと距離ができてしまって話せていない。話せていないとは言っても仕事上の最低限なやり取りはしているし、食事の席も一緒なので全く関わりが無くなったわけではない。

 ただそれ以外でルインと話せなくなっているのだ。サーリャ自身もあの1件にまだ気持ちの整理が付けられているわけではなく、どう接していいのかわからないので二の足を踏んでいるような状態だ。

 サーリャは胸に抱えている想いをナイアンへと話した。

 「……なるほど。彼が夜中にしていることを話してくれなかったことがショックだと。そしてそんな状況を何とかしたいと考えているのですね」

 「はい。確かにルインが言った通り今の私には力不足なのかもしれません。それでも一言ぐらいは私達に相談して欲しかったです」

 結局のところサーリャにとって一番ショックだったのは知らされていなかったことなのだ。その事実がサーリャを落ち込ませる。そこまで自分は信用されていないのか。このことは当然ミランにも伝えていない。もしもミランの耳に入れば無理をしてでもベッドから抜け出してくるだろう。

 「サーリャさんの感じることはもっともですが、ルイン殿が何も話さなかったのはサーリャさんを信頼していないのではなく、彼なりの優しさの結果だと私は思いますよ」

 「優しさ、ですか?」

 ナイアンはペンを置きながら静かに頷く。

 「一応誤解が無いように言っておきますが、今回ルイン殿がしていることは私から依頼したわけではなく彼の方から申し出があったのです。流石にお二人にも知らせておくべきだと私は言ったのですがルイン殿は了承しなかったのです。『余計な負担をアイツらが背負う必要は無い』とね」

 ナイアンは僅かに目を伏せた。

 「人は痛みに対して敏感です。1度痛い思いをすれば2度と同じ痛みを受けないために対策を立てます。……詳しくは聞きませんが、彼があれほどまでに頑ななのは似たような痛みを彼自身知っているからなのでしょう。傷は癒えても心の傷は残ります。彼はその傷をあなた達に残したくないから話さなかったのではないでしょうか。だからこそ知られたとしてもその作業を任すわけにはいかなかった」

 「そうだとしてもこのままルインにすべてを任したくはありません。私に何かできることは無いのでしょうか?」

 サーリャが代わりに動けばルインの優しさが無駄になってしまうのは理解できる。しかしこのままルインが1人傷ついていく姿は見たくない。サーリャは傷ついてほしくてルインをここに呼んだわけではない。それはミランも同じ思いのはずだ。

 今夜も1人傷ついていくルインを思い浮かべるだけで胸が苦しくなり、胸元でギュッと手を握ってしまう。そんなサーリャにナイアンは微笑みを浮かべる。

 「大丈夫です。サーリャさんにもできることはありますよ」

 「できることですか?」

 「ええ。ルイン殿は誰が何と言おうと決して自分の役目を誰かに任すことは無いでしょう。彼の痛みを肩代わりすることができないのならば、他で彼を支えてあげればいいんですよ。何をすればいいのかに関しては私が直接助言することはできません。あなたがルイン殿と正面から向き合って導き出した選択ならば決して無下にすることは無いと思いますよ」


 サーリャがナイアンと話している頃、ルインは街の一角を歩いていた。通りを進むたびに何人もの住民とすれ違うがよそ者のルインに気を止めるようなものは1人もおらず、いつも通りの活気で賑わっている。ルインもこの街の住人かのように躊躇いもなく真っ直ぐ進んでいくが不意に横道へと入った。

 大通りの賑やかさとはうって変わり、薄暗い細道を歩く者は誰もいない。1人歩みを進めていたルインはボロボロになった家の1つに近づくとひと休みするかのように腕を組み、壁にもたれ掛かった。しばらくすると壁の裏側から声が聞こえてくる。

 「ひひっ。あなたのような人がこのような場所に来るとは珍しい。頼りにされるとは光栄ですなあ」

 どこかネジの外れたような男の声だ。

 「余計な会話はいらん。俺の依頼を受けるのか受けないのかそれだけ答えろ」

 「ひひひ。かまいませんよぉ。それで私は何をすればいいので?」

 「1つやってもらいたいことがある」



 「……」

 前回と同じように皆が寝静まった時間帯。サーリャはルインの部屋の前に立っていた。今回はルームウェアの上からストールを肩にかけている。

 今日はルインの部屋の扉はしっかりと閉められており、隙間からわずかな光が漏れているだけだ。今日も1人作業をしているのだろう。

 ドアノブに手をかけようとしたサーリャだが、触れる寸前でその手が止まってしまう。


 関わるな


 閉められた扉からそう訴えかけられているような気がする。逡巡するサーリャだったが軽く頭を振ったあと勇気を出してドアノブに手をかけ扉を開けた。部屋の中でルインはランプの灯りの中こちらに背を向けていた。

 「……サーリャか」

 「う、うん」

 「言ったはずだぞ。お前にできることは何も無いと。大人しく部屋へ戻れ」

 「できることはあるわ」

 「なに?」

 サーリャの言葉に反応してルインが椅子を回転させてサーリャへと向き直った。ランプの灯りだけしかない部屋の中で照らされるルインはなぜかとても弱々しく見え、そのまま闇の中へと呑み込まれてしまいそうに見える。

 だからこそサーリャはそんな暗い闇を吹き飛ばすかのような明るい笑顔をルインへと向けた。

 「ルインの作業が終わるまで私も傍にいるわ。怪我をしたら私に任せてちょうだい」

 そう言ってサーリャは持っていた救急箱を見せるように持ち上げるのだった。

 「ルインが勝手にしていることなら私は止めるつもりは無いわ。その代わりに私も勝手にさせてもらうけど文句は無いわよね?」

 これがサーリャの選んだ答え。ルインはどれだけサーリャが言葉を重ねても耳を傾けないだろう。だからと言ってサーリャもこのまま見なかったことにすることはできない。お互いに自分の意思を決して曲げることは無いとサーリャ自身は理解している。

 ならばルインの傍で彼を支えることが今のサーリャにできることだ。

 「……」

 ルインは顎に手をやり考え込むように僅かに目を伏せる。サーリャの提案を受け入れるのを検討しているのか拒絶の言い訳を考えているのかわからないが、ここまで来たからにはサーリャも簡単に引くつもりは無い。

 ルインの中で結論が出たのか伏せていた顔を上げ、澄んだ青い目がサーリャを捉える。互いの視線が交わること数秒。

 「勝手にしろ」

 そう言って椅子をくるりと回転させ背を向けるルインにサーリャは表情を綻ばせるのだった。


 1人から2人へと増えた影がゆらゆらと揺れる中、サーリャは用意した椅子に座りながらルインの隣で作業を静かに眺めていた。

 ナイアン宛に届いた報告書や書類、外部からの手紙など手が触れるものを1つずつルインは丁寧にチェックしていく。触れるだけでなく実際に手にとって宛先を確認するために裏面を見たり封を開けたりするなどナイアンがするであろう動きを真似、時には微量の魔力を流したりして反応があるのか確かめている。

 これまでチェックしてきた中に罠が仕掛けられた手紙や書類の類は見つかっていない。チェックが終わったものがどんどんと用意したケースの中に積み重ねられていく。

 (このまま何も無ければいいんだけど……)

 そうサーリャが思っていた矢先、封のされた手紙を手に取ったルインの動きが止まった。手紙に向ける視線もこれまでとは違い鋭いものへと変わる。

 「どうしたの?」

 「……1つ目だ。念のために警戒していろ」

 「っ!」

 静かなルインの言葉で部屋の中の緊張感が一気に高まった。何があっても対処できるように僅かに椅子を少し後ろへ下げてスペースを確保するとサーリャは身構える。

 ルインも何かしらの防御魔法を起動したのか薄い膜がルインを包み込み、その状態でゆっくりと手紙を調べ始める。

 「どうしてその手紙が罠だとわかったの?特に変わったところはなさそうに見えるけど」

 「確かに見た目では特におかしなところは無い。しかしこれに使われている紙が問題だ。これは魔力との親和性が高く魔力をある程度紙に残しておくことができ、他の紙よりも表面が滑らかなんだ。領主へ使うにはあまりにも不自然だ」

 ルインは封を開け、ゆっくりと中身を取り出した後折りたたまれた中身を開いた。開いた瞬間、手紙の中から飛び出てきた刃がルインの顔へと飛んでいく。

 「危ない‼」

 ルインの顔を切り裂こうとしていた刃は直撃する寸前であらかじめ身に纏っていた薄い膜に弾かれる。ルインの顔には傷一つも無い。

 刃は魔力で構成されていたのか1度弾かれるとその形がみるみると崩れ始め、最後は霞のように消えてしまった。

 「ビックリした……」

 身構えていたにもかかわらず突然の出来事に驚きを隠せないサーリャは早くなった鼓動を落ち着かせるように背もたれにゆっくりともたれかかった。

 「……」

 サーリャが一息つく中、ルインは刃が飛び出てきた紙を机に置いたまま何かを考えるかのようにじっと見続け、しばらくすると再度その紙を手に取った。——防御魔法を解いた状態で。


 サーリャの目の前で鮮血が舞った。


 「ルイン‼」

 効果を失ったはずの紙から今度はアイスピックのような鋭い刺突が再びルインの顔に向かって放たれるが、咄嗟に紙を手放しながら空いた方の手で顔を守った。ルインの顔に突き刺さることは無かったが、防ごうとした左手は軌道を逸らす際に傷を負ってしまった。

 机の上に赤い斑点がいくつも作られていく。

 「つまりはこういうことだな。防いだと油断したところで別に仕込んでおいた魔法でとどめを刺す。定番中の定番な手口の1つだな」

 「そんな解説はいらない!」

 サーリャは手早く救急箱を開け、血を流すルインの左手に治療を施していく。正面から受けたのではなく軌道を逸らすことが目的だったので幸いにも手が貫かれることは無く軽傷で済んでいる。

 「大袈裟だな」とぼやくルインにサーリャはひと睨みすると、黙って一回りも大きいルインの手の治療を続けるのだった。


 「ねぇ、一つ聞いてもいいかしら」

 「なんだ?」

 治療を終えて作業を再開し、静かに時間が過ぎる中サーリャがその沈黙を破る。左手に包帯を巻いたルインの横顔を窺いながらサーリャは質問を口にする。

 「前にルインは言ったわよね。命を奪うほどの悪意と殺意を向けられたことがあるから何をしてくるかわかるって。……それってあの時のことを言っているの?」

 過剰なまでの戦力と人員を投入したルインの討伐命令。サーリャが知る中でルインがそれほどの感情を向けられるとしたらそれぐらいしか思い浮かばない。

 「……それを知ってどうする?」

 「どうもしないわ。ただ気になって聞いただけだから言いたくないのなら無理にとは言わないわ」

 ルインの過去に踏み込む話なのだ。中途半端な気持ちや興味本位で聞いているわけでもなく、無理に聞き出したいとも思っていない。それをアピールするかのように横目で見てくるルインにサーリャは肩を竦めてみせた。

 「……まぁだいたいはサーリャの想像通りだな。暇つぶしとして聞くにはあまり気持ちのいい話でもないが、それでも聞きたいのか?」

 「聞きたいわ」

 そこからルインが語りだした内容はサーリャの想像を遥かに超えていた。立ち寄った店に刺客が先回りして出された食事に毒が混ぜられるなど珍しくもなく、仕込めそうならばありとあらゆる罠を仕掛けられ命を狙われる日々が続いたらしい。

 表面上では親切であってもその心の内では何を考えているのかわかるものではない。

 常に命の危険に晒される毎日に精神も摩耗し、関わる全ての事柄を疑うようになったのは自然の流れと言える。

 「まぁこんなところだな。言った通り面白味などまったく無かっただろう?」

 一通り話し終えたルインの横顔はサーリャが見る限り普段通りで、特に変わったところは無い。

 「ルイン、もう一つ聞いてもいいかしら?」

 「今日は質問攻めだな。そこまでして何を聞きたいんだ?」

 「ルインはここまでの仕打ちをした王国に復讐したいとは思わないの?」

 王城でルシャーナに問われたことだ。その問いに対してルインは特に悩むことなくさらりと返した。

 「思うぞ」

 「……え?」

 部屋の温度が下がったような気がした。息をのむサーリャの隣でルインは手を止めることなく作業を進めている。ただその横顔に暗く冷たい闇が広がったような気がするのはランプの灯りのせいだろうか。

 「俺は別に聖人じゃない。くだらないことで俺からすべてを奪い、命を狙ってくる奴らに対して当然怒りはあるし、いっそのこと1度滅ぼした方がいろいろとスッキリするだろうと思っている。どれだけ人が死のうがそれは当然の報いだし俺はそれに対して何も感じることは無いだろうな。現に俺はこれまでそのための研究を続けてきた。どうすればより多くの敵を薙ぎ払えるのか。どうすれば多くの人間が絶望する中、命を奪えるのか」

 普段のルインから聞くことの無い物騒な言葉が次々と出てくることにサーリャの思考は理解が全く追い付かずただ耳を傾けることしかできない。

 「ミランに対してもそうだ。自分の目で真実を見ようとはせずに周囲の意思に流され、ただ命令に従うだけの人形に成り下がった奴に同情などするわけがない。徹底的に苦痛を与えて許しを請われたとしても命を奪う——そのつもりだったんだがな……」

 「……何か理由があったの?」

 少なくとも戦場で再会した時も、サーリャが無断でルインの家に連れて来た時もルインは威圧こそしたもののそれ以上の行動は起こしていない。

 「理由……か。そうだな。うまく説明できんが、俺は……きっと疲れたんだろうな」

 「疲れた?」

 「ああ。王国を滅ぼそうが個人を徹底的に痛めつけようがこれまでに俺が奪われてきたものが戻ってくるわけではない。そんなことがあったという事実が消えることなく残り続けるんだ。そう考えると何も得ることのできない恨みや怒りを持ち続けるのが急に疲れたんだ。そんなことなら他人を気にすることなく1人で生きていた方が何倍も楽だ。……もちろん時間がどれだけ過ぎようとも色褪せない怒りや恨みがあるのも理解しているからこれはあくまでも俺個人の考えだ」

 作業の手を止めたルインは背もたれに身体を預け、長く息を吐き出した。

 「だから俺はそういう感情は持ってはいるが今のところ実行しようとは思っていない。まぁ。あいつらが懲りずに向かってくるのなら今度こそ容赦はしないがな」

 「私もルインがそんな悲しいことをしないで欲しいと思っているわ。今のルインと過ごす日々が私は好きよ」

 自由過ぎるルインの傍で魔法を学びながら夜には賑やかな食事を楽しむ日々にサーリャは楽しさを感じている。ミランもルインと敵対することは無いだろう。

 「そうか」

 サーリャの言葉にルインは短く返すだけであった。


 比較的早い段階で1つ目が見つかった罠だが、そう何個も見つかるものではない。さすがに何個も送り付けるようなあからさまな行動はしなかったようで、あれから時間をかけてチェックを進めていくが2個目は見つかっていない。

 作業を担当しているルインは別として当然サーリャはその作業を横で眺めることしかできないので時間だけが過ぎていく。そうなるとサーリャには決して無視できないものが襲い掛かってくる。

 「おい、そろそろサーリャは部屋に戻ったらどうだ?」

 「……なによ。ルインは私がここにいちゃダメなわけ?」

 「いや、その状態ならここにいても意味ないだろう。寝るなら自分の部屋で寝ろ」

 ルインの言っていることが理解できない。今もこうしてルインの作業を見守っているのに何を言っているのだろう。

 「眠くなんて……ないわ」

 ただ、少しルインの声が遠く感じるだけ。

 眠ってしまうのを避けるために背もたれにもたれず背筋を伸ばしていたサーリャだったが、不意に左肩に何かが触れた。柔らかく温かな熱と感触が左肩に伝わってくる。

 (クッションでもあったかしら?……でもこれで眠らなくてすむわ)

 「サーリャ、聞こえているか?」

 (うるさいわね。聞こえているわよ)

 さらにルインの声が遠くなった気がする。返事をしたつもりだが、口が全く動いていないことに今のサーリャは気がつかない。

 身体を揺すられたような気がするがなぜ揺すられているのか考えが纏まらず、ゆすられたことで左肩に感じていたぬくもりが離れてしまいサーリャはより左へと身体を傾けた。離れていたぬくもりが再び感じられ、サーリャは満足気な表情になる。

 「……仕方ないな」


 自身の身体が揺れていることに気が付いたサーリャは閉じていた瞼を僅かに開けた。眠気がさらに強くなっているのか思考がはっきりとしない。

 目を開ければ隣にいるはずのルインをなぜか見上げる形になっている。

 (あれ……ルインがどうして私を抱きあげているの?ルインの隣で座っていたはずなのに)

 お姫様抱っこされているサーリャはどこかに移動しているようで、ルインの背後に見える屋敷の天井が流れていくのが見える。

 「んぅ」

 「起きたのか?」

 「起きて……るわよぉ……」

 まだルインはそんな勘違いをしているのか。こっちはずっと起きているのに。

 自分のことをよく見てくれないことに不満顔になったサーリャは拗ねるようにルインの胸元の服を指先でつまんだ。

 「わかったわかった。サーリャは寝ていないし今も起きている。これでいいか?」

 「よろぉしぃ。作業は……終わったの?」

 「……ああ」

 「それは……良かったわぁ」

 返事が返ってくるのに僅かな間があったような気がするが、終わったのなら何よりだ。その言葉にホッとしたのか僅かに開いていた瞼がどんどんと落ちてくる。

 「とりあえずもうすぐサーリャの部屋に着くからそのまま大人しくしていろ」

 「うん。そうさせてもらうわ」

 眠気は限界で瞼は完全に落ちルインの声だけしか聞こえない。サーリャはそれだけ言い終えると安心したように全身から力を抜いた。

 サーリャが落ちてしまわないようにルインがしっかりと抱え直したのがより密着し触れ合った場所からぬくもりと共に伝わってくる。

 他人を気にすることなく自分の事だけを考える生き方を選んだと少し前にルインは言った。本人はそのつもりなのかもしれないが、夢うつつなサーリャはそれは違うと思っている。

 ——本当に自分のことしか考えていないのならば、サーリャをわざわざ部屋に運ぶようなことはしないのだから。

 そこまで考えたところでサーリャは完全に眠ってしまった。



 数日が経過し、今日もサーリャはナイアンの執務室で護衛の仕事を続けている。毎晩の書類チェックは続けてはいるが、それ以外では目立った騒動も無く穏やかな日々が続いていた。

 ルインが対処した夜中の襲撃も結局はあの一回だけで、それ以降は1度も後続が来る様子はない。ルインという強力な存在に諦めたのかそれとも何かしらの準備を進めているのかわからないが、おそらくは前者だろう。

 ミランは安静にしていたおかげでとりあえず動けるようになるまでは回復しているが、それでも無茶はできないので未だ部屋で回復に努めている。そのため今日も護衛はサーリャだけである。

 ルインは「散歩に出る」と言い残し、あろうことか屋敷を離れてどこかへと出かけてしまっている。今襲撃を受ければ確実にナイアンを守り切れない。

 1人という状況に不安を覚えるサーリャの耳にノックの音が聞こえてきて、一人の研究員が入ってきた。余程興奮しているのか急いでいたのか肩が大きく上下している。何事なのかとナイアンもサーリャも自然と身構える。

 「ナイアン様。ようやく、ようやく完成しました!」

 「っ!本当ですか⁉」

 「はい。特定の条件下で栽培していた作物はすべてこちらの検査基準をクリアしました。それに伴って現在これまでの研究内容を整理し、まとめております」

 つまりこれで設備さえ万全であればどんな作物も栽培できるということだ。品質では劣ってしまうが、それを差し引いても得られる恩恵は大きい。

 報告はすぐさま部屋で休んでいるミランの元にも届けられた。3人が集まり今後の予定を確認していく。

 細かい打ち合わせをしている3人がいる部屋に軽いノックの音と共にルインが入ってきた。買い物でもしていたのか紙袋を抱えている。

 「ん。どうかしたのか?」

 「どうかしたのかじゃないわよ。ようやく研究が完成して陛下に報告するために今後の打ち合わせをしていたのよ。ルインこそ今までどこに行っていたのよ?」

 「必要なものを取りに行っていただけだ。これで暇つぶしでもしていたらいいだろう。ほら——」

 責めるサーリャだったが、ルインは涼しい顔で受け流した後持っていた紙袋をミランへと放り投げた。

 「……本?」

 受け取ったミランは中身を取り出してみると、紙袋の中から出てきたのは一冊の本だ。装丁も簡素で厚みもそれほどなく、表には何も書かれていないので一見するとどんな内容の本なのかわからない。

 あくまでもマイペースなルインにサーリャは呆れる。

 「あのねルイン。私達は報告書が完成したら王都へ行くのよ。ミラン様もようやく動けるようになったのだから一緒に行くべきでしょう」

 「別に今日出発するわけではないんだろう?だったら何の問題もないはずだ。王都へ出発するのはいつなんだ?」

 「可能なら準備に3日はいただけると嬉しいです。3日後には必ず間に合わせます」

 ならばこの3日は特に警戒を強めておかなければならないだろう。

 「ねぇ。それだったら私もあの本を読んでいいかしら?ちょっと気になるのだけど」

 わざわざルインが買ってきたものだ。ならば相当貴重なことが書かれているのだろう。少なからず興味を持ったサーリャであったが、ルインからの返答は「ダメだ」の一言だった。

 「読んだところでサーリャには一切役に立たん内容だ。読むだけ時間の無駄だな」

 「ちょっと!さすがにひどくない⁉」

 雑な扱いに文句を言おうとしたところでノックと共に使用人が入ってきた。しかしその表情はなぜか複雑そうにしている。

 「失礼します。コーランド領の領主様がお見えになっておりますがいかがいたしましょう」

 その内容にルインを除く全員が顔を見合せた。今回の件で疑惑を向けられている人物が研究の完成したタイミングで訪問してくる。

……あまりにもタイミングが良すぎている。

 「どうします?追い返した方がいいと思いますが……」

 「いえ。あくまでもたまたまこのタイミングで訪れたという線もあり得るから最初から疑うのは良くないわ。ここは普段通り振舞うことでこちらの動きを悟らせない方がいいと思うわ」

 相手は一応領主なのだ。対応を間違えれば互いの関係に亀裂が入ることは確実なので慎重にならなければならない。かといってもしも刺客が何人もいた場合サーリャ一人では対応しきれない。ルインが同席すればいいのだが、相手がルインの正体を知っていた場合は面倒なことになる。

 「何をそこまで悩んでいるんだ。簡単な話だろう」

 そう言ってルインはある提案を3人にするのだった。


 「ナイアン殿、以前訪ねた時以来ですな。領主という立場で忙しいのに相変わらず研究に没頭している感じですかな」

 「ははは。元々は一研究員でしたからね。常に新しいことに挑戦し続けていない生活はなんだか落ち着かないのですよ。それでもやりがいはありますから苦にはなりませんよ」

 応接室で和やかに言葉を交わすナイアンとザイストをサーリャは部屋の隅で立ちながら眺める。今のところザイストの言動に不審なところはなく、たまたまこの領を訪れたかのように見える。若い領主であるナイアンとザイストが並ぶと年齢的には父と子ぐらいの差がある。

 「ところで以前には見かけなかった者がおりますな。見たところ使用人とは違うようですが新しく雇った護衛ですか?」

 しばらくナイアンと雑談を続けていたザイストであったが、興味がサーリャへと移った。

 「違いますよ。情けない話なのですが私の研究をよく思わない者達がいるようで、ここのところ様々な嫌がらせを受けているのですよ。どのような事態にも対応できるように王都から人を派遣してもらっている形なのです。……本当に困ったものですよ」

 心の底からうんざりしたように首を振るナイアンにザイストは同情するような目を向けた。

 「それは災難ですな。どんなことにでも言えることですが、新しい試みというのは反発があるのは常ですからな。避けては通れないものでしょう」

 芝居かかったように大仰な仕草で反応するザイスト。

 「しかし護衛が1人とはいささか心持たないのではありませんか?人手が足りないのであればこちらも協力の手を惜しみませんぞ」

 「お気遣い感謝します。ですがご安心ください。王都からは彼女の他にも人が来ておりますし、その役目も長くはありません」

 「と、仰いますと?」

 ここで初めてザイストが話に大きく反応した。椅子から身を乗り出し真剣な表情で詳細を聞こうとしている。

 (アタリだわ)

 「実は長く続けていた研究がようやく完成にたどり着きましてね。今は報告書をまとめておりますが3日後には王都へ向けて出発し、陛下へ報告するつもりです」

 そのあとナイアンは今後の予定を細かくザイストに説明していき、ザイストからの質問にも快く応じていく。

 聞きたいことをすべて聞き終えたのかザイストは帰るようだ。馬車に乗り込んで帰って行く姿を応接室に残っていたサーリャは部屋の中で1人窓から眺めていた。

 「本当にあのまま帰して良かったの?」

 1人だけの応接室でサーリャはまるで誰かに話しかけるかのように訊ねた。誰もいないはずなのにサーリャのすぐ隣から男の声が返ってくる。

 「問題ない。どれほどの人物かと思っていたがあいつ自身はただの小者だ。少ない護衛だけで正面からこちらと敵対するような度胸もない。俺が部屋にいることも最後まで気づかなかったしな」

 ゆらりと空間が曲がり、誰もいないはずの場所からルインの姿が現れた。ルインは魔法で姿を隠した状態でナイアンやサーリャと一緒に部屋の中へと入り、最後まで近くでザイストの様子を観察していたのだ。

 「そうだとしても相手に情報を渡し過ぎよ。得られた情報で待ち伏せや罠を張られたらこっちが不利じゃない」

 研究が完成したという最大級の情報を開示しただけでなく王都への出発日程や護衛情報など本来伏せておくべき内容もかなり渡してしまっている。これでは何か行動を起こしてくださいと言わんばかりだ。

 今後の危険性を不安視するサーリャとは対照的にルインは余裕そうな態度だ。

 「逆に渡す方がいいんだ。相手に情報を与えることで意図的に選択肢をこちらの想定する方向に誘導することで対策を立てやすくする。あいつがクロなら人員の限られた領の外で仕掛けてくるだろう」

 「それでも余計なリスクは負うべきじゃないと思うわ」

 自分達が危険に晒されるのとは違い今回狙われているのは領主とは言っても一般市民。悪戯に危険を増やして恐怖を与えるような行動は避けるべきだ。この辺りの方向性の違いはサーリャとルインの優先するべき認識の違いなのだろう。

 今回のことが吉と出るか凶と出るかそれを知るすべは今のサーリャは持っていなかった。



 「くそっくそっ!」

 その日の夜、とある屋敷の一室で1人の男が怒りを爆発させていた。手近にあるものを感情のままに壁へと投げつけ床にその残骸がどんどんと作られていく。今も投げつけた文鎮が部屋の隅に置かれていた高価そうな壺に命中し、豪華な芸術品がただのゴミへと成り下がる。

 「どうしてこうも私の計画がうまくいかないんだ!このままではすべてが無駄に終わるではないか。……それもこれもお前がヘマをしなければこんなことにはならなかったんだぞ!」

 屋敷の主であるザイストはギロリと部屋の隅に立つ少女を睨みつけた。睨みつけられた少女は怖気づくことなく静かに首を横に振り、青い髪が動きに合わせて揺れ動く。

 「それは間違い。シオンはできる限りのことはした。相手の方がシオンよりも強かったのだから倒せないのは仕方ない」

 「仕方ないで済まされると思うな!達成できなければ何の意味もないだろうが!」

 淡々としたシオンの言葉にザイストは怒りで赤くなっていた顔を更に赤くし、机の上にあったグラスをシオンへと思いっきり投げつける。しかし感情に任せて投げたグラスは狙いを大きく逸れ、シオンから少し離れた壁へとぶつかり粉々に砕けた。

 「そもそもあんな強い人が雇われているなんてシオンは聞いていない。事前に貰った情報の中にそんな情報は無かった」

 眉を寄せ不満を口にするシオンの言葉にザイストの中でさらに怒りの炎が燃え上がっていく。

 「くだらないことで文句を言うな!不測の事態にも対応するのが貴様の仕事だろうが。……そんなことを言うつもりなら今回の不始末の責任をアイツらに取ってもらおうか?」

 「それは止めて‼」

 これまで感情を出さず淡々としていたシオンが感情を露わにしてザイストに縋りついた。その表情は必死そのものだ。

 「命令は絶対に守る。守るからあの子達には絶対に手を出さないで!」

 そんなシオンをザイストは乱暴に振りほどき力任せに突き飛ばす。大きく突き飛ばされたシオンは勢いのまま床に転がった。

 「だったら与えられた仕事をしっかりとこなして来い。言っておくが今回の仕事はお前が思っている以上に重要なんだ。失敗すればお前ひとりの罰では足りん。あいつらにも同じ目に遭ってもらうとその頭に刻みつけておけ」

 「……わかった」

 突き飛ばされ床に転がっていたシオンは僅かに顔を歪ませるが、それ以上何も言うことなくゆっくりと部屋を出て行こうとする。

 「1つだけ確認させてほしい」

 「なんだ?」

 ドアノブに手をかけたままシオンは肩越しにザイストへと振り返った。

 「約束は絶対に守る。だからシオンとの約束も——」

 「ああ、わかっている。貴様が見事やり遂げたのなら約束は守ってやる」

 ザイストはシオンの言葉を面倒そうに遮り、さっさと出て行けと言わんばかりに左手で追い払うように動かす。

 そんなザイストの態度にシオンは何も言わず今度こそ執務室から出て行くのだった。


 半ば追い出されるようにザイストの屋敷を後にしたシオンは人通りの少ない路地を1人歩く。時間帯からして外を出歩く人が少ないのは当然だが、シオンが歩く通りには人の気配すらない。

 周囲を取り囲む建物も屋敷周辺にあった立派な建物とは違いどれもボロボロで崩れ落ちているものが多い。

 そんな建物の1つ。廃墟となった教会にシオンは静かに入っていく。扉はツギハギだらけで手直しされた形跡があり、ゆっくりと扉を開くと同時にギイイイと音が鳴る。

 扉を閉めると同時にシオンは僅かに表情を緩めた。

 「ただいま」

 「「おかえりなさ~い‼」」

 シオンの言葉に反応して教会内のあちこちから子供達が姿を現し、笑顔でシオンへと駆け寄ってくる。全員がシオンよりも幼く、年齢も性別もバラバラだ。

 服もけっして綺麗とは言い難く、どの服もボロボロであちこちに補修を重ねた形跡があり、1つとして新品なものはない。

 「みんな今日も元気にしていた?ケガをした子はいない?」

 何人もの子供達が飛びつくように腰に手を回してくるのを受け止めながらシオンが訊ねると、誰もが我先にと口を開く。誰もが今日あったことを口にし、そのどれもが楽しいことばかりで1人として悲しげな表情をしている者はいない。

 「お姉ちゃん。お姉ちゃんも食べると思って残しておいたんだけど今から食べる?」

 子供達の中で最年長である少女があちこち凹んでしまっている鍋の蓋を開けた。中にはわずかなスープと一緒に痩せた芋が何個か入っている。

 鍋の中身を見せてくる少女にシオンはゆっくりと首を横に振った。

 「私はいい。今日は護衛の仕事で立っているだけだったからあんまりおなかが空いていない。みんなで仲良く分けて食べて」

 「「「やったー‼」」」

 少ないスープと芋を分け合って嬉しそうに食べる子供たちを優しげな目でシオンは部屋の隅で静かに見守る。

ここにいる子供達とはだれ1人として血は繋がっていない。ただ育った環境が同じだけだ。それでもシオンにとっては大切な家族のような存在だ。

 「お姉ちゃん。もう少ししたらもっといいお家にお引越しって本当なの?」

 スプーンで芋を頬張る男の子の1人からの質問にシオンは静かに頷く。

 「それは本当。こことは違ってとても綺麗な家で、みんな一緒に暮らすことができる。ご飯も今よりもいっぱい食べることができる」

 「すげー!」

 「お芋だけじゃないの?」

 「そんなことはない。パンも食べられるし、毎日は無理かもしれないけどお肉や果物も食べることができる」

 シオンの言葉に子供達の興奮がさらに高まる。

 「お肉⁉」

 「果物って最後に食べたのいつだっけ?」

 誰もが食事の手を止め、これからの新しい生活に目を輝かせる。そんな子供達を見ながらシオンは胸の内で改めて気を引き締める。

 (必ずやり遂げる。この子達が安心して暮らせるためにも!)

 盛り上がる子供達の声が教会の外にまで漏れているが、それを咎めるような人は辺りには住んでいない。そんな建物の外で2つの人影が動いた。別々の場所から身を潜めるようにしてシオンのいる教会を観察していた2人だったが、やがて用が済んだのか1人がゆっくりと闇の中へと姿を消し、しばらくしてもう1人も1人目と同じように闇夜に紛れて姿を消した。



 王都へと出発する日の前日。明日はとうとう出発ということで屋敷の中では使用人が慌ただしく動き回っており、見落としや不足している物は無いのかと念入りなチェックが進められていく。

 そんな中、サーリャは使用人が行き交う廊下を大股でずんずんと進んでいき、ルインの部屋に辿り着くやノックもせずに勢いよく扉を開け放った。

 「ルイン、あなたまた本を買ったの?明日が大切な日だってわかっているのに何をやっているのよ。しかもとんでもない値段だったし!」

 「おお。ギリギリ間に合ったか」

 怒るサーリャから紙袋を受け取ったルインはサーリャの怒りなど見てもおらず、紙袋の中に入っていた本をさっそく取り出して中身を確認している。

 しかも今回は料金が後払いだったためサーリャが代わりに支払ったのだが、値段を聞いた時は何かの冗談なのではと思うほどに高額だった。これ一冊で貴重な魔導書を何冊も買えてしまうほどだ。

 「言っておくけど王都に向かっている間は呑気に読書なんてできないんだからね。ミラン様の代わりにルインもちゃんと仕事をしてよね」

 ミランは王都までの護衛に同行せず後から追いかける形になる。これはルインからの命令で、満足に動くことのできない足手まといは邪魔になるというのが理由だ。ミランという強力な戦力を当てにできないのはかなりの痛手だが、代わりにルインが同行するということでとりあえずは納得している。

 読書をさせる時間など与えるつもりは無い。

 「心配するな。雇われたからには仕事はこなしてやる」

 そう言ってルインは自信ありげに笑うのだった。



 翌朝、必要な研究資料と報告書をどっさりと積み込んだ馬車は王都へ向けて走り出した。馬車には領主であるナイアンとその部下である研究員が2人、護衛としてサーリャとルインが付いている。当初の予定通りミランはこの場にはいない。

 「そういえば王都から周辺の領主に向けて連絡が来ました。なんでも各地で魔獣の移動が観測されたようで、突然の遭遇に警戒するようにとのことです」

 「魔獣の大移動って珍しいことなのですか?」

 「魔獣が移動すること自体は珍しいことではありません。縄張り争いに負けた個体が別の土地へ移り住むようになるのは自然界では当たり前のことです」

 ナイアンによれば今回はほぼ同じタイミングで魔獣の移動が複数確認されたらしい。動いた魔獣の集団は1つ1つ自体の総数は少ないらしいが、種族も発生個所もばらつきがあり規則性が無いそうだ。そのせいで原因が特定できず観測班は首を傾げるしかないそうだ。

 「私達が行動を起こすタイミングを狙った可能性は?」

 王都へ向かう今日になっての異変。さすがに勘繰りたくなる。

 「いくらなんでもこれに関しては偶然でしょう。進路上ならまだしも報告ではかなり離れた領でも確認がされております。我々を妨害するにしてはあまりにも無駄なことが多いです」

 命の危険を冒してまで目的とは関係のない魔獣を刺激して逆に自分が返り討ちにされてしまえば何の意味もない。深く考えすぎかとサーリャは視線を馬車の外に移し、流れゆく景色を眺めるのだった。


 周囲の警戒を解くことなく時にナイアンと雑談を交わしながら順調に進んでいた馬車は途中でいくつかの村を通過し、数分前にまた別の村を通過したばかりだ。

 まだまだ道のりは長いはずだが、不意に馬車の速度が急激に落ち始めた。サーリャは馬車の窓から顔を出して前方を見ると表情を険しくした。

 「……ナイアン様。問題発生です」


 馬車を停止させナイアンの部下を除いた3人は外へ出た。ルインは馬車の傍に、サーリャはナイアンの傍で待機する。

 「これは一体どういうことですかザイスト殿。このようなことは事前に何の連絡ももらっていないのですが?」

 普段穏やかなナイアンも今回ばかりは警戒心を隠そうともせずに相手を睨みつける。

 視線の先にはまるで道を塞ぐように大勢の兵が並んでおり、その全員が完全武装している。ザイストは移動のために騎乗してはいるが、明らかに護衛としては過剰な戦力だ。

 「そう警戒しないでいただきたい。以前お聞きした不届き者の話を聞いて私も何かできないかと考えましてな。いかに王国から腕利きの護衛を派遣してもらっているとはいえ人数的に心細いのではと思い少しでも役に立てればと思いこうして協力しに来たのです。準備に手間取ってしまい事前に連絡できなくて申し訳ない」

 「その件に関しては以前にもお伝えしたとおりです。今回護衛してくださる方々はとても優秀で、少数であっても十分私を守り切ってくれます。そちらの兵をお借りするほどのことではありません。それにそれほどの兵を連絡もなく引き連れてくるなど明らかに問題です」

 馬車でかなり移動したとはいえここはまだミルス領内。領主の許可無しに多数の兵を引き連れて入ってくるなど明らかな侵略行為だ。

 「先ほど言ったように準備にいろいろと手間取ってしまったのです。それにどんなことにも例外はつきものです。万が一があってはいけません」

 どちらも譲ることなく話は平行線。ピリピリとした状況が続く中、そんな空気をぶち壊すかのような一言がサーリャのすぐ近くから聞こえてきた。

 「くだらんな」

 決して大声を出したわけではないのにその声はよく通り、その言葉を聞いた2人は言い合いを中断してしまった。

 話を遮られたことに不快感を示しながらザイストはルインへと視線を向ける。

 「今の発言はどういうことですかな?我々は皆さんのためを思ってこうして行動しているのですぞ。いくら護衛とはいえその発言は聞き流せるものではありませんぞ」

 「聞こえなかったのか?くだらないと言ったんだ。当の本人が助けはいらんと言っているんだからそれを外野がごちゃごちゃと文句を言うな。はっきり言ってお前の行動はありがた迷惑なんだ。くだらないことで無駄に時間を使わせるな」

 「ルイン、もうちょっと言葉を選んでよ……」

 領主に対してこの物言い。その場にいる誰もが絶句する中、サーリャは思わず空を見上げた。

 間違ってはいないがそんな言い方をしたら……。

 「ただの護衛風情が!もういい、やることは変わらん。貴様らにはここで死んでもらう。やれ‼」

 青筋を立て憤怒に顔を歪ませたザイストが合図を出すと、待機していた兵士全員が突っ込んで来た。当然と言えば当然の結果だ。

 「ルイン、あなたのせいでとんでもないことになったじゃない‼どうしてくれるのよ」

 ナイアンを馬車へと引き返させるとサーリャは剣を抜き放ちながらこの状況を引き起こした張本人を責め立てる。もう少し言葉を選んでいれば戦闘にならずに済んだかもしれないのになんてことをしてくれたんだ。

 「どうしたもないだろう。あいつらの目的が俺達の排除なら結果は変わらんだろう。むしろ本命を釣り上げた俺の功績に感謝して欲しいぐらいだぞ。——お前達は馬車の中で大人しくしていろ」

 迫りくる兵を相手にルインは一切近寄らせることなく片手間に指示を出すほどの余裕を見せている。

 なおも言いつのろうとしたサーリャだったが、今はこの状況を何とかするのが先だ。

 相手側からいくつもの攻撃魔法が弧を描きながら飛んでくるが、サーリャは即座に魔法を展開し1つの漏れも無く撃ち落としていく。魔法同士がぶつかり合い爆発がいくつも巻き起こる。

 サーリャが魔法攻撃の対処をしている間にコーランド兵が距離を詰めてきて槍を突き出してくるが、サーリャはそれを難なく躱すと目の前に突き出された槍の穂先を剣、あるいは魔法で作り出した刃で断ち切っていく。

 次々と相手の槍を断ち切っていきながら迫ってきた相手に対して圧縮した高密度の空気の塊を遠慮なくたたき込む。叩きこまれた相手は鎧を着ているにもかかわらず大きく後方へと吹き飛んでいき、地面に落下すると動かなくなる。

魔法を叩きこまれた部分の鎧が大きく凹んでいるが、うまく受け身を取れば死にはしないだろう。落下の衝撃でどうなるかはサーリャの知ったことではない。

 魔法だけではない。魔法を使えるようになってからも磨き続けた剣技で迫ってくる剣を打ち払い、次々と斬り伏せていく。

 後ろに下がりながら捌き続けていたサーリャだったが、一瞬の隙を見逃さず今度は前へと大きく踏み込む。突然踏み込んできたサーリャに虚を突かれて攻撃の手が一瞬止まる。

 その間にサーリャは用意していた魔法を発動させた。

 広範囲風魔法「サイロンド」——サーリャを中心とした巨大な竜巻が発生し、近くにいた兵がまとめて暴風の中に吸い込まれていき木の葉のように振り回される。

 「うわあああああああ!」

 大半の兵は発動と同時に吸い込まれていったが、少し離れていた兵は吸い込まれずに仲間が悲惨な目に遭う光景を目にして誰もが恐怖に染まる。すぐさま大慌てでその場から離れようとするがその決断をするにはあまりにも遅すぎ、足が地面から離れると先に吸い込まれた仲間と同じ運命をたどった。

 竜巻に吸い込まれた兵はしばらく抗えない暴風にシェイクされた後、遠心力に負けてあちこちから勢いよく飛び出すとそのまま地面へと叩きつけられる。

 「あと何人かしら」

 魔法を解き周囲を見渡したサーリャだったが、見た限り立っている兵は1人としていない。後方から魔法を撃っていた兵も一人残らず倒れ伏している。サーリャが倒したわけではない。

 倒した本人は馬車から離れることなくバチバチと左手に雷撃を纏わせながら立っている。

 「サーリャ、言っておくがこれで終わりじゃないからな」

 「わかっているわよ。だって……」

 ルインに返事をするサーリャの視界の隅で何かが煌めいた。煌めいた正体を確認するよりも前にそちらに向かって剣を振るった。


 ギイイィン


 魔力を解いたサーリャの剣と相手が持つダガーがぶつかった。防がれると同時にもう1本のダガーがサーリャへと迫ってくるが、すかさずサーリャはダガーを持つ手を叩き落として軌道を逸らすと同時に相手を押し返す。

 くるりと空中で態勢を整えた相手はそのままザイストの傍に着地した。

 ゆっくりと立ち上がる相手の姿にサーリャはやはりと思う一方で、そうあってほしくなかったという思いが混ざり合い悲しげに目を細めた。

 「あなたがいるものね」

 ゆっくりと立ち上がった相手——シオンは鋭い眼光でサーリャを睨みつけるのだった。


 「遅いぞ。いったい何をやっていたんだ!さっさと奴らを片付けろ」

 「ん。状況をシオンは観察していた、勢いのまま突っ込んでいたらシオンも魔法に巻き込まれていた」

 「ぐっ……。いいから奴らを始末しろ!」

シオンの正論にザイストはグッと詰まる仕草を見せるが、すぐさま馬上から喚きたてる。

 目の前の少女(シオンと言う名前らしい)はザイストとそれ以上の会話をすることなく両手のダガーを構え直しサーリャへと突っ込んできた。

 「ちょっ、ちょっと待って。話を聞いて!」

 弾丸のように突っ込んできたシオンを間一髪で横に回避したサーリャだったが、靴で地面を掘り起こしながらシオンはすぐさま急制動をかけてサーリャへと肉薄する。慌ててしゃがんだサーリャの頭上をダガーが通過し、右へ転がった先で間髪入れず頭上から降ってくる刃をさらに転がることで躱す。

 シオンは弾んだボールのように飛び跳ねながら側面、背後とあらゆる角度からサーリャの命を奪おうと迫ってくる。小柄な体を最大限に活かした戦いにサーリャは翻弄されっぱなしになる。

 「どうしてこんなことに加担しているの。これは本当にあなたが望んだことなの!」

 振り下ろされた2本のダガーを受け止め至近距離にいるシオンへとサーリャは叫ぶ。魔法で身体能力を向上させているのか、体格で勝っているはずのサーリャに対して得物を打ち合わせた状態から1歩も引かない。

 こんな幼い子が悪事に手を染めることなどあってはならない。サーリャは必死に説得を試みる。

 「愚問。これはシオンの意思。あなた達を殺すことが私の仕事。止めるつもりなど最初から無い」

 シオンは淡々と、それでいながらはっきりとサーリャを拒絶する。シオンの瞳には確固たる意志が宿っており、サーリャの言葉に対して一切の揺らぎが無い。

 「ルイン!あなたもこの子を止めるのを手伝って!」

 サーリャは背後にいるルインに向けて振り返ることなく声を張り上げた。目の前の少女を止めるにはルインの協力が必要だ。一度距離を取り再開された猛攻を捌きながら背後を見ればルインはなんと馬車の近くにある大岩に腰かけてサーリャの戦いを見ていた。

 コーランド領の兵は無力化しているが、ザイスト本人とその護衛の数人はまだ捕らえられていないのにもかかわらずだ。

 「俺はここで見学させてもらう。自分の力でこの状況を何とかしてみせろ」

 「冗談言っている場合じゃないでしょう⁉この子を止めてザイストを止めないといけないのよ。わかってるでしょう」

 耳を疑うルインの発言にギョッとしたサーリャは思わずルインのいる方向を振り返ってしまうが、すぐさまシオンへと注意を引き戻し間近に迫っていた右腕を払う。

 苦戦しているサーリャの背後から声が届く。

 「こんな状況だからこそだ。そいつは操られているわけでもなく自分の意思で命を賭けてサーリャの敵として立ちはだかっているんだ。それなのに自分は命を賭けずに周りに頼りきりなんて認められるはずがないだろう。ちゃんとそいつと正面から向き合え」

 「……」

 突き放す言葉にサーリャは押し黙ってしまう。黙ってしまったのは納得できなかったからではなく、ルインの言葉があながち間違ってはいないからだ。

 大きな力で無理矢理抑えつけ従わせようとしたならば必ず禍根が残る。こちらの意思を通すならばそれに見合う覚悟を示さなければならない。

 分かってはいるのだが——。

 (この子にどうやって勝てばいいのよ……)

 シオンは未だ例の盾を出していない。つまり僅かな身体強化で翻弄されているのだ。盾を出された場合、どうすれば彼女に勝つことができるのか明確なビジョンが見えない。

 そんな中、ルインからさらに衝撃的な情報がもたらされた。

 「安心しろ。そいつは無詠唱使いじゃない。どこにでもいる普通の暗殺者だ」

 「無詠唱使いじゃないですって⁉」

 「ああ。無詠唱使いなら何故そいつは1度として魔法を撃ち込んでこない?使うのは今のところ身体強化だけ。無詠唱で魔法が撃てるなら今頃サーリャはやられていたぞ」

 確かにそれは有益な情報だ。有益ではあるのだが、それはそれで恐ろしい情報でもある。無詠唱魔法でもないにもかかわらずあれだけの力を持っていることに変わりはなく、現状を打開するには力不足だ。

 そんなサーリャの心を見透かしたかのようにシオンの中で魔力が高まっていく。

 「準備運動は終わり。……ここからは本気でいく」

 僅かな詠唱を済ませるとシオンの持つ2本のダガーを淡い緑色の魔力が包み込み、徐々に鋭い刃へと変化させていく。

 「フォートレス」

 続けてシオンが短くそう口にするとさらに溢れ出てきた魔力が四つに分かれて見覚えのある形を作っていく。

 「……冗談がキツイわね」

 刀身が2倍に伸びた武器を持ち、盾を展開させたシオンを前にサーリャのこめかみをつーっと汗が伝っていく。ここからが正念場だ。

 向かってくるシオンを前にサーリャはすぐさま剣に魔力を纏わせる。魔力を纏わせた武器にはこちらも同様に魔力を纏わせなければ武器が耐えられない。

 サーリャは回避さえできないほどの広範囲に魔力弾の弾幕を放った。いくつかが地面へと着弾し爆炎と土埃でシオンの姿が見えなくなる。しかしすぐさま煙の向こうから何事も無かったかのように無傷のシオンが飛び出してくる。

 「だったらこれはどう?」

 更にサーリャは魔法を追加する。今度は正面ではなくシオンの頭上に2つ展開させる。正確に撃ち出された2つの魔法はシオンへと向かって行くが、以前見た時と同じように盾が二枚移動し、まるで傘のようにシオンを守った。

 下から切り上げるように向かってくる一撃をサーリャは後ろへ下がることでやり過ごすと続く2撃目を剣で受け止める。

 互いの魔力がぶつかり合い、青と緑の魔力が細かな粒子となり周囲に散っていく。

 そのまま至近距離で激しく切り結ぶサーリャは僅かな隙をついて武器ではなく直接シオンを狙って剣を横薙ぎに振るうが、シオンの周囲に浮かぶ盾がすかさず両者の間に割り込んだ。

 (っ。また!)

 弾かれて無防備となったサーリャにシオンが迫ってくるが、突如その進行を妨げるように盾が前方へと移動し、シオンは接近を中断せざるを得なくなった。

 直後、サーリャとシオンの間で破裂音と共に衝撃が両者を襲い、お互いが離れるように後ろへと大きく飛ばされる。

 「これでもダメなのね」

 距離が開き僅かな休息が得られた中、サーリャは落胆の色を隠そうとせずに独りごちる。

 先程の衝撃はサーリャが放った魔法で、周囲の空気を限界近くまで圧縮し、それを解放した影響だ。抑えつけられていた力が無くなったことでその力が二人を襲ったのだ。

 他の魔法とは違いほぼ不可視の攻撃だったのだが、あの盾はそれすら防ぐことができるようだ。決定打にはならなかったがそれでも確信したことがある。

 (あの盾はおそらく自律型。指示を出さなくても相手の攻撃を感知して術者を守る仕組みみたいね)

 前回の戦闘時もそうだったが、あの盾は明らかにシオンの死角からの攻撃にも反応してみせた。シオンが魔法で全方位に間隔を研ぎ澄ませているのかと思っていたが、先ほどあの盾はシオンの行く手を阻むように動いてみせた。シオンの意思で動かしていたのならばあんな邪魔になるような配置にはしないだろう。

 ——術者の意思とは別で動くのならばやれることはある。

 サーリャは魔力弾を高密度で撃ち始めた。今度は正面からだけでなくシオンを囲むように方向・タイミングをでたらめにして撃ち続ける。

 「無駄なこと。それじゃあシオンには届かない」

 シオンがダガーを構えながら迫ってくる。4枚の盾はシオンを守るために前後左右忙しなく動き続け、ただの一つも通さない。

 (想定通り正面突破してきたわね)

 サーリャの猛攻を正面から突破してくるシオンの足元に攻撃魔法を展開すると予想通り盾がシオンを守るために正面へと移動してくる。シオンは進路上に割り込んできた盾を躱すために大きくジャンプして飛び越えてくる。

 (今!)

 飛び越えた瞬間、サーリャはシオンの頭上と背後・左右に攻撃魔法を展開した。空中では方向転換はできず、盾はすべてシオンを守るために動くので正面がガラ空きとなる。

 盾が戻ってくるまでにケリをつける。そう思って前へと踏み込んだサーリャだったが、次の瞬間目を見開いた。

 サーリャの思惑通りすべての盾はシオンを守るために動いている。しかしその中の1枚——背後へと回った盾だけ動きが違った。

 これまで攻撃の余波を受けないように術者から少し離れた位置で攻撃を防いでいたはずなのに、今回はシオンにほぼ密着するかのように距離が近い。

 シオンはその盾に足をつけると両足で一気に蹴り込んだ。思いがけない空中での加速に反応が遅れる。

 「なっ⁉」

 「自分の意思で動かせないと思った?」

 眼前にまで迫ったシオンが冷たい声を発しながら腕を振るう。予想外な行動にタイミングをズラされ敵はもう目前。逃げることも迎え撃つことも間に合わない。

 ゆっくりに感じられる時の中でダガーがこちらに向かってくるのを見ることしかできなかったサーリャだったが、不意に後ろへと引っ張られた。

 「きゃっ!」

 ギイイィィン

 サーリャが声を上げるのとほぼ同じタイミングで衝突音が響いた。

 「攻撃魔法に反応することからそれを逆手にとって正面から遠ざける。着眼点はいいがその後の詰めが甘いな。可能性があるならそれを踏まえたうえで行動するべきだな」

 いつの間に接近していたのかルインがすぐそばまで近寄っており、サーリャと入れ替わるようにしてシオンの攻撃を障壁で受け止めていた。

 ルインの顔が間近にある。顔だけではない。ルインの右腕はサーリャの腰に回され、ぴったりと密着するように力強く引き寄せられているので自然とサーリャもルインの胸板にぴったりとくっつくような態勢になってしまう。

 「おい、聞いているのか?」

 「ふぇ。き、聞いているわよ!」

 「なんで叫ぶ必要がある」

 はっと我に返ったサーリャは誤魔化すように声を大にして言い返す。今はまだ気づいていないようだが、このままではいずれ気づかれてからかわれてしまう。鼓動が早くなっているのも身体が熱くなっているのも気のせいだ。そうに違いない。

 「ここからは俺が相手をしてやる。サーリャは俺の代わりに領主を守りながら見ていろ」

 「わかったわ」

 腰に回されていた腕が放され密着していたお互いの身体が離れる。

 「あっ……」

 「どうした?」

 「な、なんでもないわ」

 誤魔化すサーリャをルインは訝しげに見ていたが、しばらくするとサーリャから視線を外して歩いて行ってしまった。

 (いったい私どうしちゃったのよ)

 サーリャは自分自身の反応に戸惑っていた。先程ルインが身体を離した際、なぜか寂しさを感じてしまった。どうしてそのような感情を抱いてしまったのかはサーリャにもわからない。

 それでもサーリャの中で何かが変わり始めているのは間違いない。本人がその変化を自覚するのはまだ先の話。


 ルインとシオンが対峙する姿を馬車の前に移動したサーリャは不安な面持ちで見ていた。

 (どうするつもりなの?)

 結局サーリャはシオンの守りを崩すことはできなかった。魔法を使えば彼女の盾が自動で反応することで防がれてしまい、かといって魔法を使わなければ相手の攻撃を防ぎきることはできない。サーリャと違って魔法特化型のルインにとっては天敵と言ってもいいはずの存在。そのはずなのにルインの態度には一切の迷いがない。

 「それじゃあさっさと終わらせるぞ」

 「……やれるものなら!」

 ルインの周囲に攻撃魔法がいくつも作り出され、それを迎え撃つためにシオンの魔力も一際大きくなる。準備が整うといくつもの攻撃魔法がシオンに向かって放たれる。炎弾や氷柱など属性はバラバラだが、どの攻撃魔法も直撃すれば即死もありえる威力。

 「ダメよルイン!そんな攻撃じゃ彼女は止まらないわ」

 いくら威力が高くても防がれてしまえば意味が無い。実際ルインが放った魔法はシオンが展開する盾によってことごとく防がれてしまい、一つとしてシオンに届いていない。

 そのことは先程までサーリャの戦闘を見ていたルインなら理解しているはずなのに本人は一切魔法を放つのを止めようとしない。徐々に両者の距離が狭まってくる。

 互いの距離はすでに半分近くまで迫っており、このまま両者がぶつかると思っていた矢先変化が起きた。

 真っ先に変化に気が付いたのはシオンだった。

 直前まで順調よく距離を詰めていたのに突如として足を止めたと思ったらその場で立ち止まり、戸惑ったように周囲を見渡す。いったいどうしたというのだろう。

 シオンの不可解な行動に遅れるようにしてサーリャもようやく彼女が何に戸惑っているのかに気が付いた。

 「盾が⁉」

 シオンを囲む盾は相変わらず健在している。健在しているのだがその挙動がおかしい。ルインは魔法による攻撃を止めているのにもかかわらず盾は忙しなく術者を守るように位置を、角度を変え、最適な動きを取ろうとしている。

 今も1枚の盾がシオンを守ろうと彼女の右前方へと位置を変え攻撃に備える。しかしルインからの攻撃は無く数秒その場に留まるとそのまま次の位置へと移動し始め、また何も無い場所を守り始める。

 「これは……どうしたの?」

 すべての盾が不可解な挙動を始め、小刻みに震え始めた。まるでどう動けばいいのかわからなくなったかのよう。

 そんな中、ルインがおもむろに攻撃魔法を1つ展開しシオンへと放った。相変わらず不可解な動きをしている盾だが、シオンへ直撃する間一髪な所で1枚が割り込みシオンを守った。

 防がれた攻撃魔法が役割を終えて光の粒子となって消えていく。

 「術者へと向けられる攻撃魔法・または魔力を纏わせた武器からの攻撃を自動で防ぎ、術者は攻撃に意識を集中させることのできるその魔法は確かに強力だ。しかしそんな魔法にも当然欠点はある」

 これまで無言で戦闘をしていたルインが静かに口を開く。

 「見たところその魔法は周囲の魔力の動きを感知しているんだろう。広げた感覚で状況を把握し、向かってくる魔力の反応から対処する優先順位を自動で判断して行動を起こす。ならばその優先順位の判断を狂わせればいい」

 「どういうこと?」

 狂わせる。その意味がよく理解できずサーリャは首を傾げる。

 「そうだな……例えばサーリャ。お前の周りを敵の騎士が取り囲んでいたとしよう。全員がすでに剣を抜いていていつでも斬りかかれる状態だ。その場合どう対処する?」

 「そんなの……早く動いた相手から対処していくわ」

 「そうだな。ならばそいつらがフェイントを織り交ぜてきた場合はどうする?寸止めするつもりかもしれないし少し腕を動かす程度だった場合は?」

 「それは……」

 相手が斬りかかってくるだけならば自分の言葉通り早く到達するものから捌いていけばいい。実際の戦闘でもそのように対処している。

 しかしルインの言ったようにフェイントを織り交ぜてくるのならば話は変わってくる。向かってくる攻撃のどれが本物なのか受ける側のサーリャからは判断ができない。

 本物と嘘。そんなものが至近距離で無数に向かってくるのなら——対応策はあるが完璧に捌ききるのは至難の業だ。

 ……ましてやそれが術者の意思を必要としない自動制御ならば。

 つまりルインはシオンの周囲に攻撃魔法を展開する素振りを見せながら攻撃をすることはせず、絶えず位置を変えていたのだ。それだけの展開速度は無詠唱魔法の強みだ。

 「そんなの、私が操作すればいいだけ!」

 制御がシオンへと移ったのだろう。すべての盾が震えを止めてシオンの周囲に浮かび本人はルインへと再び斬りかかる。しかしサーリャはこの時点でこの勝負の結末が見えた。

 サーリャやミランがシオンに対して苦戦していたのは彼女の展開する魔法の特異性があってのこと。複数の盾を展開していたとしても操作するのが彼女自身ならば限界はある。全方位から浴びせかけられる攻撃の対応にシオンは守ることで精一杯だ。

 攻撃どころではなくなり足を止めてしまったシオンに対しルインは容赦なく責め立てる。身を守ろうと必死に盾を操るシオンは焦りの表情を浮かべているが、そんなシオンの表情を見ても一切ルインは攻撃の手を緩めず的確に撃ち込んでいく。

 「あぅ!」

 死角である背後から放たれた魔力弾がシオンの右肩に命中し、あまりの痛みにシオンは持っていたダガーを手放してしまった。地面へ落ちると同時に武器を覆っていく魔力が霧散していく。

 間髪入れず左肩に撃ち込まれたシオンはもう1つのダガーも取り落とす。残っているのは身を守る盾だけだ。

 「これ以上は無理だろう。もうお前がこの状況を変えることなど不可能だ。大人しく諦めるんだな」

 圧倒的な力量差。ミランやサーリャがあれだけ苦戦しても足も出なかった相手に対し、ルインはほぼ反撃の機会を与えずに勝利した。

 (それに比べて私は……)

 黒幕を捕まえると意気込んでおきながら相手の力に翻弄され手も足も出ず、結局はルインの力に頼りきりになってしまった。己の不甲斐なさと無力感がサーリャをうちのめす。

 「まだ、シオンは戦える」

 よろよろとふらつきながらシオンはルインを睨みつける。その目にはまだ戦う意思が強く残っている。

 武器を持たないままシオンはルインへと駆け出した。走りながらシオンは詠唱を始める。

 「炎よ燃え上がれ、咲き誇れ。白き大輪の花の前にすべては灰燼となり、残るものは何もない」

 詠唱が進むにつれてシオンの魔力がこれまでとは比べ物にならないほどに高まっていく中、サーリャはその詠唱の内容にギョッとした。

 明らかにその詠唱内容から発動する魔法はまともなものではない。そして発動される魔法にサーリャは1つだけ心当たりがある。

 「ルイン、彼女は自爆するつもりだわ!」

 警告を発したサーリャだったが、すでに詠唱は完了したのかシオンの目の前にボール程度の光球が生まれた。光球は徐々に輝きを増していき、サーリャの視界を白く染め上げていく。

 そんな中ルインは爆発的な加速と共に光の中に飛び込んだ。

 「うっ……」

 見ていられないほどの輝きにまで光が強まったところで、僅かなうめき声と共にその輝きは突如として失われた。光の先ではルインとシオンが密着するほどの距離で立っており、ルインの左拳はシオンの腹に深くめり込んでいる。

 ズルズルと崩れ落ちるシオン。2人の無事を確認するとサーリャはホッと安堵の息を吐き、ゆっくりとルインの元へ近寄った。

 「ルイン大丈夫?」

 「俺は問題ない。……どうやらこいつは思っていた以上に諦めが悪いみたいだがな」

 「っ⁉あなたまだ……」

 ルインの足元で倒れているシオン。その手はルインの足を掴んでおり、相当力を入れているのか足を掴む指の関節が白くなっている。

 「逃がさない。わた……しはまだ、戦え……る」

 ルインの一撃をまともに受け、立つことすらできないない中凄まじい執念だ。敵であることも忘れ、その場にしゃがみこんだサーリャはシオンの手を放そうとするがびくともしない。

 (この子はどうしてどうしてここまで……)

 シオンの戦いに対する執念は明らかに異常だ。いったい何が彼女をここまで動かすのだろう。

 「結局この程度の働きしかできんか。もしかすればと思ったが俺の勘違いだったようだな」

 これまで離れた場所から戦いを見ていたザイストは倒れ伏すシオンに冷たい視線を投げかけている。

 「貴様はもう必要ない。このままそいつらとともに死ぬがいい。貴様との約束も白紙に戻させてもらう」

 「待って!もう少し……もう少しだけ待って。必ず約束は守るから!」

 先程までビクともしなかった手を放し縋るようにザイストへと手を伸ばすシオンは顔色を真っ青にしている。あまりの反応にサーリャは怪訝な表情になる。

 (約束?約束って何のことなの)

 敵わないとわかっているはずなのにもかかわらず、なおも立ち向かうほどの執念を生み出す約束。この子はいったいザイストと何を約束したのだ。

 シオンを見るザイストは薄ら笑いを浮かべる。

 「そういえば言い忘れておったが、我が領も土地の有効活用をしなければならぬと考えておってな。少し整理をしなければと考えていたのだよ」

 「せい……り?」

 突如として始まったザイストの話が理解できずシオンは手を伸ばしたままの姿勢で固まり、サーリャも意図が分からず警戒しながら耳を傾ける。

 「スラムなどと言う汚れた場所が我が領地にあるだけでも吐き気がする。これを機に不要な建物を打ち壊し、そこに住み着いたネズミどもを一掃することにしたのだ。今頃あらかた終わっている頃かもしれんな」

 「そんな⁉話が違う‼仕事を終わらせればあの子達をあなたの屋敷に引き取ってくれるはず。そう約束した!」

 「確かに約束はした。しかし貴様は俺の命令を守れずにそこで無様に転がっているではないか。そんな奴と守るような約束など無い!それに——」

 ザイストはさらに歪んだ笑みを浮かべ、シオンへ言い放った。

 「お前の言う『あの子達』とはネズミどもと何か見分ける印でもついていたのか?」

 決定的な言葉。それが何を意味しているのかはこの場にいる誰もが理解できる。その言葉にシオンの伸ばしていた腕は小刻みに震え始め、やがて糸が切れたかのように力なく地面へと落ちた。

 その身体は小刻みに震え、俯いた顔からは涙と嗚咽が聞こえ始めた。

 その姿にサーリャはシオンを抱き寄せザイストを睨みつけた。あまりの怒りにサーリャの頭には一気に血が上り熱くなる。

 「なんて酷い。人質を使ってこの子に人殺しをさせるなんて!」

 「ふん。何をどう使おうと俺の自由だろうが。貴様達がさっさと死んでおけばここまで手間をかけずに済んだんだ。遠からずお前達がネズミどもを殺したようなものだな」

 ザイストの心無い言葉にシオンの泣き声が更に大きくなる。これは1発殴らなければ気が済まない。

 増援が到着したのかザイストの元へさらに兵が集まってくる。

 「あなたは絶対に許さない。必ず報いは受けてもらうわ」

 傍に置いていた剣を手に取りゆらりと立ち上がったサーリャはザイストと集まってきた兵を見渡す。今のサーリャを満たしているのは明確な敵意と身を焦がすほどの怒りだ。

 そんなサーリャの視線を向けられてもザイストは動じない。

 「ふん。安心しろ。貴様らもすぐに後を追わせてやる」

 両者の視線がぶつかり見えない火花が散っていく。中断していた戦闘が再開されそうになったところで——

 「お前達は何を勝手に盛り上がっているんだ?」

 場違いなほど呑気な声がその場にいる全員の耳に届いた。


 この場にいる誰もがルインへと注目する中、当の本人はたった今この場に到着したと言わんばかりの態度でサーリャの隣にいる。失われた命に対して何も感じていない、そう言わんばかりの態度だ。その態度が今のサーリャには腹立たしい。

 「ルイン聞いていなかったの!あいつらはこの子を無理やり従わせた挙句、人質になっていた人達を……。ここまで聞いて何も思わないわけ⁉」

 溢れ出す怒りをぶつけるかのようにサーリャはルインへと詰め寄ると胸ぐらを掴んだ。いくら自分自身の命が軽い認識であってもこの場でその発言は看過できない。今も足元で泣き続けているシオンの目の前ならば尚更だ。

 「だから、お前達は死んでもいない奴らをどうして勝手に殺すんだ。サーリャはともかくあいつらまで同じ認識になるとはお前の妄想癖は他人にまで伝染するのか?」

 「「は?」」

 サーリャとザイストの間抜けな声が見事にシンクロした。俯いていたシオンも涙で顔を濡らしたままの状態でルインを見上げている。

 ルインは何を言っているのだろう。人質が死んでいない?聞き間違えた?……いや。確かにザイストははっきりと明言はしていないがほぼ同じ意味の発言をしている。

 現にザイストもサーリャと同じようにルインの発言に対して訝しんでいる。

 「それはどういう意味だ。私が貴様らに対してそんなくだらない嘘を吐いているとでも?」

 ルインは静かに首を横に振る。

 「いいや。お前が言った通り土地の整理とやらは本当なんだろう。だがそれで死んだ奴などいないということだ」

 「馬鹿なことを。貴様がネズミどもを助けるというのか。ここからどうやって助けるつもりだ。場所は?助ける人数は?何一つわからないまま貴様は魔法で助けるというのか」

 「ルインそんなことができるの⁉」

 魔法とは万能ではない。威力や形・効果など必要不可欠な要素は多くあり、無詠唱魔法が使えるようになってもその条件は変わらない。

 攻撃魔法を相手の周囲に展開させる魔法もどこに展開させるのか座標設定は欠かすことができず、相手との距離が離れれば離れるほど難易度は上がっていく。

 転移魔法などいくつか例外はあるが、魔法は目視できる範囲内でしか行使することはできない。

 遠く離れた——それも隣の領のどこにいるのかもわからない相手に使う魔法などサーリャは聞いたことも無い。それでも……

 (もしかしてルインなら)

 ルインならばそんな常識など吹き飛ばす魔法を使えるかもしれない。遠くの人質を助けることのできる強力な魔法が!

 シオンも足元で縋るようにルインを見ている。様々な思惑が混じった視線が集まる中、ルインはサーリャへと顔を向けると堂々と言い放った。

 「そんなことできるわけないだろう。もう少し常識というものを考えろ」

 「はあ⁉」

 開いた口が塞がらないとはまさに今のこの瞬間のことを言うのだろう。口をあんぐりと開けたサーリャはそのまま固まることしかできない。あれだけザイストに大口を叩いておいて何もできないとは。

 そんなサーリャの耳に何人もの笑い声が届いた。見れば腹を抱えて大笑いしているザイストとその護衛の姿がある。

 「はははは!どんな魔法を使うのか見てみたかったがこれはまんまと騙されたな。まさかハッタリだったとはさすがの私も見抜けなかった。貴様はペテン師の方が向いているではないか?」

 「確かに俺はここからだとそいつらに対して魔法で手助けすることは不可能だ。だがな、俺は言ったことが嘘だとは言った覚えは無いぞ」

 「ならばどうするつもりだ。この場を見捨てて今から助けにでも行くつもりか?今から向かったとしても遅すぎるぞ」

 嘲笑するザイストを前にルインは気だるげに返す。

 「まぁそうだな。一応護衛で雇われている以上ここから離れるのはできそうにない。しかし——」

 ルインは自然な仕草でザイストへと目を向ける。そんな彼らの背後でキラリと何かが光り——。

 「そういう不条理をぶっ壊してでも助けたいと動く奴が俺の知り合いにいるんだよ」

 集団の中央を一条の光が駆け抜け、その進路上にいた兵士が吹き飛ばされた。

 「なに⁉」

 「な、何が起こった⁉」

 突然の光にサーリャだけでなくザイストも状況が理解できず驚きの声を上げた。光はルインの傍に着弾し、少しずつその輝きが消えていく。

 「遅くなってごめんなさい。もう終わった後かしら?」

 「いや。いいタイミングだと思うぞ。相変わらずの速さだな」

 光と気軽に会話するルイン。その声も光の中から出てきた人物もサーリャは知っている。宝玉の嵌められた剣を片手に眩い金色の髪が風でふわりとなびいている。

 王国最強の騎士が戦場に参戦したのだった。


 突如として現れたミランに戸惑いながらもサーリャは嬉しさのあまり彼女へと駆け寄る。

 「ミラン様、体はもう大丈夫なのですか?」

 「ええ。この通り問題無く動けるわ。心配かけてごめんなさいね」

 優しげな笑顔をサーリャに向けた後ミランの視線は別のところへと向いた。僅かに視線が下がった先にあるのは未だ蹲ったままの状態のシオンがいる。

 「あの、あの子は……」

 「大丈夫よ」

 ミランにとってシオンは自分を重症にまで追い込んだ敵である。ゆっくりとシオンへと近づくミランにサーリャはシオンの説明をしようとするが、その前にミランに手で制されてしまった。サーリャはハラハラしながらその成り行きを見届ける。

 シオンの元まで近寄ったミランはそのままシオンと目線を合わせるかのようにその場にしゃがみこみ、僅かに怯えたシオンとミランの視線が交わる。

 怯えるシオンにミランは安心させるかのように微笑みを浮かべた。

 「安心しなさい。あなたの大切な人達は無事よ。私が責任をもって保護して今は安全な場所にいるわ」

 ミランの言葉にシオンは大きく目を見開いた、

 「……本当に?あの子達が傷ついたり悲しんだりしていないの?」

 ミランはシオンの手を自身の手で優しく包み込み静かに頷く。それだけで伝えたいことはすべて伝わった。すでに涙で濡れたシオンの目からさらに大粒の涙が溢れてくる。

 「1人でよく頑張ったわね。あとは私達に任せなさい」

 塩の頭を優しく撫でたミランは茫然としているザイストへと向き直る。シオンへと向けていた優しげな表情はすでに消え去っている。

 「ザイスト・コーランド。領主暗殺の容疑と幼い子供達の命を無為に奪おうとしたその罪は決して許されるものではない。大人しく武装解除し投降しなさい」

 ミランの凛とした声が辺り一帯に響き渡る。そんな中ザイストは現状を理解できず癇癪を起している。

 「何故だ!どうしてお前達がこちらの動きを掴んでいるのだ。お前はそこにいる役立たずの攻撃で動けなかったはずだろう」

 「ええ。おかげさまで時間はたっぷりとあったからじっくりと読み込ませてもらったわ」

 そう言ってミランは懐から1冊の本を取り出した。表にタイトルも書かれていない簡素な本だ。その本には見覚えがある。

 「それってルインが買ってきた本!」

昨日どこから仕入れ来たのか、本のわりにやたら高額な請求をされた本だ。結局サーリャは中身を読むことはできずミランにそのまま渡ってしまったため何が書かれていたのかわからずじまいだった。

 「お前へと繋がる直接的な痕跡は無かったが、その周囲にいる人間ならば違ってくる。お前みたいな性格のねじ曲がった奴が何の見返りもなく子供を迎え入れるわけがないだろう。お前は役立たずと判断した奴から計画が露呈したんだ」

 つまりルインは調べていたのだ。誰にも悟られないように静かに、1人で。自分が動けば警戒されてしまう為人を使って調べさせ、自分は屋敷で何もしない風を装って相手を油断させる。

 これにはサーリャも舌を巻いた。あれだけ何日も同じ屋敷で生活していたのにルインの行動に気づかなかった。

 「さて。それじゃあとっとと終わらせようか」

 ルインの言葉を聞きながらサーリャは剣を握り直した。既にミランが駆け抜けて来た際に吹き飛ばしたコーランド兵が起き上がり、態勢を立て直し始めている。

 数は相手の方が未だに上回っているが、所詮はただの一般兵士。ミランも加わったからには負ける可能性など皆無だ。

 一気に制圧するべく動こうとした矢先、サーリャの隣にいた2人が何かに反応し動きを止めた。

 「は?」

 「これは⁉」

 ルインとミランは目の前のコーランド兵達から視線を外し同じ方向に注意を向けた。なにに反応したのだろうかと疑問に思いながらサーリャは2人が注意を向けている方向に顔を向けた。視線の先には緩やかな丘があるだけで特に変わったところは無い。

 2人の反応から遅れるようにしてようやくサーリャも2人の反応の意味に気が付いた。丘の向こう側に魔力反応がある。

 ……何かが、こちらに向かって来ている。それも一体や二体どころの話ではない。

 (この規模は何⁉)

 魔力反応だけでなく地響きも聞こえ始めたところでコーランド兵もようやく以上に気が付いたようで戸惑ったように「なんだ?」と周囲を見渡し始める。


 そしてサーリャは見た。


 上から黒のインクを垂らしたかのように丘が黒く染まり始めている。大きな丘ではないが、色が変化する範囲が広い。インクなどではない。あれは……。

 「魔獣⁉」

 そう。丘の向こうから魔獣が猛スピードでこちらへと向かって来ている。まだ記憶に新しい大侵攻と比べれば決して大きくない規模だが、それでも無視することのできない規模でもある。

 「……ミラン。お前、まさかここまで急いでくることに集中し過ぎてトレインを起こしたのか?いくらなんでもこれはないだろう」

 「ミラン様……」

 「違うわよ!いくら私でもトレインを起こしてまで急いだりしないわよ。そもそもあいつらの来た方向と私が来た方向は違うじゃない」

 残念なものを見るようなルインの視線に流石のミランも凛とした表情を崩し必死の弁明をしている。

 僅かに緩い空気を作っているサーリャ達と突如として現れた魔獣の集団に怯えるコーランド兵。そんな両者が睨み合う戦場に側面から食らいつくように魔獣がなだれ込んできた。

 ザイスト達から魔獣へと目標を素早く切り替えたサーリャ達だったが、それに対応できずぶつかることになった者もいる。

 「なんだよこいつら。どこから来たっていうんだ!」

 「そんなの知るか!とにかく今は手を動かせ。でなければ喰われるぞ!」

 「死にたくねぇよお!」

 コーランド兵側は大混乱を極め、各々が考え無しに逃げ惑いそんな彼らを背後から魔獣達が襲い掛かる。

 いくら敵でも見殺しにしたくはないが、彼らにかまってやれるほどの余裕はない。ここはまだ村に近すぎる。

 「サーリャ!ナイアン様と彼女を連れて村まで移動しなさい。到着次第村の入口で迎撃態勢に移行!」

 「はい!」

 ミランの指示に従いすぐさまサーリャは行動を開始した。蹲ったままのシオンを抱え上げ、乱暴ではあるが馬車の荷台に放り投げる。大急ぎで村へと戻って来たサーリャはすぐさま村を守るために村の入口で迎撃態勢を整え始め、ナイアンは村の住人を避難させるために馬車から飛び降り指示を出すため奔走し始める。遅れてミランとルインも村へと到着した。

 (この魔獣達はどこから来たの?自然発生するにはあまりにも不自然過ぎるわ)

 タイミングがあまりにも良すぎることからこの魔獣達はてっきりザイストの差し金だとサーリャは考えていた。しかしザイストを含めたコーランド兵の大混乱の様子を見ればそれは違うのだと理解できる。

 意図的に引き起こされたのではないのならばこの規模の魔獣の群れが周囲に知られることなく突如発生するのは何か原因やきっかけがあったはず。それはいったい何なのだろうか。

 「お姉ちゃん‼」

 そんな中、サーリャの耳に悲鳴のような叫び声が聞こえてきて慌てて振り返った。見ればザイストとその護衛がいつの間にか村に避難して来ていた。馬を失ったのかザイストは自身の足で必死に逃げている。

 ザイストは避難しようとしていた近くにいる姉弟を突き飛ばして村の中を突っ切っていき、突き飛ばされた幼い子供達の目の前にクマの魔獣が2本足で直立していた。

 まさか幼い子供達を囮にして逃げたの⁉

 魔獣の爪はすでに別の得物を仕留めた後なのかその爪は赤く染まっており、今も赤い液体が滴り落ちている。

 自身の倍以上の相手を前にして少年は恐怖でその場にへたり込んでおり、姉はそんな弟を守ろうと魔獣に背を向け守るように大切な家族を抱きしめている。

 サーリャの位置からだと射線上に姉弟が重なっているため上手く狙いが付けられない。魔獣が新たな獲物を狩り取ろうとその巨腕を振り上げる。

 「間に合って!」

 急いで狙撃できる位置に移動しようとしたサーリャのすぐ傍を漆黒の影と風が駆け抜けた。

 今まさに腕を振り下ろそうとしていた魔獣はまるで砲弾の直撃を受けたかのように身体をくの字に曲げて吹き飛び、そのまま背後にあった岩に轟音と共に叩きつけられた。ぐったりとした魔獣を見下ろしていたのは先程までサーリャ達と村を守っていたはずのルインだ。

 ルインは目の前の魔獣を見下ろし続けており、周囲には一切目もくれない。その姿をチャンスとばかりに背後から数体の魔獣が飛び掛かるが、ルインはまるで後ろに目があるかのように振り返ることなく無造作に腕を振るい、それだけで魔獣の身体が真っ二つに分かれて地面へと落下する。

 そんな中、さすがは魔獣と言うべきなのかルインに吹き飛ばされた魔獣が弱々しくも身体を起こし始めた。ルインはそんな魔獣の頭部を片手で掴み——

 「……」

 そのまま黙って魔獣がもたれかかっていた背後の岩に全力で叩きつけた。轟音が一帯に響き渡る。

 「っ!」

 ルインの行動にサーリャは息をのむ。叩きつける際に何かの魔法を使ったのだろうか、頭部だけでなく叩きつけた岩も完全に破壊されており、その威力は過剰とも言えるほどだ。破裂したトマトのように爆散した頭部は周囲を赤く染め上げ、なかなかにグロテスクな状態になっている。

 「……ルイン?」

 僅かに震えるサーリャの声にルインは反応せず真っ赤に染まった腕をだらりと下げ、こちらに背を向けたまま今しがた命を奪った相手を見下ろし続けている。

 しばらく黙って見下ろし続けていたルインがようやく顔を上げ、ゆっくりとサーリャの方へと振り返ってくる。身体の動きに合わせてルインお顔も徐々に見え始める。

 「サーリャ、何をしているんだ。何か用か?」

 「え?べ、別に大したことじゃないわ。……ルインは大丈夫なの?」

 「俺がこの程度の奴に負けるわけないだろう」

 「いえ、そうじゃなくて……」

 サーリャと会話するルインは特に変わったところは無く、普段と変わらず余裕のある表情でその場に立っている。

 (気のせいだったのかしら?)

 うまく言葉にできないが、先ほどのルインは普段とは違いなぜか嫌な感じがした。背中しか見えなかったが、その後ろ姿から発せられるものは息が詰まるような迫力があったのだ。もしかすると姉弟を助けようとする必死さをそのように感じたのかもしれない。


 「大丈夫?怪我はないかしら」

 「え?あ……えっと……」

 弟を庇っていた姉にサーリャは優しく声をかけると、少女は状況を理解できていないのか呆けた声を出した。遅れてようやく自分達が助かったのだとわかると全身から力が抜け、弟を抱きしめていた腕がだらりと下がる。

 「お姉ちゃぁん‼」

 姉と入れ替わるようにして今度は弟が泣きながら姉を力一杯抱きしめる。弟だけでなく自分も助かったことでこれまで抑え込んでいた感情が溢れ出し、少女も涙を流しながら弟抱きしめた。その姿を見ながらサーリャは助かってよかったとホッと胸をなでおろした。

 そんなサーリャ達へとゆっくりと影が落ちてきた。背後を振り返れば、水で血を洗い流し片腕が濡れたままのルインが姉弟を冷たい目で見下ろしていた。

 「おい。お前は泣いているだけなのか。そうやって自分は何もせず姉に守られているだけの存在で満足か?」

 「ルイン!いくらなんでもそんな言い方はないでしょう!」

 ルインの視線は弟にだけ注がれている。少年は突如そんな言葉を叩きつけられたが理解できず、涙で濡れた顔でルインを見上げている。

 ルインの言うことはあまりにも無茶苦茶な話だ。こんな幼い子供が魔獣相手に何ができるというのだ。命を奪ってくる相手に立ち向かうなどできるはずもない。

 さすがのサーリャもこれには本気で怒りを覚えルインに抗議する。

 「サーリャは余計な口を挟むな。俺はそいつと話をしているんだ。……どうなんだ。お前は姉に守ってもらえるが、その大切な姉は誰が守るんだ。自分が助かれば姉は見捨てても構わないと?お前にとってその程度の認識でしかないのか?」

 ルインはサーリャの抗議をバッサリと切り捨て、なおも少年に厳しい言葉を投げつける。不穏な空気を感じ取ったのか弟を背に庇うかのように姉がルインと少年の間に割り込み、ルインを睨みつける。

 これ以上は見ていられない。そう判断したサーリャは無理矢理にでもルインから引き離そうと姉弟に目を向けたところで気が付いた。

 姉に庇われながらも少年は変わらずルインを見上げている。手の甲で涙を拭い、再びルインを見上げた時には先程とは表情が変わっていた。何かを決意したような意思が感じられ、右手が伸びて目の前にいる姉の左手をしっかりと握る。

 そんな姿を見ていたルインは顎で村の中心を指し示す。

 「避難場所はこの先だ。場所が分からなければ一際身なりの良さそうな奴が知っているからそいつに聞け。そして覚えておけ」

 状況が理解できないサーリャと姉をそのままに、ルインは真剣な眼差しで少年に言い放った。

 「その手を決して離すな。離せば二度とその手を握ることはできなくなるかもしれん。俺達ではなくおまえが大切な人を守るんだ。それが貴様の大切に思う者を守ることに繋がる」

 少年はゆっくりと頷くとすぐさま立ち上がり、右手を引いて姉を立ち上がらせた。

 「お姉ちゃん行こう!」

 「え?う、うん」

 戸惑いながら弟に手を引かれ、2人は村の中心へと走っていく。あの様子なら無事にナイアンの元へたどり着くだろう。そんな2人の様子を見届けたサーリャは不思議そうにルインを見た。すでにルインからは先程までの冷たい雰囲気は消え去っている。

 「ルイン、さっきのは何だったの?」

 「……気にするな。気まぐれで少しお節介をしただけだ」

 そう言ってルインは肩を竦めるのだった。


 それから間もなくして事態はようやく沈静化した。元々魔獣の展開範囲は広かったが、全体的な総数はそこまで多くなく、ミランやルインといった実力者がこの場にいたことが幸いした。

 村人に被害はなかったが、それ以外——ザイストの連れてきた兵のほとんどは魔獣によってその命を落とすことになり、村の周囲は凄惨たる有様。

 そして当のザイストはというと、村の中にはおらず行方をくらませていた。おそらくは姉弟を突き飛ばした後そのまま村の反対側から脱出したのだろう。

 姉弟だけでなく村そのものを囮として逃げたその所業には嫌悪しかない。

 「それで、これからどうするんですか?」

 村の中心にある広場でサーリャとミランはこれからのことを話し合っていた。さすがにこれだけのことがあったからには放置しておくわけにもいかない。

 「しばらくは周辺の警戒と捜索も必要だから、近くの砦を中継して魔力通信で王都から兵を寄こしてもらうわ。私達はこのまま予定通り王都に向かうとしましょう」

 「ザイストは?」

 「逃がしてしまったのは痛手だったけど、今回の件で領主の地位からは間違いなく降ろされるわ。本人がいなくても領主交代の手続きはできるし、いないとは思うけど一応周辺の捜索もしてもらうつもりよ」

 ミランによればそのまま罪人として王国全土に指名手配をかけて捕らえるつもりらしい。ザイストは最後にサーリャが見た時は数人の護衛が残っていたと思うが所詮は数人。指名手配されればどうすることもできないだろう。これでコーランド領でシオンと似たような扱いを受けている人は減るだろう。

 シオンは領主暗殺に関わった重要人物としてサーリャ達と一緒に王都に連行されることになる。未遂とはいえ領主暗殺は重罪だ。どのような理由があろうとも何らかの罰は受けることになるのは確実だ。こればかりはサーリャの力ではどうすることもできない。

 少しでも罰が軽くなることを願うばかりだ。

 そこまで話したところでナイアンがこちらに向かってゆっくりと歩いてきていることに気が付いた。

 「皆さんこちらにいらっしゃいましたか。村長のご厚意で今晩はこちらの村に泊めてもらえることになりました。皆さんもお疲れでしょうし、ここは甘えさせてもらいましょう」

 「それは助かります。まだまだ私達はやるべきことが残っていますからね」

 村を守ることはできたが、その周囲には〝さまざまな〟死体が残ったままだ。いくら王都から人が来るとしてもそれまで放置するわけにはいかない。

 ちなみにシオンはというと持ち物をすべて取り上げたうえで村の離れた建物の一室に軟禁している。罪人のように拘束していないのは本人に逃走の意思が無いことに加えて、人質によって無理矢理従わせられていたことを踏まえた僅かばかりの恩情だ。

 サーリャとしても泥と血で塗れた姿を少しでも落として休みたいのでありがたい申し出だ。

 「それにしてもルインはどこに行ったのよ。護衛が護衛対象から離れたらダメじゃない」

 サーリャはむっとしながら周囲を見渡した。先程まで近くをウロウロとしていたはずなのにいつの間にかいなくなっており、キョロキョロと周囲を見渡してもそれらしき人物は見当たらない。

 そんなサーリャの疑問に答えたのはナイアンだ。

 「ルイン殿ならここに来る途中でお会いしましたよ。一泊することを伝えたら、『疲れたから寝る。食事の時間になったら起こしてくれと伝えておいてくれ』だそうで、今は提供してもらった部屋で先に休んでいますよ」

 「はぁ⁉1人でなに先に休んでいるのよ。信じられない!」

 自由過ぎるルインの行動にサーリャは憤慨するが、それをナイアンは「まあまあ」と宥める。

 「彼のおかげで私達もこうして無事なんですから今回は大目に見てあげましょう。なんだかんだ理由をつけてはいますが、何かあれば起きられると思いますよ」

 「ナイアン様がそう仰られるのでしたら……」

 今すぐにでもルインが休んでいる部屋に突撃をかましたいところだが、ナイアンにそう言われてしまえばサーリャもそれ以上は何もできない。にこやかなナイアンの笑顔を前に渋々サーリャは断念した。

 人手が欲しい所だが、自身の身を守りながら村の外で作業をできるのはサーリャとミランしかいない。

 軽くため息を吐いたサーリャは肩を落としながら村の外へ向けて歩き出すのだった。



 村から大きく離れた森の中、四人の男が集まっていた。すでに日は傾いて辺りは薄暗くなっており、森の中ということでさらに暗さが増している。

 「ここまで離れれば追いつかれることは無いでしょう。しばらくはここで休みましょう」

 周囲の確認を終えた一人がそう言うと、他の2人は待っていましたと言わんばかりに地面へ座り込んだ。両者ともその顔には疲労が色濃く出ており、取り繕う余裕さえ無くなっている。

 少しでも体力を回復させようと一言も言葉を発さずにいるその姿は、普段よりも一段と老け込んだかのようだ。

 そんな中、1人だけが違う感情を爆発させていた。

 「何故だ。なぜ領主である私がこんな無様に逃げねばならんのだ‼」

 感情を爆発させている男——ザイストは周囲の木々を蹴りまくり、抑えきれない怒りを発散させていた。薄暗い状況でなければ今のザイストを見れば怒りで顔を真っ赤にしている姿を見られたかもしれない。

 どうしてこんな結果になってしまったのだ。ザイストの頭の中はそのことだけでいっぱいであった。

 これまで問題無く計画は進んでいたはずだった。人々にとって決して無くてはならない食糧の生産事業。これまで圧倒的に優位な立場でいられたその事業の土台を脅かしかねない計画が軌道に乗ったと知ったザイストはすぐさま妨害するべく動き始め、あの手この手と様々な手段を使って断念させようとしてきた。

 それでもナイアンは折れることは無く、着実に完成へと向かっている研究に焦りを覚えそろそろ直接的に刺客を送ろうかと考えていた矢先に新たな情報を入手したのだ。王国の最大戦力であるミランとその部下が護衛任務としてやって来ると。

 その情報を知った時、ザイストは運命が自分に味方していると感じた。

 領主としての仕事をこなす裏でさらなる利益を得るためには公にできない裏の事業にも手を出すのだが、その際にミランという存在は邪魔になる。

 ここで2人を始末することができれば今後の計画はより盤石なものになり、邪魔をする者など誰もいない。……そう思っていた。

 それが今はどうだ。動員した手勢はすべて失い、自分は僅かな側近と一緒に人目を避けて無様に逃げている。これは夢なのだと思いたいところだが、現実は変わることは無い。

 「ザイスト様、これからどう動かれますか?」

 領主になった時から自分を支えてくれている老齢の執事が今後の確認のために方針を聞いてくる。老齢ではあるがまだまだ衰えは感じていないようで、戦闘も問題なくこなしてくれている。

 その忠義は疑いようのないもので、今もこうして自分について来てくれている。

 怒りがまだ燻ってはいるが、ザイストは今の自分が置かれた状況を整理する。このまま当てもなく彷徨うのは現実的ではない。どこかに拠点が必要だ。

 「そうだな。このまま東へ向かう。そこで準備を整えたうえで新しく事業を始めるつもりだ」

 領主という立場はもはや失われたが、これまでに培ってきた人脈とコネは残っている。これまで通りとはいかなくても領地を運営してきたノウハウは活かせるはずだ。

 しかし、このまま東へ向かう前にするべきことがある。ザイストの瞳に暗い光が灯る。

 「お前達。あの領に流れ込んでいる水源のすべてに毒を流し込め!この俺を敵に回したことをそこに住むすべての人間に思い知らせてやるのだ」

 「おお!」

 「あの者達を根絶やしにしてやりましょう」

 側近の誰もが名案だと言わんばかりにザイストの意見に笑いながら賛同する。

 ナイアンとミランの2人が標的であったが、もはや2人の命程度では足りない。あの領に住むすべての人間を地獄に叩き落とさねば気が済まない。

 恐怖と絶望の表情で苦しむ人々の光景を想像しながら歪んだ笑みを浮かべるザイストと側近達だったが、そんな彼らの耳に新たな声が割り込んできた。

 「なかなか面白い話をしているじゃないか」

 「誰だ‼」

 ザイストが声を発するのとほぼ同じタイミングで側近の全員が剣を抜き放ち、声のした方へと切っ先を向けた。

 全員が警戒する中、一人の男がゆっくりと闇の中から姿を現した。男の顔にザイストは見覚えがある。

 「貴様は護衛として雇われた男ではないか」

 護衛の男——ルインはザイストから少し離れた位置で立ち止まり、4人をゆっくりと見渡した。

 「自分の立てた計画がうまくいかなければ八つ当たりで無関係な奴らまで殺す。物語でよく見る典型的な悪役の行動で驚いたぞ。案外物語で書かれる内容もバカにはできんな」

 側近達から殺意を向けられる中、ルインはまるで世間話をするかのように気楽な態勢で話を続けている。

 そんなルインの態度が気に入らず、3人の護衛の中で1番年若い青年が行動を起こした。

 「貴様ァ!誰に向かってそんな口を開いている。ザイスト様の前なら虫けらのようにその場で——っ!」

 威圧するかのようにルインへと一歩踏み出したが、衝撃と共に青年の言葉が不意に途切れた。青年がゆっくりと下を向くと、自身の胸に広げた手がすっぽりと入るほどの穴が開いている。

 遅れるようにして感じたことの無い喪失感が自身を襲い、胸から血を噴き出しながらその場に力なく倒れ込んだ。開いたままの目からはすでに光は失われている。

 「物語ではこうも書かれていたな。低レベルの煽りも受け流せず、相手との力量差も見抜けない奴が感情のままに突っ込み無様に死んでいく何の価値も見出せなかった無価値な存在。主人がそうならその周りの奴らも典型的な悪役だな」

 「ルッソ⁉貴様、よくも!」

 「待て!」

 仲間の命が突如として奪われたことにもう1人が激高しルインへと襲い掛かる。ザイストが慌てて待ったをかけようとするが、声を発した時にはすでに遅すぎた。

 ルインの元へとたどり着く前にこちらも同様に自身の身体に大穴を開けられ、大量の血と共に先の男と同じ運命を辿った。

 「これで2人。さて、どうするつもりだ?」

 地面に転がる存在を一瞥し再びルインの視線がこちらへと向けられる。今しがた2人の命を奪ったとは思えない平坦な声だ。そこには怒りや嬉しさなどの感情はなく、まるで報告書を読み上げるかのように淡々と事実だけを突きつけるその姿にザイストは不気味さを覚えた。

 どうしてそこまで平然としていられるんだ⁉

 得体のしれない何かにザイストが恐怖を感じ始める中、ルインの視線が最後に残った老齢の護衛へと向けられる。

 「お前はどうするんだ。ここまで動かなかったからには今の状況を正しく理解しているんだろう?」

 「……そうですな。私ではどう頑張ってもあなたに勝つことはできないでしょうな」

 「それが分かっていながらそんな奴のために自身の命を賭けると?生きたいとは思わないのか?」

 ルインの質問に老執事はこの場に似つかわしくもない笑い声をあげた。何が可笑しいのかザイストには理解できない。

 「老い先短い私が生きながらえてどうするのですか。決して褒められる人生を歩んできたわけではありませんが、そんな私でも命を賭けて貫かなければならない信念があるのです。たとえ周りから何を言われようともそれだけは違えることはしません。あなたにもあるのではありませんか?」

 執事の言葉に何かを想うようにルインの目が僅かに伏せられる。

 「……そうだな」

 その言葉の感情を読み取る前に話はそこまでと老執事は突如ザイストへと向き直り、深く頭を下げた。

 「な、なにを……」

 「ザイスト様、私はどうやらここまでのようです。これまであなたにお仕えでき、同じ夢を追い続けることができたことを誇りに思います。今日までありがとうございました」

 そう言って頭を上げた彼の顔は実に誇らしげでわずかな陰りもない。この状況下でどうしてそんな表情ができるのだろうか。

 「いきますぞ!」

 躊躇いもなく目の前の敵へと駆け出す仲間にザイストはどう声をかけるべきなのかわからない。感謝?激励?それとも引き留めるべきだったのだろうか。長年仕えてくれたにもかかわらず、ザイストは最後までその答えを出すことはできなかった。


 「呆気ないものだったな」

 淡々としたルインの言葉に答える者はいない。結果として戦いは長くは続かなかった。誰にも負けない覚悟と意思、その命をもってしても結果を変えることはできなかった。ザイストの視線の先には3人の骸となり果てたものが無残にも転がっており、その先には傷一つつけることのできなかったルインが変わらずに立っている。

 「さて、残るはお前だけだな」

 「ひっ!」

 視線を向けられたザイストは恐怖のあまり後ろへ下がろうとするが足をもつれさせ、みっともなく尻もちをついた。事実を言われただけのはずなのに、ザイストにはまるで死刑を宣告されたかのように聞こえてしまう。

 それでも少しでも目の前の存在から離れたいがために、服が汚れることもいとわずじりじりと下がる。すでに自分を守ってくれる者はいない。

 なんとかしてザイストは自分の力で生き延びなければならないのだ。

 「と、取引をしようじゃないか。たった今から私に付かないか?報酬ならあいつらの倍……いや、3倍は出す!何不自由ない生活を約束するし、望むなら何人でも女を用意しよう」

 「悪いが今の生活に俺は案外満足していてな。変えるつもりはさらさら無いし、女もいらん」

 「だったら何故ここまでする⁉お前は護衛として雇われているだけに過ぎないだろう」

 恐怖の中ザイストは大声で喚いた。ただの護衛がわざわざ護衛対象から離れてここまで追いかけてくるなど聞いたことが無い。

 「そうだな。元々俺もここまでしてやるつもりは無かった。お前がどこに行き、どこで何をしようが俺には関係ないことだからな。まったく、こんなことなら頼みを聞くんじゃなかったな」

 ルインは本当に後悔するかのように首を横に振る。そこには演技やハッタリなどは一切無く、純粋な本心が表れていた。

 「だったら!」

 「だが——」

 僅かな希望を見出しそこへ縋ろうとしたザイストであったが、再びザイストへと顔を向けたルインの表情を見た瞬間表情を凍り付かせ、最後まで言い切ることはできなかった。

 先程までの飄々とした態度など一切消え去っており、代わりにまるで仮面のようにすべての感情が欠落した表情と、見るものすべてを地獄へと引きずり込むかのような絶対零度の視線であった。

 その瞳の奥はあらゆる負の感情を凝縮したかのようにどす黒く濁っており、憤怒に表情を歪めているわけでもなくただ無表情なのがさらに不気味さを大きくしている。

 「貴様は俺の目の前で決して見過ごすことのできないことをやらかしたんだ。それだけで俺がこの手で貴様を殺すには十分な理由だ。あらゆる苦痛と絶望を刻みつけてから殺してやる。……楽に死ねるとは思うなよ」

 感情に呼応するかのようにルインの身体から魔力が噴き出し始め、周囲へと影響を及ぼし始める。

 かつてサーリャが騎士学校でヘルトとキリアンの前で起こした現象だが、影響力が比ではない。周囲にある木々と地面には大きな亀裂がいくつも走り、空を見上げればまるで鏡にヒビでも入ったかのようにあちこちの景色がズレている。

 「ま、待ってくれ!今回の件からは完全に手を引く。あの領には今後決して手を出さないと誓おう!毒も投げ入れない」

 「違う」

 ルインが1歩前へと進む。

 「騎士ミランとその護衛の部下にも手を出さないと約束する。何なら彼女らの前で謝罪もしよう」

 「違う」

 さらにルインの歩みが進み、踏み込んだ地面に新たな亀裂が生まれた。

 「もしやあの孤児達のことなのか⁉それについても手を出さない!二度とその手の仕事もしないと約束しよう。だから……だから!」

 もはや最後の方は悲鳴にも近い叫びになっている。ザイストがどれだけ言葉を重ねてもルインの歩みが止まることは無い。

 無言で近づいてくる目の前の存在はいったい何なのだ。何がここまでこの化け物を動かしている。

 助かりたい一心でザイストは思いつく限り自分のこれまで行ってきた悪事を告白し続ける。明らかにルインが知らないであろう内容もあるが、今のザイストにはそこに気が付くほどの余裕などもはや存在しない。

 まるでこれまでの罪を懺悔するかのような光景だが、実際にはそんな優しい状況ではない。

 とうとうザイストの目の前にまでルインが辿り着いてしまった。

 ゆっくりとザイストが顔を上げると、そこにはどす黒い感情が溢れ出したままのルインがこちらを見下ろしている。

 そんな負の感情と一緒に漏れ出しているルインの魔力が突如として形を作り始めた。それは人の姿とは大きくかけ離れており、ルインよりも一回りも二回りも大きなその姿は2足歩行した獣のようにも見える。

 黒く濁った魔力で作り出されたその姿は影のように輪郭が分かるだけで細かな詳細は分からない。影がルインの前へと進み出てきて鋭い爪を持つその巨腕を振り上げる。

 結局ザイストは自分のなにがルインの逆鱗に触れてしまったのか、最期の瞬間まで理解することは無かった。


 静寂が戻った森の中でルインは何をするわけでもなく近くの岩に腰かけていた。先程までいた黒い影の姿は消え去っており、今度こそルイン1人しかこの場には存在しない。

 ぼーっと座り続けるルインの瞳には先程までの暗い光はなく、穏やかな風が髪を揺らしながらこの場に満ちている血の匂いを押し流していく。

 ゆっくりと空を見上げれば赤かった空はもう暗くなり始めており、星が輝いているのが僅かに見える。

 輝く星を見続けていたルインだったが、不意にポツリと言葉が漏れた。

 「……虚しいな」

 それは果たして誰に向けての言葉なのだろうか。自分自身、それとも別の誰か?それは口にした本人しか知ることは無い。

 ルインは静かに空を見続ける。輝き続ける星を眩しそうに目を細めるその瞳は、まるで今にも泣きだしそうなほどに揺れ動き続けていた。



 王都リンガルに無事到着してから数日が過ぎた。

 そんなある日の昼下がり、ブルリンド商会が経営する一室でサーリャは軽いお茶を楽しんでいた。もちろんたった1人で王都屈指の商会を訪れたわけではない。

 部屋の中にはサーリャだけでなくミランやルイン・ナイアンなど今回の件で深く関わった者達が集められている。

 わざわざブルリンド商会の店舗でお茶を楽しんでいるのはあくまでも副次的なもので、本来の目的はナイアン達ミルス領の研究に関する報告会となっている。

 「それじゃあナイアン様達の農法がミルス領以外で実施されることになるんですね」

 「ええ。いきなり大規模な改革はせずに少しずつですが各地に小規模な施設を設置し、経過を見ながら規模を広げていくことになりました。1番の壁となっていた設備費用も王国が支援してくれるそうで、どの領でも手を出しやすくなっています。これから私達は各地に人を送り、軌道にのるまでの間サポートする形になります」

 「おめでとうございます」

 良い結果にサーリャはまるで自分の事のように喜んだ。

 地下栽培はまだ各地で導入可能となっただけで、実際にミルス領と同じ成果が得られるかどうかはわからない。

 地下栽培が広く知れ渡ると同時に生まれるであろう周囲からの反応と軋轢。何もかもがうまくいくとは限らない。

 それでもこれまでナイアンを含めたミルス領の人達が何年も続けてきた研究は決して無駄にはならないはずだ。

 「……おかわり」

 「あっ。私のも食べていいわよ」

 サーリャはクッキーの載せられた皿を隣へと渡す。

 「私からも報告をするなら、コーランド領は予定通り新たに選ばれた者が領主を務めることになるわ。ザイストの不始末を任せる形になるのは心苦しくはあるけど、本人はやる気みたいだからひとまずは安心ってところね」

 この件を話すうえで知っておかねばならない情報をミランが付け加える。

 村を囮にして行方をくらませていたザイストだが、おそらく死亡したということで結論付けられた。推測となっているのは見つけられなかったからというわけではなく、状況からの判断だ。

 王国から派遣された兵が村の周囲を広範囲で捜索していた際に、森の一角でザイストらと思われる死体を発見したのだ。ただの獣か生き残った魔獣にやられたのかはわからないが、体の損傷が激しく身元の判別すら不可能なレベルだったらしい。

 周囲にまき散らされた大量の血痕と、ザイストが身に着けていた領主の証であるバッジが近くに残されていたことからそう判断されることになったそうだ。

 「皆さんのおかげでこうして生きて研究を世に出すことができました。このご恩は決して忘れません。この度は本当にありがとうございました」

 「気になさらないでください。あなたを守ることが私達の仕事だったのですから。……もっとも、私は不覚を取って無様な姿を見せてしまいましたが」

 「ナイアン様の研究は決して失ってはならないものです。そんな重要な任務を果たせて私は嬉しいですよ。一応言っておきますけど、ミラン様がいなければ今回の任務は成功していなかったんですからね」

 深く頭を下げるナイアンにミランとサーリャがそれぞれ思ったことを口にする。視界の隅から細い腕が伸びてきて、テーブルの真ん中にあるクロワッサンが数個移動していく。

 「ルインも今回はありがとう。あなたのおかげで多くの人が救われたわ」

 「ルイン、ありがとう」

 ミランとサーリャは静かにお茶を飲むルインに感謝の思いを伝えた。

「俺は特に何もしていないぞ。経費はそっちが負担して俺は毎日部屋で好きに過ごせていたんだ。これ以上ないほどの楽な仕事だったな」

 そう言うルインではあるが、そんなことは無いとサーリャは知っている。夜中の襲撃に1人で対応し、裏で情報を集めて子供達を救うだけでなく、不測の事態だったとはいえ魔獣の脅威から村も守ってくれた。

どれもルインの行動が無ければ失われていた命があったのだ。感謝してもしきれないほどだ。

 「俺なんかの事よりも先にはっきりさせるべきことがあるんじゃないか?」

 静かにカップを置いたルインはある場所に視線を向けた。ルインの視線に気がつき相手も動かしていた手が止まる。

 「どうしてそいつがここにいるんだ?」

 「ん?」

 当然と言えば当然の疑問なのだが、やっぱり指摘されたなとサーリャは他人事のように思いながら隣に座っている人物に目を向けた。

 そこには先程手に取ったクロワッサンを美味しそうに頬張るシオンがいた。


 僅かに目を細めるルインとクロワッサンを頬張るシオン。まったく空気感の違う両者はしばらく視線が交わっていたが、ルインが先にその視線を外した。

 「この場にこいつがいるということはその辺も説明はあるんだろうな?」

 「もちろんよ。だからこそ彼女をここに連れて来たのよ」

 ミランは順を追ってルインへ経緯を説明し始めた。ここからはサーリャもその場にいたので知っていることだ。

 ザイストを捕らえることができず、連れてきた兵もその全てが魔獣の手に掛かってしまい生存者がいないことからシオンは重要な証人かつ実行犯の一人であるということから王都へと連行された。

 裏の人間として人の命を奪い、今回に関しては失敗に終わったとはいえ領主であるナイアンの命を狙ったのだ。周囲への見せつけの意味も含めて極刑は免れない。

 そこに待ったをかけたのがミランだった。

 彼女は望んで行動していたわけではなく、人質という枷があったことからそう行動するしかなかったのだと王の前で堂々と言い放ったのだ。その際にルインが投げ渡した情報が証拠として役に立ったのは言うまでもない。

 ミランに同調するように狙われた本人であるナイアンもシオンの助命を願ったが、いくらナイアンの願いであっても罪人を無罪放免にするわけにはいかない。

 最終的にルシャーナの判断で決定されたのが、

 「王国に対する無償奉仕……か。よくそんな決定に周りが納得したな」

 「まぁ、かなり無理矢理な理由だとは分かってはいるわ。でもこうしないとシオンを解放することができなかったのも事実よ」

 半ば呆れるようなルインに対してミランは補足を入れておく。

 今回もしもナイアンの暗殺が成功していた場合、ミルス領の当主がいなくなってしまうことになるのでしばらくの間領内は混乱することは避けられない。そうなると長年の研究が表に出なかった可能性があるため、それは間接的ではあるが王国全体の不利益に繋がってしまうことになる。

 ならば謝罪とその償いはミルス領ではなく王国全体に対して行わなければならないということになる。だからこそ王国に対する無償奉仕と決まった。

 拡大解釈とこじつけが過ぎると感じたのはおそらくサーリャだけではないと思うが、王国のトップであるルシャーナの決定ならばそれ以上異を唱えられるはずはない。

 そしてこの決定には大きな抜け道があることにもサーリャは気づいている。

 (〝手段〟について陛下は明言していないのよね)

 無償奉仕といっても奉仕する内容は多岐にわたる。奴隷のように毎日重労働を課されるのか危険な土地で文字通り命を賭けて奉仕するのか、他にも課される可能性のある内容は存在する。

 本来ならば奉仕先・奉仕内容にも多少は指定が入るはずなのだが、あの場でそれを言い渡されることは無かった。それはつまり『落とし物を持ち主に届ける程度の内容でも問題ない』ということになる。これも立派な社会奉仕の一つだ。

 毎月のノルマも決められていないので、実質無罪放免と同じだ。

 「彼女が守っていた子供達に関しては、私の領で運営している孤児院で引き取ることになりました。決して不当な扱いをしないことをミルス領の領主として約束しましょう」

 「シオンは私が身元引受人として引き取ることになるわ。これから彼女は自由に生き方を決めてもらう——そう思っていたのだけど……」

 困ったようにミランはシオンを見た。みんなが注目している中、両手にクロワッサンを持ち、場違いな雰囲気を漂わせるシオンにサーリャは心配そうに声をかけた。

 「ねぇシオン。あなたは本当にいいの?あなたにはいろいろと選ぶ権利があるわ。これまでのことに責任を感じる必要は無いし、別の道を選んだとしても誰も文句は言わないわ」

 「いい。シオンはこれからも戦うと決めた」

 シオンは手に持っていたクロワッサンを皿に置くとサーリャを見上げる。

 そう。シオンは安全な生活を選ばずにサーリャやミランと同じ戦う道を選んだのだ。無理矢理戦わせられていた辛い生活から抜け出せるはずなのに、同じ道を選んだシオンの選択にサーリャだけでなくミランも不安を覚えたのは言うまでもない。戦わなければならないと無意識に縛られているのではないかと何度か説得を試みはしたのだが、シオンの意思は変わらなかった。

 「シオンはこれまでこの力を使っていろんな人を守ってきた。その人がどれだけ悪い人でもシオンには守るべき人を選ぶ権利は無かった。命令されたらシオンは守るしかない。でないとあの子達が危険な目に遭わされると知っていたから……」

 サーリャから視線を外し、悲しげに目を伏せたシオンの言葉を誰もが黙って聞いている。ルインも腕を組みながらシオンの言葉に耳を傾けている。

 「でも今は違う。シオンはシオンの守りたいと思う人を守ることができる。この力でもっとたくさんの人を守っていきたい。それがシオンの選択だから」

 まっすぐで純粋なシオンの願いにサーリャは何も言うことができない。幼い彼女が決めたその決意に異を唱えられる者はこの場に1人としていないだろう。それがたとえルインだったとしても。

 シオンの想いを聞いたミランは観念したように表情を緩めた。

 「そこまで言われてしまったらこれ以上は何も言えないわね。とりあえず事情が事情だからシオンは私とサーリャの部隊に入れるようにするわ。正式に配属させるわけじゃないからシオンが別の道に興味が出たのなら好きな時に抜けてもらって構わないわ。……ルインもこれでいいでしょ?」

 「お前達がそう決めたのなら勝手にしろ。俺には関係のないことだ」

 「……シオンから言いたいことがある」

 良い結果に落ち着いたことでサーリャはホッとしている中、シオンはルインへと向き直り深々と頭を下げた。

 「あなたのおかげで私達は救われた。シオンの大切な人達を助けてくれたありがとう」

 頭を下げられたルインは居心地が悪そうに僅か身じろぎをし、

 「……そんな大層なものじゃない。お前らみたいな子供は余計な気を回さずに大人しく守られていればいいんだ」

 相変わらず突き放すような物言いのルインだが、サーリャからすればまるで照れ隠しのように感じられ、ミランとサーリャは顔を見合わせると可笑しそうに笑うのだった。


 「それじゃあ俺は帰らせてもらうぞ。あとのことはそっちでなんとかしておけ」

 報告会も終わり店を出ると自然と解散の流れとなり、ルインは転移するためにサーリャ達の返事を待たずにさっさと歩きだしてしまった。

 「ルイン殿、あらためて今回はありがとうございました。何か困ったことがあれば遠慮なく仰ってください。いつでも協力させていただきます」

 「そんな時が来ればな。まぁ期待はするな」

 ルインはひらひらと手を振りながら歩みを止めることなく王都の外へと向かっていくが、ミランがシオンを連れてルインへと駆け寄っていくと何か話している。おそらく今回のことであらためてお礼を言っているのだろう。

 自然とサーリャとナイアンの2人だけが店の前に残ることになる。

 「本当にルイン殿は本当に仲間想いの素晴らしい方ですね」

 「ルインがですか⁉そんなことありませんよ。いつも気分で動いて周りのことなんて一切気にしないですから。私なんていつも振り回されてばっかりで大変なんですから」

 ナイアンの評価にサーリャはとんでもないと大仰に否定した。ルインの行動は常に自分勝手で、それは出会った時から何一つ変わっていない。

 ナイアンよりも付き合いの長いサーリャの感想だが、それでもナイアンは静かに首を横に振る。

 「そんなことないですよ。彼の行動と態度でそう見えてしまうのかもしれませんが、それは彼が不器用なだけですよ」

 「それってどういうことですか?」

 ナイアンからするとルインは違う見え方をしている?

 「ふふっ。そのままの意味ですよ。……それよりもどうやら呼ばれているみたいですけど行かなくてもいいのですか?」

 「えっ?——ナイアン様、ちょっと行ってきますね」

 見ればミランがこちらに振り返ってサーリャを手招きしており、サーリャは慌ててミランの元へと駆け出した。


 駆け出して行ったサーリャを見送りながら1人その場に残されたナイアンは微笑みながら懐に手を伸ばし、あるものを取り出した。ナイアンの手の中には1つの小瓶が握られている。どこにでもある治療用のポーションを入れる小瓶だ。

 すでに使ってしまった後なので中身は空になっているが、それでもナイアンはこのポーションに関して記憶に残っている。

 満たされていたポーションはあまりにも高品質で、領主であるナイアンもそうそうお目にかかれない代物だ。もちろん領内で出回るようなものではないし、領内にあれだけ高品質なポーションを作れる者もいない。

 ——それこそ誰かから提供されない限りは。


 あいつの怪我はどの程度なんだ。——そうか。ならこれを飲み物に混ぜて少しずつ与えていけ。何故?あいつのことだからすぐに治りでもしたら挽回しようと無茶をするのは目に見えているからな。余計なことをして俺が後始末をするのは御免だ。


 ナイアンはそっと空の小瓶を懐に戻した。返すつもりで持っていたものだが、どうやらその必要は無いようだ。知らない、知らせないことが時として優しさへと繋がることもあるのだ。

 「本当に不器用な人だ」

 そうこぼすナイアンの見る先で4人は騒がしく話を盛り上がらせるのであった。



 ミルス領とほぼ正反対の位置に当たる北方地帯。広大な土地を有する南とは違い、北は人が生きていくには厳しすぎるほどの過酷な環境が広がっている。

 山脈がいくつも連なり広い生活拠点を作るだけの土地を確保するのが難しく、屋外で作物を育てることのできない凍りつくような風が山脈の間から容赦なく吹き込んでくる。

 「それは本当なのかしら?」

 1度降り積もれば1年を通して決して溶けることのない雪深い山の中腹で1人の少女が腰掛けながら静かに問いかける。燃えるような赤い髪をツインテールにまとめ、翡翠色の瞳が目の前の人物を絶対零度のごとき視線で見下ろしている。

 視線の先では1人の人物が少女の前で片膝をついて頭を垂れている。片膝をつく人物よりも少女の方が年齢的に若いはずなのに目線は腰掛けている少女の方が高い。

 「はい。念のため何人かにそれぞれ再調査を命じましたが全員が同じ情報を持ち帰ってきました。——無詠唱魔法を使う人物を発見したと」

 「複数の魔道具を使った可能性は?たとえそのすべてを魔道具に頼っていなかったとしても世界は広いわ。無詠唱魔法が使える者が現れても不思議ではないわよね?」

 魔法技術は少しずつ進歩している。広まることなくひっそりと生み出された魔法技術があったとしてもおかしくはない。そう考えると無詠唱魔法を使える存在が見つかった程度で大騒ぎするようなことではないと少女は考えている。

 「私個人の意見となりますがその可能性は低いかと思われます。たった1人で万を超える魔獣の軍勢を相手でき、戦況をひっくり返すことなどその辺のぽっと出たような者にできることではありません。〝彼〟である可能性は極めて高いです」

 「ふーん」

 目の前の人物からの報告に赤い髪の少女は目を細めながら思考を巡らせる。

 しばらく前に発生したとされる王都を目標とした魔獣の大侵攻。厳しい生存競争を生き残った強力な魔獣達に王国は劣勢を強いられたという。

 戦時中ならいざ知らず、散発的に発生する魔獣被害に対応する程度の実力しか持たない騎士では到底太刀打ちなどできるはずもない。

 王都壊滅も時間の問題かと思われていたが、そんな戦場に1人の男がふらりと現れたらしい。その男はたった1人で統率個体を討伐し、周囲の魔獣を殲滅し尽くした。

 それだけでも度肝を抜かれるような内容であるが、男の行動はそれだけにとどまることはなく、不可能とされる戦場に取り残された部隊の救出も成功させたらしい。

 助けられた部隊はもちろんだが、一部の騎士の間では王国を救った英雄だと広まっているらしい。

 確かにそれほどの功績をその辺の騎士では務まるものではない。

 「英雄ねぇ……気に入らないわね」

 少女は不愉快そうに自らの心情を吐き捨てる。さらに聞けば、無詠唱魔法を扱える少女が少し前に騎士学校を卒業したそうではないか。

 その男とその少女が戦場で親しげに話していた姿を何人もの騎士が見ていることから明らかに何か繋がりがあるはず。

 (まずはその女性騎士の行動を洗ったほうがいいわね)

 そんなさなか、少女の背後に広がっていた白銀の雪景色が突如として吹き飛んだ。

 グオオオォォ‼

 雪の中から現れたのは真っ白な体毛を持つ巨大な熊だった。その目は異常なまでに血走っており、明らかに正気とは思えない。熊は目の前でこちらに背を向けている少女に覆いかぶさるように雄叫びを上げながら襲い掛かる。

 「……うるさいわね」

 煩わしそうに眉を寄せると少女は近くに立てかけてあった杖を手に取ると、詠唱を紡ぎながらその杖を熊に対し、まるで羽虫を払うかのように横に振りぬいた。

 振りぬいた瞬間、天を貫くかと思えるほどの業火が熊を飲み込んだ。業火に焼かれた相手は瞬時に炭へと変り果てる。

 熊だけではない。周囲にある雪は完全に溶けて一滴の水分も残さず蒸発し、その下にある岩肌が黒く焦げている。

 「これで最後ね。数だけで全然大したことはなかったわね」

 ぴょんと少女は立ち上がると、それまで自分が腰掛けていた場所から飛び降りぐ~っと背伸びをした。

 歩きながら少女はこれまで腰かけていた背後の山へと杖を一振りする。その動きだけで幾重にも積み重ねられた獣の山が燃え上がり、こちらも同じく炭へと変わると風に吹かれて跡形も無くその痕跡が消え失せる。

 「二人に関する情報を集めておきなさい。とりあえず私も向うからしばらく時間は作れるでしょう?」

 「承知しました。行き先は?」

 「そんなの決まっているじゃない。ルイリアス王国よ」

 少女はそう言うと空を見上げた。彼女の目に映るのは澄んだ空ではなく1人の人物の顔だった。少女は自身の決意を示すかのようにその言葉を口にする。

 「逃がさないわ。今度こそ……絶対に‼」

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私は魔法と食事の為に腕を振るう 蒼月梨琴 @EndlessRefrain

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